8-2 恋のライバル
側面に『真崎企画』と会社名が書かれた白い車の前に、若い男が立っていた。
『若い』『男』だ。
出がけに会ったうちの社員と似た様な、ごく普通の顔の、平凡そうな、だけど、自分の好きな女の子に、当たり前の安心と幸せを与えられそうな若い男だ。
俺はつい、真白ちゃんを自分の側に引き寄せてしまった。
まだ自分のものでもない女子高校生にするには、馴れ馴れしい仕草だった。
若い男は気付かなかったのか、親しげに声を掛けてきた。
「小野寺の若社長で?
うちの社長に言われて、迎えに来ましたよ。
そのびっくりするくらい可愛いお嬢さんを送っていけばいいんでしょ?」
見た目よりも軽い性格らしい。信用出来るのか、との思いが頭を過ったが、あの社長が寄越した人間だ。それなりに使える人材のはずだ。
そして、あの社長の『それなり』は、一般的には『非常に優秀』に変換される。
「こんな雪の中、無理を言って申し訳ない」
「いえいえ、小野寺出版にはうちら、世話になってますから。
さ、どうぞどうぞ」
後部座席のドアを開けてくれたので、真白ちゃんを先に促し、自身も乗り込む。
「やぁ、小野寺の若社長。ついに年貢の納め時だって?」
助手席から身を乗り出さんばかりにして、細身の初老の男がこちらに声を掛けて寄越した。
真崎企画社長の、真崎さんだ。
はっきり言って、苦手なタイプだ。
資料室の『主』と椛島真中を足して二で割ったような人なのだ。
そして、その椛島真中こと、小野寺文好とも顔見知りだと思われる。
こんな事態でもなければ、真白ちゃんを連れて助けを求めたくはない類の性格だったが、頼りになる人間でもあった。
「なんで真崎さんまで乗っているんですか!?」
「君の言う女の子が一人で来ると思っていたんだよ。
若い男と二人じゃ不安だろうから、乗って来たのに、何か不満か?」
「……いえ、お心遣い痛み入ります」
真崎さんは、さらに首を伸ばして、真後ろに座った真白ちゃんを視認した。
「ほほう、これはこれは、随分と年貢の納め甲斐がありそうな子だね」
「やめて下さい。からかうにしても、時期を考えるべきです。
今から受験に臨もうとしている子に、変な事を吹き込まないでいただけますか?」
俺は真白ちゃんの耳を塞ぎたかったが、この並びでは、穏便な体勢ではどうやっても無理だった。
本人は、事の次第を悟ったのか、耳まで真っ赤になっている。
こういう時は、もう少し鈍感だと助かるのに。
「大丈夫だよ。若社長が思っているより、この子は図々しい子だ」
「なっ!」
「社長〜、こんな可愛い子に図々しいはないですよ。
すみませんね、うちの社長、毒舌で辛口なんですよ」
運転席に乗り込んで、シートベルトを締めながら、若い男が真白ちゃんに慰めるように言ったが、彼女はあまりのことに口を噤んだままだった。
「では言い直そうか、図太い子だ」
あまり変わっていない気がする。
「良かったな。小野寺の若社長。
そうでもなかったら、君のような面倒な男、とっくに見放されているぞ」
悔しいけど、そうかもしれない、と思ってしまった。
真白ちゃんは、こちらを見て、真崎社長の言を否定するように、訴えかけるような瞳をして、頭を振った。
「海東、早く車を出せ、彼女の受験に間に合わなくなるぞ。まさかエンストさせたのか?」
「まさか! 出発しますよ」
若い男は海東と言うらしい。
この出し惜しみしない真崎さんの下で働いているだけでも、尊敬に値するかもしれない。
「初動が良かったおかげで、まだ少し時間がある。
うちの会社は、君の受ける大学から歩いて五分くらいの場所にあるからね。
休んでいくといいよ。
暖かいスープと美味しいパンを用意してある。
朝食がまだなら、食べていくと良い。
それから、お昼は、この海東が買ってくる。
リクエストはあるかい? 真白ちゃん?」
真崎さんまで、真白ちゃんの名前を知っていることに、俺は驚かなかった。
彼はかつて小野寺出版の社長を務めていたのだ。
今でも、伝手はたっぷりと持っている。
資料室の『主』とは相通じるものはあるし、東野・青井両部長が新入社員の頃から世話になった恩人として頭が上がらない有様だ。
俺も出版の仕事をすることになった時、教えを乞いに行って、それこそ、たっぷり借りがある。
やり手の編集だったが、義父との方向性の違いから退職した経緯もあってか、井上常務とは仲が悪いようだが。
