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妖精とクマ  作者: さぁこ/結城敦子
第六章 小野寺冬馬の幸福。
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6-5 降りかかった真実

 草木も眠る丑三つ時に、夏樹が部屋に訪ねてきた。

 予め、話があると言われていなかったら、弟と言えども非常識とも思える時間だった。

 その上、これからどこかに出掛けると、懐中電灯を持参していた。


「どこに行くんだ?」


「今は言えない。黙って付いてきて欲しいんだ」


 着替えた方がいいかと聞いたら、その必要は無いと言われた。

 目的地は、同じ邸内。

 小野寺の本邸は、コの字型の建物で、真ん中はさっきまでご飯を食べていた部屋や、双子達の夏の間など、お客様をもてなしたり、家族が集まったりする共用部分が大半をしめている。

 義父ちちと母、たまに帰ってくる俺と夏樹の兄弟は、東翼部分に部屋を持ち、秋生家族は西翼部分に居を構えていた。

 夏樹はその東翼部分のさらに東端へと俺を案内した。

 しかし、躊躇する。

 なぜならば、そこから先は、俺達が本邸に招き入れられて以来、立ち入り禁止の場所だったからだ。


「冬兄は真面目だから」


 夏樹はそう言うが、入るなと言われた場所に敢えて立ち入るほど、当時の俺は、子供ではなかったのだ。

 逆に、まだ子供だった夏樹は興味本位に、禁止された場所を覗き込んだ。

 そこは、『小野寺の奥様』の部屋だった。

 朝日がいっぱいに入る、明るい、小野寺邸の中で一番良い部屋を、病床に伏せった妻の為に、義父が精一杯過ごしやすく整えた。

 そして、そこは今でも、そのまま残されていた。

 子供の夏樹が覗いた時も、俺を連れて訪れた今もだ。


 夏樹は、それを母に対する裏切りと感じたのかもしれないが、マザコン気味のはずの俺でもそうは思わなかった。

 もしかすると、先日までは、弟と一緒に憤ったかもしれないが、今はそうではない。

 それとも、こんな深夜に訪れたせいかもしれない。

 締め切っていたせいでムッとした空気、重くて湿っぽいカーテンがきっちりと閉じられ、埃除けのために白い布が被せられた家具が、夏樹の懐中電灯の光に不気味に現れては消えた。

 これが、明るい太陽が差し込む中で見たら印象は違ったはずだが、どうしても、かつて清潔で美しかったであろうこの部屋で、徐々に命を消していった儚げな女性の姿しか思い浮かべられなかった。


