5-3 コーヒーとオレンジジュース
ラウンジのカウンターの椅子は高くて、おまけに座面が回転するタイプだったので、よじ登るように座ってしまった。
こういう所に慣れていない感じが如実に現れる。
若社長はスマートに着席し、私が落ち着くのを見届けてから、自分の上着を脱いで、私の膝にかけてくれた。
上着を借りるのは、二度目だ。
今度は、ミントの香りがしないのが残念だ。
同じ香水をつけているはずなのに、私が付けた時と、若社長が付けた時では香りが違う気がする。
「オレンジジュースを。
君は、どうする?」
「えっ?」
「えっ?」
「若社長が飲むんですか? オレンジジュース」
「そうだよ。仕事中だからね。なんで?」
私向けのお子様注文かと思ったけど、口には出来なかった。
「ええっと、コーヒーかな? と思って」
「ここはコーヒーより、オレンジジュースの方が美味しい」
若社長が苦笑交じりで、バーテンダーを見た。
「申し訳ありません。コーヒーリキュールのお酒なら、自信がありますよ。
カルーア・ミルクなどいかがですか?綺麗なお嬢さん?」
「この子、未成年だから」
「えっ? ……それは、大変失礼いたしました。
確かに、よく見れば……幼い……お若いお顔ですね」
「いいえ、あの、私もオレンジジュースを下さい」
何を頼んでいいのか全く分からないので、若社長に追従する。
それに、今まで、若社長のお勧めで、美味しくなかったものはない。
注文を受けて、先ほどの店員さんが、オレンジを取り出して、手動で絞る器具に設置する。
一つ一つ丁寧に絞るようだ。
感動して、バーテンダーさんの手つきを凝視していると、店の入り口の方で、争う声が聞こえた。
声に釣られて、振り向こうとした瞬間、若社長に止められた。
椅子ごと、彼の方に向かされる。
「こっちを見てて」
「……どうして?」
問いかけの言葉も、人差し指で封じられてしまった。
そして、ここでも近い。
エリィによって、マスカラで睫を長く濃くされたせいで、その先端が若社長の顔に刺さりそうなくらい近い。
若社長もそれに気づいてか、少し身を引いてくれたけど、こちらを監視するみたいに、視線は外さなかった。
どれくらいこの状態でいないといけないのかしら?
若社長に見つめられるのは苦手だ。
特に今は、化粧が濃い。
童顔に濃い目の化粧は、滑稽に見えているかもしれないと思うと、恥ずかしくて目を伏せたくなる。
けれども、こうなったら、視線を外せないのも知っている。
うっとりと、吸い込まれそうになる。
「真白ちゃん?」
「はい」
「……オレンジジュースが出来たみたいだよ。
あと、もう大丈夫だから」
夢見心地の気分だったのに、いきなりまた、椅子ごと最初の位置に戻される。
「何が大丈夫なんですか?」
なんだか馬鹿にされた気分だ。
こんな風に振り回されるのはいつものことで、いい加減、慣れてしまいたい。
「こっちの話。君は知らなくてもいいことだよ」
「そういうのは……優しさとは違うと思います」
ミントの葉が乗せられた絞りたてのオレンジジュースを口に含む。
悔しいけど、美味しい。
ストローを噛んでしまう。
口を離すと、べったりと口紅が付いている。
こういうのは、あんまり美しくないかもしれないと思ったが、どうしていいのか分からない。
ちょっとだけ大人になった気分は、気のせいだったようだ。
どうしても、自分は子供だと思い知らされる。
「ごめんね。
君に余計な心配をさせたくないんだ。
そうでなくても、何か不安に思っていることがあるんじゃないの?」
私は若社長のそういう所が嫌いだ。
そして、そういう所が大好きだ。
「メールでも電話でも、何を聞いても、大丈夫、大丈夫。
本当に平気なの?」
「分かりません」
「えっ?」
「何が不安か分からないんです」
ずれてしまった若社長の上着をたくし上げる。
香りを失った上着は、なんだか自信がなさそうだ。
「あの、若社長は大丈夫なんですか?
