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妖精とクマ  作者: さぁこ/結城敦子
第八章 小野寺冬馬の秘密。
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8-4 雨の気配

 さすがに二日目は何事もなく無事に終了した真白ちゃんの受験生活は、ようやっと終わった。


 俺はと言えば、資料室の『主』が予言したような厄介な事態に直面していた。

 その事に関して、早く真白ちゃんに話さなければならなかったのに、受験と卒業式が終わったのを見計らって、自分のマンションの部屋から携帯に電話をしたら、父親が出た。


『真白は風邪で寝込んでいる。受験と卒業式で疲れたんだろう。ゆっくり休ませたい。

煩わしいから、電話はしばらく控えてもらえるかな』


 家電いえでんしかなかった時代、世の男たちはどうやってこの父親という壁を突破して、彼女達に連絡をつけたのだろう。


『わかりました。どうぞお大事に』


 垂直に高い壁は取っ掛かりすらない。

 小野寺家の若様のことだ、壁は磨き上げられた極上の大理石で出来ているに違いない。

 大人しく引き下がろうとした俺に、大事な娘を囲う父親は追い打ちをかけた。


『そう言えば、小野寺の若様は出版社の社長をクビになって、フランスに行くらしいな』


 小野寺家を捨てた本物の『若様』は、俺のことを『若様』と呼ぶ。

 決して俺のことをそう呼ばない、本物の『若様』に忠実な井上常務が、彼に、まだ社内にも公表されていない人事についてまで語っているのだろう。


『そうです。

――そのこと、真白ちゃんに伝えてもらえますか』


『私が? お断りだ』


 駄目元で言ってみたが、素気無く拒絶された。

 俺が言いたくないことを、彼が進んで代わってあげるはずがない。

 これを機に別れてしまえ、と頭ごなしに言われないだけ、マシだ。


『でしょうね。

ならば、せめて真白ちゃんと直接会う機会を頂けますか?

三月の終わりにはフランスに発つ予定です』


『――私は晴れ男なんだ』


『はぁ?』


 何を言い出すのかと思った。

 芝居がかったような、歌うような調子の声が続く。


『私は昔から晴れ男でね。

行く所、燦々と太陽が光り輝き、天が私を祝福するかのようだった』


『その話、長く続きますか? 仕事に戻りたいんですが』


 インフルエンザではないらしいので、良くなったら、会うことも出来るだろう。

 その時に、本人と交渉した方が、話が早そうだ。

 こちらは打ち切る気満々だったが、相手は話す気満々のようだ。


『晴れる場所があれば、雨が降る場所もある。

私の場合もそうで、周りの人間が雨に濡れてしまうんだよなぁ。

君のフランス行きには、そんな『雨』の匂いがするよ』


『……『雨』の匂い……ですか?』


『そう、せいぜい気を付けることだな。

相手がいくら稚拙な策士だろうとも、窮鼠猫を噛むということわざもある。

それはこの間、身に染みて実感しただろう。

二度も間抜けな姿を真白に見せるなよ』


『えっ……ちょっ! ……っと待って下さい!!』


 相変わらず、自分の主張しかしない人である。


「って言うか、やっぱり、そっちのとばっちりかよ!!

責任取って、真白ちゃんに会わせろ!!」


 携帯端末を壁に投げつけそうになったが、寸前で思い直した。

 投げ捨てるように、机に置き、自分も立ち上がりかけたのを、座り直した。

 目の前のパソコンの画面が表示している書きかけの文章の末尾で、カーソルが点滅していた。


「雨の匂い……『主』と同じ警告だな」


***


『これは雨宮家からの要請だ』


 俺は義父の名代で、志桜館学園高等部の卒業式に来賓として列席して、心密かに、彼女の卒業を祝福し、見届けていた。

 式後に個人的にお祝いを言いたかったけど、あの『妖精の騎士』がここでも祟り、女子高校生に取り囲まれてしまって、とてもじゃないけど、真白ちゃんに近づけなかった。

 真白ちゃん以外の女子高校生にベタベタ触られて、なぜか制服のスカーフを大量に貰った。

 後から夏樹に聞いたが、卒業式に志桜館の女子生徒は、好きな相手に自分のスカーフをあげるそうな。

 ほとんど面識の無い相手に、そんな軽々しく大切な思い出の品を差し出す気持ちがよく分からなかったが、特に誰にあげたい訳でもない子が、記念に渡してきただけのような気がする。

