7-5 父と買い物
若社長と私は、磁石みたいだ。
近づくとくっつきたがるから、磁力が及ばない距離にいないといけない。
それなのに、私の引っ越しの日は、なかなか決まらなかった。
物件はすでに押さえてあるのに、父がその部屋に置く家財道具に拘ったせいで、なかなか入居の日が決まらないのが問題だった。
今や小野寺家の若様と判明した私の父は、その生まれ育ち故か、『良いもの』に拘る傾向が強くあった。
これまでの部屋でもそうだったのだけど、さらに広く大きくなった部屋に、どんな家具を置くか、どんな食器を増やすかで、若社長と相当やりあうことになってしまった。
若社長は父のことが苦手だと私に溢すようになったけど、それでも、なにくれと面倒を見るのは、もう彼の人の良さとしか思えない。
そう言うと、「違うよ、真白ちゃんの為だよ」と返されるけど、会話のほとんどは電話越しなので、特に困ったことにはならない。
顔が赤くなったのも気づかれないし、抱きつきたい衝動は、手近のぬいぐるみで済ませられる。
でも、どんなに恥ずかしくて困ったことになろうとも、若社長と向かい合って、その声を直接聞いて、息遣いを感じる以上のことはないのだけど。
『いっそ、昔使っていた家具を小野寺の本邸から持って行ってくれ! と叫びたくなったよ』
今夜も、若社長の苦りきった声が電話越しに聞こえる。
私もいつ出て行かなければならないかもしれないことを考えると、余計なものは増やしたくなかった。
若社長は何度目かの交渉の末、父に一気に買い揃えるのではなく、ゆっくり好みにあったものを探して徐々に増やすことを提案……懇願して、受け入れらた。
収納は造りつけで取りあえず間に合う量だ……何せあの狭い部屋に住んで居た訳だし……食器もそれこそ父が厳選したものがある。
必要な家具として、父のベッドとダイニングテーブル、そして、私のベッドと学習用机を買い足す、と言うことになったのだ。
あの父が人に譲歩するのは、久々に見た。
『正体はバレてるぞ! って言ったら、父は驚くと思いますか?』
私達は、そんな父の正体を知ったのだけど、そのことを、知っていると言う事実を本人に伝えることはしなかった。
夏樹さんが示唆したしたように、父と祖父にあたる小野寺の大社長との仲をなんとかしなければならないのだが、その為にも、時期を見る必要がある、と言うのが暗黙の了解としてあったのだ。
『あの人のことだから、もう勘付いていると思うよ。
妖怪みたいな人だから……って、ごめん、君のお父さんなのに』
若社長はどうあっても、私達親子を妖怪扱いしたいようだ。
けれども、それは悪い意味ではない。
若社長の妖怪は、ジャン・ルイ・ソレイユの言う妖精と似ているのだろう。
自分の価値観を揺るがし、新しい視点を与える存在……自分でそう思うのは気恥ずかしいけど、私はそれ以上に、父が若社長にどんな影響を与えているのかが気になった。
『いいえ……そういう若社長は、母にちょっと似ています』
『へ? お母さん? 君の?』
若社長が動揺しているようだ。
『そうです。なんだかんだ言って、父をまるめこめるのは、母だけだったんですよ』
電話の向こう側で、困ったなぁと言うため息を感じた。
大人の男の人をからかうのは悪い気もするけど、顔が見えないと、私は大胆になるようだ。
反応だけ聞くと、子供みたいなのも、密かに嬉しい事実だった。
『本当は若社長がそんなに頑張らなければいいのにって思ってました。
出来ればずっと、若社長と同じ屋根の下に居たかったのに。
若社長が率先して私の引っ越しを決めてしまったんですね』
『真白ちゃん』
『説教はお断りです。
分かってます。父の元へ帰ります。
若社長がきちんと迎えに来てくれるまでは、そこで大人しく待っています』
同じ屋根の下に住んで居るのに、気兼ねなく会話出来るのは電話だけと言う有様だけど、それでも、一日の内、必ず顔を見られるのは大きい。
引っ越してしまったら、いつ会える日がくるのだろう。
この説教好きな大人の彼は、私の受験が終わるまで会わないつもりかもしれない。
そんなの耐えられるかしら?
