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妖精とクマ  作者: さぁこ/結城敦子
第六章 小野寺冬馬の幸福。
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6-1 夢と現の狭間で呼ぶ名前

『おにいちゃん、おそとにいきたい!おにいちゃん!!!』


 夏樹なつきがまたドアの前でぐずっている。

 引っ越してきたアパートの前に小さな公園があるのを見てから、ずっと遊びたがっているのだ。

 保育園が見つからないせいで、俺と秋生あきおが小学校を休んで交互に見ているから、引っ越して以来、一度も外に出ていないのは末の弟だけかもしれない。


『駄目だよ夏樹。お外は怖いんだ。ドアを開けては駄目だよ。お兄ちゃんと一緒に、おうちで遊ぼう』


 背伸びをして鍵を開けようとする夏樹を制する。


『この間読んであげただろう。

オオカミがくる絵本。お前を一飲みにしようと狙っているんだ。

オオカミはずる賢いから、お前を騙してドアを開けさせようとさせるから、このドアはお兄ちゃんしか開けちゃだめなんだ』


『いやだ、いやぁああ、おそと、おそといくの!!!』


 地団駄を踏んで喚きだした弟に、学校から帰ってきた秋生あきおがうんざりした様子だった。


『うるさい、夏!

そんなに外に行きたかったら、とっとと出て行けよ!』


『秋生!』


『だって、毎日、夏が泣いてうるさくって、宿題も出来ない!

そうでなくても、夏のせいで、学校に半分しかいけないのに』


 普段は大人しい秋生も、この閉塞した生活に苛立っているのだ。

 こもりっきりではストレスも貯まる。


『学校にはお前が行きな。

夏樹の面倒はお兄ちゃんが毎日見るから、秋生は学校に行くといい』


『お兄ちゃんだって、学校に行きたいくせに!夏のせいだ!……夏が居るから悪いんだ!』


 秋生の為に言ったのに、逆に激怒させることになってしまった。


『弟だぞ!秋生はお兄ちゃんなのに、なんでそんなことを言うんだ。

夏樹は小さいんだ、優しくしてあげないと……秋生!』


『もういやだ! 俺の大事にしていたお菓子も勝手に食べるし、泣くし、わがままだし、なのに、お母さんもお兄ちゃんも夏樹ばっかり!』


 秋生が夏樹を抱き上げ、ドアのカギを開けた。


『駄目だ! 秋生!ドアを……ドアを開けては……!』


 勢いよく開けられたドアの向こうに、逆光を背にして、あの男が立っていた。

 暗くて顔の表情はよく見えなかったが、口元がニヤリと笑った。

 夏樹を抱いたまま、秋生が引きずり出されて、止めようとした俺は、床に叩きつけられた。

 激痛に息が止まる。

 それでも、必死にあいつの足にしがみつく。

 力一杯、あいつを押していると、ぐらっと身体が揺れた。

 何か企んでいると思ったら、相手が信じられないような目で、自分を見てきた。

 子供は成長し、親は老いていく。

 不摂生を繰り返してきた中年の男と、栄養が不足気味でも成長期の子供の力比べは、その差をほんのわずかだが示唆した。

 その事実を悟った男の視線は、次に恐怖に変わった。

 恐怖から、さらに憎悪に変わり、大人の力を見せつけるように俺を掴んで振り落とした。

 アパートの二階の階段の上から。


『珠洲子は俺のものだ! お前には渡さない。俺のものなんだよ!!』


 まっさかさまに落ちた俺は、痛みの中で、弟二人の泣き叫ぶ声を聞いた。



「だから言ったのに――ドアを、ドアを開けては駄目だ!

あいつがいるんだから、あいつが……!!」



冬馬とうま! 冬馬とうま!!!」


 ああ、母さんが来てくれた。


「母さん……?」


「そうよ、冬馬、分かる?」


 霞んだ視界が、母親の泣いている顔を捉えた。


「ごめんなさい、母さん。

ドアを開けてしまったんだ。

だからあいつが……秋生と夏樹はどこ? 無事なの?」


「冬馬? しっかりしなさい! 冬馬!」


「母さん、ごめんね。俺がしっかりしていないせいで、こんなことになって。

また泣いているの? また、あいつに嫌な目に合わされたんだね。

守ってあげられなくて、ごめんね。

秋生も、夏樹も……真白ましろちゃんも……誰も守ってあげられない、俺は……誰も守ってあげられなかった」


 頭がぼうっとする。

 身体の痛みははっきりとしているのに、随分前の出来事だったような気がする。


 それに、俺は誰の名前を呼んだ?

