7-4 『家族』で花火大会
私を迎え入れてくれた永井さんは、鮮やかな蝶々が舞い踊る黒地の浴衣を着ていた。
一連の事態を詫びると、とんでもない、と明るく笑ってくれた。
ただ「雨宮一を呼んだのだけは、ちょっと……おかげで、秘書室長が彼女と来るのを取り止めちゃったの」と声を潜めた。
「あのハイスペックな男に彼女さんを見せたくない気持ちは、すごーくよく分かるわ。
でも、うちの社長と違って、女の子には手堅いらしいから、そんな心配する必要はないと思う……のよね」
余計な事を言ったと思ったのだろう、語尾が尻すぼみになった。
当の雨宮兄妹はお付き無しで、少なくとも部屋には入れずにやってきた。
妹の姫ちゃんは、青鈍色の紫陽花柄の浴衣に薄紅色の帯を締め、兄の一さんも銀鼠色の縞の浴衣を粋に着こなしていた。
若々しく華やかな顔立ちの二人には、地味な色味はむしろバランスが取れていた。
秋生さんも、夏樹さん、牧田さんの男性陣も浴衣を着てやって来た。
となると、期待したように、若社長も浴衣を着て来てくれた。
茶系の浴衣だったので、初めて会った時みたいにクマっぽいけど、それはそれは素敵だ。
ただし、金魚のような帯をヒラヒラさせた、それぞれ白地に赤と緑の花柄の浴衣を着た二人の姪っ子と、小さい子の中で流行っていると言うアニメのキャラクターが描かれたピンクの浴衣を着た東野部長の娘さん・岬ちゃんにすぐさま見つかり、まとわりつかれ、引き倒され、のしかかられ、その花たちの間に埋もれてしまったので、よく観察出来なかった。
小さい子相手に情けない話だが、悔しくなった。
だって、あんな風に若社長にベタベタ触っても、反対に若社長が抱き上げたり、可愛いねと褒めたりしても、周りはちっとも気にしない。
微笑ましい風景として処理してしまう。
三人は子供なのだから、男女のそういう目で見られることはない。
もし、見る人間がいたら、そちらの方が歪んでいる。
同じ子供なのに、私は中途半端だ。
子供扱いされているけど、夏樹さんに語ったように、結婚出来る年には達している大人でもある。
まるっきりどちらかであったら、若社長も対応に困ったりしないだろうに。
そうは思っても、では五才の子に成り替わりたいか? と聞かれれば答えは否である。
十七才でも年若いと悩んでいるのに、これ以上若返ったらたまらない。
あと一年もすれば、さらに大人としての義務と権利が科せられる立派な大人になっている。
約束の一年だ。
そうすれば、若社長への世間の目も厳しいなりに緩むだろうし、私も……もっと覚悟が出来ている……と思いたい。
はぁ、あんな風に、ただじゃれついてみたいと望むのは、まだ大人になりきれていない子供だからなのだろう。
瑠璃子さんを台所で手伝いながら、私はひそかにため息をついた。
「ごめんなさいね、うちの子達が一人……じゃなくって三人占めしちゃって」
大きな薔薇柄の浴衣は大人の彼女にとてもよく似合って、ここでも羨んでしまう。
私ときたら、とんだ焼きもち屋だ。
しかも、バレている。
「いえ! そんな……これ、持っていきますね」
若社長の居るリビングには行かないように、台所に籠っていたのに、わざわざ料理の皿を持って出て行ってしまった。
部屋の中の人間は何組かに分かれていたけど、雨宮一だけが一人、ポツンとソファーに座っていた。
誰も雨宮家の御曹司に敢えて近づこうとしなかったのだ。
私の判断は間違っていたかもしれない。
彼を呼んでしまったせいで、みんな遠慮させた揚句、一さんも居辛い気持ちにさせているのではないか。
あの中華料理屋さんの自慢のエビチリをテーブルに置くと、声を掛けてみる。
「ここのお店の料理はすごく美味しいんですよ。
良かったら、花火が始まる前に食べて下さい
始まったら、花火に夢中になってしまうかもしれないでしょう」
そう言いながら、姫ちゃんの方を向く。
姫ちゃんはひまわり柄の浴衣を着たリサから宿題の進捗状況を問い詰められていて、兄の様子に構う余裕はないようだ。
ついでを装って、小さな三人娘にも料理を勧める。
彼女達にはエビチャーハンとか、天津飯と言った、ご飯ものを用意していた。
小皿を取りに戻ろうとしたら、一さんに引き留められた。
「今日はお父上はいらっしゃらないの?」
意外な問いだった。