今は、自ら企画・編集するフリーペーパーを発行する会社『真崎企画』を立ち上げている。
『晴嵐』を斬新な企画で刷新し、購読者を増やした元文芸部長の作るフリーペーパーは人気が高いらしく、発行するとラックからすぐに姿が消えると言う。
真白ちゃんですら知っているようで、真崎企画に着くや、「父がいつも貰ってきていました。発行日の朝一にフラッと出掛けて持ってくるんです。おかげで、私は欠かさず読むことが出来ました」と置いてあったバックナンバーを興味津々に手に取った。
「でも、最近は父も忙しくって、そうは自由に出歩けなくなってしまって、ご無沙汰でした」
「ほら見ろ、若社長。図々しい子だろう?」
「止めて下さい」
別に下さいとも、欲しいとも言ってないじゃないか。
そりゃあ、目を輝かせた後、しょんぼりした顔で、そんなセリフ言われたら、小野寺出版に献本された分をこっそりあげたくなるけどさ。
「すみません! 私、そんなつもりじゃ……」
真白ちゃんは慌てて冊子を元の場所に戻すと、俺の隣に、申し訳なさそうに小さくなりながら、身を寄せて座った。
ふんわりと僅かな温もりと、甘いいい香りが、すぐ側から伝わってくる。
「あの椛島真中が愛読していたとはいい話を聞いたよ。
それを宣伝に使わせてくれれば、バックナンバーの一部くらいなら、くれてもいい。
出来れば、寄稿もしてくれると、さらに嬉しいなぁ」
フリーペーパーは大人気だが、こだわりすぎて、内情はなかなか火の車な真崎企画の社長は言った。
そのせいで、うちの会社の細々とした取材やなにかを手伝っては、資金を調達しているのである。
「話してみます。
私も、父も、本当に、いつも楽しみにしていたので!」
邪気の無い様子に、真崎さんが苦笑した。
それから「君はそういう顔をすると、父親よりも母親に似ているな」と懐かしい顔をした。
「……! 母のことを……」
「私と君の父親は、君の母親を取り合った仲なんだよ」
「……だから! 今! そういう話題は止めて下さい!!」
特に母親の話題には弱い真白ちゃんの瞳には、早くも潤み始めていた。
俺は一言一句に怒気を込めた。
「そうだね、また後で、遊びにおいで。
面白い話をしてあげよう」
どんな裏話を持っているか分からない人だ。
彼が『面白い』と言ったことが、万人に対してそうであるかは、甚だ疑問だ。
雪じゃなかったら、真崎さんに真白ちゃんを紹介する羽目にならなかったのに。
俺は窓の外の天気に怨みを込めた。
そう言えば、真白ちゃんが教えてくれたな。
大事な行事がある時は、晴れるように願掛けをする、と。
それを行っていた男はインフルエンザと原稿の締め切りに追われて、呪いを怠っていたのだろう。
それとも真白ちゃんは、やはり正体は妖怪で、雪女なのかもしれない。
『妖精』プロジェクトのお披露目式の時も、受験の時も、大事な日には雪が降る。
雪の白ではなく、桜の白だと主張する真白ちゃんは、俺が真崎さんの淹れた、限りなく美味しいに近いコーヒーを飲んでいる間に、用意されていた温かいコーンスープとピーナッツバターのサンドウィッチでお腹を満たした。
真白ちゃんを気遣ってだろう、部屋の中は暖房だけでなく、普段は動いていない加湿器も稼働していた。
そこに海東が戻ってきて、コンビニの袋を手渡した。
「はい。お嬢さん。お望みの物がありましたよ」
渡された袋の口を、真白ちゃんはしっかりと握った。
「何をお願いしたの?」
「えっ?」
「えっ?」
「……内緒です」
何気なく聞いたのに、隠されると気になるものだ。
でも、彼女は「恥ずかしいから嫌です」と教えてくれなかった。
恥ずかしいお弁当って、一体、どんなだよ。
そう思っていると、横から海東が「ミックスサンドウィッチなんて、普通のランチだよね?」と口出ししてきた。
「言わないで下さい!」と真白ちゃんが抗議する。
俺は純粋に、「朝もサンドウィッチなのに、お昼も同じでいいの?」と聞いた。
「……いいんです。ハムと胡瓜の入ったサンドウィッチが食べたいから」
もし、あらゆる場所にパイプがあって、その先から一声出せば、すべてに聞こえそうな真崎さんと、いかにも口の軽そうな海東が居なかったら、俺は多分、彼女を抱きしめていたかもしれない。
それくらい、いじらしくて愛らしかった。
しかし、自分の人生にとって重要な日に、そんな理由でお弁当を選んでいいものなのだろうか?