 長く居たいとはとても思えない部屋だった。

 ここがお前の部屋だ好きなように使え、と言われたら、夏樹だって、遠慮するんじゃないかな。

 この部屋はこのままずっと、封印されていても何ら問題はない。

 部屋ならいくらでもあるのだから。

 おまけに、先妻との思い出をこの部屋にだけ留めて、俺たち母子に感じさせないようにしたのは、義父の配慮以外の何ものでもない。

 せめて、この部屋くらい、思い出のままにしてもいいはずだ。

 俺たちは、あまりにも執着することを嫌悪しすぎる。


 そんな思いを抱きながら、夏樹の動きを立ったまま目で追う。

 傷の調子が良くなく、どこかに座りたいと願ったが、椅子にも白い布がかかっている。

 それほど埃っぽくないところを見ると、誰かが、おそらく井上夫人が定期的に空気を入れ、掃除をしているのだろう。

 下手に動かしたら、気づかれそうだ。


「冬兄……見て」


 俺が気を付けていると言うのに、止める間もなく夏樹は遠慮なく、壁にかかっていた白い布を外した。


「この人は……」


 壁には肖像画が掛けられていた。

 モデルになったのは、この部屋の主だろう。

 とても美しい女性だった。

 夢見がちで、どこか浮世離れした微笑が……誰かに似ていた。


 頭がくらくらしてきたのは、階段から落ちて打った後遺症ではない。

 現実を直視したくないのだ。


「椛島真中だ」


 小野寺の奥様は、椛島真中に似ていた。

 当然、真白ちゃんにも面影があった。


「そうだよ」


 勝ち誇ったような夏樹に、俺は苛立った。

 なんでそんなに嬉しそうなんだよ。


椛島真中かばしままなか小野寺文好おのでらふみよしだ」


 夏樹は俺に考える間を与えなかった。


「なんで……」


 それは夏樹に向けた言葉だった。

 なんで、そんなことを知らせるのだ、と言う怒りだ。


 このことは知りたくなかった事実だ。

 これまで、気が付くきっかけはいくらでもあった。

 雨宮姫と面差しが似ている真白ちゃん、井上親子や資料室の『主』の思わせぶりな態度、椛島真中が小野寺出版の物件を頑なに拒否した理由。そして、母の警戒と反対。

 それら全てを、無意識に無視していたのは、真白ちゃんが、この小野寺家の本当の『お嬢様』だと言う現実を受け入れたくなかったからだ。


「冬兄? 泣いているの?」


 その場に崩れ落ちたかったが、さすがに三十も過ぎた大人の矜持でもって耐えた。


「夏樹、戻るぞ。話はそれからだ。ここに居るのを誰かに見られるのはいけない」


 夏樹は慌てて布を掛け直すと、俺に肩を貸していそいで部屋を出た。

 扉が閉まる。そのまま秘密も閉じ込めてしまいたかった。


 弟がしきりに謝りはじめたので、俺は廊下に響くからという理由で止めた。

 本当は考える時間が欲しかった。

 が、次々と思い浮かぶ考えは何一つまとまることなく、霧散していった。

 真白ちゃんが、小野寺真白だったとして、何がいけないのだろう。

 そこまでショックを受けることか?

