9-1 出会いの季節
「真白? まーしーろー? もう大学に行く時間じゃないのか? いつまで鏡の前に居る?」
服の山に埋もれていると、父が部屋に入って来た。
時計を見ると、時間が迫っていた。
「お前は、いつからそんな軽薄な娘になったんだ。
高校の時は、そんなんじゃなかったぞ。
大学もお前が行きたい、行きたいと言って、頑張って入ったのに、お洒落をしに行く為だけの場所か?
悪い男と付き合うから、そういうことになるんだ」
「高校は制服を着れば良かったけど、大学はそうじゃないもの! それに……」
私は部屋中に脱ぎ散らかした洋服を指差した。
「今年の春中に、この服、全部に袖を通さないといけないのよ!」
「……そうだな、来年は流行が変わっているからな」
「えっ……ええ……そうなの。
せっかく、入学祝にって、小野寺出版のみなさんがくれたのに、もったいないでしょ?」
「特にもったいないとは思わない。
安っぽいものばかりだし、それこそ、今年しか着れないような服ばかりだ。
元々、撮影に使ったおさがりだろう?
とにかく、服なんかにうつつを抜かす暇があったら、大学に行きなさい。
……それとも、誰か見せたい男でも他に出来たか???」
「そんな人はいません!」
着替えるから、と父を部屋から追い出すと、私は結局、ひどく無難な服を選んだ。
首の詰まったボウタイ付のブラウスに、薄紫色の膝丈のプリーツスカートに、黒いジャケット。
おそらく、この服の山の大半は、着ることなく春を終えるだろう。
ごめんなさい。
手を合わせて謝ると、これまた、バッグの小山から、使い慣れたピンクのミニボストンを掴むと、水色のスマホを放り込む。
バッグの色が合わない気がするけど、中身を入れ替えるが面倒だった。
桜色のマフラーはもう季節外れなので、ジャン・ルイ・ソレイユから貰った新作のシルクの華やかな柄スカーフをバッグに結びつける。
あとは……。
机の上に飾っていた香水の瓶に目をやる。
緑色の瓶と、ピンクの瓶の二本あって、緑の方はあのミントの香水。もう一本は、若社長が誕生日プレゼントにわざわざ調香師さんに頼んで作ってくれた私だけの香りだ。
以前、約束してくれたように、私に合う香水をくれたのだ。
ミントはまだ涼しいので、もっぱら、水仙ベースの香りのピンク色の瓶の方が残りが少ない。
水仙は見た目は綺麗だけど、実は毒性のある植物だから、食べるとひどい目に合う。
「真白ちゃんにちょうどいいね」と言われた時は、若社長のことを噛んでしまったことへの当てこすりかと思ってしまった。
あれは誤解で、子供じゃない所を見せようとして、こちらからキスしに行ったら、勢いよく目測を誤ってしまっただけなのだけど、それを言ったら、自分の子供っぽさを余計に露呈させることになる。
モヤモヤした気持ちになっていたら、「他の男に食べられない様に、おまじない。俺も君のお父さんにならって、験を担いでおこう。でも、ちゃんと自衛もするんだよ」と耳元で囁かれた。
それから、人目を避けて、そのままチュッと頬に軽くキスをされた。
「まーしーろー!」
「……っ! はーい! 今、行きます!」
今日は若社長のミントの香水にしよう。なんだか、とても熱いし。
フランスではカフェ巡りをするので、香水はつけないから、と『貸して』くれたのだ。
あれから全く連絡をくれない若社長は、実は自分の妄想上の彼氏なんかじゃないのかと思い始めてしまう私に、確かにあの人の存在を感じさせてくれる香りだ。
それから、もう一つ、思い出すよすがの腕時計もして、支度は出来た。
「行ってきます!
今日はバイトだから、遅くなります」
「今日『も』だろう?
バイトに行くなら、この原稿を真崎に」
玄関先まで出てきた父に、茶色の封筒を渡される。
どうりで、私が出掛ける時間を気にしていた訳だ。
「分かりました。届けますね」
「真白……」
「はい?」
「大学、楽しいか?」
「……った! 楽しいです! 大丈夫、心配しないで。
行ってきますね!」
大学生になって、父は私に過干渉になった。
高校の時には来なかった入学式にまで出席した。
式はちょっとした騒ぎになり、私は椛島真中の娘だと、あっという間に知れ渡った。
父の大事な原稿を、大学に持っていくのは躊躇われたので、先に真崎企画に寄って行く。
会社には海東さんが居た。
「やぁ、真白ちゃん。わざわざありがとう。
どう、中でお茶でも?」
中を覗くと、海東さん以外の人影がなかったので、丁寧に断る。
「うわぁ、ひどいなぁ。そこまで警戒する?
