7-2 彼との約束
禁止された場所には入ってはいけないって、ちゃんと教えたはずなのに、教えた以上は、それを守らないといけない身なのに、私は誘惑に負けて、紅子ちゃんと緑子ちゃんに手を引かれて、若社長の部屋に踏み込んでしまった。
二人は、お見舞いだから、と屋敷内に飾られていた花瓶のどれかから、勝手に花を抜いてきて、手に持っていた。
お蔭ですでに着替えたパジャマ……レースがたくさんついたネグリジェの袖口が、茎から垂れる水で濡れている。
「ふゆおじさま〜! おみまいにきました」
「ごきげんいかが?」
二人の声に驚いたようにこちらを見た若社長は、私の姿まであって、さらに目を見開いた。
額に汗がたくさん浮いていた。
何か言いたそうだったけど、私が二人の持って来た花で若社長の寝具が汚れないように、あれこれ世話を焼くのに忙しいのを見て、口を噤んだ。
若社長のベッドの脇に置かれたテーブルには、ハムと胡瓜のサンドウィッチが載っていた。
せっかくの好物なのに、手は付けられていなかった。
端は乾燥してカピカピだし、真ん中の方は具から出た水分でべちゃべちゃになっているから、置かれてから大分経つのが分かった。
若社長は食べ物を粗末する人ではない。食べられないほど、体調が悪いのだ。
サンドウィッチの横には、水が半分入ったグラスと薬の殻があった。
やはりここに来てはいけなかった。
黙っている若社長に話しかける二人を、どうやって部屋に返そうか、算段している内に、開きっぱなしのドアから二人を探して呼ぶ声が聞こえた。
こんな所に居るのを見られたら叱られると思ったのか、緑子ちゃんが紅子ちゃんを引っ張って、出て行ってしまった。
取り残された形の私は、二人の後に続こうか迷ったけど、残ることに決めた。
それどころか、ドアを閉めに向かった。
若社長の部屋は私に与えられた部屋とほぼ同じ造りで、二間続きだったので、閉めるドアは二つもあった。
その度に、はしたない気分になったけど、どうしても向き合って話さなければいけない気持ちだったのだ。
「なぁに?」と、声を出さずに若社長が聞いた。
優しいそうな微笑みを浮かべてはいるが、とても辛そうで、こんな面倒な話をしてもいいのか迷った。
けれども、後回しにすればするほど、聞きづらくなりそうだし。
「真白ちゃん?」
今度は声を発して尋ねられた。
私は近くにあった椅子を引き寄せ座った。
両手でスカートを握りしめたので、丈がずり上がって、膝の上の腿のあたりまで見えてしまったけど、何かにすがってないと気が落ち着かないのでそのままにした。
迷った末に口を開く。
「どうして私の為にそこまでしてくれるんですか?」
抽象的な質問だったかしら?
若社長は答えに悩む様子を見せた。
「リサからメールが来ました。
あの中華料理屋さんに行ったって。
そこで、父と会って、不動産のお話をしたと」
おそらくその過程で、若社長は傷を悪化させてしまったのだ。
「ああ、もうあそこら辺も、繋がってしまっているんだね。君は人気者だ」
若社長は独り言のように言った。
「無茶ですよ。
退院したばかりなのに。
そんなに私のことを追い出したいですか?」
嫌な聞き方だ。
明らかに否定して欲しい気持ちを全面に出した、ズルい聞き方だ。
当然、罰が当たる。
「そうだよ」
嫌いだからですか? と尋ねて、また、罰が当たったらどうしよう。
それに、どう考えても嫌いな相手に、ここまではしない。
決心したくせに、本題に入れなかった。
若社長は具合が悪いのに、いつまでも迷惑をかける訳にはいかなかったので、自分の想いをもう一度伝えることにした。
「私、若社長のこと、好きです。
だから、ずっと側に置いて下さい。
迷惑にならないように、一所懸命、頑張りますから!
もっと、大人になりますから!
お願いします……お願いだから、私のこと嫌いじゃなかったら、もう突き放さないで!」
大人になると言ったのに、相変わらずピーピー泣いてしまう自分に嫌気がさしてきた。
「真白ちゃん……泣かないで」
「だって……若社長の気持ちが分からないんですもの。
不安だし、怖いし、切ないし……それに……」
水玉柄のワンピースに涙の玉が落ちた。
「それに、父のこと……父がこの昔、この家の……」
そこまで言うと、若社長はわずかに身を起こした。
「知ってるの?」
「今日……」
双子の話はするまいと思った。
怒られたら可哀想だ。
特に、大好きな冬おじさんに、こんな怖い顔で叱られたら、あまりに可哀想だ。
「私のこと可哀想だと思いますか?
父のせいで、あるべき場所にいられなかった可哀想な娘だと思っていますか?
