6-4 幸せの風景
思ったほど経過が悪く、退院の日が伸びてしまった。
俺の病室で、大勢が騒ぐからだ、と、面会謝絶にまでされてしまった。
夢見は相変わらず悪かったけど、人が居なければ、それほど気にならない……はずだったが、医者や看護師、限られてはいたものの出入りを許された会社関係者に気が落ち着かず、退院が決まってほっとしたくらいだった。
退院したら、そのまま小野寺の本邸に帰ることになった。
俺は普段は一人でマンションの一室に住んでいるのだが、怪我が治るまでは本邸にいるようにとの義父からの厳命だった。通いのお手伝いさんがいるから、生活に支障はないと言ったが聞き入れられなくて、少し不満だった。
束縛されるのが嫌いなのは、まだ治っていない。
だけど、俺はすぐにそのことを深く反省することとなった。
「「冬おじさま! おかえりなさい〜!!」」
「お帰りなさい! 若社長!!」
玄関ホールを入ると、階段から姪の紅子と緑子が駆け下りて来た。
それに真白ちゃんが軽やかに続いた。
今日はフワフワの足首まで隠れる白いチュールスカートに白いパフスリーブのブラウスを着ていた。
これは誰の趣味だ? 母さんではない。
子供の背丈に合わせてしゃがむと、スカートがふんわりと床に広がった。
両脇に二人の子どもを従えて、笑顔いっぱいで迎えてくれるその姿に、俺は眩暈がした。
多分、幸せってこういう形をしている。
「大丈夫ですか? 兄さん」
病院から付き添って来てくれた秋生が声を掛ける。
「ちょっと頭がクラクラしただけだ」
「まだ本調子じゃないんですよ。頭も打っているんですからね。
部屋を整えてありますから、休んで下さい」
心配してくれる秋生に、なにか申し訳ない気持ちになった。
「冬兄さん、お帰り」
夏樹も出てきた。
「夏樹! 帰って来てたのか?」
「冬兄の退院の日だからね。
しばらくは、俺も本邸に住んで介助するよ」
「へぇ〜、そうか、それはありがたいな!」
久々に弟を含めて家族みんなに、真白ちゃんまで加わって暮らせると思うと、俺は一人で浮かれてしまい、夏樹にいつもの陽気さがないことに気が付くのが遅れていた。
「冬兄? 部屋に行く?」と真白ちゃんを冷たい目でみながらも、遠慮がちに聞いてきた。
俺は違和感を抱きながらも、真白ちゃんと夏樹を引き離そうとした。
「そうだな、荷物も置きに行きたいし……あ、コーヒーが飲みたいから持ってきてもらいたいんだけど、いいかな?」
「私! 淹れてきます!」
ぴょん、と真白ちゃんが立ち上がった。
「君は使用人じゃなくて、ここの客人だろ?
コーヒーは井上夫人に淹れてもらおうよ。
いっちばん美味しくて、冬兄の好みの味のコーヒーを淹れるのは井上夫人だけ、なんだから」
「なーつ」
秋生が弟を咎める時の口調で名前を呼んだ。
なんでこんなに真白ちゃんを拒絶するんだ?
と、思ったけど、そう言えば、末の弟はブラコン気味だった。
秋生もその気はあったけど、結婚してからは、すっかり嫁と娘贔屓なので、真白ちゃんに対する反感はないようだ。
これまで幾多の女性と付き合ってきたけど、夏樹がここまで反発した人間は彼女だけだ。
『妖精』プロジェクトの時から気に入らなかったようだが、まだ仕事の内は、自分を抑えて、彼女に協力していた。
しかし、今ではすっかり反感を抱いている。にしても、年下の女の子相手に大人気ないと、思わなくもない。
「夏樹が兄さんの荷物を持っていきな。
井上夫人には俺がコーヒーを頼んでくる。
紅子と緑子は、冬おじさんを夏の間に連れて行ってくれるかな?