 中にはどう見ても卒業生ではない一、二年生の女子生徒まで居たのは、もう、ご愛嬌と思うことにした。

 今年は真白ちゃんの卒業の年だから義父の代わりを引き受けたけど、来年は絶対に、断る。

 もっとも断る以前に、この名代が義父なりの心遣いなら来年はなさそうだし、女子生徒たちの騒ぎっぷりに、教務主任が雷を落とし、俺を校庭に迷い込んだ野良犬みたいに追い払ったので、学校側からも出入り禁止になった可能性が高い。


 早々に退散する間際の段階では、怒った顔の卒業生総代の友人の隣で、目を見開いている真白ちゃんの胸元には、まだしっかり、スカーフが結ばれていた。


 そんなことがあった卒業式の夜、義父が俺と夏樹を呼んで、家族揃っての食事会を希望した。

 真白ちゃんはおらず、代わりに姪の紅子と緑子が同席している、いつも通りの家族で集まる『普通』の食卓だった。


 波乱の口火は、紅子が切った。


「ましろお姉さまは、いつ冬おじさまのおよめさんになるの?」


 井上夫人の小さいからといって容赦ない躾で、すでに『上品』な食べた方を習得しつつある姪は、口にソースを付けながら、純真そのもの顔で、俺に聞いてきた。


「……っ!?」


 まさかの側面直接攻撃に、不意をつかれ、フォークを取り落した挙句、むせてしまった。

 その不作法を、井上夫人は責めなかった。

 それどころか、給仕ですら、憐れみと励ましを混在させた表情で、新しいフォークを置いてくれた。

 使用人室で恰好の茶飲み話のネタになっているんだろうな。

 救いは、みんなが好意的なことだけだ。

 いや、好意的過ぎて、先走られている。

 小野寺邸では、今や遅しと真白ちゃんを待っていて、その影響が、幼い紅子まで波及している。


「真白ちゃんはお嫁さんになんかにはならないよ……今すぐには」


「でも、お父さまはもうすぐ、ましろお姉さまがおよめさんになって、うちに来てくれるって言ってたわ」


「言ってたわ。だから、それまでいい子にしていなさいって」


 受験があるから、年明けから真白ちゃんが小野寺邸を訪ねることはなくなっていた。

 そのことが不満な娘達を宥めるためとはいえ、口から出まかせを言うとは……俺は秋生を睨み付けた。


「ましろお姉さまに会いたいの」


「ずっとおうちにいてくれればいいのに」


 それは俺も同じ気持ちだけど、同意する訳にはいかない。


「真白ちゃんは子供だから、まだお嫁さんにはなれないんだよ。

紅子と緑子もそうだろう?」


 俺だって、嫌いじゃないし、むしろ大好きだ。心情的には二人のお望み通り、今すぐ結婚したい。

 それが許されるならば……だ。


 やけくそ気味に肉料理にナイフを入れ、切り分ける。

 今日はラム肉の香草焼きか……何風か知らないけど、俺の好きなメニューだ。

 ふと、思い返すと前菜からずっとそうだったかも。

 どうやって好物を調べたか知らないが、俺の好みを探るのは食べ物だけにして欲しい。

 屋敷中上げ、幼子まで巻き込んで、俺と真白ちゃんの行く末に注目するのは、本当に、本当に止めて欲しい。


「ましろお姉さまは子どもなの?」


「ちがううわよ、べにこ。

ましろお姉さまは子どもじゃないわ。

だって、おむねが大きかったもの。

お母さまより、大きかったでしょ?」


 ――肉を口に入れる前で良かった。

 あやうく吐き出す所だった。

 どんな会話だ!

