1-5 小野寺の社訓
その恰好は、よく考えると、美園以上に密着度が高い体勢だったが、美園にされていた時と受ける感じは全然、違う。
当たり前だ。
憧れの君と、そうでない、どころか、生理的嫌悪感しか持てない男と、同じにしてもらっては困る。
さきほどまで嗅がされていた美園の複雑な調香の香水とは違って、若社長からはミントベースのシンプルな香水の香りがした。
そこに、わずかにスパイシーな香りを感じる。
清涼感の中に隠された刺激的な香りは、若社長に似合っている。
その香りが、鼻腔をくすぐって、頭がクラクラした。
それに、まるで暖かい干したての布団の中にいるみたいに、安心する。こんな状況にも関わらず、頭がボーっとして、全身から力が抜けるようだ。
そんな私を崩れ落ちないように、若社長のしっかりした腕が支えてくれた。
頭の上で、だけど遠くで、若社長の冷静な声が響いた。
「彼女の言うとおりだ。恥を知るといい」
「いいのか……プロジェクトが……」
美園の脅しも、もはや、効力は無かった。
「こちらからお断りだよ、美園社長。
うちの社訓を知っているか?」
答えを知らない人間に聞いたので、返事はなかった。
代わりに、後ろに控えていた東野部長が答えた。
「まず、笑顔で挨拶」
それから壮年の男性の声が続いた。
「次に全ての社員は家族である」
そして、若い男性の声。
多分、秘書の人だ。
「その三、社会に範たる組織であれ」
そこまで聞いて、若社長が言った。
「あなたは、挨拶は出来ていないし、私の家族に無礼な真似をする上に、社会的に反することばかりしている。
そんな人間と、これ以上、プロジェクトを続けることは出来ない。
わが社にとっては、いずれ不利益にしかならないだろうからね。
うちの社訓は小野寺社長が決めたものだ。
きっと私の判断に賛同してくれる」
若社長のお父上と言う人間も、やっぱり私は知らない。
でも、吉野さんが居心地のいい、という会社を作った人だし、私とも『趣味』が合う。
若社長の気持ちが分からない人ではないはずだ。
「社長……」
先ほどから空気のようだった、美園側の唯一のお付の人間が、彼の主人を促したらしい。
屈辱にまみれた美園社長が、負け犬の遠吠えの例文のようなセリフを吐きながら、去っていく。
ほっとした雰囲気になりかけた空間に、やや険のある声が響いた。
篠田さんだった。
「一つ足りないんじゃないのかしら?」
顔は見えなかったが、若社長がしまった、と思っている雰囲気はありありと伝わった。
「その四は?」
篠田さんの厳しい問いかけも、もっともだ。
若社長たちは一番大事なことを忘れている。
私はふと、答えてしまっていた。
「文学の……興隆です」
胸の中から、突然、声が聞こえてきたことに、若社長はびっくりしたようだった。
自分でそうしたと言うのに、まるで、私がそこに居ることに、今、気が付いたみたいな顔で見下ろした。
まじまじと見つめられ、頬が熱くなるのが分かった。
美園も去ったことだし、いつまでも、抱きついている訳にもいかず……と言うか、この体勢、居心地はいいけど、恥ずかしすぎる……ので、慌てて、身を離そうとした。
若社長も一瞬、腕の力を緩めてくれたのに、なぜか、次の瞬間に再び、きつく抱きしめられていた。
「……!?」
戸惑う私と、なぜか、動揺している様子の若社長に気付いてか、そうでないか、篠田さんが言った。
「もう、その社訓を叶えるために、あんた達がいるのでしょう?
小野寺の大社長が知ったら、どんなに失望するか」
篠田さんは掃除会社のパート社員であり、周りの人たちは小野寺出版の正社員だった。
しかし、部長の東野さんですら、彼女には一目置いているようだった。
海老沢さんもそうだ。
私もだって、当然!
篠田さんは、『お母さん』のような存在なのだ。
ある者は挨拶がなってないと怒られ、ある者はゴミの捨て方がなってないと叱られる。
時に、顔色が悪いと心配され、仕事で失敗して落ち込んだ様子を見せれば励ましもくれる。
自分の本当の母親とは似ていないとしても、彼女は『母親』を思い出せる存在に違いない。
おまけに、小野寺グループ最後の社訓は、『若社長』の父親である『大社長』が大事にしているものであり、自分たちの存在意義にも関わるものと言っていいものだ。
言い返せないでいる部下たちの前で、勇敢にも、若社長は言い訳をした。
「忘れていた訳ではありませんよ。
ただ……それ、今の話に関係ないと思って」
語尾がすねたような口調になって、可愛い。
誰がなんと言おうとも、絶対に、この時の若社長は可愛かったと思う。
吉野さんに見せてあげたら、きっと、賛同してくれるはずだ。
若社長も篠田さんの前には、子供みたいなものなのだ。
「それでも言うべきだと思います。
それは、そうとして…………いつまで、うちの真白ちゃんにくっついているつもりなの?」
篠田さんの鋭い視線に、若社長は、あー、と困ったような顔をすると、ほんの僅か、身体の角度を変えた。
篠田さんにはそれだけで十分だったようだが、当の本人である自分には、まったく理解出来なかった。
「全員、後ろを向いて目を瞑って! いますぐに!」
篠田さんの一声に、条件反射のように、東野部長以外はそれに従った。
「私も?」
東野部長は一応尋ねたが、篠田さんの一瞥に、「はーい」と言いながら後ろを向いた。
私は、まだ何が起こっているか分からなかったが、自分を抱きしめる力が弱まったので、身を離す。
と、どうやら、まだ足元が覚束なかったらしい、ペタン、と床に座り込んでしまった。
床が冷たい。
それに、なんだか、前の方もスース―する。
そんな私に、顔をそむけながら、若社長が自分のスーツの上着を差し出した。
横顔が赤らんでいた。
「これ羽織って……君、その、服が……」
「へ?」
咳払いをして、若社長の視線が素早く下を指示した。
「…………!!」
なんだろう?と下を見ると、さっき、若社長と美園が引っ張り合ったせいで、ボタンが全部取れ、すっかり前が肌蹴ている制服が目に入った。
半年前に特売で買った、サイズが合わなくなってきたブラジャーが丸見えになっている。
思わず、服を胸の前で掻き合わせる。
なんでよりにもよって、今日これ着てきたの!?