あそこでお茶にしよう」
「なんで……ちょっ! 秋兄!!」
抗議する夏樹に無理やり俺の荷物を持たせて追い立てる秋生は、真白ちゃん派のようだ。
嬉しいけど、小野寺家にまた派閥が出来るのかと思うと、暗澹とした気分だ。
なんで夏樹は真白ちゃんを可愛いと思えないんだろう。
そう思った瞬間、俺よりも美形で陽気で、人当たりがいい弟に、真白ちゃんが惹かれるかもしれない可能性が浮かぶ。
そして、弟に嫉妬する姿は、父親を思い出させて、俺の傷を苛む。
真白ちゃんを好きになると言うことは、この感情に慣れて、冷静にならなければいけないことを意味していた。
「「ふゆおじさま、いこう! いこう!」」
「紅子ちゃん、緑子ちゃん、若社長は怪我をしているの。
そんな風に急がせたら、また痛い思いをしてしまうわ」
俺を引っ張る双子に、真白ちゃんが注意すると、強引な力が弱まった。
すごいな、と感心していると、手を差し出された。
「良ければ掴まって下さい」
「いいや、君じゃあ、俺を支えきれないよ」
体格的なことを指摘したはずなのに、真白ちゃんが悲しそうな顔をした。
「巻き添えを食らって、一緒に倒れて、君を下敷きにしたくないんだ」
誤解をされないように、きちんと説明し直す。
「では、他に何かお役に立てることがありますか?」
「いいや……えっと、今は思いつかない。
そのうち、何かあったらお願いするかもしれない」
「分かりました!
なんでも言って下さいね。
なんでもやりますから!」
そのセリフを不用意に発言しては駄目だって、随分前に東野部長に忠告されていなかったかな。
俺は真白ちゃんに、同じ注意をしたかったが、止めた。
純粋に俺の役に立ちたいと思っている彼女に、邪な難癖をつけていることになるからだ。
双子と真白ちゃんに先導されて、夏の間に入る。
夏の間は、暑い時期に人が集まれるように、日陰の涼しい場所に設えた部屋だった。
空気の流れが考えられているらしく、それほど空調の必要が無いので、今は、二人の小さな女の子の遊び部屋となっている。
小野寺邸は、基本、土足であるが、子供たちの使う部屋は靴を脱ぐ規則なので、俺もお腹を庇いながら、なんとか下足した。
カラフルなおもちゃが散らばる床を、踏まないように気をつけながら、部屋の中央に置かれた椅子に座る。
窓は大きく、よく茂る緑が目にまぶしい。
風がほどよく吹いているようで、葉が揺れた。同時に部屋の中で空気の流れを感じる。
病室は小野寺家の財力を物語るように、上階の広い個室だったが、それ故に、窓の外は空ばかりで、緑は遠くにしか見えなかった。
そして、病室では、一度しかお見舞いに来れなかった真白ちゃんが、すぐ側に居た。
「座ったら?」
「え? でも、何か用事があったらと思いまして」
「そんなにすぐには思いつかないよ」
生真面目に突っ立ている彼女を可愛いな、と思いながらも、苦笑する。
気持ちは分かるけど、君は俺の側にいるだけで十分、役に立っているんだけど、さすがにそれは言えない。
こんな、双子のまとわりつく騒々しい位場所ではなおさらだ。
「……そうだ、真白ちゃん、お願いがあるんだけど」
「なんですか!」
嬉しそうに目を輝かせる少女は、子猫のようだ。
「この子たちを、俺から引き離してくれないかな?傷に障るから」
それほど痛みはなかったが、敢えて、大袈裟に呻いてみせた。
真白ちゃんは、慌てて、双子を引き離すべく、絵本を読むことを提案した。
そこで、さらに、お願いをした。
「この子達、シンデレラと白雪姫のエンドレスループだろう?
出来れば他の本を読んであげたいんだけど、おススメはある?」
「それなら、美女と……」
「それ以外で」
「おススメって言ったのに」
むくれられたが、俺の目の前でその本を読むのは反則だ。
備え付けられた本棚から絵本を物色して、彼女が持って来たのは『ロバの皮』と言う話と、『ガチョウ番のお姫さま』と言う話だった。
どちらもお姫様が出てくる話で、最初こそ嫌がっていた双子も、最後は喰いつくように聞き入っていた。
内容もだが、真白ちゃんの読み方が上手なのが大きかった。
運ばれてきたコーヒーを飲みながら、彼女が双子に熱心に読み聞かせをする姿を見ると、また、玄関ホールで得た幸福感が襲ってくる。
いつまでも見ていたい気分だ。
「言っときますけど、あの子たちは私の娘で、もう一人は、他人のお嬢さんですからね」
いつの間にか、部屋に入って来ていた秋生に耳元で囁かれた。
「びっ……くりさせるなよ」
「すごーく幸せそうな所を邪魔するのは申し訳ないんですがね。
そういうのは、自分の家族でやってくれませんか。
少なくとも、真白ちゃんは、まだ違うでしょ?」
「気色の悪い目で見てた?」
思わず聞いてしまったら、秋生に否定された。
「そうは言ってませんよ。
ただ、兄さんには手に入る幸せがあるってことを知って欲しいだけです。
うちの娘なら、ある程度、貸せますが、真白ちゃんはそうじゃないってことです」
何か反論めいたことをしたかったが、この王国のお姫様は、自分たちが中心になっていないと気が済まない可愛い暴君達なのだ。
父親に、自分達が聞いた童話について話はじめたせいで、秋生に言われっぱなしのままになってしまった。
さらに、夏樹がやって来た。
「秋兄? ちゃんと伝えた?