そうだ、と答えると、ガッカリした風を装われた。
「私は君のお父上の大ファンでね、是非、会って話してみたかったんだ」
真意のようだけど、どこか影があった。
久しぶりに名刺を渡された。
もっとも、父への取次だったけど。
父からの連絡を待っているから、きっと渡して欲しいと請われた。
その熱意は本当のようで、私は混乱してしまった。
彼にとって父は祖父の甥、だとすれば大伯父か……年を考えれば直接面識もなさそう。
一体、父にどんな用事、あるいは興味はあるというのだろう。
そんなことを考えるあまり、私はじっと名刺を見つめていた。
気づけば料理も飲み物も出揃って、食べる準備が出来ていた。
料理は好評で、食の細い子供達も、舌の肥えたはずの一さんも喜んで食べてくれたので、私は自分のことのように嬉しかった。
***
花火が始まり、子供達はその音の大きさに、恐れをなしたり、美しさに見とれたりで、相変わらず賑やかだった。
初めの内は、全員揃って、広いバルコニーで花火見学をしていたものの、三々五々に自由にくつろぎ始めた。
一さんは秋生さんと話が合うようで、リビングの方でさかんに議論していたので、私も安心した。
リサは姫ちゃんと瑠璃子さんと一緒に、子供達と花火を見続けている。
夏樹さんは遅れてやって来たエリィとゆっくりご飯を楽しんでいるし、東野部長は牧田秘書室長と、ここぞとばかりに仕事の話をしていた。
ふと見渡すと、若社長の姿が無い。
どこに行ったのだろうと探してみたら、バルコニーに居た。
と言っても、花火が見えない方にだ。
この部屋は角部屋で、バルコニーはL字の形となっていたのだが、そちら側は全く花火が上がらない。
そのバルコニーに面した部屋は、今回の花火見物には使用しておらず……もしかして寝室なのかもしれない―カーテンが閉まっていた為、薄暗らく、若社長以外に人影はなかった。
私はどうしてそんな所にいるのか訝しく思い、つい、寄って行ってしまった。
「花火、見ないんですか?」
話しかけると、驚いたようだ。
「子供達から逃げているんだよ」
さすがに疲れたからね、と笑った。
手直ししたようだが、浴衣が着崩れている。
つくづく警戒心が無いと言うか、学習能力が無いと言うか、若社長に近寄りたい気持ちが強いと言うか……とにかく、私は深く考えもせず手を伸ばして、若社長の乱れた襟を直してあげた。
そして、その途中で、案の定、若社長に捕まった。
手首を掴まれ、胸元に引き寄せられる。
私も驚いたけど、若社長は自分でやっておきながらもっと驚き、しまった! と言う顔をした。
しばらく私の顔を見下ろした後、身を離してくれたのだが、これまた巧みに体勢を変えて、自分と位置を取り替えた。
そうしたことによって、私の姿は若社長の大きな身体に隠れ、花火が見える側のバルコニーの角からちょっと覗いただけでは見えなくなったしまった。
「真白ちゃん、気をつけないと」
どうしてこの人は、自分でこういうことをやっておきながら、そう説教じみた口調になるのだろう。
バルコニーの手すりに身を預けながら私を覗きこむ。
花火の音が大きいので、そうしないと声が聞こえないからなのだけど、ますます、私の姿は見えなくなっているのだろう。
「こんな風に人が大勢いるとね、人目があると思って安心するだろう?
でも、それが危険な時もあるんだよ。
ほら、ご覧、誰も君が居ないことに気がつかない。
花火を見ている人たちは君がリビングの方に居ると思っているし、リビングに居る方は、花火を見ていると思いこむ」
だから気を付けなくっちゃと、若社長を念押しした。
そうしてなお、私を解放してくれなかった。
怖い人だ。
そう思ったのが伝わってしまった。
若社長にも「怖い?」と聞かれた。
「少し……」
本当は触られるのは嫌じゃなかった。
程度が問題なのだ。
けれども、その微妙な加減を、私は伝えられなかった。
「ごめんね。
あんなことをしてしまって……君が気にしてないければいいのに、なんて虫のいいことを考えてたけど、そんなこと、あるはずないよね。
勉強も手につかないみたいだし。もし、俺のせいなら……」
「いえ! それは違います!」
慌てて打ち消したものの、表情は暗かったのだろう。
若社長に心配されてしまった。
「真白ちゃん? 何か悩んでいることがあるの?