「俺の好きなおにぎりの具材も教えれば良かったね」
そっちの方が、受験中のお昼にはいいかもしれない、と思ったのだ。
「何が好きなのですか?」
嬉々として問いかけられた。
そうか、俺は真白ちゃんに自分のことを、全然、話していなかった。
重大な過ちだけでなく、些細なことすらも。
そして、真白ちゃんは、そんな小さな、どうでもいいことを知りたがっていたのだ。
反省しつつ答える。
「梅干し」
「私もです! 私も! おにぎりは梅干しが好きです」
同じものが好きなだけで、こんなにも喜ばれるなんて。
ひたむきに慕ってくれる彼女に、胸がいっぱいになって、苦しくすらあった。
「何それ、ふっつーだな」
海東が混ぜっ返し、それでも、真崎さんに『それなり』との評価を受けている男は、別の袋から紀州梅のおにぎりを取り出した。
「さっぱりしてるから、丁度いいかなと思って、買っておいたんだ。
ちなみに俺はおかか昆布が好きだよ、真白ちゃん」
誰も聞いてもいないことを付け加えた男に、真白ちゃんはお礼を言って、素直におにぎりを袋に入れた。
俺の親切にはためらうのに、こいつの気遣いは平然と受け取るなんて……と、相変わらずくだらないことに妬いてしまう。
「私はおにぎりならイクラかな。サンドウィッチは断然、ピーナッツバターだ。
昔、可愛い女の子によく作ってもらったんだ。
真白ちゃんも好きだと知って、嬉しいよ」
だから、なんでこの人は、いちいち真白ちゃんを動揺させるような発言をするんだろう。
まさか、彼女の母親に振られた腹いせじゃないだろうな。
俺は、いい加減、うんざりして、彼女を連れて受験会場に行こうとした。
けれども、真白ちゃん自身に断られた。
「一人で行きます。
みんな、一人で来てますから」
最近は両親同行で来ている受験生も多いよ、と教えようとしたが、止めた。
真白ちゃんなら大丈夫だ。
でも、もう一度、念を押してしまう。
「受験票はある?」
「はい。受験票も筆記用具も……お守りも! ちゃんと持ってますよ」
俺が渡したお守りを手に笑いかける真白ちゃんにも、先ほどと同様の嬉しさと、苦しさを感じる。
たとえ心の奥底の濁った部分だとしても、別の女の面影を沈めつつ、彼女に向かい合っている自分が、ひどく卑怯で薄汚れた存在に思えた。
「では行ってきます!
真崎さんも、海東さんも、どうもありがとうございました。
無事に受験が済んだら、改めてお礼に参ります」
真白ちゃんは、ぺこりと頭を下げると、軽やかに身を翻した。
俺の後ろに居た真崎さんが言った。
「いや〜、図太い子だよね。そういう所は父親そっくりだ」
すでに扉の向こう側に消えた彼女には聞こえなかったのが、幸いだった。
「社長はあの子の両親と親しかったんですか?」
いつの間にか、防寒着にカメラを構えた海東が聞いた。
ボンボンが付いた毛糸の帽子に、耳当てが、より一層、彼を若く見せていた。
「うん? 母親の方と仲が良かったんだよ。
父親は性格がよろしくなくってねぇ」
「椛島真中がですか?
テレビや雑誌で見る分には、素晴らしい紳士じゃないですか」
「ああ、そうだね、椛島真中はそうだね。
そうそう、海東、お前、雪の街を取材するんじゃなかったのか?早く行かないと、面白い物を見逃すぞ」
頭にハテナが浮かんでいるような社員を、社長は無情にも吹雪きの外へと追い出した。
「こんな雪の中、大変ですね」
「大企業の若様には分からないことさ。
すぐに役に立たなくても、もしかしたら、後から貴重な情報に化けるかもしれないでしょう?
俺の街中おもしろ写真、結構、人気があるんですよ」
雪の中で仕事をしたことが無いように言われて不本意だったが、わざわざ苦労自慢する気もないので、礼を言って俺も『大企業の若様』のお仕事に戻ろうとした。
が、引き留められた。
「折角だから、コーヒーをもう一杯どうだ。
私から面白い話を引き出せるかもしれないそ」
逆に『面白い』話を引き出されそうな危険な誘いだったが、こちらとしても、真崎さんの持つ情報が欲しかった。
『小野寺文好』について、忌憚なく話してくれる人は、それこそ貴重だった。