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妖精とクマ  作者: さぁこ/結城敦子
第四章 小野寺冬馬の葛藤。
24/60

4-6 朝の別れと、昼の再会

「これ、お返しします」


 いつもはきちんと挨拶する子なのに、今朝は出し抜けに用件だけ言われた。


 俺の座っている席のテーブルに、携帯電話が置かれた。

 真白ちゃんに預けていた、黄色の子供用の携帯電話だった。


「別に、持っていても構わないのに」


「持つ理由がありませんから。

もう、必要ないと思います。

ここでのお仕事も終わりましたから、連絡することも、されることもないでしょう?

持っているだけでお金がかかると聞きました。

解約しようと思ったのですけど、私が契約したものではないので……」


「お金の心配はいらないよ。

そんなに高額じゃない……」


「お金の問題じゃありません」


 ぴしゃりと、遮られた。

 とにかく、この携帯を手放したいと言う訳だ。


「若社長に……そんなことして頂く理由もありません。

今は、もう、ないんです。そうじゃないですか」


「そうだね」


 一言一句、彼女の言う通りだ。

 プロジェクトのイメージモデルはエリィに移り、『妖精』はもういない。

 作家の父親は小野寺出版を代表するベストセラー作家になりかかっているが、その娘に携帯電話を経費でも私費でも使わせるなんて聞いたことはなかった。


 俺と彼女を繋いでいるものなんて、無いに等しい。

 無関係の人間から、携帯電話を持たされているなんて、どう考えてもおかしいのだ。


 俺は真白ちゃんが置いた携帯を受け取った。


「ありがとう。

ちゃんとお礼を言ってなかったね。

ずっと、気になっていたんだ。

あんなに助けてくれたのに、ちゃんとお礼を言ってなかった。

本当にありがとう。君がいてくれて、助かったよ」


 立ったままの真白ちゃんを見上げて感謝の言葉を口にした。

 これだけは伝えないといけなかったのに、俺が変に意識したせいで、社会人として、人間として、あるまじき礼を失していた。


 真白ちゃんは、今度も顔を赤らめたが、動揺は少なくとも、俺には見えなかった。


「いいえ。

私もいい経験が出来ました。

たくさんお金も頂けましたし……それに」


「それに?」


 俺は真白ちゃんに続きを促した。

 強気に振れた彼女はきっと、言うに違いない。

 そうしたら、今度こそ、きちんと突き放すことが出来る。

 真白ちゃんは傷つくかもしれないけど、こんな宙ぶらりんのままよりは、よほどすっきりするはずだ。

 違う。彼女ではなく、俺がすっきりしたいのだ。


 けれども、彼女がこうして、俺に携帯を返しに来たのも、『決着』をつけたかったからだと思う。

 俺が彼女に渡したものは、この使われなかった携帯だけのはずだ。

 それを持ち続けることは、俺とも繋がりを持つということだ。


「若社長は、前に私にした質問を覚えていますか?」


 綺麗な手を、ぎゅうっと握りしめて、彼女は聞いた。

 以前は、荒れていた手が、見違えるようだ。

 母もそうだった。

 前ほど苦労していないのが見てとれて、安心した。


「覚えて……いませんよね」


 俺の沈黙を誤解して、彼女は寂しそうに笑った。


「いや、覚えているよ」


「嘘です」


「嘘じゃない。

当ててあげようか?今度こそ」


 彼女ばかりに話させるのは、公平ではないと感じた。

 相手はまだ子供で、俺は大人なのだから。


「……『美女と野獣』」


 俺の知っている三つ目の話は、フランス語で読まされた本に載っていた。

 あの時も、思い浮かんでいたけど、口に出すのは躊躇われた話だった。

 意を決して言ったのに、なんと、真白ちゃんは頭を横に振った。


「……外れです」


「えっ……」


 声が出てしまった。

 嘘だろう。俺の独り相撲かよ。

 考えてみろよ、こんな可愛い子が、俺のこと、好きな訳ないだろうが。

