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妖精とクマ  作者: さぁこ/結城敦子
第一章 椛島真白の事情。
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1-4 王子様はクマに乗って

 夕方、バイト先に向かうと、岡島さんがドーナッツを持ってやって来ていた。


「椛島さん、申し訳ないねぇ。

腰やってしまって。

でも、大したことなかったから、明日からは来れると思うんだ」


「そうですか!良かったです」


 岡島さんの腰が良くなるのは嬉しいけど、ちょっと残念だと思ったのは内緒だ。

 お詫びに貰ったドーナッツは今評判のお店のもので、ずっと食べてみたかったものだ。

 いつか吉野さんに話したことがある。

 それを岡島さんが聞いて、私の為にわざわざ買ってきてくれたのだ。

 どうせ、十五階に行っても働く『若社長』にも会えないし、明日からはまた、地道に働こう。


 でも、最後の期待を込めて、いそいそとエレベーターに乗ってしまう自分は、まだ修業が足りない。

 篠田さんに気付かれるのが恥ずかしくて、急いで別の話題を提供する。


「あ、読モの意味分かりましたよ!」


 朝に少しだけ雑誌をめくっただけだけど、間違ってはないと思う。


「そう、どう、やってみたいと思った?」


 興味を持ったのかと思われたけど、私は頭を振った。


「やめておきます」


「そう?

真白ちゃんは、背も高くて細いし、可愛いからぴったりだと思うけど」


「……そ、それはありがとうございます。でも……」


 私が、読モが出来ない理由を説明しようとしたのだが、エレベーターは十五階に着いてしまった。


 いつになくざわめいている十五階に、不審を抱きながらも、篠田さんに従って、淡々と作業を行った。


 その事件は、私が篠田さんから離れ、廊下のゴミを回収しに行ったときに起きた。

 そこは自販機がある休憩ルームで、近くにはトイレがあった。


 自販機の横のゴミ箱から袋を取り出す。

 相変わらず分別が徹底されていて、こちらがすることはあまりない。

 新しい袋をセットして、次のゴミ箱に向かおう顔を上げたら、向こうから肩を怒らせてやってくる男の人が見えた。

 『若社長』みたいに仕立てが良いスーツを着ていたけど、一流のテーラーの技術をもってしても隠しきれない、何か嫌なものを中から発散させていた。


 本能的にかかわりを避けようとしたけど、その男性が手に持っていた紙を丸めると、無造作にポイ捨てしたのを見て、そうはいかなくなった。


 本当にいるんだ、こんな人。


 道路とかなら、まだ分かるけど、ここは、小野寺出版の十五階の廊下なのだ。


「あの、ゴミはゴミ箱に捨てて下さい」


 それでも、紙ごみを集めている袋の口を開けて、そこに捨てられるようにしてあげた。


「ああ?」


 不機嫌そうな声と顔で男は私を見た。


「お前、誰に向かって言ってるんだ?

俺は美園だぞ! あの、美園!

もっとも、お前みたいな掃除のおばさんには……ん?」


 男は何かに気が付いたように、私の顔を見直した。


「なんだ、若いじゃないか。

しかも、なかなかの上玉だな

ちょうどいい、ちょっと付き合え」


 いきなり腕を掴まれると、抵抗する間もなく腰に手を回され、どこかに連れて行かれそうになった。

 せっかく集めたゴミが、廊下にまき散らされ、先程、男が捨てたゴミと一体化する。

 でも、今はそれどころではない。


「やめて下さい!!」


 突然、何が起こったのか理解できない頭で、必死に抵抗する。

 腰に回された手が不快だけど、顔がどんどん近づいてくるのを阻止するのに両手を使っているので、どうにもならない。


「離して下さい! 人を呼びますよ」


「呼んでもいいけど、この会社の連中に俺を止められるかな?」


 なんなのこの男!