もし、週刊誌のゴシップ記事の中に顔を見ることになったら、とても悲しいだろう。
『毎日……えーっと、君が望むならいつでも電話するよ』
束縛が嫌いな若社長は、毎晩、こうして電話するのも気になるみたい。
『私は嬉しいです。
でも、疲れている時は無理しないで下さいね』
私も遠慮してしまう。
思うような関係が築けないのがもどかしい。
『平気だよ。
正直、君の声を聞くと、疲れが軽くなるよ。
抱きしめられたら、疲れも吹き飛ぶ心地良さなんだろうけどね。
――真白ちゃん? もしもし? ……分かった? 大人をからかうからだよ』
負けた。これはさっきのお返しだ。
どうしたって若社長の方が上手なのだ。
『子供をからかうのは卑怯です』
『それは置いといて――』
ここぞとばかりに子供を全面に押し出して文句を言ったら、華麗に無視されてしまった。
『聞いてる?』
『聞いてます』
『真白ちゃん、明日も学校に行くの?』
『そのつもりですが……』
本邸にいると、私がどうしても紅子ちゃんと緑子ちゃんを構ってしまうと言う理由で、瑠璃子さんが二人の子を連れて実家に帰ると言い出した。
秋生さんは瑠璃子さんと子供達と一緒についていくか、いっそ家族旅行に行くべきか計画を立てたのだが、仕事が立て込んでいてどちらも出来なくなった。
それに慌てたのがなぜか若社長で、それならば私を東翼に戻すように要求した。
一人西翼に残されることになった秋生さんは、ただでさえ不満の上に、兄の態度にさらに憤慨することになって、あの夏樹さんがうろたえる事態になってしまったのだ。
それで、私が外に出ることになった。
夏休みも後半になり、学校の自習室が開くようになったので助かった。
本邸と高校の間の往復なら、外に出るのも安全だろうし、いい加減、こもりっきりでは良くないと、相談の結果だった。
ただ、学校に行くために、制服を取りに家に戻るのは止められたので、父に頼んだら、なぜか、厳重な梱包が幾重にも施された状態で若社長が預かってきた。
おかげで、中身を取り出すのに、随分、骨を折った。
おまけに、開けてみれば必須であるスカーフは入ってないし、夏だと言うのに、替えもなかった。
いくら冷暖房完備の小野寺邸と高校の往復とはいえ、それでも汗はかくだろう。
毎日、洗濯して乾かさなければ、次の日に着る制服がなくなってしまう。
それでも、やっとの思いで取り出した制服に袖を通すと、安心した気持ちになったのだが、夏樹さんに「これで毎日服を考えずに済むと思ったら甘いよ。夜の食事の時には制服以外だよ。正装だからって許さないからね」と釘を刺さされた。
そうは言いながらも、父が入れ忘れた黒いスカーフと、替えの制服、そして、指定とほぼ変わらない靴下と靴まで用意していたらしく、手渡してきてくれた。
私が訝しげに見つめると、夏樹さんは心外そうだった。
「俺、一応、志桜館のOBだから、伝手があるんだよ。変な趣味がある訳じゃないからな」
そういう趣味があるのは、若社長かもしれない、と思ってしまったのは、制服を着た私の姿に嬉しそうだったからだ。
でも、それはとんでもない勘違いで、むしろ反対だった。
学校に行くのに、井上さんが若社長と一緒に車で送ってくれることになったのだが、後部座席に並んで同乗することになっても、まったく色っぽい空気にならなかった。
朝だし、井上さんが居るし、当たり前と言えば、当たり前なんだけど、私が高校の制服を着たことで、若社長の心の中で、一線を作りやすくなったようだ。
そんな中、『突然で申し訳ないのだけど、明日は学校に行くのは止めて出掛けない?』と言われたら、『若社長とですか!?』と、期待してしまうのは仕方がないだろう。
そんなこと、ある訳ないのに、喜色に満ちた声で聞いてしまう。
『……いや、家具を買いに、君と、君の父上と編集の戸田さんとで、お店に行かないかってこと。
君の父上の予定が空いているのが、明日なんだって』
それならそうと、最初から言ってくれればいいのに。
さっきのセリフでは、わざと誤解させたかったのではないかと邪推してしまう。
若社長は時々、意地悪なのだ。
『分かりました。
出掛けるついでに、家に戻りたいのですが』
ガッカリさせられたから、このくらいのお願いは聞いて欲しいのに、若社長は躊躇した。
『お願いです。
このままじゃ、私抜きで引っ越しの作業が始まってしまいます』
私の焦りを相手は理解出来ないようで、『君がいなくても業者さんがきちんと梱包も運搬も、新しい部屋への設置もしてくれるよ。掃除だって、お任せだよ』と呑気だ。
だから、説明しなくてはならなかった。
女の子には、他人には見せたくないし、触られたくない荷物があることを。
『若社長も父も、女子高校生の繊細な心情に無頓着すぎます!』
怒ったら、電話の向こうから笑い声がする。
『俺が女子高校生の生態に詳しかったら、嫌だろう?