 腹いせに、牧田の奴に、面倒な仕事をさせてやる。

 なんなら、あの資料室に1週間くらい放り込んで、『主』の下で働かせる。

 『美女と野獣』だなんて言い出して、俺を混乱させたのはあいつだからな。

 いや東野部長だったかな。それとも、母さんか……。

 思いっきり人のせいにしないと、平静を保てない。

 恥ずかしすぎるだろう。

 よりにもよって、こんな年下の女の子相手に、こんな勘違いするなんて。

 あの女の顔まで思い出してしまったじゃないか。


 大体、真白ちゃんも悪い。

 世の中の人間が盛大に勘違いするから、そんな風に、ウルウルした目で男は見ない方がいい。

 俺は大人で、真白ちゃんは子供だったから良かったけど、もう少し彼女が大人になったら、勘違い野郎が大量に湧いて、雲霞のごとく、君に集まってくるぞ。


 最初の被害者として、新たな被害者を出さないためにも、なによりも、それによって彼女が将来、面倒に巻き込まれないように、この人騒がせな少女に、苦言を呈しておかないと。


 そう思ったのに、「やっぱり迷惑でしたよね」と言われると、黙ってしまう。

 と言うか、どういう意味だよ、それ。

 思考回路が謎するぎる。

 段々とイラついてきた。

 はっきりさせたいんだよ。

 俺の勘違いなら、それでいいよ。

 真白ちゃんが傷ついていないのなら、俺一人が恥ずかしいぐらい、構わない。

 なのに、なんだって、俺を惑わすようなことを言うんだよ。


「ごめんなさい。

私、若社長に勘違いさせました」


「その通りだよ」


「だって、当てられたくなかったんですもの。

だから、当てられない様にしました。

ごめんなさい!

本当は童話じゃなくって、童謡の方なんです。

初恋の君は」


「へっ?」


 真白ちゃんは祈るように、胸の前で手を組んだ。


「クマさんが好きだったんです」


「はぁ?」


 さっきから変な声しか出ない。


「森のクマさん……ご存知ですか?」


「ご存知ですよ」


 自分に敬語を使うなんて、社会人失格なことをしつつ、真白ちゃんに答えた。

 森のクマさんは、小さい夏樹に何度か歌ってあげたことがあるが、俺も秋生もその歌は嫌いだった。


「あれ、クマが追いかけてくる歌だよね」


「そうです。

クマは自分は危険だから女の子に逃げるように警告するのに、なぜか、後から追いかけてくるんです」


 改めて嫌な歌だ。

 なのに、彼女は好きだと言うのだ。

 そのクマが。


「女の子が落とした物を届ける為に追いかけてきれくれるんです。

その歌を聞いた時、なんて優しいクマさんだと思いました。

母は、そんな私の為に、怖い顔をしたクマのぬいぐるみを作ってくれたんですよ。

……若社長と初めて会った時……」


 真白ちゃんの後ろに、あの自販機が見えた。


「初めて会った時、クマに似ていると思いました。若社長のこと。

優しいクマさんに……よく似ています」


 曇っていた空から、突然、太陽が顔を出した。

 まだ日の出からすぐの若々しい太陽が、真白ちゃんを照らしている。


「迷惑と思われていたのは知っています。

若社長は優しいから、そうとははっきり言わないでくれたのも、知っています。

それどころか、私を心配してずっと助けていてくれたのも。

でも、もう終わりにします。

だから、携帯を返そうと思ったんです。

本当は、電話が繋がった人に返して、そのまま忘れてしまいたかった。

なのに電話は若社長に繋がってしまって……」


「繋がったから……思ったんです。

迷惑ついでに、私の気持ちを、伝えてもいいんじゃないかって。

せめて、知ってもらいたいんです私が……」


 真っ直ぐな視線を受け止めることは出来たけど、言葉は出なかった、

 真白ちゃんは途切れながらも、話すのを止めなかった。


「私、若社長のこと、好きでした。

優しくして下さって、ありがとうございます」


 告白された。

 ただし、過去形で。

 振られたのだ。彼女の方から、俺を振ったのだ。


 俺はこれを待っていたのか?

