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妖精とクマ  作者: さぁこ/結城敦子
第八章 小野寺冬馬の秘密。
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8-6 卒業式と誕生日と、崩壊する理性

 小野寺邸での誕生日会だからか、真白ちゃんはレトロな雰囲気の白い襟と袖口が付いたミモザイエローの春らしいワンピースでやって来た。

 胸元の、白蝶貝製のハート型のボタンは、サイズが合ってないせいか、両側にやや引っ張られ気味だったが、そこは見ないでおこう。

 スカートの裾にも白が配色してあって、そこから伸びる足元には、ミントグリーンのパンプスを履いている。

 明るくて爽やかなその服装は、よく似合っていたけど、軽く巻いてある髪の毛に縁取られた表情には、能面に笑顔を貼りつけたような違和感があった。

 それなのに、母も弟たちも瑠璃子さんも、子供たちも、義父ですら、何も変わらないように接していたので、俺は、自分の負い目が、そんな風に見せているのだと思うしかなかった。


 みんな様々なプレゼントを用意していて、義父などは以前、真白ちゃんに用意していた真珠のネックレスを送ろうとして、頑なに拒まれていた。

 母は、それを見越してか、真珠が一粒だけついた、繊細な金の鎖のネックレスを代わりにプレゼントした。「十八歳だもの。ちゃんとしたアクセサリーを一つくらい持っていないとね」


 真白ちゃんがついに十八歳になる。

 指折り数えた日を、こんな気分で迎えることになるとは。


 プレゼントを用意してなかった俺は、紅子と緑子に、責められた。

 彼女達二人は、妖精のお姫さまの『ましろお姉さま』の絵を描いて贈っていた。


「出来たら……明日、一緒に行って欲しい場所があるんだけど」


「明日ですか?」


 そう、明日だ。

 明日しか、俺は日本に居ない。


「真白ちゃんが居ないと……駄目なプレゼントで……」


「なんで、そんな面倒なもの考えるんだよ」


「そうですよ、プレゼントというのは、相手の喜ぶものを、相手に負担を掛けずに考えて選んで贈るものです」


「その意見は、次回からの参考にさせてもらうよ。

――やっぱり誕生日の当日なんて、駄目だよね」


 弟二人の常識的な進言は尤もだった。

 いきなり明日、それも誕生日の日に予定を聞くなど、愚かにもほどがある。

 友達を呼んで家でパーティーをするとか、父親とお祝いするとか、大切な日の過ごし方は他にたくさんあるのだから。


「駄目じゃないですよ!!

……いえ、あの、その日は用事がないので」


「「「誕生日なのに!?」」」


「はい。リサと姫ちゃんには昨日、お祝いしてもらいました。

父が……実は、旅のエッセイを書く仕事があるらしく、今朝方出かけて行きました」


 なんで娘の誕生日にそんな仕事を入れてくるんだよ、あの男は!


「だから、嬉しいです。

一人で誕生日を迎える所でしたから」


 ニコッと笑う顔は、そこだけ普段の真白ちゃんに戻ったようだった。


「えー、真白ちゃん! じゃあ、今日、家に帰ったら一人なの!?」


 瑠璃子さんが叫んだ。


「はい」


「だって! 紅子! 緑子!」


「ましろお姉さま、とまっていって!」


「いっしょにおふろにはいりましょうよ! ご本もよんでくださいな!」


「そうそう、子供達の言うとおりよ、誕生日の朝を一人で迎えるものではなくてよ。

私たち家族で良ければ、一緒に居ましょう!」


 二人が真白ちゃんに駆け寄って、もう離さなかった。

 椛島真中に旅のエッセイなんて仕事を入れた編集者に、俺は心から賛辞を送った。

 もっとも、早く寝る紅子と緑子に従って、真白ちゃんも夜の七時にはお風呂に入りに西翼に引っ込んでしまったけど。


「いいんですか? 真白ちゃんにちゃんと言わなくて」


 自分の娘がそうしたって言うのに、秋生が聞いてきた。


「明日、出掛けた時に言うよ」


「どこに連れて行くつもりなの!?」


「母さん、いくらなんでも疑り深過ぎませんか? 変な場所になんかに連れて行きませんよ!