 六歳児につっこみたくなる。


「緑子! おやめなさい!」


「どうしてですか? お母さま?

おとなになると女の子はおむねが大きくなるって、お母さまがおしえてくださいました。

お母さまより大きいから、お母さまよりもおとななのだわ!」


「そうよ! だからましろおねえさまは子どもじゃないわ。

およめさんになれるのよ!

冬おじさまはいっしょにおふろに入らないから、ごぞんじないのね。

ましろお姉さまのおむねはお母さまよりも……ん――!!」


ついに瑠璃子さんが実力行使に出た。

紅子の口は父親が塞いだ。


「瑠璃子の胸は小さくはないぞ!」


「やだ、何それ!

他の女の胸と比べての発言だったら、許さないわよ!」


「そ、そう言う意味じゃないだろう!?」


「やめやめ、くだらないことで子供の前で言い争いは止めなよ、秋兄! 瑠璃姉!

大きければいいって訳じゃないし。

正直、大きいと、服選びが大変なんだよね。

Tシャツも似合わなくなるし、ブラウスもボタンが飛びそうになるし、服のバランスが悪くなるから、やたらめったら膨らませないで欲しいんだよね」


 普段から真白ちゃんの洋服選びを手伝っている夏樹は、彼女の正しいサイズを知っているとはいえ、さすがにボタンが飛ぶほどはない……と思う。

 ただし、一年前から確実に成長しているのは、時々、ちょっとした『事故』で押し付けられる度に感じていた。

 つい先日も、そんなことがあったので、記憶が生々しく甦ってくるし、子供の率直な感想に、変な方向に想像を働かせてしまいそうになる。


「貴方達! いい加減になさい! 食事の席ですよ」


 この場にいない女の子の、よりにもよって『おむね』の話など、小野寺邸の夕食の話題に相応しいものではない。

 母が鋭い静止に、我に返った一同は、静まり返った。


 俺も気持ちを落ち着かせるために、水を飲む。

 これも俺好みの炭酸水だ。

 仕事があるからと、ワインを断ったのは失敗だったかもしれない。

 こうなったらヤケ酒でもして、このまま本邸に泊まるか……。


「で、結局、お前はいつ結婚するんだ?」


 ――六歳児から、義父への華麗なる攻め手の変更に、二度目の不作法をしでかした。

 食事の席なのに、物を口に入れられない。


 母や弟では埒が明かないと思ったのだろう。

 ついに山が動いた、といった風だ。


「……そのうちです」


 下手なことは言えないので、常套句で逃げようとしたが、義父は許さなかった。


「それはここ十年ほど聞き続けたなぁ。

私はそろそろ、お前の所の孫の顔が見たいよ」


 俺が結婚適齢期に差し掛かった頃、運命の相手はまだ十歳ほどで、今なお、十七歳と言う有様で、結婚どころか孫の顔まで話を飛躍されてしまった。

 だから、嫌なんだよ、と、どうして分かってくれないのだろう。


「孫の顔は紅子と緑子で満足して下さい」


 それに、真白ちゃんはあなたの本当の孫娘じゃないですか。

 孫が三人、なんて、今のご時世、悪くない数だ。

 夏樹だって控えている。


「では言い直そう。

ひ孫の顔が見たい」


 その場で食器を持っていた大人は全員、それを取り落した。

 磁器と銀器がぶつかり合う音が、高らかに鳴った。

 小野寺邸史上、こんな品のない食卓は、はじめてに違いない。

 野良犬を引き込んだからだ、と後から吹聴されないことを願った。


「ひまごってなぁに?」


「黙っていなさい、紅子」


「……はぁい」


 子供ながらに、険しい空気を読んだのか、瑠璃子さんの毅然とした態度に臆したのか、紅子は黙った。


「ひ孫……ですか?」


 それはもう、俺の相手が真白ちゃんという前提で話している上に、もはや、椛島真中が自分の息子なのを隠す気もまったくないようだ。

 そろそろ茶番めいてきたこの秘密を、一体、いつ、誰に暴露していいのか、分からない。

 全員知っている秘密って、秘密ではない。

 分かっていて演じている芝居みたいだ。茶番劇だ。


「そうだ。この私の為にも、早くひ孫の顔を見せてくれないか?