 秋生と夏樹は分かる。

 でも、もう一人は知らない。


「真白ちゃんって、誰だっけ?」


 とても大事なことを忘れている気がする。

 とても大事で、大切な名前。


「真白ちゃん?? ――っ! 真白ちゃん!!」


 その口にして心地よい名前を呼ぶと、一気に、意識が過去から引きずりだされた。


 目の前の母親は美しかったけど、年を経ていた。


「母さん! 真白ちゃんは? 真白ちゃんは無事なの!?」


 起き上がろうとしたら、腹部に激痛が走った。

 全身も痛むし、頭がくらくらして、吐きそうだった。


「……っ!!」


 声にならない痛みに、手を動かすと一緒に、長い管がついてきた。


「なんだこれ! 痛っ! 腹が……っ!!」


「お腹を刺されたの。頭も全身も強くうっているいるから動かないで!」


「刺された? あいつに? ――父さんが!?」


「冬馬! しっかり……いいえ、しっかりしなくてもいい……ああ!」


「落ち着きなさい冬馬。ここがどこか分かるか?」


 がっくりと項垂れた母の代わりに、隣の身なりのいい男が声を掛けた。

 この人は知っている、『義父とうさん』だ。


 ようやく、周りを見渡すと、俺は白くて清潔な部屋にいた。

 病院みたいだ。

 と言うか、病院だ。

 個室なのに、大部屋以上に、人が居る。

 俺に繋がっている機器類は大仰だったが、ICUには見えない、普通の、いや、豪華な個室だ。

 感じる痛みほど、ひどい状態ではないと自己判断する。

 なのに、大体みんな泣いていた。


「秋生と夏樹がでかい」


 足元の方にいた弟二人を見て、思わずつぶやいた。


「さっきまであんなに小さかったのに」


 まだ過去と現実が混ぜこぜになっている。


冬兄ふゆにい、ごめなさい。

俺が勝手にドアを開けたから」


「違う。ドアを開けたのはお前じゃないだろう」


「うるさい、秋兄あきにい黙っててよ」


「うるさいのはお前だ、夏!」


 大きくなったのに、またいがみ合う二人に、俺が腹の痛みが増す。


「冬馬、気が付いて良かったよ。俺は……分かるか?」


 整った顔の男だ。


「多分、知っているけど、まだそこまで記憶が辿りついていない」


 俺には三十年分の記憶があるはずなのだが、意識が小学生の頃に引きずられていて、現在の自分があやふやになっている。


 ただし、彼女の名前は分かる。彼女のことが知りたいのに、それはそっちのけで、口々に問いただされるのがうっとおしい。


「お前らが誰かなんてどうでもいいから、取りあえず、真白ちゃんが無事かどうかだけ教えてくれ!! ……って、ったぁああ! これ、本気で痛いんだけど、なんとかならないの?」


「痛み止めを投薬しますよ」


 医者とおぼしき白衣の男が言い、看護師が動いた。

 その二人の後ろ側から、小さな声が聞こえた。


「……ごめんなさい」


 なんでそんな端っこにいるんだろう。

 もっと見えやすいところに居て欲しい。


 涙でぐしゃぐしゃになった真白ちゃんが、椅子に座ってこちらを見ていた。

 携帯を返しに来た日以上に、ひどい顔をしている。

 俺はこの子を悲しませたくないのに、いつもこんな顔をさせてしまうんだな。


「なんで泣いているの?あいつにひどいことをされた? 井上さんに頼んだのに」


「冬馬さん! 私は御命令通り、真白お嬢様をお守りしました。

あんな男に指一本、触れさせてはいませんよ」


「間抜けにもひどい目に合わされたのは、あなたです」


 真白ちゃんの護衛よろしく、両脇に立っていた井上親子に抗議された。

 井上さんは分かるけど、息子の井上常務が居るのが解せない。


「井上さんは? 無事ですか? どこか怪我を?」


「えっ? いいえ、どこも」


「そうですか、良かった。……服が、朝とは違っているので心配しました」


「父はあなたのせいで、服が血まみれになったから、私が着替えを持ってきたのです。

まったく人騒がせにもほどがあります!!

