7-6 雪と桜と、私の受験
学校指定のコートに、若社長から貰った桜色のマフラーを巻き、私は急いで自転車を走らせた。
すっかり乾燥した空気に負けない様に、リップもしっかり塗った。
寒さにほんのり赤らむ頬も悪くない。
愛しい人に久しぶりに会う女子高校生という身分としては、上出来だろう。
はやる気持ちを抑えて、病院の庭の方をぶらぶらと歩いた。
検査が終わったら、若社長から連絡がくるはずだ。
母が入院していた病院だったので、勝手知っている場所だった。
毎日、悲しい気持ちを奮い立たせてやってきたこの病院に、こんな気持ちで再び来ることになろうとは想像もしてなかった。
冷たい風が吹いて、身を竦める。
中に入った方がいいかもしれない。
庭の方から多目的ホールのような空間につながる扉があったので、そこから室内に入った。
なにか温かい飲み物でも買って、飲みながら待っていようと視線を移動させると、見慣れた姿があった。
嬉しくて、側に寄ろうとして気が付いた。
雰囲気が違う。
一緒についてきた牧田さんも、どういう顔をしていいのか分からないみたいに立っていた。
若社長の前には、女性が立っていた。
ピンク色のニットのアンサンブルに、白いタイトスカートを履いている綺麗な人……なのかな?
嫉妬にくらんで判断が出来ない。
でも、そんな感情のまま言わせてもらえば、妖艶な美人ではあるけど、どこか陰鬱さを感じる。
年も若社長よりも上のように見える。
若社長が女の人と歩いているのを、これまででも見たことがあったし、とかくそういう噂の多い人だったのに、こんなにも不安な気分にさせられたのは、その視線だ。
花火大会の夜に見せた、あの虚空を、過去を睨むような目つき。
横顔だけでは判断出来ないけど、会えて嬉しそうには見えなかった。
戸惑いと、恐怖と、悲しさを感じる。
瞬間的に分かった。
あの女の人が、若社長を縛っている。
ずっと、長い時間、ずっと、彼を捉えて離さない、「特別」な女の人だ。
ぼそぼそと話しているせいで、会話の内容は聞こえなかった。
だけど、女の人は去り際に、思い出したように付け加えた言葉はちゃんと聞こえた。
「そうそう、冬馬君。今日、誕生日だったわね。
私が言うのもなんだけど、おめでとう」
その時、初めて自分の誕生日だったのを気が付いた様子の若社長に、私は悔しくてたまらなくなった。
私が今日一番最初にお祝いを言いたかったのに。
牧田さんも驚いた様子だったので、きっと会社でもその話題は出ていなかったのだろう。
女の人の後ろ姿を追っていくと、廊下に置かれたソファーの前で立ち止まった。
そこに座ってゲームをしていた小さな男の子に話しかけると、その子は弾かれたように立ち上がり、女の人の差し出した手を取って、一緒に帰って行った。
息子さん、なのだろうか。
あの女の人の指に指輪があったのか、見ておけばよかった。
他の男の人のものなのに、若社長にちょっかいをかけるなんて、嫌な女。
私の方が、可愛いもの。
ピンク色のニットを押し上げる豊かな胸も、白いタイトスカートから伺わせる形の良いお尻も、物憂げな艶めく唇も、持っていないお子様な私だけど、少なくとも可愛いことに関しては負けていないはずだ。
それは子供っぽいと言いかえることが出来るけど、それにはそれの良さがある……と思いたい。
とにかく、あの人に、負けたりなんかしない。
胸だって、絶賛成長中なんだから!
だから、私の姿に気が付いた若社長には、何事もなかったようにニッコリ笑った。
若社長も同じように笑いかけてくれた。
見られたのを気が付いてないのか、見られても構わないと思っているのかは分からない。
なんだか化かし合いをしている気分にもなる。
ここは『ほうれんそう』の出番かと、頭を過ったが、言えなかった。
まだ聞けない。
このことを尋ねあうだけの関係には、残念ながら至っていないのだ。
気持ちを鼓舞させるために、無理やり明るく朗らかに振舞った。
あの陰鬱そうな女の人に勝つためには陽気である必要があると思ったからだ。
この病院で、私は何度、気持ちを切り替えたことだろうか。手慣れたものである。
母は騙されたフリをしてくれたけど、若社長はどうなのかしら?