ミントの香水、お返しします。
お揃いは嫌ですものね。気が付かなくってごめんなさい」
「別に、無くても平気だよ。
でも、そうだね、返してもらおうかな。
その代わり、真白ちゃんには、もっと似合う香りを用意させるよ。
どんな香りが好き?」
「いえ、今はいいです。
私にはまだ香水は早すぎました。
高校でも禁止されているから、あんまり付けて歩く場所もないですから」
本当は家に居る時、手首につけて楽しんでいるせいで、ほぼ空に近いのだけど、私が付けたものを返す訳ではない。
私がこの香りを使わなければ、若社長はまた、あの香りを使えるようになる。そういうことだ。
そうしたら、緊張することの多い、彼の仕事に安らぎのひと時を取り戻せる。
「そう? そうだね、君は香水をつけなくても、いい香りがするよ……」
不意に若社長の手が伸びてきて、宙で止まった。
それから、慌ててひっこめると、背を向けてしまった。
「これ、本当にノンアルコール?」
「勿論です」
若社長の小声の問いかけに、バーテンダーが心外そうに答えた。
そのバーテンダーさんが、私に小さな皿に載ったチョコレートを差し出してきた。
「これは、私からの心ばかりの品です。
下に入っているショップのショコラティエの作品です。
美味しいですよ。
勿論、アルコールは入ってませんから、安心して下さいね」
「あ、ありがとう……ございます」
「俺には無いの?」
「ございません。
綺麗なお嬢さん限定ですから」
白い小さな四角い皿の上に、ボンボンショコラが二つ載っているから、一つつをあげようかと申し出たが、断られた挙句、「君が貰ったものだから、君が食べるといいよ。でも、見ず知らずの男から、お菓子をあげるからと言われても、ほいほい付いて行っては駄目だからね」と、小学生にされるみたいな注意を受けた。
「そんなことしません。
折角、好意で言ってるのに、そういう言い方はヒドイです」
怒っているのに、微笑まれてしまった。つくづく掴みどころの無い人だ。
もっと怒るべきなのかもしれないが、惚れた弱み、若社長に笑われると、手も足も出ない。
おまけにむくれたまま頬張ったチョコレートは、やっぱり美味しくて、顔が綻ぶのを止められない。
これはバーテンダーさんからのだけど、若社長の指摘したように、私ったら、甘い物さえ食べていれば機嫌が良くなる生き物のようだ。情けない。
「で、さっきの話。
不安な気持ちにはなるんだね」
チョコレートを頬張ったまま頷く。ねっとりとしたアーモンド風味のクリームが入っていた。
歯に口紅かチョコがついていないか、確認したい。
「どういう時に、特に強くなる?」
私は片手で口を隠しながら、懸命に思い出してみた。
「そう……ですね。
家に居る時。一人で居る時が、一番、不安になります」
それは、一人で静かな部屋に居ると、悶々と考え込んでしまうせいだ。
なるほど、ミントの香水の消費量が多くなったのも頷ける。あの香りを嗅ぐと、若社長が守ってくれるような気がして、安心するのだ。
「一人になることって、最近、多いよね?」
今度も、黙って頷く。
若社長が眉を潜めた。
「君のお父さんを悪く言いたくないけど、夜遅くまで、頻繁に飲みに行くみたいだね」
「ええ……それも、女の人が居るお店です」
高級なクラブみたいな所に行っているらしい。
朝に起きると、テーブルに何枚も女の人の名刺が置いてある。
浮気……母は亡くなっているから、そういう言い方はしないのかもしれないし、実際、女の人とはその場限りみたいなのだけど、娘としては複雑な気分だ。
若社長が女遊びするのは元からだけど、父はこれまで母一筋だったはずなのに。
「うちの会社じゃないからね。
……他の出版社やTV局が、君のお父さんを接待名目で連れ出しているんだ」
「父も断らないのです」
あらかたの事情は戸田さんに聞いて知っている。
父を心配して、戸田さんまで付き合って飲むから、最近、疲れているように見える。
父は家に帰って寝ればいいけど、戸田さんは勤め人なのだ。
そのこと指摘したら、もう付いてこなくてもいい、と素気無く言われた。
とにかく、最近の父は何を考えているか分からない。
一人で父を待っていると、そういう気持ちが募って不安になるのだろう。
「真白ちゃん、夜中まで一人で居るなんて、絶対に良くないよ。
今からでも、こちらが用意した部屋にくればいい。
缶詰用の部屋だから、家電も家具も揃っているから、いつでも入居出来る」
「大丈夫ですよ」
「ほら、また」
再び、椅子ごと向きなおされる。
「分かってます。
若社長が心配してくれるのは嬉しいです。
でも、私、父の気持ちも分かります」
「どんな気持ちだよ。
可愛い一人娘をほったらかしにして、遊び歩く親の気持ちなんて、俺には分からないね」
可愛い……これって、父親の娘に対する一般的な感情を指した形容詞として使っているよね。
そのことは深く考えるまい。
「そうではなく。引っ越せない理由です。
あそこは……母と過ごした場所ですから。
思い出があるんです。
私にも……です」
「あ……そうか、そうだよね。
そういうものだよね、普通は」
私から目を逸らして、若社長は自分のオレンジジュースを一口飲むと、「俺は小さい頃から、転々として暮らしてきたから、一か所に思い入れを持ったことがないんだ。配慮してあげられなくて、申し訳ない」と呟いた。
それに私が答える間もなく、また質問を続ける。
「他には?不安になるのは、家に居る時だけ?
