8-3 もしも、たられば、そうだったら
コーヒーで釣ったわりに、新しく淹れ直されたものも、限りなく美味しいに近い味でしかなかった。
永井秘書よりマシ、といった程度と言い替えることも出来る。
ここのコーヒー豆は安いのだ。それでこれだけの味ならば、もしかすれば、かなりの美味しさなのかもしれない。
真白ちゃんに会ったせいか、切実に彼女の淹れるコーヒーを飲みたくなった。
一年半前に飲んだ、たった二杯を今でも恋しく思うのは、淹れた本人が真白ちゃんという理由だけではない。
あの子のコーヒーは間違いなく井上夫人の次に美味しかった。
「井上夫人のコーヒーに慣れた舌では不満かな?」
「ええ、まぁ」
真崎さんを前に取り繕っても仕方が無い。
真白ちゃんの母親は小野寺家のメイドだったから、おそらく、そこでコーヒーの淹れ方を覚え、娘にも教えたのだろう。
小野寺文好が惚れたのも、コーヒーの味が切っ掛けだったかもしれない。
「真白ちゃんの母親の知り合いなら、どうしてお見舞いにも、お葬式にも顔を出さなかったんですか?」
以前、電話で母親の話になった時に、そんなことを聞いた気がした。
「行ったよ、お見舞いにはね。
あの子は学校に行っていたので、知らないだけだ」
自分が淹れたコーヒーなのに、不味そうな顔をしながら、一口飲んだ。
「でも、お葬式には行かなかったのは確かだ。
えっと……誰だっけ? あの子の父親は?」
「椛島真中」
どうやら、俺が『小野寺文好』が『椛島真中』と知らないという体で話したいらしい。
「そうそう、椛島真中がね。
お見舞いも最初の頃だけで、後からは嫌がられたんだ。
私はあの子にちょっかいをかけていたからね」
「嫉妬されたんですか?」
いくら取り繕っても、嫉妬なんて、やはり碌でもない。
コーヒーが途端にまずくなったような気がした。
「嫉妬と……それから罪悪感だね」
「罪悪感……」
「奴は小さい頃から高慢ちきで自信満々な人間だった。
そんな人間は嫉妬とは無縁だ。
嫉妬するのは、大体、自分に自信がないからだ」
真崎さんの言葉が胸に突き刺さった。
今朝から二人連続で、『普通の』『若い男』に妬いてしまった自分に対する忠告にも思えた。
少なくとも彼は、『普通』の『若い男』の一人に対する、俺の対応を見ていたはずだからだ。
「君にも見せたかったよ。
あの性格以外は頭脳も美貌も財産にも恵まれた冷酷無慈悲な男が、たった一人の女性に出会って、見る見る間に変わっていく様を」
「あれは面白かったなぁ」、と感慨深げにいう真崎さんに、ますます居心地が悪くなる。
俺も面白がられているに違いない。
「ついには家を捨て、彼女の元に走った。
まぁ、それなりに幸せな家庭を築いたんじゃないかな。
だが、彼女は病に倒れてしまった。
椛島真中はね、小さい頃に母親にも先立たれている。
雨宮の……っと、奴の母方の実家は迷信深い性質でね、自分のせいで大事な女性を不幸にしてしまったんじゃないかと思ったんだ」
「そう言えば、そんな話を……」
「聞いたのか!? あの男から! それは珍しい!!」
俺が同意すると真崎さんは、手を打って喜んだ。
「そこまでは言ってませんよ。
ただ、大事な女性を二人、失った。
だから、真白ちゃんは守りたい……と」
夜の病院の一室で、薄暗い非常灯の下で、あの人は腹を刺された俺よりも苦痛に顔を歪めていた。
「そうそう、さすがの奴も、娘だけは守ろうと、実家に手放そうとしたのに」
意味ありげに見られ、「どこかのお兄さんが、懸命になってそれを阻止して、父親の元に帰してしまったようだ」と笑われた。
「では、真白ちゃんは……ああ、面倒臭い! つまり、小野寺邸に引き取られるはずだったんですね」
俺の予想は当たっていたようだ。
もっとも、だからと言って、それがなんだと言うのだ。
真崎さんが笑ったように、俺自身がそれを阻んだのだ。
「君も損な性格だね。
せっかく可愛い仔猫ちゃんが居付いてくれそうだったのに」
「そういう言い方は好きじゃありません」
「真面目だね。椛島真中とは大違いだ。
かつてのあいつだったら、隙あらば誘い込んで自分のものにして離さなかっただろうに。
もっとも、ミイラ取りがミイラになるを実践する羽目になったけどね。
あの子はなかなか図々しい子だったよ」
『図々しい』は彼なりの褒め言葉らしい。
「その図々しい子を、自分のもの……真崎さんが恋人にしたいと思わなかったんですか?