 真白ちゃんは、真白ちゃんじゃないか。


 彼女は変わらない。彼女は……だが。


***


「あっき兄…!」


 黙って俺を支えていた夏樹が声を上げた。


 俺の部屋の前に、秋生が腕を組んで立っていた。


「夏樹、馬鹿」


 短く言い放った。

 いつもなら、言い返す末っ子が、押し黙った。


「お前も知っていたのか?」


 真白ちゃんに関しては、俺は道化のようだと思った。

 自分の気持ちに気付く前に、社内中にバレそうな勢いだった上に、真白ちゃんの秘密を知っている人間もかなり居たのに、俺だけ気づかずにいたなんて。

 滑稽だな。


 秋生は俺の問いかけを保留にして、兄と弟を部屋に押し込めた。


 広くて部屋がたくさんある小野寺邸は、個人の部屋自体も贅沢な作りだった。

 二間続きの上に、専用の豪華なバスルームもある。

 手前の部屋を通り抜け、奥の寝室として使っている部屋まで行くと、俺をベッドに促した。


 やっと座れる安堵と、先ほどの衝撃がぶり返して、しばらく声が出なかった。

 弟二人のやり取りを茫然と見る。


「秋兄もあの部屋に行ったんだ」


「紅子と緑子がね」


 小さな双子の中で屋敷内を探検するのが流行った時期があった。

 その際に、勿論、東端の部屋には行ってはいけないと伝えたはずだった。

 しかし、聞いていたのか、そうでないのか、如何せん、小さな子供の興味に歯止めはかけられなかった。

 双子達は、部屋にたどり着き、壁にかかった布の中を覗き込んだ。

 美しい女の人の絵は、絵本の中のお姫様のようで、二人は夢中になり、先を争うように覗き込んだらしい。

 そのせいで、布は外れてしまった。

 大きな絵だったので、到底、子供の背丈では掛け直せるようなものではなかった。

 その時になった、双子達は自分たちが大人達の言いつけを聞かなかったことに気が付いた。

 怒られる。当然、そう思ったのだろう。

 けれども、布は床に落ちたまま。

 その状態で部屋を後にした二人は、いつそのことがバレるのか、自分達がどんなお仕置きをされるか、恐怖で怯えた。

 それは大人達にはひどく元気のない様子に見え、心配した父親である秋生がなんとか問いただすことに成功し、事が露見した。

 秋生はそのことを誰にも教えず、一人で布を元に戻しに行った。


「で、見たんだ。あの絵を。

つい最近のことだったから、覚えていた。

それで、真白ちゃんを見た時、ちょっと似ているなとは思った……思ったけど」


 『綺麗な顔』って、そういうものなかのかなぁ、と思って、と秋生は呟き、夏樹も同意した。


「夏は最初から気づいていたと思ったよ。

真白ちゃんに意地悪だったじゃないか」


 秋生は夏樹の同意に納得出来ないようだ。


「あれは、ただあの子が冬兄に憧れて浮かれているだけみたいに見えたから。

そんな軽薄な気持ちで、あんな大きなプロジェクトに関わって、失敗したら、冬兄のせいになるんだぞ。

でも、結局、やり遂げたけどさ。

だから途中で、ちょっとは見直したんだけど……」


 しかし、椛島真中を見て、その反感は再び頭をもたげたそうだ。


「あの子はフランス語も出来るし、バレエも習っていた、今日……もう昨日だけど、見た通り、礼儀作法も仕込まれれてた。

まるで息でもするように、自然にこの屋敷に馴染んでいた。

いつでも小野寺に帰れるように、小野寺文好が育てていたんだ。

義父とうさんも、そのつもりなんだ!

今日の真珠のネックレスの話聞いただろう?

あれは、『奥様』が結婚する時に、雨宮家から持参してきたネックレスだ。

俺は知っている!

母さんには手を触れさせなかった、雨宮の奥様の装飾品を、そのままそっくり、あの子に渡す気なんだ!

冬兄が苦労して築き上げた場所を、実の息子だからって、孫娘だからって、簡単に奪うなんて、許せること?」


 夏樹が真白ちゃんを嫌いな理由は分かった。

 俺に、真実を知らせようとした気持ちも。


「夏樹、ごめん。

俺の為に、そんな嫌な気持ちを持たなくてもいいんだ。

若様が帰って来たかったら、そうすればいいよ。

本来、ここは彼らの場所だ。

『奥様』の装飾品だって、雨宮家の血を引く真白ちゃんが持つべきものだろう?

彼女の血を引く、唯一の孫娘なんだぞ」


「そういう風に……! 冬兄は悔しくないの!」


 夏樹に続き、秋生まで、怒ったように俺を見た。


「私たちは、兄さんの苦労を間近で見てきました。

兄さんは心を殺している。

まるで、自分の人生を他人事みたいに見ている。

優しいふりをして、本当は、冷たい人間になっているよ」


 自分の為に怒ってくれる弟二人の存在に、俺は感動すら覚えたのに、なぜか口からは別な人間の名前が出てきた。


「真白ちゃんが……」


「「はぁ??」」

 

 二人の呆れたような声に、一瞬、躊躇したが、それでも続けた。


「真白ちゃんが小野寺の家の娘になったら、父親に振り回されることもなく、お金の苦労も、衣食住の心配もなく、幸せに暮らせるんだぞ。

いいことじゃないか。

別に俺はどこででもやっていける」


「いやいや、冬兄。それが嫌なんだって」


「すっかり、骨抜きですね、真白ちゃんに。

それは歓迎すべきことですが、真白ちゃんを同じ小野寺真白にするならば、別の方法があると思いませんか?」


「嫌だ! 反対! 絶対、反対!!」


 夏樹が先に答えた。


「なーつ、お前の意見なんか聞いてない」


「冬兄? そんなに真白ちゃんが好きなの?」


「どうなんですか!?」


 迫られても困った、としか思えなかった。

 秋生の提案は魅力的だし、俺だってそうしたいけど、この秘密を知ってしまったら躊躇せざるを得ない。

 夏樹は感傷的で手におえない。


「母さんが反対するよ。これまでだって、何度も警告を受けた」


 実母だけでなく、真白ちゃんの父親、小野寺の若様にも反対されている。


『君に私の全財産を与えたとしても、真白だけは与えられない』


 彼の言う全財産はすなわち『小野寺家の財産』だった。

 俺を小野寺家の後継ぎとして認められても、真白ちゃんの相手にはしたくない、その意思表明だ。

 勿論、二人の弟にはその会話は秘密だ。


「それが不思議です」


 秋生が思案顔で言った。


「不思議じゃないよ。

あんな乳臭い子供に、冬兄が手を出したら、大問題だよ」


「それとこれとは違う。

雨宮姫と婚約したとして、それは犯罪か?