でも、その通りだね。
家具屋さんの帰りに、家に戻れるように手配しておくよ』
手配ってなんだろう?
あの事件からそろそろ一か月も経とうとしているのに、まだ家の周囲はうるさいのだろうか。
そんなので、夏休み明けから、元の生活に戻れるか不安になる。
『若社長は明日もお仕事ですか?』
『うん。怪我が治るまで早出も残業もしないことになっているから。
その分、勤務時間中は真面目に働かないとね』
怪我を理由にしているけど、若社長が普段は長居しないと言う本邸に居続け、早朝出勤を止めて私の通学時間に合わせて出勤してくれたり、帰宅も夕飯に合わせてくれるのも、全部、私の為だと思いたい。
『お仕事頑張って下さいね。
私は明日、なるべく父が散財しないように見張る、と言う重要な仕事をしてきます』
『ああ、君も頑張ってね。
でも、自分の家具は思い切って好みを主張するんだよ』
『はい! 今使わせてもらっているライティングディスクみたいな可愛いのを選んできます』
若社長は同行しないけど、久々のお出掛けに、楽しみになったのは確かだった……のだけど、あんまり長く外という外に出ていなかったせいで、妙に人目が気になってしまった。
家具屋さんでもすれ違う人や、店員さん達に見られている気がしたし、食事中でも同じだった。
おかしな服装をしてきてしまったか、気になった。
今日は白いノースリーブのブラウスに、スカートが鮮やかなピンク色なのだが、柄が、朝の出掛け、若社長に「珍妙な柄だね」と評されたインコ柄なのだ。
『珍妙』って何?『珍妙』って。
私はすごく可愛いと思ったのに。
燕柄の浴衣を着て以来、鳥柄にハマっているのだ。
夏樹さんも、妙に鳥柄の服を持ってくる。
だったら、フラミンゴ柄のワンピースにすれば良かったかな、と思っていたら、周囲が一段と賑やかになり、父がサインを求められていた。
なぜか私にまで握手を求められ、困惑していたら、相手が突然、青い顔をして去って行った。
私の後ろにまるでクマでもいるみたい。
幾ばくかの希望を込めて振り向くと、そこにはクマがいた。
と言っても、若社長よりも年を取っていて、父や井上常務と同じくらいの男の人。
眼光がするどく、オールバックの髪型も相まって、とても怖そうに見えた。
「驚かせて申し訳ないですな、真白お嬢様。
私は武熊と申すものです。
小野寺の家で、警備を担当しております。
本日は冬馬様からのご依頼で、真白お嬢様をお守りするべく、参りました」
戸田さんは怖気づいていたが、父は平然としていた。
武熊さんの隣には井上さんも居て、ああ、この人も父の知り合いなんだな、とすぐに分かった。
「はじめまして……ですよね?