取り合ったと聞いたのですが、その、あなたも相当ですが、聞く限り、椛島真中の良さがさっぱり分かりません」
「その通り! あいつに良い所なんて一つもないよ。
強いて言うなら、女を見る目があったことかな。
あれほどの女性を好きになるだけでも、奴の性格には救いがあったと知って、それはそれは驚いたよ」
井上常務の『若様』話は、大分盛っているとは思っていたけど、こちらはこちらで、下げすぎである。
どちらの話も、三倍くらい水で薄めないと、参考にもならない。
俺は苦笑しつつ、コーヒーをもう一口飲んだが、続けられた言葉にむせて、口から吐き出す羽目になった。
「俺は彼女のことを妹みたいに思ってたんだよね。
なにしろ当時、あの子は十八歳で、俺は三十歳だったんだ。
こっちはロリコンじゃないかと悩むし、あちらも俺を恋愛対象に見るにはおじさんすぎたんだろうよ……っと、大丈夫かな、若社長」
絶対、わざとだ。
絶対、面白がっている。
口元を慌ててハンカチでぬぐいながら、睨みつけたが、真崎さんは頓着しない。
「愛があれば歳の差なんて、気にすることはないさ……なかったんだよなぁ。
あの子を俺の妻にしていれば、幸せに出来たかな。
いいや、そうは思わない。
あの子は、俺じゃなく、あいつを選んだんだから。
それに、俺にもちゃんと運命の女性が現れた訳だし」
真崎さんは左手の指輪を愛おしげに見つめた。
それから哀愁を振り払うように陽気に装った。
「運命と言えば!
君は知らないだろうけど……どうだ? 知らないだろう?」
「そんな風に焦らしても無駄ですよ。
知らないものは知り様がありません」
「面白味のない子だ。
いやいや、君は実に面白い子だ」
やっぱり俺のことも面白いと思っていた真崎さんは、楽しそうだった。
「君と真白ちゃんに関しては、君が小野寺邸に入った時から話題になっていたんだよ」
真崎さんのペースに乗せられたくないが、つい聞き入ってしまう。
「守さんが再婚する時、相手には連れ子が三人も居て、その中の一人に跡を継がせるという話になった時、当然、反対するものも多くいた。
そんな中、和解案として、椛島真中の娘と結婚させて、血筋を一つにしてしまえ、と言う話が出たんだよ。
乱暴な話だが、道理には叶っている。
あちらは息子、こちらは娘、と実に都合が良かったからね。
年齢のことを考慮して、末っ子の夏樹君との縁談話ではあったけど。
……なにしろ、当時、真白ちゃんは四歳で、君はえーっと」
「―――十八歳ですね、その頃なら」
「うーむ、今よりももっと衝撃的な年齢差に感じるね」
高校生と幼稚園児が、長じて社会人と高校生になった。
そのうち、社会人と大学生、社会人と社会人になるのだ。
ほら、そうなって見れば、それほど違和感はない。
「夏樹君は……」
「十二歳でした」
「まぁ、なんとなく許せる年齢じゃないかってことで、真白ちゃんと夏樹君の縁談が持ち上がったんだけど、これもどこかのお兄さんが自らを犠牲にして阻止した。
結果として、その犠牲は報われたことになるね。
―――運命だろう?」
「運命ですかね」
夏樹の相手として真白ちゃんが連れてこられたら、俺はどういう反応をしただろう。
気になったとしても、弟の相手として、諦めただろうか。
「運命だよ。
こんな都合の良い話、運命でしかないだろう。
名実共に小野寺家の跡取りと見做されている君が、正当な血筋まで手に入れるのだ。
これ以上、すべてにおいて完璧な縁組はない」
「椛島真中にとっては、嬉しい話ではないと思います。
それに、母も……うちの母も反対しています」
「珠洲子さん?
