4-3 『若様』の絶縁状
若様の絶縁状は、ジャンが語った通り『妖精』を思わせる女性に出会った話だった。
彼女の名前は書いていなかったが、夏樹から聞いていた噂から、小野寺家の使用人だった女性だろうと推測した。
思った通り、義父は女性との結婚を反対はしていなかった。
だが、若様は小野寺家の御曹司としての自分に倦んでいた。
どうも、義父とは違って、若様はまさかの冷酷非情で、強引な手段も辞さない性格だったようだ。
そのせいで、いくら業績を伸ばしても義父に認められるどころか、叱られてばかりだったらしい。
しかし、『妖精』に会って彼は変わった。
他人にも優しくなったし、自らの行いを恥じるようになった。
そこまでは、義父も喜ぶべき変化だったらしい。
息子を変えた使用人に感謝をし、結婚を勧めた方でもあった。
だが、若様は極端な思考だったらしく、こんな虚構にまみれた世界にはもう耐えられないと言い出したのだ。
親子の間で言い争いが起こった。
その過程で、若様の将来を思い、進んで身を引いた女性を追って、家を出ると書いてあった。
彼女なしでは、もう、自分が自分でいられないのです―――。
絶縁状は、激しい恋心を吐露した恋文でもあった。
ジャンが『小説』だと思っても仕方が無いような文章でもあった。
家出の間際と言う切羽詰まった状況のくせに、気取ってフランス語で書いてあったので、読み解くのに難義した。それをサクサク読んでいく真白ちゃんは、尊敬に値する。
ジャンとは打ち解けることが出来たけど、『若様』はその一面を知ってもなお、苦手なタイプだと思わずにはいられない。
むしろ、知ってしまった故に、さらなる反感が湧いて出てしまった。
年頃の女の子には、胸が高鳴る恋愛小説のような話かもしれない。
現に真白ちゃんも、うっとりしている。
だけど、俺は現実を思ってげんなりしたのだ。
小野寺の御曹司として、かつ、雨宮家の甥として、小さい頃から人の上に立つべきものとして育てられてきた男が、世間に馴染めたのだろうか。
仕事は出来たかもしれないが、それは、小野寺の御曹司としての名声と権力、組織と資金があってこそだ。
彼の『妖精』の為に、御曹司は懸命に生活しているかもしれない。でも、そうならば、小野寺の家で我慢しても良かっただろうに。
どんな場所だって、多少の我慢は付いて回る。
それならば、愛する女性を守って、小野寺の家で自分らしくある為に努力すれば良かったのだ。
どこに居たって、彼女が幸せならば、小野寺の家で十分じゃないか。
義父も、井上親子も、みんな、若様の味方で、『妖精』を受け入れてくれているのに。
自尊心のせいで小野寺の家に帰ってこれないまま不遇を囲っていないといいのだが。
どこかで、小野寺に新しい御曹司が出来たと知って、ますます帰り辛くなってはいないだろうか。
『妖精』はきっとそんな若様のことを知っていたに違いない。
だから、慣れない境遇で不幸にしたくないと思って、自ら姿を消したのだろう。
なのに、追いかけて行くなんて。
迷惑な話だ。
追いかけられるのは嫌いだ。
手前勝手な愛情を押し付けられるのは、怖気が走る。
「信じられないね、こんな恋愛」
つい、吐き捨てるように言ってしまった。
真白ちゃんが、現実の世界に戻ってきた。
しばらく黙った後、「若社長は……誰かを本気で好きになったことがないのですか?」と聞いてきた。
「……ないよ。実はない。
努力はしてるんだけどね。
と言うか、努力している時点で、それはもう、そういう気持ちじゃないよね。
無理なんだよ。俺には、誰かに本気になるなんて芸当は、一生無理なんだ」
一回り以上、年下の子の前で、俺は何を言っているんでしょうね。
純粋な少女の夢を壊したくないけど、でも、これはいい機会なのかもしれない。
俺が彼女の理想とはかけ離れた人間だってこと、思い知らせるための、絶好の機会のはずだ。
はっきり言えばいいのに、別に愛なんてなくても、人は付き合えるって。
欲望とか、孤独感とか、同情とか、依存とか、そういうもので、人は繋がれるって。
『冬馬くんは優しい子よね。私を助けてくれるでしょう? ねぇ……助けてくれるでしょう?』
――唐突に、あの女の顔が浮かんだ。
病院で錯乱していたあの女が、俺の前に現れる。
父の置き土産。思い出したくない記憶だ。
ずっと奥深くに押し込めていたはずなのに、若様の絶縁状につられて、こちらの封印も解けてしまったというのか?