あなたが奇禍にあって、父がどれだけ動揺したか、老人を驚かせないでやって欲しいですね」


 井上常務の口調に夏樹が文句を言ったが、秋生に止められた。


 その間も、真白ちゃんは涙を流しながらこちらを見ていた。

 彼女の服は今朝のままだ。

 染みひとつない、白と青のギンガムチェックのシャツワンピースだ。

 井上さんは、俺に彼女を近づかせなかったようだ。

 良かった。それでいいんだ。


「もう泣きやんで」


「だって、若社長が……おっ、お母さんみたいに、いなく……なったら、どうしようって……」


 嗚咽混じりで訴える内容に心が痛んだ。腹よりも痛い。

 そうだった。

 この子は、母親を亡くしたばかりだったんだ。

 この病院の匂いや雰囲気の中では、嫌でも、楽しくない方の記憶を思い出してしまうだろう。

 失敗したな。

 この子の前で決着をつけるつもりはなかったのに、井上常務の言うとおり、俺は間抜けだ。


「真白ちゃん、俺は大丈夫だから。

俺は大丈夫……ですよね?」


 医者に聞いてみると、お腹の刺し傷は急所を外しているし、出血も思ったよりは多くない。

 頭の方も検査では一応、異常はなく、全身打撲はあるものの、どこも折れたりはしていないようだ。

 若いから、すぐに退院出来るとお墨付きをもらった。


「犯人も?」


「この状況で犯人を心配するって、どんだけお人よしなんだよ、お前は!!」


 見知った見知らぬ男が怒鳴った。


「思い出した……牧田だ!」


「そうだよ! やっと思い出したか!」


「お前と初めて会った時も、同じこと言われた。

……どうでもいいが、お前、休日の時の私服ひどいな。

背広だったら、もう少し早く気づけたぞ」


 見目麗しい美男子が、よれよれのTシャツに、ジャージのズボン、予備用のダサい眼鏡。靴下にサンダル履き。

 会社の女の子に絶望されそうだ。もっとも、牧田には気にしないようだ。


「休日の朝、彼女とゆっくりまったり朝寝している時に、友達が病院に運び込まれたなんて連絡受けてみろ!

しかも、暴漢に刺されなんて聞いたら、取るものとりあえず駆けつけるだろうが!!