それが出来ないのならば……しばらくフランスに行かないか?」


「――はぁあああああ??」


 ああ、この人はあの椛島真中の父親だ、と痛感した。

 話の流れが見えない。


「フランスってどういうこと!?

なんで冬兄がフランスに行かないといけない訳?

仕事はどうするんだよ!!」


「……もしかして、例のプロジェクトを始めるつもりですか?」


「何? 秋兄! 例のって何?またジャンとなんか始めるのかよ。

俺は聞いてないぞ!」


「あなた……冬馬をフランスに行かせるなんて、やっと日本に帰ってきたばかりなのに」


 俺がアメリカから帰ってきたのは、もう四年も前になるのだが、母にとってはそうではなかったらしい。

 帰国後、すぐに本邸を離れたせいもある。

 母親だから、会えない時間が長くても、待ち続けてくれたが、真白ちゃんはどうだろう。


「しばらくって、どれくらいですか?」


「半年くらいかな。アメリカよりは短い」


「なぜ……理由を教えて頂けますか?

何をしに、フランスへ?」


 突然の離国命令は、アメリカ行きを思い出す。

 あの女から引き離すための処置。

 もしかして、病院であの女に会ったのを知って、再び俺を引き離そうとしているんじゃないだろうか。

 確かに、俺はあの女に会ってから、心にさざ波を立てているが、それよりももっと大事な女の子が居る。


「小野寺と雨宮の間で、ある新事業に関する提携の話が持ち上がっている。

うちがコーヒー豆の輸入を取り扱っているのは知っているな?」


「勿論です」


 小野寺グループの業務は叩き込まれている。知らないことはない。

 コーヒーだけでなく、紅茶などの茶葉も扱っている。


「卸だけでなく、カフェも始めようという話になってね。

例のジャン・ルイ・ソレイユのブランド店は好評で、雨宮百貨店は業績を伸ばした。

それにのって、さらにカフェも展開したいらしい。

ジャン・ルイ・ソレイユにプロデュースしてもらい、フランス風のカフェにしてみれば、後発だが、世の関心を引く面白い店舗展開が出来るのではないかという目論見だ。

それで、冬馬にフランスのカフェについて調べて来て欲しいのだ。

お前、コーヒー好きだろう?」


「コーヒー好きって理由でフランスに行かされるなんて、冗談だろう!?

それなら冬兄じゃなくって、雨宮の社員に行かせればいいじゃないか!

なんで冬兄を……その仕事をするってことは、小野寺出版の社長を辞めるってことだろう?

せっかく、仕事にも慣れて、社員からの人望を集めて、大きな仕事を二つも成功させて、これからって時に!

そんな当たるか分からない新事業に冬兄を出すなんて、部下の士気に関わるよ」


「夏樹の不安も分かります。

いずれ全企業の頂点に立つから、いろんな業態に触れさせたい、というお考えは分かりますが、就任二年で、しかも、こんなギリギリにそんな人事……」



「これは雨宮家からの要請だ」



 食卓に、義父の言葉が響いた。


「雨宮からの? なぜ、雨宮家がうちの人事に口を挟むんですか?」


 母は怒ったように言った。

 真白ちゃんと俺を離しておきたい気持ちはあるのだろうが、フランスは遠すぎると同情してくれたようだ。


「この新事業は雨宮家の長男・一が関わる最初の仕事になる予定だからだ。

冬馬は出版社で素晴らしい働き振りを示した。

お前のおかげで、小野寺出版は大きく業績を上げた。

是非、一を一緒に働かせて、勉強させたいらしい。

それに、ジャン・ルイ・ソレイユとは、かなり懇意にしているようじゃないか。

あの御しにくい太陽王陛下を相手に出来るのは、お前しかいないだろう」


「雨宮一?」


 花火大会の時に会った、あの顔を、俺は苦々しく思い浮かべた。

 真白ちゃんに話しかけられて、妙に嬉しそうだった。

 あいつは『普通』の『若い男』なんてものじゃない、銀のスプーンを咥えて生まれてきた、金と権力と知性と美貌に恵まれた、牧田に言わせてみれば『少女漫画に出てくるような』『若い男』なのだ。