それなら相談してくれないかな。
君が一人で悩んで、苦しんでいるかと思うと、とても辛いんだ。
出来るなら、出来ないことでも、君の為に、なんでもするよ」
いつもながら、若社長は私の変化に敏感で、すぐにそれを解決しようと、こうして二人になった時を見逃さない。
「違うんです。違うの……。
どうしよう、重い女って思われたくないし」
浴衣の袖を悪戯に弄んだ。
「言ってみて。そうじゃないと分からないよ。
知ってる?
仕事で大事なのは、ほうれんそう、だよ。
報告、連絡、相談の略。
れんあい……人間関係にもそれは大事だと思う。
君は……なんと言うか、その、こういうことって初めてだろう?
俺が気がつかないことで、悩んだり迷ったりしているなら、どうか教えて欲しい。
そうでなくても、一般的な関係とは、少し違う訳だし、それを強制しているのは俺だし」
若社長の後ろで花火が上がっているので、ますます表情が判別出来ないけど、あの優しい顔をしているに違いない。
言わないで嫌われるよりも、思っていることを全部さらけ出して疎まれた方が、さっぱりするかもしれないと思い切る。
私みたいな子供があれこれ考えても解決しないどころか、手遅れになってしまうことを、最近の経験で知った。
若社長をこれ以上、傷つけたくない。
それが肉体であれ、精神であれ……だ。
「私が思いついたことじゃないんです。
人から言われて気がついたと言うか……」
言い訳せずにはいられない。
こんな話。
やはり重いし飛躍しすぎている。
そう思いながら、若社長の促すままに、口に出す。
「誰とは言えないのですけど……私に、早く小野寺にお嫁さんに来てねって……」
だから―――悩んでいるのだ。
私は躊躇した分、挫けないように一気に話した。
進学と結婚について。
一足飛びに大人な付き合いをしなければいけないのが不安なこと。
子供っぽい付き合いが出来ないのは寂しいことも。
そして聞いた。
高校を卒業したら大学には行かずに花嫁修業をした方がいいですか?
その問いに若社長は頭を抱え、意味不明なうめき声を上げてから、言った。
「ったく、誰がそんなことを君に吹き込んだの?
ああ、言わなくても分かるよ。大体ね。
悪気が無いのも知ってる。
だけど、俺は出来れば君に、そんな話は聞かせたくなかったよ。
だって、ほら、君はそんな風に悩むじゃないか」
そして、私の頭を慈しむように撫でた。
かつて、その行為は子供扱いされているようで、悲しく感じたものだが、今は違う。
とても心地良い。
私が猫だったら、喉を鳴らして、もっともっと、と強請るところだ。
これくらいの接触だったら、全然、平気。
「いいんだよ。そんなことで悩まなくても。
一年の約束はね、一年経ったら打ち切れるし、更新も出来る。
全ては君の望み通りって言ったじゃないか」
「でも、それじゃあ、若社長に……」
悪いです、と言いそうになって、止めた。
それは、なんだか上から目線のような気がしたのだ。
「俺のことは気にしなくてもいいよ。
どうせ、君に出会わなかったら、これまで通り、他の女性と浮名を流すばっかりで、結婚する気なんて、さらさら無いまま、同じ年月を経るんだから。
一年でも二年でも、君が大学を卒業するまででも待つし、社会に出たければそうすればいい。
小野寺の犠牲になることなんてないよ。
君は誰の犠牲にもなってはいけない」
「若社長は優しすぎます」
それでは、若社長が私の犠牲になっている。
この人は誰かの犠牲になってばかりだ。
しかし、そうは面と向かって指摘できない。
『ほうれんそう』の範疇外だ。
そんな私に若社長は変わらず優しく囁く。
「そうだね、優しいついでに、どこかに遊びに行こうね。
遊園地とか水族館とか、海やプール……は出来れば遠慮したいけど。
映画を見に行ったりするのもいいね。
また、こうして花火大会に行くのもいい。