そりゃあ、下心はあるけど、純粋に君を心配して、相談に乗りたいだけなんだけど」
「李下に冠を正さず、と言います。
それに、もうすぐ一限が始まるんです。
遅刻しちゃいますから。
今日は三限までなので、早めに出勤出来ると思います」
「あー、そのことなんだけどね」
社内に泊まったのだろうか、上下スウェットのままの海東さんが頭を掻いて、言いにくそうに口を開いた。
「今日はバイトに来なくていいって。
真崎社長が。
そんなに、毎日来られても、ほら、うち、お金ないから、バイト代出せないって」
「私は勉強に来ているみたいなものですから、バイト代は……」
「駄目だよ、真白ちゃん。
そうでなくても、君の時給、最低賃金すれすれじゃないか。
それなのに、毎日、あんなに働かれると、社員の俺も困るんだよね」
「あっ……ごめんなさい」
また、子供じみた真似をしてしまった、と唇を噛んだ。
海東さんの面子を潰すつもりはなかったのだ。
ただ……。
「やる気があるのは認めるけど。せっかく大学生になったんだから、もっとキャンパスライフを楽しまなくっちゃ!
バイトは週三くらいにして、サークル活動とかさ……しないの?」
「―――そうですね。文芸サークルに入ろうとは思っているんです」
「そう?良かった。真白ちゃん、バイトばっかり来て、大学に馴染んでないみたいだから、心配してたんだ」
「そんなことありませんよ。
たのしいです。
じゃあ、いってきます」
私は、嘘吐きになった。
若社長は私のことをよく知っていた。
端的に言えば、私はいわゆる大学デビューに失敗した。
今日もお昼は、学食で独りで、Aランチだ。
「椛島さーん、椛島真白さん?」
「はい?」
たまに話しかけてくる子も居る。
見知らぬ女の人は、もしかすると上級生かもしれない。
「ねぇねぇ……あぁ! そのスカーフ、ジャン・ルイ・ソレイユの新作!
いいなぁ。私もすっごい欲しかったのに、どのお店にも入荷してない上、あっても、高くて買えないのよね。
やっぱり人気作家の娘は違うよね。
おしゃれだし、可愛いし。
ところでさ、今度、合コンするんだけど、椛島さんに参加して欲しいんだよね。
駄目? お願い! 会費は要らないからさ〜」
拝むように手を合わされたけど、引き受けるわけにはいかない。
「ごめんなさい。
申し訳ないけど、合コンは……」
「ほら〜、駄目に決まってるのよ! だから言ったじゃないの!」
目の前の女の子は、私の話を最後まで聞かずに、後ろの方の席に座っている一団に声を掛けて、そっちに行ってしまった。
「あの子、可愛いからって、相当お高くとまってるって、有名なんだから」
「ちょっと、聞こえるわよ」
「聞こえたっていいわよ。
噂じゃ、サークルの新歓コンパで、先輩の彼氏に色目使ってその気にさせたくせに、勘違いさせてすみませんっ! ……だってさぁ。
どっちが勘違い女よ」
「ああ、文芸サークルのでしょ?