なのに、お前ときたら……はぁ、犯人は捕まったよ。怪我もしていない。

お前が下敷きになったからな。

その件で話を聞きたいと言っている人間が待っているんだけど……」


 扉付近で二人の男が頭を下げた。


 その中の一人が――知っている顔だった。

 おそらく、昨日、いや、今日の朝までだったら、知らない顔だったはずだ。

 だが、今の、過去に引き戻された脳は、彼の顔を認識した。


「あなたは……あの時の警官のお兄さんだ」


 口調が子供っぽくなっていた。


「ははは、覚えていてくれたか。お久しぶりだね。今は刑事のおじさんになってしまったよ」


 父のことを知らせにやって来た若々しい警官は、目つきのするどい刑事に変わっていた。

 もっとも、心根は親切なあの頃のままのようで、そうして、俺のまだ行きつ戻りつしている意識を安定させるためにか、言った。


「君は立派な大人になったね。

そりゃあ、お兄さんもおじさんになるはずだ」


「犯人を捕まえてくれたんですね」


「……捕まえたのは君だよ。

まぁ、そのことで若干、苦言が無い訳ではないが、今日は止めておこう。

まだ、混乱しているようだからね」


 同僚の若い刑事が手帳を取り出すのを制して、懐かしい顔の刑事さんは言った。

 俺としても、聞きたいことはたくさんあったのだけど、強烈な眠気が襲ってきて、とてもまともな受け答えが出来そうにない。


「犯人捕まったんですね」


 だんだん、呂律が回らなくなってきて、頭も働かない。


「ああ、捕まった。

大丈夫、安心して眠るといい。

君は、ちゃんと大事な人を守れる、立派な大人になったよ」


「……真白ちゃん……真白ちゃんは……?」


 お腹の痛みは軽くなったが、その分、起きていられない。

 激痛のままでいいから、真白ちゃんの無事を確認したい。

 そうじゃないと、安心なんてとても出来ない。


「あの子は嘘つきなんだ」


「何言ってるんだ!?」


 若い刑事の方が憤慨したようだ。

 真白ちゃんは可愛いから、また一人、虜を作ってしまったらしい。

 困った子だ。


「あの子は嘘つきなんですよ。

大丈夫じゃないのに、いっつも大丈夫って言うんです。

だから、刑事さん、教えて下さい。

真白ちゃんは、本当に大丈夫なんですか?」


 この件は、本人は勿論、母も弟たちも、義父も親友も信じられない。

 客観的な第三者である親切な刑事さんは、苦笑しかけて、微笑んだ。


「ああ、怖い思いをしたし、君を心配して、ずっと泣いているけど、危害は加えられていないよ。

今日は君のご両親が家に連れて帰ってくれるらしい。

小野寺の本邸だ。弟さんもお手伝いさん達もいるんだろう?」


「そう、良かった……なら、安心だよね。

最初からそうすれば良かったんだけど……」


 頭がグラグラして、過去に意識が引きずり込まれそうになるのを、必死に押しとどめる。


「ああ、そうだ。そう言えば、真白ちゃん、うちの母親が『篠田さん』って知らないのに、大丈夫なのかな」


「とっくにばれたわよ」


 母が泣き笑いで言った。


「私が責任を持って、真白ちゃんを小野寺の本邸に連れていくわ。

何も心配しないで、ゆっくり休んで。

真白ちゃんが心配なら、早くよくなってあげて」


「ちゃんとご飯、食べさせてあげて下さいね」


「ええ、分かっているわ。いいから、おやすみなさい」


 母に頭を撫でられたのは何十年ぶりだろう。

 気持ちがよくて、寝てしまいそうだ。

 でも、また、あんな夢を見るのかと思うと、意識を手放すのが怖い。

 記憶は高校のあたりをさ迷っている。

 あの事を、誰にも知られたくないが、下手するとベラベラしゃべってしまいそうだ。


「もうみんな帰って下さい。

また、変なうわごとを言うの、聞かれたくないので」


 すでにうわごとめいてきた俺の言葉に、秋生と夏樹が反応した。


「変なことなんて言ってないよ」


「そうだよ、全然、変じゃない」


 「変じゃないよ」と言って、いい年をした男二人が泣いた。

 真白ちゃんほどではないが、その光景は、見ていて辛い。


 そうこうしている内に、医師が口添えしてくれた。


「容態も安定していますし、今日のところはみなさんはお帰り下さい。

患者も落ち着いて休みたいでしょうし。

看護の方は、こちらでお任せを。

入院に必要な手続き等は、事務より知らせがありましたね?」


 ようやく全員が、病室を出ていく。

 見舞いはありがたいけど、本当に、あの事を口走ってしまうと思うと気が気ではないのだ。


 井上親子に取り囲まれて病室を出ようとした真白ちゃんが振り向いた。

 こっちに来て欲しいと思った。

 願いが通じたのか、間を縫って、彼女はベッドの脇にやってくると、俺の手をとった。

 暖かくて、柔らかくて、心地よくて、限界に近いほどの眠気を催す。


「あの……嘘じゃありません。私、大丈夫ですから」


「俺もだいじょうぶ……ウソじゃないよ」


「はい」


 瞼がくっつく前に見たのが、彼女の笑顔で良かった。


 記憶は現実に固定された。

 もう、昔のことは思い出さない。


 あんなことは、思い出さない。


***


 どれだけ眠っていたのか分からない。

 もしかすると、これも夢かもしれない。


 夢の方がいい。


 人が折角、真白ちゃんの顔を抱いて眠っていたのに、なんだって、その父親の顔に書き換えないといけないんだよ。


「何か……用ですか?」


 ずっとこちらを見ているので、話しかけてみた。

 痛さによる幻覚かもしれない、話しかけたら消えるかもしれない。


「礼を、娘を助けてくれた礼を言いにきたんだよ」


「あなたって、本当に非常識な人ですね。面会時間ではないはずですよ」


 それどころか消灯時間を過ぎている。

 真っ暗で、うすぼんやりとした照明が、ベッドの周りを照らしていた。

 ちらっと、ナースコールの位置を確認した。


「どうやって、入ってきたんですか?」


「どうやって?? ……別に普通に入って来た」


 そんなことってあるか?