その場所を自分が……盗んだと思っていませんか?
同情で、私に優しくしてくれていたんですか?」
懲りずにそんな風に聞く自分が嫌になった。
もっと、素直に聞きたいのに、聞けない自分の弱さがもどかしい。
「……可哀想?
そうだね、可哀想な子だよ、君は」
ほら、また罰が当たった。
そう思った瞬間、思いもかけないことが起きた。
身を起こした若社長に触られた。
頬を右手で撫でられた。
美園にも同じことされた。
その時と比べたら、全く嫌ではなかったけど、いけない事だと思った。
「可哀想に。
こんなに若くて可愛いのに、俺みたいな人間に捕まるなんて」
頭の中がパニックになり、まともに働かないせいで、声が出せない。
「逃げてもいいよ。
今なら、まだ逃げられるよ」
若社長の真剣な顔がすぐ近くにあった。
熱があるのかもしれない、いつもよりも体温が熱かった。
手が、首筋を辿り、髪の毛を払いのけ、襟から背中の方に差し入れられる。
若社長よりも自分の身体が熱くなっている気がする。
「真白ちゃん、君のここに黒子があるの、知ってた?」
リサにも指摘された黒子の位置を教えるようになぞられる。
「あっ……やぁ……」
思わず声が出そうになったのを、懸命に堪える。
ただでさえ弱いのに、リサがよくふざけて触るのとは手つきが全然違う。
名状し難い感覚が身体を襲う。
このまま流されてしまうのはとても危険だ。
頭の片隅で、理性が囁きかける。
なのに、身体を預けてしまいそうになる。
「嫌?」
からかうように尋ねる声色に、すさまじく色気があると思った。
「いや……じゃ、ありません……でも」
執拗に首筋と背中を責められるせいで、ちゃんとした声を出しづらくて、途切れ途切れになってしまう。
「でも?」
若社長のもう一方の手が、露わになっていた太ももにも触れた。
手でガードしたのに、巧みに外されてしまい、奥まで侵入を許してしまう。
あんまり自然に入ってくるからビックリした。
無骨な手なのに、触れ方は優しい。まるで若社長みたいだ。
うん、若社長なんだけどね。
どうすればいいのか、こんなまともな思考が出来ない状況では判断出来ない。
ただひとつ、いつだって分かっていることがある。
「いいえ、なんでもありません。
……若社長が私のこと、好きじゃなくっても、私は好きです。
だから、遊びでも構いません。嫌じゃありません」
自分としては精一杯、大人の女性の対応をしたつもりだったんだけど、若社長の動きは止まり、さっきまで、唇と唇が触れ合いそうなくらい近かったのに、それも離れていってしまった。
「真白ちゃん、もう部屋に戻りなさい。
あと少しすれば、お父上も迎えてきてくれるから、新しい家に引っ越すんだ」
「嫌です!」
私は怒っていた。
ここまで誘い込んでおいて、放り投げるって、どういう了見なんだろう。
こっちだって、覚悟を決めかけていたのに。
「真白ちゃん!」
自分から手を出してきたくせに、私の貞節を責める口調でたしなめるのは止めて欲しい。
「はっきり言って下さい!
私のこと、好きですか? 嫌いですか?
それとも弄びたいだけですか?
嫌い以外の答えだったら、私はお側を離れませんからね!
こうなったのも、若社長の自業自得です。
よく今まで、女の人に恨まれなかったですね」
「君は……っ痛!」
若社長はベッドの上に身を戻して呻いた。
「悪い事って出来ないな……まったく」
それから、悲しそうな顔をして、私を見た。
「ごめんね。
君を苦しめているよね」
「違います。謝って欲しい訳じゃないんです」
さすがに言い過ぎたと思った。
今朝からの一連の出来事で、私も冷静ではなかった。
「うん。でも、謝ることしか出来ないんだ。
俺の……君への気持ちを、まだ言う訳にはいかない」
ハッとして、若社長の顔を見た。
涙目なのは傷が痛むからなのだろうか。
「まだ、言えない。分かって欲しい。
せめて、あと……一年は……言えない。
君の……君の一年はとても貴重で大切な時間なのは知っている。
それを俺の為に費やして欲しいと言うのは我儘だ。
それでも、それしか俺は君に約束出来ないんだ。
ただ、決して、君に悪い結果にはしないよ。絶対にだ。
真白ちゃん、俺は約束するのは嫌いだ。
相手を、自分を束縛する約束を、俺はずっと避けてきた。
でも、君とは約束するよ。
一年だ。
一年、待ってくれる?