 確かに、そうだ。

 俺はこれを待っていたはずだ。

 真白ちゃんが自発的に俺から離れていくように仕向けたじゃないか。


 これではっきりさせられる。


 でも、納得出来ない。

 俺は優しくなんかない。

 君に優しくしてあげられなかった。

 礼を言うのは間違っている。

 もっと、もっと優しくしてあげたかったんだよ、俺は。君に。


「もう行きます。

最後にちゃんと伝えられて良かったです。

迷惑をかけてごめんなさい。さようなら」


 何も言えない俺を見限るように、真白ちゃんが去って行く。


 それでいいのに、なぜか、俺は真白ちゃんの手首を掴んで引き留めてしまった。


「離して下さい」


 細い手首は、簡単に折れてしまいそうで怖い。

 執着は醜い感情だ。

 今まで、何人もの女の子に振られてきたけど、引き留めたことなんかなかったのに。

 なのに、真白ちゃんは離せない。


「離して」


 きっぱりと、言われた。

 強気、ではなく、決意に満ちた瞳で拒絶された以上、手を離すべきだ。

 食堂にも全く人がいない訳ではない。

 誰かに見られたら、何をやっているかと思われるだろう。

 頭では分かっているのに、身体が動かない。


「お願い……離して下さい」


 三回目の懇願で、やっと手の力を緩めた。

 真白ちゃんは、それでも手を離さない俺に、戸惑いを見せながらも、自分から手首を抜いた。


「ごめん。さようなら。元気でね」


 それだけ言うのが精一杯だった。

 こちらを振り向くことなく、エレベーターに乗り込んだ彼女の姿を見送りながら、俺は茫然とその場に座った。


***


 どれくらい経ったのか、牧田が慌てた様子でやってきた。


「ここにいたんですか?」


「どうした?」


 気のない様子で返事すると、牧田は苦りきった声で言った。


「庶務の発注ミスで、山のようにトイレットペーパーが届いています」


「どれくらい?」


 秘書室長の答えた数は、到底、信じがたいものだった。

 発注した人間の入力ミスで、桁を間違えたらしい。

 受注した方も、さすがにおかしいと気付くべきだったのに、どうも新人だったらしく、そういうものかと素直に受けてしまったらし。


 量が量なので、朝早く運びこもうとして、警備員と押し問答になっている時、たまたま早めに出社した牧田の目にとまったそうだ。


 しばらくして、連絡を受けて急ぎ出社してきた担当者と直々の上司が恐縮する中、俺は、怒る気力もなく、淡々と処理を行った。

 とりあえず、持って帰ってもらえる分はそうしてもらい、後は、小野寺グループ各社の庶務に連絡して割り振ってもらった。

 うちは母の清掃会社があるので、そこで大部分は消費して貰えそうだ。


 そう、こんなことは大したことじゃない。


 施設部が間違って、部内の飲み会に関するメールを社内に一斉メールを送ったことも、それを隠すために、システムを故意にダウンさせたことも、近日発売予定の本に重大な誤植が発見され、社内総出で、訂正表を差し込む作業をする羽目になろうとも、そんなことは大したことじゃないのだ。


「社長、ここに居たんですか」


「今度はどうした?」


「まだ、どうもしてないですけど。

社長が訂正表を挟まなくても……と」


「仕事に余裕がある社員は、全員、手伝うように、との命令だ。

俺は、今日、忙しくない」


 なにしろ、朝の三時から仕事をしていたからな。

 一人、社長室で手持無沙汰になるくらいなら、みんなと一緒の場所で、社員同士の小声で交わされる会話を聞きながら、黙々と訂正表を挟み込んでいる方が、余計なことを考えないで済む分、よほどいい。


「にしても―――まぁ、いいですがね。

今日は大きいのから小さいのまで、トラブル続きで、厄日としか思えませんよ」


 牧田の言う通り、今日は厄日だ。


「なのに、よくそんな冷静でいられますね。

大丈夫ですか?

優しいのはいいですが、さすがに、ちょっとは怒ったり、せめて、注意するくらいはして下さいよ。

部下に示しがつきません」


 俺は手も止めずに、答えもしなかったら、隣で訂正表を挟んでいた資料室の『主』が「ひっひっひ」と笑った。


「冬馬社長は傷心でいらっしゃる。

今日は、みんなに優しくしてあげたい気持ちのようだ。

あまり責めては可哀想だぞ、秘書室長」


「えっ? そうなの?