「社長……! さすがにそれは……」


 側に居た影の薄そうな男性が、止めに入りかけてくれたが、どうも頼りになりそうには感じられなかった。


 しかし、すぐに私にとっての本当の白馬の王子様がやって来てくれた。

 見た目は……どちらかと言うと、クマに跨った金太郎の雰囲気だったけど。

 そして、とても恐ろしい顔をしていた。


「美園社長……人の会社で、よくもこんな真似が」


 怒気をはらんだ若社長の声に、美園社長と呼ばれた男の身体は怖気づいたように、震えた。

 それが伝わるほど、私の身体に、その男の身体が密着しているということに、気が付く。

 途端に、恐怖感と羞恥心が襲ってくる。

 憧れの人に、見知らぬ男に後ろから抱きかかえられている姿を見せているなんて……助けて欲しいけど、あっちに行って欲しい気もする。


「なぁ、これでいいぜ。

このくれよ。

そうしたら、今までのお前らの無礼を全部チャラにして、プロジェクトにも無条件で全面協力してやるよ」


 『美園』が話す度に、男の息が頬に当たってくる。

 駄目だ、気持ち悪すぎる……。

 この状況をなんとかしようと、もがいた瞬間、全身に悪寒が走った。


「あんまり暴れると、思わぬ事故が起きるかもよ、お嬢ちゃん」


 胸の下を、ほんとうに微かだが、男の手がかすったのだ。

 わざと、だ。

 なんとなく、こういうことに手慣れている感じがヒシヒシと伝わってくる。

 つまり、もっと暴れたら……うう、考えたくない。


「へぇ、随分と初心な反応じゃないか。

それとも、かまととぶっているだけか?」


 動けずにいる私と、同じく、なすすべがなく立ちすくむ若社長に、美園と言う男は嬉しそうだった。

 本当は若社長のことが怖いくせに、私を人質にして、この場を支配した気分になっている。

 それが嬉しいのか、美園の声ははずんでいた。


「大体さぁ、お前、偉そうなんだよ。

後妻の連れ子のくせに、御曹司面しやがって。

グループ内でも疎ましく思っている奴らが大勢いるんだろう?」


 後妻? 連れ子?

 小野寺出版の話はたくさん聞いたけど、そんな話は、聞いたことがなかった。

 若社長の顔を伺ってみたが、表情はうかがえなかった。

 先ほどまでの怒りの形相が失せた代わりに、今度は、ひたすら無表情になっている。

 それがまた、怖いのだけど、調子に乗った美園は、さらに若社長を責めたてた。


「もう一度、言うけど、この娘とのことを見逃してくれたら、うちのエリィをお前らに使わせてやってもいい。

必要なんだろう?

なんたって、うちのエリィは、ジャン・ルイ・ソレイユが日本で唯一認めたモデルだからな。

エリィが居なければ、ジャン・ルイ・ソレイユはお前らと仕事したいと思うかな?

そうなったら、プロジェクトはおじゃんだし、それを進めていたお前の弟は困るんだろう。

同じく野良犬の弟がさ!

プロジェクトがダメになって、大きな損失が出れば、兄弟揃って、野に放たれるだろうな。

ま、もともと住んでいた世界に戻るってだけだろうけど!」


 ああ、もう最悪だ。

 最悪すぎて、涙が出てくる。

 母が亡くなって以来、決して泣いたことなどなかったのに。

 悔しくてたまらない。


 私が間抜けにも、こんな男の人質になってしまったせいで、よく分からないけど、若社長を窮地に追い込んでいるのだ。


 恥ずかしさと、申し訳のなさに、もう顔も上げられなかった。

 そのせいで、ついに涙は頬を伝ってしまった。


 俯く私の耳に、けたたましいヒールの音ともう一人分の足音が聞こえてきた。


「ちょっと! 何やってるのよ! あんた!!」


「真白ちゃんを離しなさい! この外道!!」


 東野部長と……篠田さんだ!!


 二人の登場と、特に、外道呼ばわりされたせいか、美園がイラついたのが分かった。

 しかし、それすらも、彼にとっては、『若社長』を嬲る材料にしてしまう。


「そう言えば、お前の母親も掃除婦だったな。

うまいこともぐりこんで、小野寺社長をたぶらかしたもんだ」


 そう言うと、私の顎を掴むと、無理やり自分の方を向けさせた。

 今にも唇と唇が触れそうになる。


「君も真似してみたら?

その可愛い顔だったら、男の一人や二人、簡単に籠絡出来そうだ。

俺も立候補しようかな。

ま、残念ながら正妻には出来ないけど。

あ、あと、小野寺社長のように後妻にするってのも……ないかな。

でも、愛人にだったら大歓迎だぜ。

この俺の愛人になれるなんて、光栄なことだぜ、お嬢ちゃん。

こんな所で、そんなだっさい服を着て、床を掃いたり磨いたりしていることを考えたら、夢のような幸運だ。

心配しなくても、手取り足取り……教えてやるよ。

……っと、動くなよ、若社長」


 思わず一歩踏み出した若社長の右手が、きつく握りしめられていた。

 母親のことを侮辱されたのだ、怒って当然だ。

 私も怒っている。

 みんな真面目に働いているのだ!