邸内でお見かけしていたら、ごめんなさい」
こんなクマっぽい人、もし見かけていたら絶対に忘れないと思ったけど、そう言った。
「いいえ、私はあまり表には出ない人間なので。
真白お嬢様にとってははじめましてででしょう」
つまり彼は私を何度か見かけていたのだ。
全然、気が付かなかったけど。
「こんな怖い顔の人間が側に居ては真白お嬢様は心休まらないでしょうが、今日は、特別、お側に侍ることをお許し下さい」
「そ、そんなことありません!頼りにさせてもらいます」
武熊さんの遜った言い様に、私は動揺してしまった。
こんなに立派な人が、私みたいな小娘に、そんな風に言うものではないし、いくら父の娘だからって、そんな風に扱われる所以もない。
「……若社長が頼んで下さったのですね」
「はい。左様でございます。真白お嬢様。
ご期待にそえるように、微力ながら尽くさせていただきます」
「よ……よろしくお願いします」
いちいち大仰な言い方の人だ。
もしかして、そういう性格なだけなのかもしれない。
武熊さんと一緒に歩いていると、人目は感じたままだけど、不躾だったり興味本位なものが少なくなって、苦にはならなくなった。
おかげでゆっくりと、若社長も父も思いつきもしなかった細々としたものを買い足した後、自宅に帰ることが出来た。
しかし、そこで問題が起きた。
あの狭い部屋に、父、戸田さん、井上さん、そして武熊さんがひしめき合うことになったのだ。
私が使っていた部屋は玄関を入ってすぐだったので、奥の父の部屋に行ってもらうのも、なんとなくおかしいし、かと言って、大の大人四人が見る中、自分の物を荷造りするのはためらわれた。
すると、武熊さんが、自分の車から運んできた白い紙袋を父に見せた。
「冬馬様より、ご近所に引っ越しと、これまでお世話になった礼をするようにと、粗品を預かってきています。
真白お嬢様は私がお守りしますので、どうぞ、行って来て下さい」
父は嫌そうな顔をしたが、戸田さんはもっともだと頷き、若社長の気遣いに素直に感動していた。
井上さんも父に倣ったが、それでも、礼儀を失する人ではなかった。
「真白はこんな熊男と二人になって怖くないのか?」
「ちっとも怖くありません……クマっぽい所が、ちょっと若社長に似ています」
言ってしまってから、しまった、と思った。
井上さんと戸田さんは目を丸くしたが、父は面白そうに笑った。
武熊さんの表情は変わらなかった。
「私は外に居ますので、ご用の際はお呼び下さい」
玄関のドアの前に仁王立ちする武熊さんを想像すると、近所の人たちが別の意味で私に何かあったのかを邪推されそうだったが、そうしてもらえると有難いことには違いなった。
とにかく急いで、下着とか服とか、姫ちゃんとの交換日記などを持って来た段ボールに詰め込んだ。
ついでに、自分の分の黒いスカーフと制服の替えを別のバッグに詰めた。
そうそう、冷凍庫にしまったままの、若社長に貰ったチョコチップクッキーも。
これは、解凍して、もったいないけど、今日中にこっそり食べてしまおう。
父は存外、丁寧に近所に挨拶してきたらしい。
教科書類や文房具も段ボールに放り込む余裕まであった。
これで一安心した私は、結局、自分の家の引っ越しだと言うのに、それ以上、何も手を煩わせることなく、新居に移った。
夏休みは終わり、新学期が始まる前日のことだった。
それからは、私が心配してた通りの展開になった。
若社長は傷が治ったから、と、すぐさま、自分のマンションに帰って行った。
夏樹さんも「冬兄はあからさますぎるよね」と言いつつ、自分も自らのマンションに戻ったようだ。
残された秋生さん家族は、そんな訳で、それまで大家族だったのが、いきなり縮小したせいで、紅子ちゃんと緑子ちゃんが寂しがるようになった。
そんなこともあって、私は隔週の土日のどちらかは小野寺の本邸にお呼ばれされるようになった。
秋生さん夫婦は、私と若社長の仲を推進する派なので、子供をダシに私を呼び寄せてくれているのだが、肝心の若社長がまったく本邸に寄りつかないのだ。