ちゃんと井上さんを運転手に頼みますから」


「当たり前です!

あの子は、どこに嫁ぐかは知らないけど、嫁入り前の娘さんなんですからね」


「重々、承知しています」


 誰がフランス行きの前に、そんな真似するか。



 ―――と、思っていた、その夜。



 真白ちゃんから呼び出しを受けた。


『お会いしたいです』


 バルコニーで密会するなんて、ロミオとジュリエットみたいだ。

 もっとも、俺もバルコニーに居て、下から愛を囁くことはしないし、真白ちゃんも小野寺の名を捨てろとは迫らなかった。

 迫ってくれたら、小野寺の家を捨て、手と手を取り合って、二人目の『若様』も駆け落ちをしたのに。


 双子達とお風呂に入って、添い寝してきたのだろう、寝巻姿の上に、毛糸の上着を羽織って、寒そうに前を掻き合わせていた。


「春とはいえ、夜は冷えるよ。風邪を引くよ」


「若社長はいっつも、私が風邪を引く心配ばかりしますね」


「現に風邪をひいたじゃないか」


 思えば、それがフランス行きを言いだすのに躓いた一つだった。

 そう、自分の不甲斐なさを棚に上げていると、真白ちゃんから口火を切った。

 この子は、こういう時、実に強気に振れる。


「若社長、フランスに行かれるんですか?」


「……うん、言えなくってごめ……」


「いいんです! あの、行ってらっしゃい!

どうぞお気を付けて!

あの、これをどうぞ、私の代わりに持っていって下さい」


 真白ちゃんの手には黒い布があった。

 今や懐かしい志桜館学園高等部のセーラー服の黒いスカーフだ。


 彼女は微笑んでいたけど、口の端が震えていた。

 瞳が不安そうに揺れていた。

 今にも泣き出しそうな笑顔をしている。


「これ……」


「それだけ渡したくって、あの、明日、お出かけ楽しみにしていますね。

おやすみなさい」


 俺の手に、スカーフを押しつけると、真白ちゃんは身をひるがえして、去ろうとした。


「待って!!」


「嫌です!!」


 腕を掴んで引きとめたら、拒絶された。


「嫌です! 離してください!!」


「そうして一人で泣くの?」


 ついに真白ちゃんの目から大粒の涙がこぼれおちた。

 それを隠す為か、真白ちゃんは顔を伏せた。

 両手は俺に捕まえられているから、そうするしかなかったのだ。


「だって、約束したじゃないですか!

花火大会の日に……どこかに遊びに行こうね……って。

遊園地とか水族館とか……えっ、えいがとか。

楽しみにしていたのに。

それを楽しみにして、受験もがんばって……ったのに……なんで、うそつき……わかしゃちょうのうそつき……うそつきぃ!!」


 いやいやするように頭を振る真白ちゃんを俺は思わず抱きしめてしまった。


「ごめん。

俺は嘘つきな上に、卑劣漢だ。

君に言えなかったんだ。

どうしても……ごめん。

決して君を嫌いになったんじゃない」


「……若社長は優しすぎます」


「真白ちゃん?」


 先ほどの激情は鳴りを潜め、涙に濡れた瞳の彼女が、俺の胸の中で俺を見上げていた。

 わずかに微笑みを浮かべて。


「優しい人でなんですよ。

私がこうして泣いてしまうから、心配だったんでしょう?