急いで大人になる必要なんかないよ。そんなの、もったいないだろう」
それから、ふと思いつめたような表情に変わる。
「俺も……高校生の時、そういう普通のデートは……していなかったよ。
そんな相手じゃなかったんだ」
「えっ?」
盛大なスターマインが始まったのと、若社長の声が小さかったせいで、最後の方がよく聞き取れなかった。
さっきまで私を見ていた視線が、花火の上がらない闇に向けられていた。
とても怖い顔をしていた。
まるで過去を睨みつけているみたいだった。
仕事も恋愛も『ほうれんそう』が大事だと言った若社長は、自分についての『ほうれんそう』は怠るようだ。
若社長の恋愛遍歴を聞きたい訳ではないけど、なんとなく、他の女の人とは違う気配を感じて嫌な気持ちになった。
「優しいついでに、褒めて下さい」
いつまでも過去と、過去に住む女の人に気持ちを向けている若社長を、こちらに呼び戻したくて、我儘を仕掛ける。
「褒める?」
何を? とまで聞かれたら、心が挫ける所だった。
私は浴衣の柄を見せるように袖を持ち、両手を広げて見せた。
「浴衣姿を……どうですか?」
くるりと回ってすら見せたのに、若社長は渋い顔だ。
「その柄、雨宮一と合わせたみたいだ」
「はい?」
「同じ縦縞じゃないか」
とんだ言い掛かりだった。
今日の私の浴衣は、確かに縦に柄が入っている。
けれども、一さんのように細い縞が規則的に入っているのではなく、赤や黄色、緑や青、紫などの色とりどりで、かつ、太さもまちまちな縦の縞が入っているものだ。
とてもお揃いには見えない。
唖然としていると、若社長が笑い出した。
確かに笑い出したのだが、その後、口にした内容が、これまた深刻だった。
「俺の父親はね、あ、真白ちゃんのおじい様じゃなくって、実の父親のほうね。
汚い言葉遣いだけど、そいつは人間の屑で、しょっちゅう母を殴っていたんだ。
その理由ってのが、ほんの些細な理由からくる嫉妬でね。
……本当に些細なことなんだよ。
他の男に道で挨拶されたとか、目が合ったとか、そんなどうしようもないことばかり。
俺は父の悋気の強さをどれだけ恨み嫌ったことか。
絶対、父のようにはなるまい。
嫉妬なんて醜い感情は持つまい。
そう、思って生きてきた。
だから、これまで付き合ってきた女性達にも嫉妬心を抱いたことがなかった。
それが自慢ですらあった。
恋人が別な男を連れて来て、目の前でいちゃついても、別に何も感じなかったくらいだ」
それは……もはや恋人ではないのではないか、と思った。
彼女の方は、若社長のことを好きだったに違いない。
それなのに若社長は全く彼女に拘泥しなかった。
おそらく、彼女は自分の恋人を試そうとしたのだ。
そして、見事に失望する結果になった。
無関心で無感情。
恋愛感情どころか、なんの情もない振る舞いだ。
呆れたのかもしれない。
私も正直、ちょっとだけ呆れた。
「なのに、君には嫉妬してばかりだ。
しかも、つまらないことでね。
そういう気持ちになるのが嫌なのに」
呆れていた私が慌てた。
若社長に嫌な気持ちを抱かせたくない。
けれども、若社長はまったく別の気持ちだと白状し始めた。
「君が雨宮一と話しているのを見て嫉妬するのは仕方がないと思った。
牧田でさえ、彼女を連れてこなかったほどだ。
これは一般的に許される感情。
だけど、浴衣の柄となると、馬鹿げているよね。
父がこんな些細で馬鹿げたことで怒っていたと思うと、滑稽だよ。
俺はむしろ、そんな所まで嫉妬してしまう自分自身が面白いとすら思ったよ」
相変わらず笑っていたけど、よくよく見れば悲しそうだった。
口ではそう言っても、やっぱり辛いのだ。
だから私は努めて明るい声で言った。
「若社長だって、今日は私をそっちのけで、可愛い女の子三人と遊んでいたじゃないですか」
「はぁ? ……それってもしかして、あの三人娘のこと?