今なら、雨宮姫より、椛島真白と結婚した方が兄さんの為になる。

小野寺の本流の血を手に入れられるんだぞ。

仮に小野寺の若様が戻って来たとしても、跡を継ぐ真白ちゃんには婿が必要だ。

だったら、それが兄さんだっていいじゃないか。

むしろ、歓迎すべきことだ。

そうすれば、若様派も兄さん派も満足する大円団じゃないか」


 秋生らしい発言だが、真白ちゃんをそういう扱いするのは許せない。


「母さんは、真白ちゃんが小野寺文好の娘だって知らないんじゃないの?」


 ベッド脇に持ち込んだ椅子に、背もたれを抱くように座った夏樹が言った。


「それか、知ってても反対なのか。

俺、思うんだけど、義父さんと若様って仲良いのかな?

義父さんは若様の事を心配しているし、孫娘を大事にしているようには見えるけど、息子の方は違うよね?

家を出たくらいだし」


 そこから、夏樹は自分で調べたことを話した。


 真白ちゃんの母親が務めていた会社は末端だけど小野寺グループに連なっていること、入院した病院は俺が今日まで居たのと同じ、やはり小野寺のかかりつけなこと、それから、志桜館への奨学金の話。


「真白ちゃんの為に、志桜館への寄付金を増額したんじゃないのかな。

だって俺が卒業してからだし。

前に里崎から聞いたけど、真白ちゃんが志桜館に入学したの、母親の強い希望があった、みたいなこと言ってたらしい。

つまりさ、少なくとも真白ちゃんの母親は、娘を小野寺家に戻したかったんじゃないのかな?

志桜館の特待生の動向は学校側から逐一報告が行くから、それを通じて、孫娘の成長を見てもらうっていう趣向さ」


「そうかもしれない」


 俺は、身体をベッドに預けながら答えた。

 人と話す体勢ではないが、弟達だ、大目に見てくれるだろう。


 横になりながら、椛島真中も、もしかすると真白ちゃんを手放すつもりだったのかもしれないと思った。

 娘のことを大事に思っているはずなのに、妙に突き放すかのような、あまり関わらないようにしている態度は、いつか来る別れを恐れて、情が移らないようにしていたのではないか。

 わが身に思い当たる節があって、身につまされる。


 おそらく、大学だ。

 真白ちゃんが大学に行くときにでも、小野寺に戻す算段になっていたのかもしれない。

 それが、妻を入院させる条件だった可能性もある。

 だから、娘が大学の費用を稼ぐのに、積極的な反応を示さなかったのだ。

 小野寺の家に引き渡せば、大学の費用の心配などいらない。

 なぜ、あの時、娘のモデル業を許す気になったかは分からないが、やはり諦めきれない、手元に置いておきたい気持ちがあったのだろう。


 そして、事情は変わった。

 真白ちゃんは自力で進学の費用を捻出したし、自身も望んだ小説家という身分で稼げるようになった。

 娘を手放すのが惜しくならないはずがない。


 ただし、弟達にその考えを披露するのは、無駄な反発を誘引しかねないので、これもまた、黙っておくことにした。


「当然だよ。母親とすれば真白ちゃんを正当な場所に返してあげたいだろう。

だが、父親である椛島真中は父親に反発を抱いている」


 あの決別の手紙を思い出していた。

 意地でも小野寺に帰りたくはないし、助力も請いたくないはずだ。

 会社や病院の件は、義父が申し出た気がする。

 もし俺が義父ならそうする。

 真白ちゃんの母親は、義父にとって、大事な跡取り息子を奪った女ではなく、馬鹿息子のせいで、いらぬ苦労を強いられたあまり病気にさせてしまった女性という気持ちの方が強いと思うのだ。