その間、他の男じゃなくって、俺を君の側に置いてくれる?」
一年……。
私は一年前何をしていたかしら。
そう言えば、その少し前に、若社長に会った気がする。
それから一年はとても長かったような、短かったような。
そんな年月を、私は若社長との約束を守っていられるかしら。
俯くと乱れた裾が視界に入った。
急激に羞恥心が湧いてくる。慌てて、裾を直す。
「一年経ったら、どうなるんですか?」
「それは、君の望みのままだよ。
煮るなり焼くなり、お好きなように」
意を決して顔を上げて聞いたのに、若社長にいやに艶っぽい微笑を見せられて、再び視線を下げた。
それって、ほとんど、私の気持ちを受け入れてくれてるって解釈出来るけど……。
どうしてこんな焦らすような真似をするんだろう。
もう少しだけ、確実なものが欲しい。
「じゃあ、側に居てもいいんですね」
「違う。俺が君の側に置いてもらうんだ」
「同じことじゃないですか」
「……いいや。俺の中では……同じじゃない。
側に置いてくれる?」
「はい」
私は若社長の熱っぽい手を取ると、指切りをした。
相手はさすが約束が嫌いなだけあって、作法をよく理解していなかったので、私が一人で振り回す形になった。
「約束です」
「よかった……じゃあ、部屋に……」
「嫌です」
「真白ちゃん」
情けない声を出す若社長は初めてだ。
なんだか可愛くて笑ってしまった。
「嫌ですよ。
私が若社長を側に置いているんでしょ?
だったら、私が居たいだけ、側にいますよ。
何かお役に立てることはありますか?
汗、拭きましょうか?」
「また襲われても知れないよ」
説教じみた声で言われたけど、負けなかった。
「その時は、その傷を攻撃しますから、ご心配なく」
別にキスくらいなら平気だったのに、むしろ思いが通じ合った恋人同士は普通、そういうことをするものなのじゃないかしら?
小説とか映画だと、ハッピーエンドはキスで終わるものだ。
それも一年後の予約……なのかしら。
そう思わなくもなかったけど、夏樹さんの心配が現実のものになって、若社長の評判が落ちたら困るので、言わなかった。
若社長は傷が痛むのか、くの字の体勢で、脂汗をかいていた。
「痛みますか?
お医者さん、呼びます?」
「いや、大丈夫。
ちょっと寝たい。あまり寝ていないんだ。
……ここに居てもいいけど、潮時を見計らって、自分の部屋に戻るんだよ。
こんな所、見られたら、君の評判が落ちるからね」
私と同じことを気にしている若社長に、素直に頷いた。
しばらくすると、若社長は本当にぐっすり眠ってしまったので、ちょっと拍子抜けてしまった。
それでも、なんとも言えない幸せそうな寝顔にうっとりとしてしまった。
汗がひどいので、こっそりバスルームにお邪魔して、タオルを取り出した。
造りが一緒だし、収納の場所もほぼ同じだったから、すぐに見つかって良かった。
若社長のバスルームに入って、いろいろ探るのは、悪いことのような気がして、長居したくなかったのだ。
ほのかに、あのミントの香りが鼻をよぎった。
私の部屋では、白とピンクと金でまとめられたサニタリーグッズは、若社長の部屋では白と青と金だった。
すっきりと整理整頓されていて、使う人を思わせる。
青いタオルを濡らし、若社長の顔だけでも拭いてあげようとベッド脇に戻ると、良く眠っている横顔に、吸い込まれるように魅入らる。
そっと、顎の線を触ってみた。
思ったよりザラついている。でも、嫌いじゃない。
しっかりとした顎から、指を伸ばして、唇の端にも触れてみる。
こちらはしっとりとして、柔らかくて、魅惑的な形だ。
こっそりキスしたら怒るかしら。
若社長はまさか女の子に襲われていると思っていないのか、呑気に眠り続けている。
「若社長……大好きです。
ずっと、真白を側に置いて下さいね」
ようやく幸福感が身体に満ちてきた。
この人の側に居られるのだ。
不安が無い訳じゃないけど、若社長の気持ちが分かっているのは心強い。
予約の身だけど、それは相手だって同じことだもの。
若社長も私の為に、自分の一年を費やしてくれる。
それは、とてもすごいことだと思った。
私は若社長の寝顔を見つめ、それから、タオルを片付けて……帰るつもりだったのに、もう少しだけ、もうあと三十分と、ベッドの脇に佇んでいあた、うっかり寝てしまった……ようだ。
***
「真白ちゃん! 真白ちゃん!!」
若社長に起こされた。
顔面が蒼白なのは、傷のせいでも熱のせいでもなく、全て私のうっかりのせいだった。
「なんでまだここに居るの?
何時だと思っているの?