冗談だろう?いくらなんでもそんな趣味……」
「だからおあいこです」
若社長が言葉が終わる前に言った。
「私もとてもくだらないことで嫉妬して、むくれていました」
わざと頬を膨らませて、拗ねたふりをしてみせた。
思い出したら、妬けてきてしまったので、半ば本気になってしまったけど。
「真白ちゃん?」
声が笑っていた。
私は知って欲しかったのだ。
嫉妬するのもされるのも、全部が全部、悪いわけじゃない。
若社長はお父さんみたな人には、絶対にならないって。
私がその手助けになりたい。
「それに一さんの縞柄は多分、雨をイメージしていると思います。
姫ちゃんが紫陽花柄だから、どちらかと言うと、妹さんと合わせたんだと思いますよ。
私ではなくって、妹さんとお揃いなんです」
多分、そうだろう。
だから浴衣の地色も曇り空みたいな色だったのだ。
「雨宮だから?」
「そう、雨宮だから。
そして、そこに雨が降っていれば、ここには降りません。
花火大会の為に、ちょっとした願掛けです」
私の言い分に、若社長は疑わしげだった。
「そこまで考える?」
「考えますよ。
雨宮の人間の考えることです。
思い出したんです。父も私の学校が遠足や運動会の前日には、雨の絵を描いてくれました。
明日降る雨は、みんなここに降ってしまったよ、だから、明日は晴れるからね、って。
晴れる時もあれば、雨が降ってしまう時もあります。
でも、そういうのは気持ちなんです。
父はよく、そんな風に物事に意味を作っていました。
私も今日の浴衣を決める時、ある想いを込めて、たくさんの中から自分で柄を決めたんです」
今回ばかりは夏樹さんの手も借りなかった。
珠洲子様や井上夫人の勧める白地に紺の古風な花柄の浴衣も断った。
どちらかと言えば、モダンでポップな印象の浴衣に決めたのは大きな理由があった。
色とりどりの縞の上を飛び回る黒い鳥が、この浴衣のメインの柄なのだ。
「これは縞柄ではなくって、燕柄なんですよ」
「燕???」
烏かと思った、と言う若社長の呟きは敢えて無視したけど、ファッション誌を出している出版社の社長として、その感想はどうかと思う。
「そう、燕は幸せを運ぶ鳥なんです。
……若社長に幸せを運べるような人間になれるように、願掛けです」
こんな話になるとは思わなかったのに、それを予期したような我ながらとてもいい選択だったと思い、にっこり笑ってもう一度、回って見せたのだが、元の位置に戻った時、身の危険を感じる視線とぶかった。
食べられそう。
間違いなくそう感じた。
若社長に逃げ道は封じられていたので、残り少ない空間しかなかったけど、それでも精一杯後ずさりした。
クマに会ったら目を逸らしてはいけないと話してくれたエリィの言葉を思い出し、必死で若社長の顔を見続けた。
確かに、視線を外したら襲いかかられそうだ。
若社長もそれを分かってか、数歩、私から遠ざかった。
「ごめん」
「……私こそ、あの……すみません」
私の脳裏に中華料理屋さんでの出来事が思い浮かんでいた。
あの時、私は若社長の姿にくぎ付けになった。
なぜか、その時の若社長の表情と今が重なる。
『モデル喰い』とは良く言ったものだと、私は今になって納得した。
この人に美味しく食べて欲しいと言う気持ちの自分は、なんてはしたない娘なんだろう。
それでも胸元を両手で掻き合わせ、そうはさせないとする私は、まだ、理性は残っている。
俯きつつも、若社長の目を見上げ、なんとか気持ちを伝えようとした。
スターマインが終わり、大きな尺玉の花火が断続的に打ち上がり始めた。
「味見……くらいならいいのですけど……齧られるのは怖いです」
つい比喩が食事のようになってしまった私に若社長は盛大なため息をついた。
「そういう顔でそういうこと言わないで」
「ご、ごめんなさい!
なんて言えばいいのか分からなくって……」
「……真白ちゃん、君って実は妖怪とかじゃないよね?」
ちょっと前まで、それなりに色っぽい展開だったのに、いきなり妖怪なんて単語が出てきて雰囲気がぶち壊しになった。
若社長がわざとそうしたかもしれない。
「よ、妖怪!?!?」
「そう、妖怪。
もしくは魑魅魍魎? あやかし?
俺のこと化かそうとしていない??」
妖怪扱いなんて酷い。
怒りたくなったけど、真顔でそんなことを聞く若社長に、私は笑いたくもなった。
「人間ですよ。
若社長の馬鹿。
もう、味見もさせませんからね!」
一応、ふくれっ面をして、大股で若社長の脇をすり抜けて、みんなのところに合流しようと思った。
すれ違いざま、若社長が手を握って言ってくれた。
「良く似合っているよ、その浴衣。
……ありがとう」
私は若社長の大きな手を握り返すと、「若社長も浴衣がお似合いです。すごく素敵で格好良いですよ」と褒めた。
赤い花火が上がっているから、若社長の顔も赤いのだろう。
もう少しここに居ると言う若社長を残して、バルコニーの角を曲がる時、私はまたも闇夜を見つめる彼の姿を見た。
まだ何かに囚われているのだと思った。
しがらみが少ない私と、過去や世間に雁字搦めの若社長では、浮かれ具合が違う気がして、寂しい思いをすることもあるけど、それは仕方が無いことだと諦めた。
いや、諦めてはいない。
ただ、いきなり踏み込むのは躊躇された。
私の倍とは言えないけど、それくらい年の離れた若社長には、過去から背負ってきた荷物があるのだもの。
病室でうわごととして語られた昔話を思い出す。
あの人の舐めた辛酸はどれほどのものだったろう。
いつか分かち合う為にも、しっかりとした大人にならないといけない。
それか、ものすごく苦いのも、顔を顰めるほどの酸っぱさも、全て打ち消すほど甘くて美味しい女の子になるか、だ。