その顔からは、判別出来なかった。
牧田さんを置いて、若社長は私を庭に連れて行った。
「寒いのにごめんね。
でも……ここがいいでしょ?」
チラッと牧田さんを見て、若社長は苦笑した。
秘書室長は興味津々でこちらを見ていた。
下手すると窓ガラスに顔をくっつけてしまいそうだ。
「はい! ……会えて嬉しいです」
くしゃみが出てしまい、慌てさせてしまった。
温かい缶ココアを手渡された。
頬に押し付けると、温もりを感じた。
「久しぶりだね。ちゃんと勉強してた?」
「してましたよ! 志望校もA判定を取ってます! その話は電話でも何度もしたじゃないですか」
まったく! 早くこの鬱陶しい受験生という立場から脱却したい。
今はそんなことを話したいのではない。
「そんなことより!
お誕生日おめでとうございます!!」
自分史上、これほど他人の誕生日を祝福したのは初めてだ。
だって、生まれてきてくれたから、私も出会えたのだから。
私にとっても記念すべき日だ。
若社長はまるで、今日、初めてそのセリフを聞いたように驚いて、笑った。
「そうか……ありがとう。
嬉しいよ。とても、嬉しいよ。
こんなに生まれてきて良かったと思った誕生日はないよ」
「そ……そんなに……」
あの女の人との邂逅を見なかったら、もっと素直に喜べたかと思うと、むくむくと黒い霧が心の中を覆う。
「あの、でも、何もプレゼントは用意していないのです。
忙しい中、時間を作って下さったのに、本当にごめんなさい」
「物はいらない。
君のその言葉を言う、その姿があれば十分だよ。
俺も……会えて良かったよ。
真白ちゃんがもっと我儘だったらいいのに」
「えええ!! 私、すっごく遠慮してたのに!」
「そうだと思った。
君って本当に頑固だし、負けず嫌いだよね。
絶対に自分から折れないんだから」
久々に会ったのに、なにか酷い事を言われている気がする。
「だから、今日、会えることになって、喜んでいるのは君より俺だよ。
これも用意していたんだ。受け取ってもらえる」
また何をくれるのだろうと思ったら、今度は『お守り』だった。
『合格祈願』と書かれた、由緒正しい勉学の神様のお守りだ。
大変ありがたいものだし、心遣いだけど、何か違う。
「初詣でも、君の合格をお願いするから、頑張ってね」
私の複雑な心中をそっちのけで、若社長は本気で応援してくれた。
「はい」
もともと、励まして欲しいという理由で呼び出したから、若社長にしてみれば当然の流れなんだけど、やっぱり何か違う。
もう少し、恋人っぽいことをしたいと思うのは、私の焦燥感のせいなのかもしれない。
あの女の人よりも、若社長の心の中を占める割合が大きいって、思わせて欲しいのに。
「真白ちゃん? 大丈夫? もう寒いから帰ろうか?」
「嫌です!」
「えっ??」
「あ……ごめんなさい。
寒くはないです。
これ! 若社長がくれたマフラーがありますから。
とても暖かくて、嬉しいです。
ありがとうございます」
このままではあっさり別れてしまう。
幸い、会話のネタはまだまだたくさんある。
「そう? 良かった。
君に似合うと思って……白もいいけど、桜色も真白ちゃんの雰囲気に合うような気がして。
どうしてかな?」
「ここだけの話、桜は私の花なんです」
若社長からこのマフラーを貰った時、まさに私はそのことを思って、嬉しかったのだ。
大抵の人は、私の名前を聞いて、冬生まれと誤解する。
雪が降った日に生まれたんですか?と聞かれることもある。
「でも違うんです。
降ったのは雪じゃなくって、桜の花びらなんです」
若社長からもらった大事なマフラーを慈しむように撫でる。
最高級カシミアなだけあって、暖かさもさることながら、触り心地にうっとりする。
よく見ると、もしかして、若社長のマフラーとお揃いなのかもしれない。
あっちは濃いグレーで、どちらも柄無しのシンプルな作りだから、お揃いと言っても、そうは見えないけど。
もし、そうなら、ますます嬉しい。
「桜?
そういえば、真白ちゃん、三月の末生まれだったね」
「……! そうなんです! 知ってたんですか!?」
驚いた。
自分の誕生日に頓着しない人が、他人の誕生日に興味を持つなんて。
「履歴書を……『妖精』プロジェクトの時に提出してもらっただろう。
それでいつ、十八歳になるのか気になっ……いや、なんでもない!
続けてくれる?