「なんで、雨宮の長男の為に兄さんが担ぎ出される必要が?

しかも、雨宮一は今年大学を卒業した後、就職はせずに、そのまま大学院の修士課程に進学すると聞いています」


「だからだよ、秋生。一はしかし、博士課程には進学しない、修士課程を修了したら、雨宮系の企業に就職予定だ」


「つまり、その時までにお膳立てして、成功はごっそり雨宮一のものという仕掛けな訳かよ。

雨宮家の御曹司の華々しいデビューの生贄に、冬兄を捧げるなんて!

また冬兄が犠牲になるの?

小野寺が雨宮の言いなりだとは、知らなかったよ!」


「夏樹。我が家は、昔から雨宮とは友好関係にあって、様々な面で業務提携を行ってきた。

冬馬が雨宮との縁談を断るならば、それなりの誠意をみせて欲しい……と一成かずなりがごねてきてな。

正直、困った気持ちもあるが、新事業を一から興すのは冬馬にもいい経験かとも思ってね。

もし、早急に家族を作る予定がないなら、独り身の気軽さで、フランスに行って来て欲しい。

息子に協力すれば、一成かずなりも納得するだろう。

でなければ、責任を取って、なんの責任か分からないが、娘と結婚しろと言っている。

断ってもいいが、禍根を残すと、後々面倒なことになるかもしれんぞ」


「「「かずなり??」」」


 兄弟三人が声を合わせて聞き返すほど、その名前に聞き覚えがなかった。


「そうだ、雨宮一成あまみやかずなり……雨宮の現当主と言った方が分かり易かったかな」


 そう言われても、どんな人物だったかおぼろげにしか浮かび上がらないほどに、影が薄い雨宮家の現当主だった。

 無能な人間ではない。実直で手堅い性格は、いささか肥大しすぎた企業群を低空だが、安定して飛行させ続ける手腕があった。

 しかし、人々は、派手なものに目を奪われる。

 たとえば、息子の雨宮一。

 たとえば、従兄弟の椛島真中、こと、小野寺文好。

 上と下に、やたら目立つ身内がいるせいで、穏やかだが地味な彼の存在感は埋もれてしまっていた。

 その雨宮一成が、ここに来て、自我丸出しで、ごり押ししてくるなんて、それほど娘が大事なのか、息子の成功でわが身の不遇を払拭しようとしているのか。


 ――それとも?