って、何があった?」


 心配する牧田を余所に、俺は『主』を睨んだ。

 なんだって、隣に座ってしまったのだろう。

 ……そうだ、誰も座っていないのは、ここだけだったんだ。


「……なんで貴方がそんなことを知っているんですか?」


「この社内のことで、わしが知らないことはないぞ」


 スパイどころか、盗聴器でも仕掛けているんじゃないのか。


「ついでに予言も出来るぞ。

今日はもう一つ、大きなことがある」


「嘘だろう……これ以上、トラブルは勘弁しれくれよ」


 なんだかんだ言いながらも、立ったまま訂正表を入れ込んでいた牧田が呻いた。


「悪いことではないぞ。我が社にとっては。

しかし、冬馬社長にはどうかな」


 不吉な予言が告げられた瞬間、戸田文芸部長が飛び込んできた。


「大変です!!」


 俺と牧田は顔を見合わせた。


「今度はなんですか?」


 牧田が聞き、戸田部長が答えた。


「大変なんですよ。

真中さんが!椛島真中先生が……」



「ああ、もう、その名前は今、聞きたくないんだよ!!」



 バンっと、机の上に訂正表をぶちまけた。

 トイレットペーパーは使えばいい、システムは復旧すればいい、誤植は訂正表を挟むという解決策がある。

 じゃあ、真白ちゃんのことは? あの子にどう接すれば良かった? どう接したかった?

 考えない様にしているのに、父親の名前なんか聞いたら、思い出してしまうだろう!


 訂正表を入れるために解放された大会議場の中が静まり返った。

 始業前から大中小、合わせて様々なトラブルに見舞われた今日の小野寺出版で、唯一、泰然とし、温厚な態度を崩さなかった社長の乱心に、その場に居合わせた全員がびびっていた。

 いや、もう一人、飄々としていた『主』だけが「へっへっへ」と笑った。


「縁と言うのは、そうそう簡単に途切れるものではありませんねぇ」


 一度は、俺の八つ当たりにひるんだ戸田部長も、これだけはどうしても伝えたかったのだろう、負けじと机を叩いて叫んだ。


 静まり返っていた部屋が、歓喜に沸いた。


 椛島真中が、権威のある大きな文学賞を受賞したと言う知らせだったのだ。


***


 まさか、朝に別れた子に、午後にはもう会うことになるとは思わなかった。


 長らく該当作無しとされてきた某文学賞に現れた、久々の受賞作の作者への記者会見が求められ、小野寺出版が段取りを行うことになったのだが、当の本人に連絡がつかなかったのだ。

 一報は届いているはずなのだが、全ての準備を娘に任せて、どこかに行ってしまった。


 おかげで、泣きはらした真白ちゃんが、父親の代わりに社長室にやって来た。


 涙に濡れる女の子を、周りのみんなは不遇だった父親が、やっと日の目を見たことに対する感動のせいだと思った。

 それもあるかもしれないが、受賞の連絡から二時間も経ってない割には泣きすぎに見える。

 ひどい顔だった。

 朝からずっと泣き続けているみたいだ。

 制服のスカートも皺だらけだった。

 そう言えば、学校に行っているはずなのに、この時間に自宅に居たのもおかしい。

 受賞発表があるという、事前連絡はなかったはずだ。

 『主』が知っている方がおかしいのだ。


 永井秘書がコーヒーと保冷剤を包んだタオルを持って来て、真白ちゃんに渡した。


「目を冷やして下さいね」


「……ありがとうございます」


 声も随分枯れているように聞こえた。


 問い合わせや、会場準備で活気に沸く……特に今日はトラブル続きで、みんなうんざりしていたせいもあって……余計に喜色に満ち溢れた社内だったが、俺は素直に喜べなかった。


 真白ちゃんの顔を見るのが辛い。

 父親はどこに行ったんだよ。

 高校生の子供に大事なことを任せて、居なくなるって、どういうことだよ。

 父親なら、この子が朝からずっと泣いて、学校にも行っていないのを知らないはずがないだろう。


 そこまで考えて、俺は、椛島真中の得体の知れない姿を思い出した。

 何を考えているか分からない妖怪のような人間だった。


 分からないと言えば、時間になったら迎えにきて欲しいらしいが、どこに行けばいいのか知らされていない。

 なのに、記者会見に着ていく洋服だけは、しっかりと書いてあって、暗に準備するように指示されていた。


 真白ちゃんから渡された手紙に、俺は顔をしかめそうになったが、彼女に見られたら、また傷つけると思って、我慢した。


 井上常務がやって来て、事情を知るや、「では、私が父と一緒に迎えに行きましょう。車を使わせてもらいますが、よろしいですね」と当たり前のように言った。

 あまりにあっさりと言うものだから、てっきり、意味が分からないのは俺だけで、他の人間には普通のことなのかと思ったほどだった。


 そんなはずがないのは、牧田も驚いた顔をしていてくれたからだ。

 

 『主』といい、井上常務といい、小野寺に仕える古参は、超能力者か何かか?