君の名前は桜が由来なの?」
若社長の頬も私と同じように寒さに赤らんでいた。
「はい。私が生まれた時、父は一旦、家に戻っていたらしいんです。
それで病院から呼び出しが来て、慌てて駆けつける最中に、有名な桜並木を通ったんです。
その年は開花が早くて、しかも暖かい日だったから、一気に咲き揃っていて、父は感動したそうです。
桜なのに真白なのは、父の目には白っぽく見えたから……だそうです」
「そうなんだ。
俺も最初はてっきり、同じ冬生まれだと思ってた。
でも、春生まれだから、どうしてかなって気にはなったんだ。
そうか、真白ちゃんは桜の妖精なんだね」
さらりとすごい台詞を吐きながら、私がいじりすぎて乱れてしまったマフラーを直してくれた。
花火大会の時と逆だった。
逆だから、私は若社長にそれ以上、近寄れなかった。
「父もそう言います。真白は桜の妖精だって。
自分で言うのは……恥ずかしいんですけど」
「そう? 初めて君のお父上に同感だけど」
ニコニコと無邪気にすら見える男の人の顔に、なぜか突然、腹立たしくなった。
そんな甘い言葉を、あの女の人にも言ったのだろうか。
「本当は妖精じゃなくって、妖怪だと思っているくせに」
いじけて俯いた私の顔を、若社長が覗き込んだ。
「そう言うけど、妖怪も妖精も、俺にとっては同じものだよ。
君なら知っているはずだ。
おそろしい妖精もいれば、美しい妖怪もいる」
「そう……ですけど」
寒いせいか、いつになく若社長の息を熱く感じる。
「じゃあ、言い直すよ。
真白ちゃんは真白ちゃんだ。
妖精でも妖怪でもない、可愛い人間の女の子だよ」
甘い声で囁かれる甘い台詞に、とろけてしまいそうだ。
貰った缶ココアを両手で強く持つ。
「三度目ですね」
「え?」
「私のこと、可愛いって言ってくれたの、三度目です」
『妖精』プロジェクトのお披露目の時に励ましてくれた「行っておいで、俺の可愛い妖精さん」と、あの夜の「こんなに若くて可愛いのに、俺みたいな人間に捕まるなんて」の二回に、今のを加えると、そうなる。
「大事な可愛い娘」とか「可愛い女の子の写真」とか、私に対するものか、判別しにくいのは数に入れないことにする。
そのことを暗に指摘すると、若社長は激しく動揺した。
「俺、そんなに言ってた!?」
顔をあげるといつの間にか私から離れた若社長が、口を手で押さえて、横を向いていた。
その反応は私には予想外だった。
強いて『可愛い』と言わない様にしていたのだろうか。
「私に言わせれば、それだけしか、です。
お世辞でも、可愛いって言って欲しいのに!」
「……無理だよ」
若社長に拗ねたように言われた。
それが、真に迫った言い方だったので、私は自分が自惚れていたのかと思った。
「ごめんなさい。
そんなに可愛くないとは……思わなくって」
「謙遜もいきすぎると嫌味になるよ、真白ちゃん」
こちらに向き直ると、今度は怒ったような顔になった。
「もう言わないからね。
約束の日がくるまで、絶対に、思ってても言わない」
余計なことを口にしてしまったと後悔しても後の祭りだった。
こうまで強く決心させたら、当分、若社長から『可愛い』とは言ってもらえそうにない。
若社長は意地悪だ。
くしゃみが出た。
「ほら、今日はもうこれでお仕舞。
送っていくから、早く家に帰って暖かくして勉強するんだ」
ほら、やっぱり意地悪。
折角会ったのにもう終わりにしたくてたまらない彼に、あからさまに不機嫌な様子を見せてしまった。
「真白ちゃん、フグみたいな顔になっているよ」
「もう! 若社長って、たまにデリカシーに欠ける発言しますよね!」
「ごっ……めん。
でも、君の身体の為なんだよ。
あ、風邪を引くとか、そっちの意味だからね!」
他にどんな意味があるって言うのかしら。
言うことを聞かないで、風邪でも引いたら、そらみたことかと大人面されるから、帰ることには同意しよう。
「分かりました。……若社長?」
「何?」
すでに背を向けかけている彼を呼び戻す。
「出過ぎた真似かもしれませんが、今日は本邸に帰ってあげて下さい。
珠洲子様も、みなさんも、若社長の誕生日をお祝いしたいはずです」
若社長がじっとこちらを見るので、不愉快にさせたかもと危うんだが、杞憂だった。
「そうだね、母に会って、礼を言わないとね」
「?」
「言っただろう。
こんなに生まれてきて良かったと思った誕生日はないって。
そう思うと、あの忌々しい父親にすら感謝の念が湧いてくるから、怖いね。
前言撤回。やっぱり、君って妖怪かも」
ひときわ寒気を感じたように、若社長は多分、私とお揃いのマフラーを巻きなおした。