 病院に関しては、椛島真中も強硬な態度はとれないだろう。

 あの人は、あの人なりに、妻を愛していた。

 その生死の前に、プライドなんていらない。

 だが、病院の一件でのやりとりで、さらに依怙地になってしまったのかもしれない。


「小野寺の用意した部屋は使わないし、義父も記念パーティーをドタキャンした」


 義父が夢みた文学賞の受賞者を、自社から出したと言うのにだ。

 真実を知った今、父親の夢を息子が叶えたことが分かった。

 それですら、両者の中が修復出来なかったとすれば、そうとう深刻なすれ違いになっている。

 二人の橋渡し役が出来るはずだった、真白ちゃんの母親はもういない。

 後妻である俺の母親も遠慮があるのだろう。

 出来るとすれば、真白ちゃんだ。


 もっとも、その真白ちゃんが問題なのだ。


「つまり……」


 秋生は言いにくそうに続けた。


「大事な娘を、今は義父さんの息子になった女ったらしと有名な兄さんが、つまみ食いするような事態に陥ったら、小野寺文好は怒り狂う……ってことだよねぇ。

そりゃあ、母さんにしてみれば、反対するよ。

よりにもよって自分の息子が、今の旦那と息子の縁切りの、決定的な要因になるかと思ったら、堪らないよ」


「あー、真白ちゃん、冬兄がちょっと笑いかけたら、意味も分からず、ホイホイついていきそうな風情だったもんね。

可愛い顔して、怖い子だと思ってたよ。ああいうかまととぶった子が一番、危ないんだよ」


「なつきー」


 俺はベッドに突っ伏して、地の底から響くような声を出した。

 口では弟を批判したが、心の中は自分のこれまでの軽率な行動を呪っていた。

 若かりし頃の、あの特有の湧き出るような好奇心と欲望に負けて、あの女にズルズル引きずられてしまったのが、心の奥底で後悔となって淀んでいたのだ。

 その記憶を上書きするように、次々と女性と付き合ってしまっていた。

 思えば、失礼この上ない。

 あの女のこと、弱い人間だと軽蔑に近い憐みの目で見ていたが、なんのことはない、俺自身だって、同じことをやっていたじゃないか。

 そんな心無いことを続けていたんだ、一人の女性と長く続くはずがなかった。

 最低な男だった。


 こうなってみると、真白ちゃんとの間がこんなにこじれたのは、天罰に違いない。

 俺はそれだけのことをした。

 罰を受けても仕方が無い。

 でも、それで泣いているのは真白ちゃんじゃないか。

 彼女に一体、何の罪があるって言うんだ。


「あんなに可愛いのに!」


「可愛いってのはね、兄さん、罪なんですよ」


 秋生のセリフでは無いと思って顔を上げたけど、どうやら発言の主はすぐ下の弟で間違いないようだった。


「そして、正義でもあります」


 その言葉が指す人間は真白ちゃんではなく、瑠璃子さんだ。

 こいつも相当、骨抜きだからな。


 あくまで真面目に言う秋生に夏樹は引いたが、次の言葉には、共感をもって応じた。


「もし、兄さんが真白ちゃんのこと、本気だとしたら、私は応援します。

さっき、兄さんが冷たい人間だと評しました。

そのことは申し訳なく思っていますが、事実でもあります。

昔の兄さんはもっと、違った。

今の兄さんも優しいけど、何かが足りないんです。

でも、真白ちゃんに会ってから、兄さんは変わったと思います。

昔の兄さんに戻ったみたいだ。

だから、彼女に賭けてみたいんです」


「俺も……冬兄が、真剣なら応援する。

悪いけど、真白ちゃん相手に本気がどうか、いまいち分からなかったんだよね。

ただ、秋兄が言う通り、最近の冬兄は良くなったと思うよ。

女遊びもしていないし……エリィとはそういう仲でなく付き合っているんだろう?

特に今日の夕飯は、なんだか人が変わったようだった。

それが、真白ちゃんのおかげなら、俺も彼女を認めてもいい」


 その夕飯を台無しにしかけた張本人にそう言われるのは不本意だし、弟達にそんな風に思われていたとは照れくさい。

 俺はそんなに感情を表に出していたつもりはなかったんだけどな。


 変わることは、今の自分を否定することだ。

 それは、なかなか難しいし、以前の自分を振り返ると恥ずかしい気持ちになる。


「そうだな……生まれ変わったんだよ、俺は。

多分、出来ると思う。

ただし、自信は無いから、おまえ達は余計なことはしないで、見守っていてくれないかな。

エリィや東野部長みたいな応援はまっぴら御免だ」


 あの二人ですら、持て余しているのに、秋生と夏樹まで加わったら、上手くいくものもいかない気がする。


「エリィはどうだか知りませんが、東野部長は、兄さんのことを心配していたんですよ。

それほど女好きに見えないくせに、あの遊び方でしょう?