父親が有名な作家だからって、ちやほやされていい気になってるのよ、いやね、自分の力でも無いくせに」
「でも、すげぇ可愛いじゃん。まぁ、ちょっとデカいけどさ。言うほど性格悪そうには見えない。むしろ、素直で清純そうで……」
「そうそう、そんな刺々しい態度で誘うから、断られるんだよ。
あの子が合コンに来てくれたら、盛り上がると思うんだよね〜。
こっちも頑張って、医学部生集めたんだから、そっちも、もっと頑張れよ」
「……何それ、だったら自分達で声かけなさいよ」
「そうよ。どうせ、断られるのがオチだろうけど。
あの子、ものすごいセレブと付き合っているのよ。
あんた達程度じゃ、相手にされないって」
「え、どういうこと?」
「ほら……来たわよ」
私に声を掛けた子の友達らしい女の子が意味深に視線を動かす。
しまった。今日は水曜だった。
学食じゃなくって、空き教室か、キャンパスのどこかの木陰で食べれば良かった。
それか、さっさと食べ終わるべきだった。
ほとんど手つかずのAランチを下膳口に持っていくのは、もったいない。
「真白ちゃん? やぁ、奇遇だね。
一人? 一緒してもいい?」
トレイを持ってやって来た男の人が、やけに爽やかな声を掛ける。
「こんにちは。姫ちゃんのお兄さん」
ニッコリと笑った。
笑うのは得意だ。いっぱい練習したから。
披露する相手が違うけど。
「一でいいよ。前はそう呼んでくれてたよね?」
「そうでしたか?」
『姫ちゃんのお兄さん』は大学は違うけど、毎週水曜日に私の大学で行われる講義を聞きにきているらしい。
それで、ほぼ毎週、ここで彼に捕まってしまう。
雨宮家の御曹司は、他大学の院生であっても、私よりも有名だ。
これ以上、目立ちたくない自分にとっては、心配してくれるのはありがたいけど、出来ればそっとしておいて欲しい。
「姫が真白ちゃんに会いたがっているよ。
またお茶会を開くから、是非、来てくれないかな?」
麗々しい封筒を手渡される。
「ありがとうございます。
でも、お茶会は遠慮します」
「どうして? もうすぐ薔薇が見頃だよ。
姫も喜ぶだろうし、私も……君に……」
「姫ちゃんには、別の日に会いに行ってますから、お庭はその時に見せて頂きます」
封筒を付き返そうとしたら、手を握られそうになったので、素早くひっこめる。
「小野寺冬馬に怒られるの?」
「……いいえ。あの人は、放任主義ですから」
「放任? もしかして、君の所も音信不通?」
私は姫ちゃんのお兄さんの、父の面影がある顔を見た。
悪気はないみたい。
本当に驚いている。
「一さんの所にも?
仕事で行っているのに? そういう時って、業務連絡とか、報告とか……だって、ほうれんそうは?」
若社長に教えてもらったことを言う。
「報告も連絡も相談も……する必要はないよ。
本格的に始動もしていない、新事業の下調べ以前の行動。
小野寺の御曹司の物見遊山的扱いになっているからね」
物見遊山って……私は眉をひそめた。
あの仕事好きな若社長に対してそれでは、閑職に追われた気持ちになっているかもしれない。
可哀想な若社長。
――いいや、あの人のことだ、無理やり仕事を見つけ出しているに違いない。
それに夢中になるあまり音信不通になっていて……。
「だからって、行方不明はね〜」
「行方不明!?!?」
ガタン、と音を立てて、立ち上がった。
「行方不明?どういうことですか?行方不明って……!!
そんな……」
大きな声を出したせいで、注目が集まってしまったけど、そんなの関係ない。
私に対して音信不通気味になるのは、たびたびあったことだけど、全員に対してそうなの!?
若社長ったら、何してるの? 何考えているの?
まさか、昔を思い出して、身を隠して放浪する癖が出た訳じゃないわよね。
「いや、真白ちゃん、落ち着いて。
フランス国内に居るのは分かっている。
大丈夫、命に別状があるとか、事件とか事故とかにあった訳じゃないから」
「でも、行方不明なんですよね?」
「まぁ……そうだね。
どこで何をしているのか、雨宮も小野寺も把握していないみたいだから……。
一か月くらいは、用意していたアパートに居たみたいだけど、そこからどこかに行くと言ったっきり、行方不明。
真白ちゃん座って……みんな見ているよ」
言われるままに座った。
私の前で、一さんはBランチに手を付け始めた。
「ひどいね。こんな可愛い子を置いて行くだけでもひどいのに、連絡も無しなんて。
そんな人間に操を立てて、合コンは、まぁ、いいとして、お茶会も出ないの?
もっと知り合いを作るべきだよ。
君は怖いの? 彼以上の男に出会うのが」
優雅で綺麗な食べ方だけど、若社長を前にしたような気持にはならなかった。
雨宮家の御曹司には、学食のランチは口に合わないだけなのかもしれないけど、もっと美味しそうに食べて欲しい。
そういう私は、すっかり食欲を無くして、スプーンすら持っていなかった。
目の前で冷めていく食事を見るのは心苦しいし、もったいないけど、胸がいっぱいで、とても無理だ。
「真白ちゃん!?」
Aランチのトレイを持って立ち上った。
「どこに行くの?」
「フランスです!」
一さんの問いかけに、言い切った。
「えっ? フランスって……」
「フランスはフランスですよ。
ヨーロッパの!