ああ、真白ちゃんが君のことを好きなんだって、それはそれは誇らしそうに言ってたな」
「えっ??」
意外な事実の暴露に、声を失った。
あれだけ反対していた母が、そんなことを言うはずがない。
そう責めると、真崎さんは飄々として答えた。
「それとこれとは別だよ。
君はここ一年は、それこそ聖人君主の如き身の律し方だったけど、その前の女遊びはそりゃあ酷かった。
自覚はあるんだろう?」
「……あります」
「自分の息子に好意を寄せられるのは、母親としては嬉しいよ。
認められた気分だからね。
それに、君の立場を盤石にするには、どうしても、いい家柄の娘、それこそ雨宮家ぐらいの家の娘が必要だが、政略結婚を強いたくない珠洲子さんにとっては、自ら進んで好きになった相手が、どんな家柄を並べようと、これ以上ない条件を持つ子だとしたら、それは願ってもないことだ。
しかし、あの可憐な花のような、小動物の如き愛らしさを持つ椛島真白嬢が、この野獣のような小野寺冬馬に無防備に近寄って行って、もしものことがあったら取り返しが付かないだろう。
母親として信じたいけど、と悩んでいたよ。
君は珠洲子さんを責められないよ。それだけのことをしていたんだから」
そこまで聞いて俺は両手で顔の下半分を覆った。
「すみません。俺と真白ちゃんの話って、どこまで持ち出されているんですか?」
弟達も部長職まで引っ張り出して、俺と彼女の仲を取り沙汰していた。
まさか、こんな上層部まで、そうなのか、と思うと、眩暈がしてきた。
「こと小野寺家の行く末を決める話だぞ、この所、事情を知る人間が二人以上集まったら話題に登るのは君たちの話に決まっている。
あの武熊ですら、気にしていたほどだ」
ため息しか出なかった。
俺が彼女を好きな気持ちを自覚していない、認めたくない、気づいてしまった、と泥の中でもがいている間、周囲の人間は、自分たちの私利私欲を絡めて、面白おかしく、興味本位で話題にしていたとは。
真白ちゃんが知ったら、恥ずかしさに逃げ出してしまいそうだ。
俺はそう思ったのに、真崎さんはそうではなかった。
「おいおい、こんなことで、あの子との間を駄目にするような真似はするなよ。
君に反感を抱いている人間すら、諸手を上げて賛成しているんだぞ。
それは、彼女の出生だけじゃない、君の手腕を認めつつも落としどころを失っていた奴らが、やっと着地点を見つけて、喜んでいるんだ。
結婚を手段に、人間を道具にしたくありません、なんて、初心な小娘みたいな考えをする年か?
当の小娘の真白ちゃんなら大丈夫だよ。
何度も言ってるけど、あの子は図々しからね」
「俺が知っている真白ちゃんと、あなたが見ている彼女は違う人間のようです」
反抗するように言うと、真崎さんは聞き分けのない子供を相手にするように肩を竦めた。
「やはり、俺は君の方が心配だね。
その繊細な神経が、この運命についていけるか……とてもね」
「せ、せんさい??」
どこをどうひっくり返しても、俺には似つかわしくない表現だった。
真崎さんが黙りこくったので、加湿器が稼働する音が部屋に響いた。
「君は初めて守さんに会った時のことが覚えているか?」
「ええ……思い出したくないですが」
「そうか、守さんは君のことを褒めていたよ。
誇り高くて責任感の強うそうな、優しいいい子だったと。
だから夏樹君ではなく、君に小野寺家を継がせたいと強く願ったんだ」
身をかがめ、膝に肘をつけた体勢で両手で拳をつくり、額をゆっくりと軽く叩いた。
あんな俺を?