 病院はそんな警備が薄い場所じゃないはずだ。

 やっぱり、椛島真中は妖怪かもしれない。

 妖怪だから、深夜に徘徊しているに違いない。


「旅行から帰ってきたら、この時間になっていてね。寝ていたのか?」


「見れば分かるでしょう。

……旅行……どこに行っていたんですか?

真白ちゃんを一人にして。

あの子が、どんなに心細い思いをしていたか。

あれほど言ったのに、どうして引っ越しをしなかったんですか?

真白ちゃんのこと、大事じゃないんですか?

大切な人が残した、たった一人の娘じゃないですか、なのに、なぜ?」


 帰って欲しかったはずが、質問責めにしてしまった。

 椛島真中は初めて会った時と同じように興味深そうな目で見つめた。


「そうだ、あの子は、私が愛した人が生んだ私の娘。

大切な娘だ。たとえ……」


 一旦、言葉を切った男は、一層、観察するように、しげしげと俺を見てから続きを言った。


「たとえ、君に私の全財産を与えたとしても、真白だけは与えられない」


「全財産?」


 思わず、鼻で笑ってしまった。


「おかしいか?」

 

 失礼だとは思ったけど、俺はどうしてもこの椛島真中という男が好きになれない。


「確かに、あなたの全財産よりも、真白ちゃんの方が価値が高いですよ」


「そうだな」


 微妙な沈黙が流れる。

 傷跡がじくじく痛んできた。

 熱も上がってきているようで、身体が熱いような寒いような不思議な気分だ。


「お礼は受け取りました。

出来るなら、明日の常識の時間内に、真白ちゃんの友達の家にも行ってもらえますか?

玄関先で流血沙汰をおこしたので、お詫びをしたいのですが、この身体なので、出来ません」


「それは、今日の夕方、もう済ませてきた」


 さっき帰ってきたようなことを言ってなかったかな、この男は。

 それとも、あのリサという子の家とこの病院は、移動するのに四、五時間かかるほど遠く離れているのか?


「そうでしたか」


「怒ってなかったぞ」


「……そうですか」


 退院したら、改めて、俺がお詫びに行こう。

 その前に、秋生か牧田に頼んで、もう一度、行ってもらおう。

 こんな浮世離れした人間が、どんな挨拶をしたのか、された方が困りそうだ。


「この期に引っ越しを考えて下さい。

いつまた、同じようなことが起きるとは限りません。

……あなたも、娘さんも、世間一般の美的感覚から言うと、かなり綺麗な顔立ちの部類に入っています。

もう少し、自覚と警戒心を持って行動出来ませんか?

うちの会社の部屋を使って下さい。セキュリティーは、万全とはいえませんが、それでも、今の部屋よりマシなはずです」


「私は、自分が美しい姿かたちをしているのを知っている」


「ああ、そうですか」


「それから、小野寺の部屋は使わない」


「なんでですか!!」


 怒鳴ると腹に響く。

 呻いている俺を横目に、椛島真中は平然としていた。

 この人、俺のこと嫌いなんだろうな。

 考えてみれば、真白ちゃんのことを、いつも泣かせている男だ。

 仕事とはいえ際どい格好もさせてしまった。

 仕方がないといえ、抱き上げたり、腰に手を回したり、べたべた触っていた。

 携帯を買い与え、毎晩、メールをしている。

 三十過ぎの男が、女子高校生にだ。


 ――そりゃあ、嫌いだろう。

 と言うか、俺が真白ちゃんの父親だったら、この傷跡に塩を塗りこむかもしれない。


 そう思うと、背筋が凍る。


「私には才能が無いんだ」


「はぁ?」


「文学の才能が無い」


 自信満々のはずの男の、意外な告白に、俺は素直に驚いた。


「何を言っているんですか?

あたなの本、どれだけ売れているか……」


「もう書けない」


 さすが親子だ。

 まっすぐに見つめる瞳が、娘そっくりだ。

 真白ちゃんは父親似だった。

 でも、言うことは、全然、違う。

 後ろ向きで、情けない。


「もう書けないんだ。

もともと、最初の小説自体が、まぐれみたいな話で、あの時点で、もう自分には才能も無いことは薄々、感じていた。

それでも、書くことに拘った。

妻が信じてくれたから、書けると思った。

でも、無理だった。

今回の話も、妻のおかげで書けたようなもので、彼女がいない今、これ以上は、何も書けない」


「そんな……」


「失望させたかな。小野寺冬馬。

だが、本当のことだ。

つまり、君が私の為という名目で用意してくれる部屋の家賃はほどなく払えなくなるし、経費で落とすにも反対意見が出てくる始末になるだろう」


 まだ印税も入っていない内から、随分、悲観的な意見だった。


「だから、小野寺の部屋は使わない。

私自身が、身の丈にあった部屋を探す」


「引っ越し、するつもりはあるんですね?」


 安堵した気持ちで俺は聞いた。


「ああ、こうなった以上、真白の為にもそうすべきだろう」


「もう小説は書かないのですか?