***


 俺は、資料室の『主』の警告と、今さっき、聞いた、椛島真中の話を反芻した。

 パソコン画面はすでに、暗くなっていた。


 真白ちゃんと結婚する。

 雨宮姫と結婚する。

 フランスに行く。


 三つの選択肢を提示され、俺は敢えてフランス行きを選んだ。


 雨宮姫とは結婚出来ない。

 これは当然だ。


 真白ちゃんとも、今は無理だ。

 花火大会の夜に見せた彼女の不安そうな顔を思い出す。

 俺のことは好きでも、『おむねが大きく』とも、あの子は子供なのだ。

 まだ子供なのに、俺の為に無理に大人になろうとしている姿は痛々しい。


 結婚なんてまだ早い。

 俺はともかく、彼女には早いのだ。


 俺だって、真白ちゃんと、もっとゆっくり付き合いたい。

 二人で遊びに行って、二人で美味しいものを食べて、映画を見て、いろんな話をしたい。

 真白ちゃんにとっては年相応の普通のこと。

 俺にとっても、かつて出来なかったこと。


 受験が終わったら、そうするつもりだった。

 そして、約束の半年後に備えたかった。

 もう悲しい目にも、寂しい気持ちにもさせるつもりなんかなかったのに。


 結婚の話だって、小野寺の中だけで、取り沙汰されているならば、俺が聞き流せば済むのだ。

 真白ちゃんの耳には入らない様に気を付けてさえいれば良い。


 しかし、どうもそう簡単なものではないようだ。


 『雨』は『雨宮』だ。

 椛島真中という晴れ男の存在のせいで、いつも雨に濡れてしまう雨男の怨みがこもった『雨』だ。

 自分が濡れたその雨雲を、今度は降らせた男の娘の上に持ってこようとしている。


 真白ちゃんを悲しませる駒として使われるのは、不本意だった。

 けど、引き受けるしかあるまい。

 雨宮の動きに作意がある以上、こうなってしまっては逃れられない。

 雨宮一成は地味で目立たない人間だが、無能ではない。

 その存在感の薄さを逆手にとって、俺に気付かせないうちにフランス行きの包囲網を築いていた。

 だが、この試練を乗り越えられれば、雨宮家からの邪魔は入らなくなる。小野寺の人間も、結婚を急かすことは出来なくなるだろう。

 俺は雨宮姫と結婚するくらいなら、フランスに行くのを躊躇しないし、真白ちゃんとすぐに結婚しないで済むなら、フランス行きを承諾するのだ、と宣言したようなものだからだ。

 完璧に仕事をこなして、雨宮一にたんまり恩を売って、もう二度と、余計な口出しはさせない。

 雨宮一成に分からせてやる。あんたのそういうしょぼい考え方が、従兄弟との差だって。

 そう考えれば、秋生と夏樹に「よく真白ちゃんを置いていけますね! 信じられない!」と糾弾された半年間の離別は決して無駄ではなくなるはずだ。


 ちょうど約束の半年でもある。

 真白ちゃんは真面目だから、必ず約束は守ってくれるはずだ。

 その間は、他に男を側には置かないと、彼女は俺に約束してくれた。


 ――けれども、約束の日に、愛想を尽かした真白ちゃんから、別れを切り出される可能性もある。

 ――俺の居ない間、他に好きな男を見つけるかもしれない。そうでなくても、俺への気持ちは勘違いだったと気がつくかもしれない。


 半年の不在は大きい。


 ――フランスには行きたくない。

 ――あの子の側に居たい。


 心の中から湧き上がってくる本音を打ち消すために、投げ捨てた携帯を取り上げると、真白ちゃんの写真を呼び出した。

 リサという子は、あの一件以来、俺を見直してくれたようで、友人の『可愛い』写真をたまに送ってくれるようになった。

 花火大会の浴衣姿もあれば、俺の知らない学校での写真もある。

 どの真白ちゃんも、笑っている。

 今度のことを知られれば、リサは弟達と同じように怒って、写真を送ってくれなくなるだろう。

 それでいいかもしれない。悲しそうな顔をする真白ちゃんの写真は見たくない。


 いつも笑っていて欲しいという願いを、果たせる日がくるのだろうか。

 またこうやって突き放すようなことをして、俺は一体、何をしたいのだろうか。

 立ち上がってカーテンを開け、外を見ると、雨が降り始めていた。


 ぼんやりとガラスの映る自分と対峙していると、手に持っていたままの携帯が震えた。

 笑顔の真白ちゃんの写真が消えて、覚えのない番号が表示される。

 なんだって、こいつが俺のプライベートの携帯電話番号を知っているんだよ。


 電話の向こうから『雨』の気配。


 不愉快な気持ちになりながら、通話を終える。


 雨が嫌いになりそうだったが、思い直す。

 いいや。雨だって悪くない。

 雨降って地固まるとも言う。


 この時期ならば、ひと雨ごとに、春が近づいてくる兆しでもある。


 桜が咲く、真白ちゃんの春は、必ず巡ってくるのだ。

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