だから練習したんです。

笑って送り出す練習。

それに時間がかかってしまって……でも、こうして泣いてしまうなら、もっと早く会えば良かったですね。

そうしたら、少しは……うっ……ふぇ……」


 語尾が涙に消えた。


 どうして真白ちゃんは、俺をここまで優しいと勘違い出来るのだろうか。

 こんな酷い男、そうそう居ない。

 そんな俺に笑顔を見せるために、練習までして。


 再び強く抱きしめると、頭を撫でる。

 柔らかい髪の毛が、手に絡んでは滑り落ちてくる。

 その度に、シャンプーのいい香りがする。

 紅子と緑子の使っている子供用のシャンプーを借りたのだろう、甘ったるい香りなのに、どんな官能的な香水よりも香る。


 真白ちゃんは俺の胸に顔を預けるようにして、泣いていた。

 「泣かないで」と言いたかったけど、泣かせる原因を作った自分が言うべき言葉じゃなかった。

 ただ、胸の中で、泣くだけ泣かせてあげようと思った。


 抱きしめて、背中を何度も優しく叩いてあげた。

 嗚咽が段々、収まってきた。


 俺はその間、バルコニーの上から、庭に咲く、一本の桜を見ていた。

 日当たりがいいのか、その一本だけは邸内の庭の中でも開花が早く、満開に近い姿を月明かりの下に、白く浮かび上がらせていた。

 ふと、腕時計を見ると、日付が変わっていた。

 今日は、真白ちゃんの誕生日だ。


「若社長?」


「落ち着いた?」


「ごめんなさい」


「謝らないで」


 泣きはらした目の縁が赤くなっていた。

 この目を、見てはいけないと本能が告げていた。

 いつも、彼女の目には妖力があるかのように引きつけられて、離せなくなる。


 腕の中に、真白ちゃんが居て、こちらを見つめ、健気にも微笑んでくれている。

 俺は、その時、愚かにも理性を失った。


 高校を卒業したからとか、十八歳になったからとか、そういうのは言い訳で、ただ、彼女にもっと触れたかった。

 触れて、その感触を肌に、心に、刻み込みたかった。


 両手で小さな顔を包み込むと、上を向かせた。


「若社長?」


 俺のことを呼ぶ、その可憐な唇に、自分のそれを重ねる。

 柔らかくて温かい感触に、何もかもを忘れてしまいそうになった。


「……っふ……ん」


「――――――っ!!」


 真白ちゃんのくぐもっと声に、俺は我に返った。

 ついさっきまでの幸福な気持ちが、冷や水を浴びたように、一気に冷えた。

 血の気が引く音がした。


 俺は、なんてことを――――。


 今度は両手で肩をつかみ、遠ざけた。

 驚く真白ちゃんに、掛ける言葉は一つしかなかった。


「……ごっ……」


「謝らないで! ……謝らないで下さい。

お願い、お願いだから……お願いだから、謝らないで」


 彼女は再び涙を流して、懇願した。


「でも、真白ちゃんは俺は君に……」


「だから? どうしてそれで謝るんですか?

それじゃあまるで、悪いことをしたみたいじゃないですか」


「悪いことをしたじゃないか! 君に、俺はなんてことを……」


 俺はさらに真白ちゃんから距離を置き、顔を手で覆った。

 泣くのは今度は俺の番だった。


「どうしてですか? 誕生日なのに……誕生日に好きな人にキスされて、最高のプレゼントのはずなのに。

私、すごく嬉しかったのに。

どうして謝られなければいけないんですか?

そんなに私にキスするのが嫌ですか? 悪いことですか?