「真白ちゃんが居れば、来ると思ったのに」
瑠璃子さんはそう不思議がったが、私はむしろそのせいで、若社長の足が遠のいたのではないかと踏んでいた。
秋生さん夫婦は若社長には内緒で私を呼ぶようになったが、私本人が、若社長に電話で教えるので、意味がなかった。
私も若社長に会いたい、顔を見たいと望んではいるものの、予約の恋人の君は「うん」と言ってくれないのだ。
これまでにも、若社長に会えない日々はあった。
その度に、私達の仲は深まったような気がする。
だから、今度の別離もそれほど深刻には考えず、むしろ、良く捉えようとしていた。
少なくとも、電話とメールは欠かさずあるのだから。
受験が近づくにつれて、短く短く切りつめられた挙句、勉強の心配しかされなくなっても、構わなかった。
前向きではあった。
でも、季節が巡り、やってきたクリスマスにも会えないなんて残念すぎた。
小野寺出版主催の毎年恒例のクリスマスパーティーも、「人混みに入って、インフルエンザにでもかかったらどうするの?もうすぐセンター試験なんだよ」という、至極、まっとうな理由で招待されなかった。
本邸で行われた、紅子ちゃんと緑子ちゃん主催の小さなパーティーにはお呼ばれした。
そこで、私は若社長が用意していたクリスマスプレゼントを瑠璃子さんから受け取った。
可愛い包みを開けると、上質のカシミアで作った桜色の大判のマフラーが入っていた。
それを見た私に喜びを、どうやって伝えられるだろうか。
あらかじめ、どんな些細な時間もお金も、自分の為に使ってはいけないと言われていたせいで、私は若社長へのクリスマスプレゼントを用意していなかった。
出来ることと言えば、電話でお礼を言うくらいだ。
けれども、それだけで済ますのは、どうしても出来なかった。
せめて、直接、お礼を言いたい。
しかも、しかもだ。
小野寺秋生が秋生まれならば、小野寺夏樹は夏生まれ。
そうなれば、小野寺冬馬は、当然、冬生まれなのだ。
本人には内緒で、秋生さんに若社長の誕生日を聞いていた。
「兄さんは十二月二十六日生まれですよ。
小さい頃はよく、自分の誕生日なのに、俺達の為に、自分で稼いだ少ないお金で、どこから探してくるのか、半額以下になったクリスマスケーキと、ちょっとしたプレゼントを買ってきてくれて、一日遅れのクリスマスパーティーを開いてくれたものです」
私はどうしても、その日に会いたいと強く願った。
『どうしても駄目ですか?
ちょっとだけ、五分でいいんです』
『クリスマスプレゼントのお礼は電話で十分だよ。
こんな寒いのに、あちこち出掛けないで、家に居なさい。
風邪ひいたらどうするんだい』
若社長は自分の誕生日だって、全然、気づいている様子が無かった。
『冬休みですけど、学校には行っているんです。補講があるので。
だから、帰りに少しだけ』
『真白ちゃん』
弱りきった声だ。
困らせている。
でも、もう一息の気もする。
『励まして欲しいんです!
受験頑張ってねって、言って欲しいんです。
そしたら、受かる気がするんです!!』
『……分かったよ。少しだけね』
自分のことだと断るのに、私の為になりそうなことは躊躇いながらも承諾してくれる。
若社長の優しさにつけ込んでいるようで、と言うか、つけ込んでいるんだけど、申し訳ない気分になる。
が、それとこれとは話は別だ。
『明日、病院の検査の日なんだ。
傷はすっかり塞がったら、もう行かなくてもいい気がするんだけど、念の為。
これで最後らしいから、行ってくるよ。
その時、会社を抜けるから、会えるよ』
会社以外で会えるなんて思ってもみないことだった。
あそこは上から下まで知り合いが多すぎて、余所行きの会話をしないといけないかもしれないと危惧していたから。
『ただし、病院だからね。ちゃんとマスクをしてくるんだよ』
『はーい!分かってます』
私は正直、とても浮かれていた。
クリスマスだもの。一日遅れでも、きっといい事があるに違いないと思っていたのだ。