おまけに、適当に雨宮家と縁組しようとするし。

真剣に誰かと付き合える日が来るのか、やきもきしていんです。

私や夏、牧田さんもですがね」


「で、冬兄が真白ちゃんに出会って、これは他とは違う、と気づいてからは、みんな大騒ぎで!

度重なる飲み会と言う名の会議を経て、ちなみに、ジャンも交じってね……途中まで様子見だった東野部長も、これはいよいよ本気かも、と俄然やる気になって……って、冬兄? 大丈夫?」


「傷が痛みますか?」


 痛むのは傷じゃなくて、俺の自尊心だよ! と弟二人に叫びたくなった。

 俺はそんなに自尊心がある人間じゃない、むしろ無い方だ。

 美園に脅されるまま、会社の中で社員に見られながら土下座することだって、特に厭う気持ちにすらならなかった俺だ。

 そのわずかばかりの自尊心が耐えがたい苦痛の声を上げていた。

 本当に生まれ変われるのか、自信が無くなってくる。


「頼むから、そっとしておいてくれ……」


 それだけやっと、絞り出すように、親切だけどおせっかいな弟二人に告げると、俺は枕に突っ伏した。


「分かりましたけど、だからと言って、真白ちゃんへの接し方はくれぐれも気を付けて下さいよ。

私も二人の娘の父親として、椛島真中の気持ちも分かります。

殊の外、可愛らしい娘を持つ父親は、苦労するんですよ。

私も、あの子達が年頃になって、可愛らしさの花が咲き誇ったら、悪い虫が寄ってくると思うと、気がおかしくなりそうです」


「はいはい、分かったから、とっととその可愛い娘達のもとに戻るといいよ。

もうすぐ、起きてくるんじゃないの?

早起きだからね……この屋敷は」


 二人が立ち去る気配を感じながら、俺は自問自答していた。


 母や、みんなが心配するように、俺が真白ちゃんに手を出すような男かどうか、についてだ。

 かつてそうだった男子高校生ではなく理性を御せる大人だし、あの女との過去があるから大丈夫……と請け負いたいところだけど、甚だ自信がない。


 真白ちゃんが悪いのだ。

 あの子、たまに俺を誘惑してくるような表情やそぶりを見せてくるからいけないのだ。

 本人が意図していないから、余計に性質が悪い。

 頑是ない子供のような顔をしながらの仕業に、魑魅魍魎か、妖怪に惑わされている気分になる。


 俺は大人だけど、まだ若い健康な男でもある。ある種の欲望はまだ十分、持っている。

 なにしろ最低な女ったらしだからな。

 それなのに、真白ちゃんと知り合って以来、他の女性と付き合っていないのを思い出した。

 彼女以外には目も向かないし、彼女以外の女で、その欲望を発散する気分にもならないから当然なんだけど、だからと言って、真白ちゃんで解消するなんてことは、決して、あってはならないことだ。


 そんな汚らわしい目で真白ちゃんを見てしまう嫌悪感がありながらも、それを上回る欲求がせめぎ合う。

 気持ちを自覚してしまった以上、理性のダムは一つ、決壊している。


 でも、それだけは駄目だ。

 父親と同じになってしまう。

 あの女と変わらない自分勝手な人間には戻りたくない。


 真白ちゃんのことを想うならば、あの子をここに長く引き留めてはおけない。

 近くにいればいるほど、リスクは高まる。

 物理的に側から離せば、要らぬ接触は防げる。

 せめて、あの子がちゃんとした大人になるまでは、俺の気持ちは一時、封印してでも、引き離しておかないと、取り返しがつかないことになる。

 ただ、気持ちは側に寄り添いたい。

 そんな我儘が通るのか分からない。

 きっとまた、真白ちゃんを泣かせてしまう。


 何もかも全部、俺のせいだ。


 傷が脈打つように痛みを訴えた。


***


 夏の太陽は早起きだった。

 悶々と考え事を続けている内に、すでにカーテンからうっすらと明るい光が一筋、漏れていた。


 家に帰って来たと言うのに、今日も眠れなかった。

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