学校ではそんなに気にならない?通学途中は?」
なぜ、そうも細かく聞くのか理解出来なかったけど、若社長に聞かれた以上は、必死に考える。
そうすると、今まで漠然と感じていた不安が、少なくとも場所と時間だけは明確に浮き上がって来た。
「そう言えば、学校ではあんまり不安な気持ちにはなりません。
友達が居るし、授業は集中して受けられます」
姫ちゃんの姿を垣間見た時だけは別だけど。
それは言わないでおこう。
「それから、通学途中も平気です。
自転車で飛ばすと、気分が良いくらいです。
交通規則は守ってますからね!」
また小学生並の注意をされると困るので、急いで付け加えた。
しかし、若社長は聞いてはいないようだ。
「あとは? 買い物中とかはどう?」
「うーん……あ!」
「何?」
「変な話なんですが、平日のスーパーでは感じないのに、日曜日の図書館はなんだか気持ち悪い気がして、最近、行っていません」
もう一口、オレンジジュースを飲む若社長の口元を凝視する。
考え事をする時、奥歯を噛みしめるみたい。
「日曜の図書館……」
「はい」
「いつも行ってたの?」
「はい。それはずっと。父が家に居ても居なくても、図書館には行っていました。
あとは……私、バイトを辞めてから、近くの児童館でボランティアみたいなことを週二日ほどやっていたんですけど……」
「その時も?」
自分でも気が付かなかったけど、若社長に促されてみると、私の不安感には規則性がある。
私の内部からこみ上げると言うよりも、外部から与えられているみたいだ。
それが引き金になって、自分の中の不安が湧きあがっているにすぎない。
「え……でも、なんで」
「最近、変な電話とか手紙とかはある?」
戸惑う私に、若社長はさらに畳み掛けてくる。
「電話は最初の頃はすごかったですけど、戸田さんに電話番号を変えてもらってからは、すっかり止みました。
手紙は、明らかに内容の分かる、公的な知らせとかは開封しますが、残りは、やっぱり戸田さんに預けるようにしています。
父宛にちょっと変わった手紙も交じることがあって。だから、ここ最近のことは、よく知りませんが、まだ続いているかもしれません。
いろいろ、ご迷惑おかけしてすみません」
「いや、それも仕事の内だから。
君のお父さんは、うちの大事な稼ぎ頭だし……こんなこと言ってごめんね。
そうそう、映画化の話も出ているから、ますます、人気が過熱するね。
エリィが主役の座を狙っているけど、君に何か言うようなことがあっても、断っていいからね。
遠慮はいらないよ。俺も絶対、推薦しない」
廊下に締め出されたことを根に持っているのかもしれない。
「エリィ……さんは、素敵な人ですね。
若社長の恋人ですもんね、当然ですけど!」
自棄になって言ってみる。
「……うん、まぁ。だね」
漠然とした答えが返ってきた。
私と若社長の関係も謎だけど、エリィとの関係もかなり謎だ。
週刊誌では、見たくない、知りたくないと言いつつ、実は見てしまう記事では、エリィと若社長は、こういう場所でいつもデートしているのに、エリィはサバサバしているし、若社長は歯切れが悪いって、どういうことなのだろう。
これも私の分からない大人の世界の付き合い方なのだろうか。
「一応、一瞬、結婚してもいいかな、と思ったんだけどね」
突然の告白に、息が止まるかと思った。
「だけど、タイミングが合わなくって、止めたんだ」
意味ありげに見られたのは、私の反応を知りたいからだろうか。
平気なふりをするのは困難かと思ったけど、話が飛びすぎて、感情がついていかなかったせいか、思いもかけず冷静だった。
「だから雨宮家との縁談は断ったんですか?