もうすぐ夕食だって」
掴まって、と手を出されたので素直に従ってしまった。
「じゃ、三十分後に」と、夏樹が真白ちゃんに言った。「今日は冬兄の退院祝いで、正餐だから」
相応しい服を着てこい、と暗に言われた真白ちゃんは、なぜか嬉々とした。
「燕尾ですか!?」
秋生と、夏樹までが吹いた。
「いや、タキシード」
俺が答えると、あからさまにガッカリした。
「どうする?真白ちゃん、燕尾がいいって」
この会話、以前にもしたな、と思いつつ、秋生に振る。
「真白ちゃん、兄さんのタキシード姿を見たこともないのに、その感想は早計だよ」
いつも駄々をこねる五歳児を扱っている人間は違う。
大いに納得した真白ちゃんは、急いで自分の支度をするべく、彼女の為に用意された客室に去って行った。
***
「無駄なことだよ。
真白ちゃんは間違えずに、ちゃんとした服装をしてくると思う」
「私も兄さんに同感です。
この家にいる限り、真白ちゃんに意地悪するな。
娘達の教育に悪い」
「兄さん達は知らないから、そんなこと言えるんだよ」
意味深な発言をした夏樹は、そのまま一言も発せず、俺の着替えを手伝って、晩餐の部屋に連れて行ってくれた。
すでに予想通り、与えられたクローゼットの中身から正解を掴みとって着た真白ちゃんが待っていた。
さすが、あの風変わりな父親に育てられただけあって、服装規定を知っていた。
俺たちなんか、初めてこの家に来た時、自宅で夜に食事するのに着替える必要があると知って、唖然としたものだ。
それを覚えていた夏樹は、真白ちゃんに恥をかかせようとしたのだろうか。
まさかそんな、底意地の悪いことをこの弟がするとは考えられなかったし、信じられなかった。
末の弟は、不機嫌さは押し殺していたが、表情は無かった。
無表情は、真白ちゃんの席が母さんの次の席次になったのを知った時も、部屋に用意されていた真珠のネックレスについて言及された時も崩れなかった。
今晩の衣装である白のシンプルなイブニングドレスにその真珠のネックレスがぴったりだったのにという話だった。
それにしても、真白ちゃんのクローゼットには白以外の服は入っていないのか?
ここの所、白以外を着ている姿を見ていない。
各人それぞれの趣味で真白ちゃんに似合う服を持ち寄っているせいで、テイストはバラバラなのに、色は同じと言う状態になってしまっているのだ。
真白ちゃんは、小野寺邸に身を寄せていて、世話になっているからと、我儘も言えずに、与えられる服を着ているかと思うと、気の毒になってくる。
なんでも似合うからと言って、なんでもいいとは限らないだろう。
とても高価そうな真珠のネックレスよりも、彼女の好きな服の方が必要だ。
どうにかして、真白ちゃんを買い物に連れて行ってあげたい。それとも、外商を呼ぶか、どちらかだ。
俺は、話題になっている真珠のネックレスの問題点を深く考えもせず、料理を口に運んだ。
斜め向かいに真白ちゃんが居て、美味しい料理が運ばれてくるのに、もう一方の斜め方向に能面のような夏樹がいると気が滅入る。
せっかく楽しみたいのに、それを許さない存在が居るのは辛いことだ。
一緒に楽しみたい弟ならばなおさらのこと。
怪我のせいと、夏樹に気を取られたせいで、フォークを落としてしまった。
そんな不注意な有様だったので、つい、落としたフォークを拾おうと手を伸ばす。
「なりません!」
身動きしただけなのに、するどい叱責が飛んだ。
久々に怒られた。
井上夫人は、今更「落ちたフォークやナイフを拾ってはいけません」などとは口にせず、新しいフォークを持ってこさせた。
「ありがとう」
有能な家政婦長は俺を辱める為に注意した訳ではない。
家族以外の人間が集まる食事会では、決してそんな真似はせず、すかさずフォローしてくれるほどだ。
ただし、家族だけの場では途端に厳しくなる。
ここは練習の場なのだ。
普段から自然に身に着けて、外で俺が恥をかかないようにする為に、厳しく接してくれている。
若様をお育てした彼女は、若社長にも親切だった。美味しいコーヒーも厭わず淹れて入れる。
だから、俺の恥は井上夫人の恥でもあると思い、必死で鍛錬して、今のような失態は無くなって久しい。
もっとも、砕けた場所では、それなりの食べ方になってしまうのが悩みだ。
あの中華料理屋で、真白ちゃんに見せた姿は失敗だった。
何事もなかったように、食事に戻ったが、明らかに食卓の雰囲気は悪くなった。
夏樹はますます不機嫌になっていくようだし、瑠璃子さんや真白ちゃんまで緊張してご飯を食べている。
服装規定をたたき込まれているらしい彼女は、食事マナーもきちんと仕込まれていたから、そんな心配しなくてもいいのに。
彼女はいつだって、綺麗に美味しそうに、楽しげにご飯を食べる。
俺が退院するまでは、もっと楽しい砕けた食卓だったはずだから、この雰囲気に驚いているかもしれない。
いつもこんな堅苦しい食事をしている訳ではない。
今日は特別なお祝いの日だ。
なんのお祝いだったかな?