それから、「真白ちゃん、自転車は牧田に運転させて、一緒に帰らない?」と誘惑してきたので、「それは駄目です。もし、牧田さんが風邪をひいたらどうするんです。若社長の仕事は滞るし、正月休み中、寝込まれたら牧田さんの恋人にも恨まれてしまいます」と断った。
来た時よりも浮かれた気分ではなかったけど、帰りの道もそれなりに幸せだった。
あの女の人のことは取りあえず、棚に上げておくことにした。
とにもかくにも、見事、志望校に合格してみせなければ、若社長との会話の発展のしようがない。
それから高校を卒業して、私の誕生日を迎えて……話はそれからだ。
でも、絶対に負けたりなんかしない。
私の方が若社長のことを好きだし、幸せに出来る。
あんな辛そうな顔を、彼にさせない。
思いが暴走しすぎて、つい初詣の願掛けに、合格ではなく、打倒! あの女の人! を願ってしまった。
ほんの、出来心だったのだ。
恋に目がくらんだ馬鹿な女の子が、つい、自らの欲望を抑えきれなくなっただけなのだ。
だけど、そういう人間の欲に、神様は厳しい。
罰が当たったのだ。
そうでなかったら、信じられない。
それでも早起きして備えた、受験当日。
窓の外の世界は真っ白だった。
桜ではない。雪だ。
あの『妖精』プロジェクトのお披露目の日を思い出す、それほど強くない雪だったが、この地域の交通機関が乱れるには十分な量だった。
それでも、同じ地域の、同じ受験日程の、私と違って、敬虔で日頃の行いも良い受験生達には、なんとかなる程度ではあった。
しかし、私にはもう一つ、厄介事が舞い込んできた。
他でもない、父だ。
引っ越して以来、父はテレビ出演を減らしていた。
雑誌にもエッセイやコラムを掲載し始め、文章を書く仕事を増やしていった。
そして、部屋に籠っては、何かを必死で書くようになった。
それは思うようにはいかない苦しい作業のようで、戸田さんとも何度も話し合い、時には互いに大きな声を出すこともあった。
でも、父も戸田さんも、これまでにない、充実した様子だった。
いつ起きて、いつご飯を食べているか分からない父と、受験生の私は、同じ家に住んで居ても顔を合わせない日もあった。
引っ越して、私自身も独立した部屋を持つことが出来たせいもあるけど、それ以上に、親子で別の目的に向かって、邁進しているせいだった。
顔は会わせなくても、どこかで励まし合ってきた。
そんな父が、私の受験当日、赤い顔をして、部屋から出てきた。
手には原稿があった。
「これを出版社に届けてくれないかな」
「ええええええ!! 今から?」
「そう……それか、近くのコンビニで、一枚づつFAXしてきてくれる?」
我が家にはFAXは無い。
ネット環境は導入したが、スキャナはまだ無かった。
いつもは戸田さんが父が万年筆で原稿用紙に書いた原稿を受け取りに来て、パソコンで清書してくれるのだ。
「私がパソコンに打ち直して、メールか何かで送ればいいんだけど……真白、お父さんは熱があるみたいなんだ。
昨日の夜から寒気がして、今は身体中が痛い。
とても机に向かっていられないのを、なんとかこの原稿だけは仕上げた。
校正のこととかを考えると、今日中に処理を始めないと締切に間に合わないんだ。
頼む真白、この原稿は、私の人生を賭けた大事な原稿なんだ」
父の症状に、インフルエンザの疑いを持って、私は思わずマスクを付けた。
「戸田さんは?」
「昨日からインフルエンザで寝込んでいる」
やっぱり、インフルエンザじゃないのーーー!!
私は息を吸わない様に、心の中で叫んだ。
この雪と時間ではバイク便や出版社の人に頼んで来てもらうよりも、走って持って行った方が早い。
原稿の分厚さを見ると、FAXよりも、まだそっちの方が早い。
時計を見る。
私の人生と父の人生の二つを同時に救うには、今、出掛けるしかない。
桜色のマフラーを取り上げると、しっかりと首に巻き、外に飛び出した。
運良くチェーンを巻いているタクシーを見つけ、乗せてもらう。
雪の予報は昨日から出ていたし、早朝の道路はまだすいていた。
キュルキュル鳴るタイヤを聞きながら、思ったよりも早く出版社につけたのは、母が守ってくれたのだと思う。
お母さん、こんな愚かな娘でごめんなさい。
もう決して、他人を羨んだり、ひがんだり、うぬぼれたりはしません。
ただ一途に若社長のことを想って、愛してもらえるようになります。
私が悔い改めながら、ビルの中に入ると人気の少ないロビーに若社長が立っていた。
まるで地獄からやって来た獄卒みたいな怖い顔だった。