姫ちゃんより、エリィと結婚したかったから?」
「いいや、真白ちゃん。
俺、人に追いかけられるの、嫌いなんだ」
そう言った、若社長の顔は今まで見たことがないほど冷酷だった。
見たくない、読みたくない週刊誌の記事に書いてあった。
姫ちゃんほどではないけど、妖精の騎士に憧れた同級生は多くいて、その子達から回ってくる記事の誘惑に打ち勝てない。
その中で、若社長がかつて付き合っていた女の人のインタビューで、彼の身体には何か所も傷が残っていると言う話が載った。
なんでそんな事を知っているかは、まぁ、大人同士なので、そういうことなのだろうし、今更、嘆いても仕方が無いことだ。
もっとも、家に帰ってから泣いたけど。
でも、それは、そのことだけじゃなかった。
傷跡の理由。
週刊誌の記者は、若社長が実の父親に虐待されていたことを突き止めたのだ。
実の父親に追い掛け回されたせいで、彼は誰かに追いかけられるのが嫌いなのだ。
それが愛情であれ、憎悪であれ、彼にとっては同じことなのだ。
けど、姫ちゃんは、若社長に会うために頑張っているのに、それが嫌われる原因になるなんて、それはあんまりだと思った。
だったら、どうやって、若社長に会えばいいのだろう。
会わなければ、自分という存在を知ってもらえないではないか。
それすらも無用と言うのだろう。
意を決して聞いてみた。
「そうだね。
ちなみに、追いかけるのも嫌いだから、つくづく恋愛には向かないタイプなんだね」
「私の事は引き留めたのに?」
追いかけてしまったかも。
嫌われてしまったらどうしよう。
きっと泣いてしまうと思ったけど、若社長は目を見張って苦笑しただけだった。
まるで、コーヒーは駄目だけど、オレンジジュースだったらいいと言われているみたいだった。
若社長の携帯が鳴る。
きっかり三十分で、東野部長は部屋の鍵を開けることにしたようだ。
促されるまま、残りのチョコを口に入れ、オレンジジュースを飲みこんだ。
オレンジ風味のチョコレートはあんなにも美味しいのに、どうして、チョコとオレンジジュースはこんなにも相性が悪いのかしら。
チョコの甘さでオレンジの苦みが際立つ。
甘ければ甘いほど、苦みが際立つ。
その苦みを受け止める覚悟がなければ、この人の優しさを享受してはいけないのだ。
だから、帰りのエレベーターで「そうだ、さっきのバーテンがおススメしてたカルーア・ミルク。成人したからと言って、すぐに飲んだら駄目だよ」と言う、お説教も、我慢して聞いた。
「と言うか、初めてお酒を飲むときは、飲み易いからと言って、甘いのは駄目。
自分の適量を分からない内は、外で飲むときには気を付けないと。
特に、今みたいに、男と二人で飲むときは、甘いカクテルを勧められても断るんだよ。
そういうのを勧める男自体、信用しない方がいい。
席を立つときは、飲み物を残さないように。
もし、飲んでいる途中に、席を立ったら、新しいのを注文して、前のには手をつけないで、下げてもらいなさい。
……ちゃんと、聞いてる?真白ちゃん」
「あっ、はい! 気を付けます!」
「じゃあ、約束。……何があっても、きっと守ってね」
一瞬の空白に入る言葉はおそらく、『君と俺の間に』だ。
優しくしてくれるのに、いつでも突き放す気でいる若社長に、私は出来るだけ縋り付こうと思った。
離れてしまったら、追いかけないといけなくなるから。
追いかけたら嫌われてしまう。
勿論、追いかけてきてもくれないのだ、この人は。