そう、俺の退院祝いだ。
改めて義父にお祝いの言葉を掛けられて思い出すほど、とてもお祝いとは言えない食卓だった。
「すぐにご挨拶に参りませんで、失礼しました」
「私は帰ってきたばかりだ。ここで挨拶を受けようと思っていたから、気にすることはないよ。
それよりもゆっくり休めたか?」
「はい、おかげさまで」
他人行儀、実際、他人だと思ってしまうほどに、俺は義父に懐いていない。
懐くと言う年齢ではなかった。
その代わり、尊敬はしている。
夏樹の態度を非難出来ないくらいマザコンだし。
そう思うと、今まで俺の態度も、今日の夏樹のように義父には映っていたかもしれない。
玄関ホールと夏の間の真白ちゃんと双子の姿が思い浮かんだ。
義父だって、あの光景を見たかったに違いない。
もう一度、家族の団らんを得たかったのかもしれない。
義父もまた、妻と息子と言う、守りたい人を失っていた。
俺は天真爛漫な幼子ではなかったが、分別のある二十歳手前の大人だった。
義父の気持ちだって、汲めたはずだ。
なのに、俺は、ただ御曹司としての責務さえ果たせばいいと言う態度で接していた。
親しみを持つことを、心の中で拒絶していた。
この食卓を作った原因の一つは俺だ。
真白ちゃん出会って、過去と向き合うようになって、眠れないほど悩んでいるし、今でも、傷口はグズグズ言っているが、全体的に見方が変わってきたのは気のせいだろうか。
彼女を受け入れるには、俺の全てを洗いざらいさらけ出して、見つめるしかないならば、避けるわけにはいかない壁が、ここにもあった。
「食事が口に合わないか? 冬馬の好物ばかり用意させたんだが」
義父は俺を気にかけてくれている。
メニューが俺の好物かどうかは、違うと思うけど。
とにかく、気を遣ってくれている。
あの病院で貰ったジュースを、俺は飲まずに捨てた。飲食物を手も付けずに捨てたのは生まれて初めてだった。
俺はあの時、義父に対する素直さを、彼なりの愛情を確かめることもせずに、捨てたのかもしれない。
この場でフォークは拾えないけど、素直さは拾える。
拾い上げてみたら、すっかり黒ずんでしまっていたけど、磨けばまた光るだろう。
「ずっと病院食で、久しぶりに美味しい食事を堪能していました。
ありがとうございます」
不思議なことに、そう言ったら、本当い美味しく感じられた。
自然と笑みがこばれた。
「そうか、元気になってよかったよ。
みんな、お前のことを心配していた」
人の気持ちが、直接心に届くのは少し気恥ずかしい。
不覚にも視界が滲んでしまった。
またフォークを落とさない様に、気を付けないと。
「本当に良かったなぁ」と、義父は母と真白ちゃんに笑って言った。
俺はそれを見ても、嫉妬はしなかった。
素直に心が温まったので、それが、また嬉しかった。
夏樹もどうやら一時的に、不機嫌を取り下げる気になったらしい。
これって家族団欒? と思うような雰囲気になったが、思い直した。
子供達は別室でご飯を食べているし、真白ちゃんは秋生が念を押したように『家族』じゃない。
しかし、真白ちゃんが食卓に居ても、まったく違和感はなかった。
俺の気持ちの変化からくるものかと思ったのに、その夜、夏樹に真相を明かされた。
真白ちゃんとは縁があるのか、無いのか分からなくなる。
彼女のとの間は障害が多すぎる。