そっちの方が、ひどいって、若社長は分かっているんですか?」


「――君に嫌な思い出を残したくないんだ」


 月の光の下で、俺と真白ちゃんは対峙した。

 頬っぺたに、涙の跡が幾筋も残っていた。


「話して下さい……仕事も恋愛も、ほうれんそう、なんでしょう。

何がそんなに若社長を苦しめるんですか?」


 この子には、それを聞く権利がある。

 これまでにも、聞く機会はあったのに、真白ちゃんは我慢していてくれた。

 俺に辛い思いをさせるなら、自分が耐えることを選ぶような、そんな子なのだ。


「聞いたら……引き返せなくなるよ」


「望むところです!」


 くしゅん、と真白ちゃんがくしゃみをした。


「……おいで、暖めてあげる」


 手を差し伸べて、彼女を呼んだ。

 一瞬、ためらった後、真白ちゃんは歩み寄って、俺の腕の中に収まった。

 初めて抱きしめた時も、妙に馴染む感じと安心感を得たが、今も変わらない心地よさだった。

 あの頃から、俺はもうずっと、彼女の虜だった。


 彼女を近くに感じつつも、顔を見なくて済む体制でもあった。

 とても、顔を見て話せるような内容ではない、俺の過去を、あの女との話をポツポツと語った。

 出来るだけ過激な部分は曖昧にぼかしてはみたものの、真白ちゃんには刺激が強すぎる。

 その度に、身体がこわばるのが分かった。


「君があの病院で見かけた女の人は俺が初めて付き合った人間だ。

男女の関係も、あの女が全部、初めてで……俺は、馬鹿な高校生だったから。

後悔しているんだ。

もっと、幸せで楽しい思い出を作るべきだったって。

あんな嫌々で、納得出来ない関係を続けるべきじゃなかった。

君に後悔させたくなかった。特に女の子は、男よりもそういうの、大事だと思うんだ。

若気の至りで俺なんかと付き合って……初めてのキスを捧げてしまって……後から思い出すのも嫌な記憶になってしまったら。

今更、もう遅いんだけど。

しかも、誕生日って、なにもそんな忘れ難い日に……俺、大人になっても馬鹿だな」


「……若社長は優しいんですね」


「……真白ちゃん、君、大丈夫?」


 どこまでも俺を信じるお人良しっぷりに、さすがに呆れかけた。


「大丈夫ですよ。失礼ですね。若社長相手でも怒りますよ」


 グーで、胸元を叩かれた。


「貴方は優しい人です。

優しいから、あの女の人のこと、見捨てられなかったんですね。

助けてあげたかったんですね。

なのに、そんな若社長の優しさを利用して……あの女の人はひどい人だと思います。

私、嫌いです。

若社長を長い間苦しめて、本気で恋を出来なくさせて、それなのに、自分は他の人と結婚して幸せを掴むなんて。

大嫌いです」


「真白ちゃん……君はそんな風に思っちゃ駄目だよ」


 彼女に醜い感情を植え付けるのは、妖精の羽をむしり取るように、残酷な気がした。


「私、嫉妬深いんです。嫌いな人は嫌いです。

……でも、あの女の人が幸せになれたのは、若社長が助けてあげたからです。

だから、そんなに自分を責めないで下さい」


 驚いた。

 そんな風に考えたことがなかったから、真白ちゃんの言葉に、俺は許された気持ちになった。


「俺は……間違ってた……けど、許してくれる? 俺のこと」


「はい。

本当のこと、教えてくれてありがとうございます。

内容はあれですが、嬉しいです。

もう一つだけ、聞いてもいいですか?

若社長、あの女の人、好きだったでしょう?」


「――嫌いだったよ。でも、無視出来ないくらいは……嫌いじゃなかった」


 すがるように真白ちゃんの身体を抱く腕に力が籠る。


「好きだったんだ。あの人が」


 愛しい女の子を抱きしめながら、過去の女のことを想う。

 いささか、倒錯的だけど、心の中でそう、認めてしまった。


 その俺の背中に、細い腕が巻きつく。


「私は若社長のこと、大好きですから。

嫌な思い出なんかに、なりようがありません。

都合がいい女だからじゃないですよ。

若社長だから、許してあげるんです。

けど、もし……」


「もし?」


「もし、若社長が、それでも嫌だと言うのなら、忘れて差し上げます」


「えっ?」


 真白ちゃんの思わぬ申し出に、俺は彼女の顔を見た。

 もう泣いてはいない瞳には、あの強気の輝き。


「そうですね……こういうのはどうでしょう?

私は今、紅子ちゃんと緑子ちゃんと一緒に寝ているんです。

これは私の夢の中の世界です。

起きたら、とてもいい夢を見たと、忘れてしまいます。

つまり、さっきのキスは、ノーカウントです」


「君には敵わないよ」


 俺よりずっと年下の女の子はくすくす笑った。

 まるで、自分が駄々をこねている子供になった気分だ。


「だから、若社長? お願いがあるんですけど」


「何?」


 背中に爪を立てられた。

 わざとじゃない。真白ちゃんが緊張しているんだ。


「もう一回……してくれませんか?」


 俯いたせいで、表情は見えなかったけど、項まで真っ赤になっていた。

 寝巻の襟から、二つ並んだ黒子が見えた。


「何を? ……っつう! 真白ちゃん、痛い、背中……」


「若社長って、ときどき、すごく意地悪ですよね」


「真白ちゃんはいつでも、すごく可愛いね」


「……なっ!! 約束の日まで、絶対、言わないんじゃなかったんですか!?」


「え?でも、これ君の夢の中なんだろう? ノーカウントだよ」


「そ……そうですけど」


「じゃあ、言って、何をして欲しいの?」


 俺は意地悪な人間なのだ。

 真白ちゃんに対しては特に、その傾向が強くなるようだ。

 好きな子ほど……と言うやつか?