真白ちゃんの為と思うなら、そちらの方も頑張ってみませんか?

彼女は自分で大学にいけるほどの稼ぎは得ましたが、父親が自活出来なければ、将来的に不安でしょう」


 父親がしっかりすれば、俺がこんなに真白ちゃんを心配することはないだろうと思って提案してみた。

 なのに、馬鹿にされるように笑われた。


「君はひどい勘違いをしているね」


「どういうことですか?」


「私は君にそれを教えてやるほど親切ではない。

が、私なりに考えていることは教えてやってもいい。

印税が入るのはまだ先だが、テレビ出演は出演料が出る。

小説を書くよりも、確実にお金が入ってくる。

そっちの世界で頑張れば、真白が嫁に行くまでは、なんとかなるだろう」


 ついに熱が上がってきたようだ。

 身体が熱い。

 いや、これは怒りかもしれない。

 俺は椛島真中の言い草に怒っていた。


「真白ちゃんは、あなたの奥さんも、あなたが小説家になることを望んでいたんですよ。

そして、その願いは叶ったじゃないですか?

才能がないかどうかは、まだ分かりません。

少なくとも二作は傑作を書いた」


「受賞作の次に駄作は出せない!」


「書いてみなければ分からないでしょう!

あなたの書く甘ったるい小説は正直、好きじゃありません。

綺麗な話に書いているけど、自己満足で、自分勝手だ。

正直、なんで評価されているのか全く分かりませんよ!

でも、契約書の文章は好きですよ」


「なに?」


 ついに我慢できなくなってきた腹の痛みにを手で押さえ、顔には脂汗を浮かべながら俺は説得にかかった。


「もしかしたら、書こうとする小説が合ってないだけかもしれません。

あなたはどちらかと言うと、もっと経済とか政治とかの話の方が似合っています」


「そういうのが嫌で、逃げたんだよ!!」


 椛島真中が感情を露わにするのを初めて見た。

 傲慢だ。

 雨宮一のような気位の高さと、傲慢さを感じる。

 それがまたよく似合っている。

 委縮しそうな気持ちを奮い立たせなければいけなかった。


「なら向き合って下さい。今度こそ。逃げないで。

真白ちゃんの為なら、出来るはずです」


「お前は自分の出来ないことを、人にやらせるんだな」


「俺が……何を出来ないっていうんだよ!?

少なくともあんたよりは、真白ちゃんの為を思ってるよ!」


 険悪で、お互い感情が高ぶるあまり、言葉遣いが完全に崩壊していた。


 にらみ合っている途中で、突然、椛島真中がナースコールを押した。


「真白を助けてくれてありがとう。

私は母と妻、二人の大切な女性を早くに亡くしている。

娘まで失うことは耐えられない。

引っ越す先を見つけたら、真白を迎える。

それまでは不本意だが、小野寺の家に預けさせてもらおう。

真白を頼んだぞ。

あの子に小野寺の変な色がつかないように、お前がくれぐれも見張っておけ」


 最初は愁傷だったのに、後半はものすごい上から目線で吐き捨てられた。

 言った本人は看護師が来る前に、病室から出て行った。

 逃げた……と思う。

 あいつは、最悪だ。

 真白ちゃんの父親だけど、最低な人間だ。

 何かからずっと逃げている。


 一体、何から逃げているんだろう。


 そんなことを考えながら、再び意識を手放したせいで、最悪な夢を見た。

 あの女が出てくる夢だ。

 俺も逃げているんだ。

 分かっている。

 椛島真中のことを批判なんて出来る立場じゃない。


 頭も腹も、心臓も、何もかもが痛くて、身体がバラバラになった気分だ。

 無性に真白ちゃんに会いたくなった。

 明日の面会時間に、彼女に来てほしい。

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