失礼します!」
「待って……ちょっと、フランスに行くなんて無茶だよ」
「無茶じゃありません。
パスポートも持っているし、飛行機は毎日、フランスに飛んでいますから……」
行こうと思えばいつでも行ける。
帰ってこようと思えば、すぐに帰ってこれる。
電話やメールだったら、一瞬で繋がる距離なのに、あの人はひどい人だ。
鼻の奥がツンとしてきた。
「真白ちゃん……」
「はーい、色男!
ここは、プライベートジェットで君を送って行くよ!ぐらいの懐の深さを見せなさいよ!」
突然、誰かが私と一さんの間に立ちふさがった。
後ろ姿では女の人だ。
茶色い髪の毛に、えんじ色のワンピース。
「誰だい君は?
邪魔しないでくれないか?」
「私は、文学部四年、近世日本文学史専攻、卒論のテーマは、近松門左衛門……を予定している文芸同好会副会長・佐保南。南ちゃんって呼んで下さいな、雨宮の御曹司。
ああ、もったいない。
それだけの顔、金、力、頭を持っているのに、全っ然、活かしてないなんて、もったいない。
もったいなさすぎて、もったいないお化けが出るわ。
正攻法で攻めても、十分なときめきを与えられるのに、なんで行方不明の恋人チラつかせて、傷心につけこもうなんて、浅はかな作戦を立てるの?
実は女慣れしてないとか!?
だったら教えてあげる! ここは一発逆転、君の為なら、好きな相手との幸せを願うよ作戦よ!
もしかしたら、私、間違っていた……ずっと近くで見ていてくれたあなたが好き! という展開にもっていけるかもしれないわよ!
ほら、プライベートジェットは!」
佐保南、と名乗った女の人は、東野部長に似ている気がした。
一さんを容赦無く追い詰める。
「残念ながら、私は学生の身なので、雨宮の力はそれほどないんですよ。
プライベートジェットを動かすには父の許可が居る。
そして、真白ちゃんのフランス行きは……きっと、断られるだろうね」
結構、ひどいことを一方的に捲し立てられたのに、雨宮家の御曹司は、冷静に躱した。
「そこをなんとかするのが、自慢の頭の使いようだと思うけど。
ま、いきなりフランスに突撃する子もおかしいけどね」
矛先が、私に向かった。
くるり、と振り向いたその顔は、眼鏡の向こうに、くっきりした二重の大きな目が見える、泣き黒子が印象的な女の人だった。
「あなたも! あなたもよ! 椛島真白!
椛島真中を父に持ち、その美貌! スタイル!
なのに、何、その地味な恰好! おどおどした態度!
あますことなく使えば、楽しいキャンパスライフを送れるのに、ボッチ飯? まさかのボッチ? リア充爆発しろ?
もったいない! もったいないと思わないの?
私だったら、その可愛い顔を有効に使い尽くせるわよ!
貸してもらいたいくらいだわ!」
よく分からないけど、この人の口癖は『もったいない』ということだけは分かった。
そして、確かに、私の今の状態はとてももったいない。
若社長に迷惑をかけて稼いだ学費で、若社長に面倒をかけて受けた大学で、このザマ。
恥ずかしくて、若社長に顔向け出来ない。
フランスに行きたいのは、彼を心配してるからじゃない。
この現状から逃げたいだけだ。
若社長は優しいから、子供にするみたいに抱きしめて、頭を撫でて、慰めてくれるだろう。
でも、それでいいのだろうか。
私が求めているのは子供扱いじゃない。大人の女性として抱きしめて、髪を撫でて、それからキスして欲しい。
「もったいない……ですよね」
「そう、もったいない。
このAランチ」
「はい?」
「食べないなら、ちょうだい」
佐保南先輩は、ほとんど手を付けていない私のAランチを奪いとっていった。
「わ……私のAランチ……」
大好きな鳥の唐揚げの載ったピラフとサラダとスープのセット、税込五百円が。
「デザートのチョコレートケーキだけは返して下さい!!
それ、百五十円もしたんですよ! 百五十円! 九十円のシュークリームと迷ったけど、奮発してそっちにしたんだからぁ!」
父の成功により、お昼も学食で、しかもデザートをつけるまでの余裕が出来たはずなのに、染みついた経済感覚は、なかなか抜けなかった。
小さな所で、倹約してしまう。
奪ったAランチを持ったまま、茶髪の女の人は唖然と振り返り。
失笑すると、チョコレートケーキだけは、返してくれた。