 小学生男子かよ!

 けど、小学生は、こんな真似、しないよな。


「キス……して下さい」


 恥ずかしそうに、それでも、顔を上げて、真っ直ぐの瞳で真白ちゃんは言った。


「いいの?ちゃんと忘れられる?」


「犬に……熊に噛まれたと思って、すぐに忘れます」


「熊ねぇ……真白ちゃん、熊を甘く見ると、ひどい目に会うよ」


「そんな……っふぅん!!」


 俺は真白ちゃんの唇をもう一度奪うと、優しく味わった。

 背中は痛いけど、甘くしびれる感覚に、とって代わる。

 やがて、真白ちゃんから力が抜けて、背中の痛みも消えた。


「真白ちゃん?」


「……あっ……はい?」


 ぼうっとした様子の真白ちゃんは可愛いと言うか、妖艶だった。


「真白ちゃん、口開けて?」


「はい?」


 雨宮家のお茶会の時と同じように、何を要求されたかよく分からない風情の彼女が問いかけるように開いた口に、俺は深く口付けた。

 差し入れられるのは、残念ながら、甘いチョコレートケーキではない。


「――っ!! ふっ……うん……ん――!!」


 さっきまで呆けたように力の抜けていた彼女の身体に、俄かに力が入る。

 背中をポカポカ叩かれた。


「んっ! ん――!! ……はぁ、ぁんっ、だ……だめぇ」


「これは嫌い?」


 口を離すと、唾液が糸を引いた。真白ちゃんの濡れた唇が開いて、激しく息をしていた。


「嫌じゃ……ないです……けど……私、下手くそ……?」


 下手と言う以前に、なすがままと言うか、受け身と言うか……そう言えば、あの女以来、経験値の全く無い女の子、どころか、少ない子とすら、付き合ったことないので、どう扱ったらいいのか、分からな過ぎて、扱いに困る。

 かと言って、これでそれなりに上手だったら、多分、嫉妬で狂いそうになるだろう。

 我ながら、面倒な男だ。


 未だに息を弾ませている真白ちゃんの胸が大きく上下するのが、今更ながら、艶めかしくて、恨めしい。


 真白ちゃんにとって初めてのことは、俺にとっても初めてのことなんだ、と思うと、俄かに緊張してきた。

 女性経験は豊富なはずの自分が、こんな気持ちになるなんて。

 大人としてきちんとリードすべきだろうと気負ってしまった。


「大丈夫、教えてあげるよ。俺が。

夢の中で練習していれば、本番ではきっと上手くいくからね。

ああ、でも、最初から上手だったら、現実の俺が、夢の中の俺に嫉妬してしまうかも。

それでも、別な男と練習されるよりはいい。

と言う訳で、真白ちゃん……はい、あーんして。いい子だから、ね」


「そうやって子供扱いして!若社長って、やっぱり、意地悪――っ!!」


***


 意地悪――って言うか、変態だよ、変態。「おまわりさん、この人です! 助けて下さい!」って叫んで助けを求めるレベルの変態だよ。

 俺、いつの間に、あんな変態オヤジみたいな言動するようになったんだ。


 ゴンっ。


 自室のシャワー室の壁に、頭を打ち付けた。


 ゴンっ。


 もう一度。


 貪るように真白ちゃんの唇にキスをしてしまった。

 フランス行を決めていて良かった。頭の隅にそれが引っかからなかったら、自制しきれなかったかもしれない。

 これはいい機会だ。決定的な出来事をしでかす前に、真白ちゃんに今一度だけ、『俺のいない生活』を思い出させるのだ。

 そうしたら、もしかしたら、自分の『勘違い』に気付くかもしれない。

 こんな風に、真白ちゃんを試すような真似をするなんて、まったく馬鹿げていると思う。

 自分を追いつめて、真白ちゃんを悲しませて、往生際の悪いことこの上ないのに、そうせずにはいられない感情が突き上げるようにこみ上げてきた。


 俺は真白ちゃんが好きだ。


 その気持ちに偽りはない。

 あの子の可愛らしさの前に、忍耐の『に』の字も、我慢の『が』の字もかなぐり捨てたくなる。

 だから怖いのだ。

 なぜか、怖いのだ。


 あの子に溺れるのが、怖いのだ。


 柔らかくて甘い、優しい女の子を、素直に受け入れられたら、もっと気持ちが良いだろうに。

 