 バカにしないで欲しい!!


 それなのに、『若社長』は美園に膝を屈した。


「どうすれば彼女を離してくれる?」


「ふーん、どうしようかな。

じゃあさ、土下座してよ。

そうしたら、取りあえず、この娘は離してやってもいいかな」


 東野部長と篠田さんに続いて、他の社員たちも集まってきたこともあって、美園は、衆目の前で、若社長を辱めようとしているのだ。

 しかも、あの言い草からすれば、私を離すだけで、プロジェクトのことには言及していない。


 けれども、若社長は、いやに淡々とした表情で、土下座することを受け入れたのだ。

 私も見たことがある、社長秘書の人が、代わりを申し出て、美園が承諾したのも断った。

 それは若社長としては当然だとは思う。

 きっと、部下の人間にさせるくらいなら、自分がやった方がいいと思うような人なのだ。

 よく知らないけど、知らないことばかりだけど、私の知っている若社長はそういう人だ。


 そんな彼を、美園は嘲る。


「お前って、本当に、プライドがない男だよな。

飼い主に気に入られる為なら、いくらでも尾っぽを振れる犬みたいだ」


 こんなの、絶対に間違っている。

 若社長が土下座することなんてない!

 そう思った瞬間、思わず言葉が口をついて出た。


「そんなこと、絶対に駄目!」


 『思わぬ事故』のことも忘れて私は、美園の腕の中で、必死に訴えた。


 それに対して、若社長は、「じゃあ、君はあの男の好きにされたいのか?」と、目で問うてきた。


 うう、それは……すごく嫌だけど。

 でも、若社長がこんな男の言いなりになるのも嫌なの。


 図らずも見つめあう形になった私たちに気が付いた美園は、面白くなさそうに、土下座を催促した。


 もはや時間は残されていない。

 美園の好きにもさせたくない。

 絶対にさせたくない。


 そんな私の頭に、不意に、母親の言葉が響いた。


 母親が亡くなる寸前、私によくよく言い含めた言葉だった。


『自分のことは何でも自分でなんとかしなさい。

そして、お父様のことを宜しくね』


 それを肝に銘じて、これまで一人で自分の面倒どころか、父親の面倒まで見てきたのだ。

 ことのところ、海老沢所長をはじめ小野寺清掃の人たちに親切にされすぎていて、すっかり鈍ってしまっていたらしい。

 若社長に助けてもらうことを考えてはいけない、自分を助けるのは、自分しかいない。


 決断した私は、高校の防犯の特別授業でならった護身術を思い出しながら、なんとか反撃を試みた。

 簡単に言えば、全体重をかけて、美園の足を踏み、ひるんだ隙に、肘で鼻を狙った。


 喧嘩などの荒事には慣れていな美園にはそれで十分だった。

 私だって、こんなことしたことなかったけど、思ったよりもあっさりと彼から離れることに成功してしまったのだ。

 こんなことなら、もっと早く反撃しておけば良かった。

 気をよくした私は、痛がる美園を一喝した。


「卑怯者! 恥を知りなさい!」


 瞬間、その場に居た社員たちから歓声に似たどよめきが上がった、

 思ったよりも野次馬が増えていたことに気が付いたが、その誰もが若社長の土下座など見たくなかったことを知って、自分のことのように嬉しかった。


 が、それがいけなかった。

 小娘に言いようにあしらわれ、啖呵をきられた美園は、暴力に訴えることにしたのだ。

 つくづく情けない男だ。

 しかし、振り上げられた右手は正直、恐ろしい。

 殴られる、と言うことはどれくらい痛いのかしら?

 それでも、怖気づいた姿だけはみせたくない。

 こういう時は歯を食いしばるといいという、俄か知識に従い、男を睨みつけながら私は殴打に備えた。


 その瞬間、私は再び、今度は別の男の人の手で、腕を掴まれ、後ろに引っ張られた。

 気付いた美園が振り上げていた手で、私の袖を一瞬、掴んだので、両側から引っ張られる形になり、布の裂ける嫌な音がしたが、勢いは止められなかった。

 飛び込むように、別の男性の胸に抱きしめられた。

 背の高いその人に守られるように、両腕ですっぽりと抱え込まれ、二度と美園に付け入られる心配などなかった。


 そうしてくれたのは、勿論、若社長だった。

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