朝だよ、朝!」
「ご……ごめんなさい!」
よだれとか垂らしてないか心配になりつつも、慌てて帰ろうとした私を、若社長は引き留めた。
「待って!」
時計を確認した若社長は瞬時に、私が帰るべきルートを探り出した。
「この時間じゃ、もう何人か起きているよ。
絶対に、見つからないで、帰ってね。
こんなこと、屋敷の人間にバレたら……言っただろう、君の貞節にかかわることなんだからね!
もともとは俺の評判が悪いせいもあるけど……女の子は特に気を付けないといけないんだって、君なら分かるだろう?」
若社長が狼狽している後ろで、私は見てしまった。
あのハムと胡瓜のサンドウィッチの皿がなかった。
「分かっています。
決して若社長にはご迷惑を掛けないようにします。
何があっても、しらを切って下さい」
「真白ちゃん……」
「私が、守って差し上げます」
自信満々で請け負ったけど、その日の内に、なんの弁明も出来ないまま、私は東翼から西翼へと部屋を移動させられた。
西翼はほとんど秋生さんの家族の領域だったので、ますますお邪魔している感じが強くなったが仕方が無い。
私の不覚のせいなんですもの。
二人の子達が大喜びで、同じベッドで一緒に寝ようと言ってくれたのが救いだった。
後から分かったことだけど、私が若社長の部屋で、よりにもよって同じベッドで……と言っても、端に上半身を預けて……ぐっすり寝こけている姿を見たのは、篠田さん……珠洲子様、井上夫人、秋生さん、夏樹さん、それから、こともあろうに、この家の主人、大社長とかなりの人数にのぼった。
言い逃れ出来なかったけど、その代わり、疾しいことはなかかった証言だけは豊富だった。
みんな若社長の容体を心配して覗きに来たのだ。
出来れば最初に来た人に起こしてもらいたかった。
そうしたら、一人にしか見つからなかったのに。
「起こそうかと思ったんだけど、兄さんがあんまり幸せそうに寝ていたから、邪魔出来なかった。熟睡しているの久々みたいだしさ」と言う秋生さんとほぼ同じ理由で、みんな、そっと扉を閉めたらしい。
「真白ちゃんが居ると、冬兄はよく眠れるみたいだから、添い寝してあげる対象は、双子じゃなくて冬兄だと思うな」と言う夏樹さんの嫌味は無視した。
夏樹さんはあれ以来、見違えるように親切になったけど、まだ時々、意地悪をする。
もっとも、それは私が至らない時に発動するので、夏樹さんなりに、私の為を想ってやっているのだろうと解釈出来る面もあった。
ハムと胡瓜のサンドウィッチの皿を下げに来て、現場に遭遇した珠洲子様にはしっかりお説教された。
「お父上からお預かりした大事なお嬢さんに、うちの節操のない息子が手を出したら、顔向けできない」と。
ちょっとだけ齧られたと知れたら、怪我をしていようと、実の息子だろうと、若社長が本邸から追い出されそうな勢いだった。
でも、それも仕方が無いかな、と今なら分かる。
あの時の私は、おかしかった。相当、妙な気分に陥っていた。
あの雰囲気に流されるまま、何をされてもいいという気分になってしまっていて、自分自身も、かなり大胆な思考と行動をとっていた。
冷静になって考えてみれば、かなり危険な状況だったことを、時が経つにつれて反省するようになった。
キスで済むはずがない流れだった。
若社長の方から身を引いてくれて、私は助けられたのだ。
珠洲子様の心配も、今なら納得出来る。
同時に、若社長の一連の動作は、あれはかなり手慣れていたなぁ、と悔しい気持ちになった。
ああいうことをたくさんしてきたのだ、あの人は。
途端に怖くなった。
珠洲子様にはしたない娘だと思われたくなかったし、自分自身の為にも、受験勉強に邁進する名目で、東翼には近づかないように、もっと言えば、若社長と二人っきりにならない様に心がけた。
お目付け役として、母の昔馴染みと思われるあのメイドの島内さんが、ずっと付きっきりになってしまっても、異論は出なかった。
若社長とは電話とメールで会話出来るだけでも満足だ。
離れていると、あんな危険人物とは思えないほど、相変わらず親切で思いやりがあって、優しい人だった。
それが、突然、豹変するのだから男の人って、分からない。
私がまだ子供で、それに応えられないのが歯がゆいけど、だからって、こればっかりは思い通りになったら、珠洲子様にも天国のお母さんにも顔向け出来ない。
側に居たいのは山々だけど、身の恐れを感じるんですもの。
それに若社長だって、寸前で留まったり、私を追い出そうとしているのは、大事にしてくれている証拠だと思いたい。
やっぱり子供だからなのだ。
想いが通じたからと言って、こんな子供が、若社長と付き合うのは、かなり大変なことなのだ。
それを感じさせることは、他にもあって、その後もたびたび顔をのぞかせては、私の心を脅かし続けることになった。