 ――熱いお湯を浴びながら、俺は甦ってきた快楽の記憶に、動揺した。


 朝、どんな顔であの子に、家族の前に姿を現していいのか答えが見つからない。

 彼女も、きっとそうだ。

 俺よりも困っているに違いない。


 ゴンっ。


 寝て起きて、全部、夢だったらいいのに。


 そう思って、寝たが、起きても、刻み込んだあの子の感触は忘れられなかった。


 これは困ったな……と思って、それでも、朝ごはんを食べに食堂に向かったら、真崎さんが図々しいと称した女の子は、何事も無かったような清々しい顔で挨拶してきた。

 そのあどけない顔に、もしかしたら、やけにリアルな夢を見たんじゃないかと思うほどだった。

 真白ちゃんは宣言通り、夢の中の出来事として処理しきったらしい。

 ――女の子って、怖い。いや、すごい。


 しかし、弟二人は、俺の異変を見逃さなかった。


「兄さん、額、どうしたんですか? 赤くなってますよ」


「それに、唇の端が切れてるよ」


「寝ぼけてて、壁にぶつかって、その拍子に唇を噛んだ」


 まさか、怒った真白ちゃんに噛まれたとは言えない。

 あの勢いがあれば、他の男もおいそれとは手出しできまい。


「……いくら解禁したとはいえ、がっつきすぎです」


「冬兄、手ぇ早すぎ」


「お前達は一体、いつからそんなに捻くれた人間になったんだ?

俺はそんな風に育てた覚えはないぞ。お兄さんは悲しい……。

なぁ、秋生?夏樹?」


 俺は二人の弟の首を後ろから抱え込むようにした。


「変な噂流したら、お前たちが何歳までおねしょしていたか、グループ企業全社、全社員に一斉送信するからな」


 長兄の権力をかざして、黙らせていると、後ろから声が聞こえた。


「そんなことをしたら、冬馬が何歳までおねしょしていたか、真白ちゃんに話すわよ。

……どうしたの?その額」


「ちょっと……ぶつけました」


「気を付けなさい。フランスに行く前なんですからね。

今朝は仕事があるけど、夜は早く帰ってきます。

お別れ会をしますから、冬馬もここに帰ってくるのよ」


 母は急いでいるようで、弟ほどは、俺の様子に疑問を持たなかったようだ。

 助かった。

 俺が真白ちゃんに手を出したと知ったら、窓から逆さに吊るされる。

 フランスどころの話じゃない。


 無事に母親をやり過ごした俺は、朝ごはんを食べて、真白ちゃんと出掛けた。

 彼女はそのまま、家に帰って行ってしまった。


「お別れの会にも、お見送りにも行けません。

泣いちゃうから。

私が泣いたら、周りの人たちが何事かと思うでしょ?

私、まだ若社長とはなんの関係もない女の子なんですもの。

……だからって、フランス娘と遊んでいると聞いたら、若社長が一番嫌がることをしますからね。

その為に、パスポートもとったんですから!

追いかけますよ! 地の果てまでも!!」


「……え? フランスの女の子と遊んだら、真白ちゃんが来てくれるの?

だったら、早速……」


「若社長!!」


「嘘だよ。

俺には君だけだから。

信じて、いい子で待っていてくれる?

約束の日まで」


「はい。必ず。

だから真白の所に、絶対、戻って来て下さいね」


 真白ちゃんは見送りには来なかったけど、心は寄り添ってくれている感覚に包まれていた。

 代わりにそれまで余所余所しかった出版社のみんなが、大挙して空港に見送りに来た。

 たった半年の離国なのに、大袈裟なことだと照れ臭かったが、気持ちは嬉しかった。

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