 いや、そんなはずもない。

 何か引っかかった。

 古参連中は何かを隠している。

 しかし、その正体を突き詰める前に、真白ちゃんの様子が気になって、その問題に集中出来なかった。

 もっと真面目に考えるべきだったとは思う。

 思うが、打ちひしがれた真白ちゃんを前にして、他のことなんか考えられなかった。


 お馴染みの場所になった社長室のソファーの上で、目にタオルを当てている彼女に、恐る恐る聞いた。


「今日、学校は」


 黙って、首を横に振る。


「お昼ご飯は食べた?」


 また、首を横に振った。


「朝は?」


 さらに、首を振る。


「……昨日の夜は?」


 反応がないのを見ると、どうやら昨日の夜から何も食べていなようだ。


 吐きそうだ。

 そう言えば、俺は何か食べたかな、と朝からの行動を振り返ると、自分も何も口にしてなかったような気がする。

 夜も、エリィのナッツを一つ二つ摘まんだだけだったかも。


 どうりで胃がキリキリする訳だ。


「何か食べに行こうか」


 やっぱり反応はない。


「俺と一緒に行くのが嫌なら、誰か、永井秘書にでも付き添ってもらおう。

お願いだから、何か食べに行こう。なんなら届けさせる。

何も口にしないのは、身体に悪いよ」


「嫌じゃありません……でも……」


 真白ちゃんがフラフラと立ち上がって、何か言おうとしたが、その前に、気を失った。


 倒れ込む彼女を受け止めて、抱き上げた。


「冬馬……」


 あれ、牧田が居たのか。

 今の会話聞かれていたとしたら、まずいな、と思いつつも、それどころじゃない。


「医務室に連れて行く」


「えっと、お手伝いすることは?」


「ない」


「ですよね……あ、医務室には連絡を入れておきます」


「そうだな、ありがとう」


 真白ちゃんは、はっきり言って重い。

 気絶していることもあって、全体重が腕にかかっていた。

 俺もお腹が空なのを気づいたせいで、若干、フラフラしている。

 それに、睡眠時間がほとんどなかったのも思い出した。

 普段ならともかく、今は、彼女を落とす前に、十二階にある医務室まで連れて行きたい。


 廊下に出ていた社員に好奇の目を浴びせられながら、医務室にたどり着き、真白ちゃんをベッドに寝かせた。


 駐在していた医師に見せると、軽い貧血らしいとのことだった。

 昨日から何も食べていないことを話すと、点滴を打ってくれた。

 運良く『妖精』の健康管理を担当してくれていた医師で良かった。

 健康診断の時のカルテも残っていたし、顔見知りだったので、話は早かった。


 そのまましばらく休ませることにした。


 仕事に戻らないといけないのに、そういう気にならず、傍らに置いてあった椅子に座って、寝顔を見つめた。


 眠っている真白ちゃんの顔は、あどけない。

 こんな子を、ここまで追い込むほどの価値が俺にあるとは思えないけど、もう、あんな顔をさせるのだけは絶対に嫌だと思った。

 

 涙の跡が残る頬に、手が伸びた。


「冬馬!」


 咎めるように名前を呼ばれた。

 振り返ると、清掃会社の制服を着た母が立っていた。


「真白ちゃんが倒れたと聞いて来たの。

ここは私に任せて、上に戻りなさい」


「……嫌です」


「えっ?」


「嫌です」


 息子に反抗されて困り切った母親の顔があった。


「どうしてですか?