せめて、三か月前にポイントを貯めて買った、あのレースが可愛いやつに……いやいや、今、そんなことはどうでも良い!
絶対、若社長に見られたはずだけど、そんなことよりも、この姿が示すように、さっきまで、男に襲われかけたのを危うい所で助けてもらった、という事実の方が大事なことだ。
そう、若社長が家族を、自分自身を馬鹿にされ、進めていたプロジェクトを犠牲にしてまでも、私を助けてくれた……。
そうだ! プロジェクト!
何か、大事なプロジェクトを!!
そう思った瞬間、一気に悪寒が襲ってきた。
さっきまで、若社長の腕の中に居た時は、あんなに安心していたのに。
篠田さんが若社長から上着を奪い取ると、それを肩からかけてくれた。
フワリと香る、ミントの香りに、少しだけ気持ちが落ち着くが、足元から恐怖心と罪悪感がせり上がってくるが止められない。
ああ、切実に、もう一度、あの場所に戻りたい。
若社長の腕の中は、何も考えられないし、何も考えなくてもいいくらい、気持ちのいい場所だった。
身体が小刻みに震え、涙がとめどなく溢れてくる。
「ど……どうしよう!
私のせいで、大変なことに……プロジェクトって……」
まとまらない頭のまま、必死に訴えた。
自分が助かることばかり考えて、若社長を困った状況に追い込んだままで、呑気な気分ですらいたなんて。
自分で自分が許せない。
「そんなこと、君が気にすることじゃない。
君が居てもいなくても、行きつく先は同じだったと思うし。
それに、君こそ平気?」
跪き、私に目線を合わせて慰めてくれる若社長に、「社長の言う通りよ」と一人、いつの間にか、前を向いていた東野部長も加わった。
「あんなことされて、もっと怒っていいのよ。
止められなかった私たちも同罪だわ。
今後のことで話しておかなければいけないこともあるし……ここじゃなんだから、どこか落ち着ける所でゆっくりしてから、話し合わない?」
「ここは冷えるでしょう」と言いながら、東野部長は手を差し伸べてくれた。
確かに、いつまでも、こんな恰好で、ここに居るのは心もとないことだ。
彼女の気遣いにも、涙があふれてくる。
これまで我慢していた分が、全部、溢れ出てきているような気分だ。
頷いて、立ち上がろうとしたが、やはり上手くいかなかった。
東野部長が肩を抱いて手伝ってくれようとした時、力強い腕が私を抱き上げた。
急に視界が高くなり、何度目かの混乱が襲ってくる。
「この方が歩くよりも手っ取り早いだろう」
言い訳めいた声が聞こえたが、その声の主の顔は見えず、代わりに面白がっている様子の東野部長の顔が見えた。
「こういう時はお姫さま抱っこじゃないんですか?」
「それだと前が空く」
「え!ちょっと。うちの真白ちゃんをどこに連れて行くつもりなの!?」
「社長室ですよ。
あそこなら落ち着いて話せるでしょうから。
……そんな目で見ないで下さいよ。
東野部長も付いてくるでしょうし、牧田秘書室長も居ますよ。
それでも心配ならご一緒にどうぞ」
「そうしたい所ですけど、真白ちゃんの着替えを持ってきてあげないと……。
もしも、うちの真白ちゃんにおかしな真似をしたら、誰であろうと許しませんからね!」
「うわっ……うちの社長ってば、信用ない」
「ある意味、美園社長並の信用はあるんですけどねぇ」
「……牧田……」
「あ、すみません、社長」
様々な声が飛び交っていたけど、その時の私には、何一つ、意味を持って聞こえなかった。
理解出来たことと言えば、若社長が私に、しっかり掴まっているように言ってくれたことだ。
それに従った……ふりをして、私はその人の首にしがみ付き、周囲に泣き顔を見られない様に肩に縋り付いた。
まるで子供だ。
これでまた、若社長は私のことを子供だと認識するだろう。
大体、お姫さま抱っこではなく、米俵か何かを担ぎ上げるように運ばれていること自体、全く色気のあるものではない。
でも、もうどでもいい。
プロジェクトを駄目にした張本人だもの、それなのに、こんな色恋沙汰のことばかり考えている私だもの。
悔しさと、怖さと、悲しさと申し訳なさと……様々な感情がないまぜになって、涙ばかりが出てきて止まらない。
そんな私をあやすように、若社長は私の背中をぽんぽん、と二回叩いた。
「…………!!」
瞬間、驚きのあまり、決して止まらないと思っていた涙が引っ込んだ。
その感触、その叩き方が、今朝、私を起こしてくれたのと全く同じだったからだ。
突然、泣き止んだので、若社長の方も驚いたらしい、「大丈夫?」と耳元で、そう、あの低くて素敵な声でもって耳元で囁かれた。
いいえ、大丈夫じゃありません!!
それから、しばらくのことを私を記憶していない。