慰めの言葉をかける義父を無視して、気を遣って買ってくれた飲み物も捨てた俺を?
あの時の俺は父が乗り移ったように義父に対して激しい嫉妬心を抱いていた。
「俺はそんな人間じゃありません。
責任感は……そうですね、それはあると思います。
でも、誇りはありません。
俺はね、真崎さん、父に、あの最低な人間に何度も土下座をした男なんです」
「ごめんなさい」「もうしません」「許して下さい」「お願いします」「お願いします」
美園にだって、土下座出来る自信があったのは、その過去があってのことだ。
「俺の頭なんて軽いものです」
「なるほど、それはいい。
私は小野寺文好に頭を下げられなかった。
つまらないプライドのせいで、大事な子を不幸とは言わないものの、苦労させた。
君は誇り高い子供だったんだよ。
自分の為にじゃないだろう?
母親や弟の為だろう?」
真崎さんの言葉に、一旦上げた顔を、再び伏せたのは、情けないことに、目頭が熱くなったのを気づかれたくなかったからだ。
「君の自己評価がそんなに低いのは、父親のせいかな?」
「いいえ、むしろ父は俺を高く評価していましたよ」
何しろ、子供の俺を母親を巡るライバルとして見ていたのだ。
それはある意味、対等、もしくは、それ以上の脅威としてみなされていた。
だからこそ、あれほど俺を卑下し、叩きのめして、自らの優位を示し続けることに固執していたのだ。
マザコン気質だとはいえ、母親想いと大差ない俺を、勝手に大きな敵と仮想するなど、随分な話だ。
しかし、そう思った瞬間、自分もそうであることに気が付いた。
勝手に『普通』の『若い男』を敵対視していた。
情けない。
嫌だと思っていても、嫉妬心を取り除けない。
「義理の父親にも一目置かれているよ。
自信を持つといい」
真崎さんが励ますように言ってくれた。
「それからどうやら、あの『小野寺文好』にもね」
「力になれることがあったら協力するよ」、思いもかけず、真崎さんから手を差し伸べられた。
迷っていると、新たな事実を告げられた。
「そう警戒するな。
私は君の味方だぞ。
敵の敵は味方、と言うじゃないか」
「なんですかそれ……」
「君に小野寺文好の手紙を見せるように、『主』を説得したのは私だぞ。
おかげで、椛島真中の正体を知ることが出来ただろう?
あいつは自ら姿を隠しているくせに、お前がいつまでも気が付かないと知ったら、馬鹿にするような男だ」
さも当然のように言われたが、俺は言葉に詰まってしまった。
まさか真白ちゃんの可愛さに目がくらんで、まったく気が付かなかったと知られたら、どれだけ面白がられ、吹聴されることだろう。
ここに来るまで、真実を知っておいて良かった。
夏樹には後でよく礼をしないといけない。それから、双子達にもだ。
「あ、ありがとうございます」
「その『主』からの託宣だ。
小野寺の冬馬社長にはもうひと波乱あるらしい」
「波乱?」
俺の人生にこれ以上、波乱なんていらない。
真白ちゃん以外は、何もいらない。
「知らん。
何やら雨の匂いがするらしい……が」
真崎さんは鼻をひくひくさせながら言った。
「雨?」
窓の外は、未だに深々と雪が降り続いていた。
真白ちゃんのことでなければいいな、と願った。
彼女は雪女だから大丈夫だと思うが……雪は時に、雨に変わることもある――。