ただ優しくしてあげたいだけなんだ。

真白ちゃんだって、本気じゃない。

この年頃の子によくある、はしかみたいなものだ。

もう少し大人になったら、すぐに彼女に相応しい男が現れて、あんな時もあったなって、鼻で笑っちゃうような話だよ。

それまでは、ちょっとくらい優しくしてあげてもいいじゃないか。

俺は別に、彼女を恋愛対象としては見ていない。

妹や姪みたいだと思っている。

母さんが心配するようなことはないし、あり得ないんだよ。

だから、優しくするくらいいいじゃないか。

なんで、みんなは彼女に優しくしてあげても文句を言われないのに、俺だけは駄目なんだよ」


 母は『あの女』のことを知らない。

 知っていたら、俺が真白ちゃんに同じことをするとは思わないだろう。

 けれども、それは一生涯、胸に秘めていくことだから、口には出来なかった。


「今まで付き合ってきた子は、みんな、俺が優しすぎるからつまらないと、去っていた。

真白ちゃんも、優しくしたら、興味を失うかもしれないよ。

反対されると、逆に意地になるものだしね」


「人の心はそんなに簡単なものじゃないわ。

冬馬はどうなの?

真白ちゃんが他の男にとられてもいいの?」


 思わぬ質問に、笑ってしまった。


「さっきも言ったけど、真白ちゃんは妹か姪っ子みたいなものだよ。

そりゃあ、大事な妹が変な男に騙されるのを見たら止めるかもしれないけど、そうじゃなければ、喜んで手放すよ。

……俺は父さんとは違う。

去っていく女を追いかける趣味はない」


 朝に、真白ちゃんを引き留めたのは、心残りがあったからだ。

 これから、自分の満足いくまで、優しくしてあげれば、あんなみっともない真似はしないと断言できる。


「ならなおさら賛成出来ないわ。

そんな風に真白ちゃんを扱うなんて、間違っているわ」


「どこがですか? 母さんの言っている意味が分からない。

どうして、そんなに警戒するんですか?

俺が信じられない?

……今まで……今まで、俺が母さんの言いつけに背いたことがありますか?

貴女のすることに、反対したことがありますか?

今までどれだけ我慢してきたか!」


 ああ、最低だ。

 自分でも、心のどこかで自信がないから、母を説得出来ないと感じたのだ。

 だから、俺は卑怯な手段を取った。

 母が息子には、言われたくないことを言った。

 母は俺に辛抱を強要したことなんてなかった。

 俺がいい子のふりをしていただけだ。

 マザコン気味だから、母に嫌われたくない一心で、いい子になっていただけなのに。

 夏樹のように健全に反抗期を迎えるわけでもなく、秋生のように、すべてを受け入れ、過去にこだわりを持たず、自身の一家を築くこともなく、わだかまりを抱いたまま、俺はこの歳まできてしまった。


「ごめんなさいね」


 消え入りそうな母の声に、強烈な罪悪感を抱く。

 謝って、土下座したい気持ちになる。

 でも、それは真白ちゃんに対しても同じだ。

 彼女にも土下座して謝りたい。


 天秤にかけて、ほんのわずかに、真白ちゃんの方が傾いた。

 母には守ってくれる大きな存在が居る。

 でも、真白ちゃんには誰もいない。

 今は、まだ、いない。

 ちゃんとした人間が現れるまで、俺が代わりになってもいいはずだ。


「この件に関して、もはや誰の言うことも聞きません。

俺の好きにします。

……安心して下さい、反社会的な真似はしませんよ」


「なら好きにしなさい。

貴方の言う通り、反対すると、余計に意地になるのでしょうから」


 いざとなったら、刺し違える、という顔だったが、取りあえず、母は去って行った。

 俺は自分でもなんでこんなに意地になって、母を傷つけたのか、本当に分からないでいるけど、目覚めた真白ちゃんを見ると、その罪悪感も満足感に変わった。


 例の星の付くレストランに頼み込んで配達してもらった、あの大根雑炊を食べさせた。

 最初は躊躇されたが、いい匂いにつられて、俺のお腹がなってしまい、それで真白ちゃんの緊張がほぐれたのか、手をつけてくれた。

 一緒に食べると、ますます美味しく感じられた。


 これでもう、真白ちゃんに思う存分、優しく出来ると思うと、心が晴れる思いだった。

 もっと早く、こんな風にすれば良かったのだ。

 別におかしいことじゃない。

 彼女は、可愛い妹みたいな子なのだから。

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