この子の前で、あの事を思い出したくない。知られたくない。
消えろ、消えてしまえ。
目を閉じて、必死に振り切ろうとしたが、上手くいかない。
「ごめんなさい」
真白ちゃんは俺のただならに様子に気が付いたようだ。
理由は聞かず、逆に謝られた。
「また、謝ったね」
批判めいた口調で言ったけど、その実、感謝してもしたりないくらいの気分だった。
彼女の顔を見た瞬間、脳はもう、その顔しか認識しなくなった。
そう言えば、雨宮姫を見た時も、エリィを見た時も、この子に似ていると思ったけど、その逆はなかったな。
「でも、本当にごめんなさい」
シュンとした女の子は、染み一つない純白のような子だ。
母が近づくな、と警告する気持ちがよく分かった。その通りだ。
この子は俺なんかが手におえる子じゃない。
「じゃあ君はどうなの?
誰か好きになったことあるの?
同じ幼稚園に通っていた子とか、中学の時の同級生とか……」
俺より先に、誰か彼女のお眼鏡に叶った男が居て欲しかった。
だって、そうだろう? 真白ちゃんの初恋が俺だったら、申し訳ない。
今は良くても、正気に戻った時、嫌な思い出になる。
だから、彼女の口から、他の男の名前を聞きたかった。
でも、それは叶わなかった。
激しく首を振られた。
「嘘」
「嘘……じゃ、 ありません」
「初恋だよ?」
「……いません! ……よ」
ますますいけないな。
これ以上、しつこく聞くと、セクハラおやじみたいでもある。
「ごめんね」とこちらも謝り、真白ちゃんから店内に目を逸らした。
いつの間にか、カウンターに常連らしき人が二人座って店主と話し込んでいた。
奥さんは洗い物をしていていたが、こちらをチラチラと伺っている。
考えてみれば、凶悪な顔をした男と女子高生の組み合わせは不審だ。
真白ちゃんがカウンターを背に座っていて良かった。
泣かせてしまったのを見られたら、警察に通報されかねない。
変な話になってきたし、そろそろ帰るとするか。
真白ちゃんに視線を戻すと、彼女は濃くなった最後の一杯を、ティーカップに注ぎながら、挑むように見返してきた。
「若社長の初恋はどんな人なんですか?」
話の流れとしてはおかしくはないけど、こういう質問をこの子がするとは予想外だった。
たまに、強気に振れるよね、この子。
「え? どうだったかな」
困ったな、と思っていると、今度は違う女性の姿が脳裏に浮かんだ。
懐に赤ん坊を抱き、もう一人の子の手を引いて雪の中を歩く女性の後ろ姿だ。
「そうだね、常盤御前かな」
「源義経の母親の? 静御前じゃなくって?」
「そう。牛若丸の母親の方。
昔、読んだ絵本だと、牛若丸が弁慶と五条大橋でやりあうまでだったから、静御前の方は出てこなかった」
「美人、だからですか?」
「違う……マザコン気味だからかな」
女性には受けが悪い答えだろう。
けれども、真白ちゃんは「どんな方なんですか? 若社長のお母様って?」と、躊躇することなく聞いてきた。
自分の母親のことを説明するのは、難しいことだな、と思いつつも、いつも思っていることを簡潔に述べた。
「強くて、優しい人」
「若社長はお母様似なんですね」
「いや、全然っ、似てないよ。
母は一応、若い頃は美人の部類で、そう、夏樹がよく似てる。
俺は……」
『父親似』だ。
忌々しいことに、あの男に似ている。
「顔ではなく、中身です。
それに……あの……顔だって……とっても……いえ、やっぱりなんでもありません」
何を言おうとしたのか、顔が真っ赤になっていた。
色が白いせいで、顔色が分かりやすい。
しかし、こんなにしょっちゅう赤くなったり、青くなったりして、大丈夫なんだろうか。心配になる。
「あ、あの、思い出しました、初恋の君!」
片手で火照った顔を扇ぎながら、真白ちゃんが言った。
話題を変えたいようだ。
「架空の存在でよければ、ですが」
あまり良くないが、俺も自分の母親の話をするよりもマシだと思い、のることにした。
彼女が答える前に、自信満々に言ってみせる。
「当ててあげようか?」
「えっ?」
「シンデレラの王子様だろう」
「違いますよ」
外れたか。おかしいな。
「そうか、じゃあ白雪姫の方?」
「違います」
姪っ子二人が大好きな、二大お姫様が駄目となると、お手上げだった。
俺のそちら方面の知識は、深くない。
真白ちゃんは、「当ててみせて下さい」とクスクス笑い出しながら、俺の次の答えを待っていた。
たまの休日に姪っ子達に本を読んであげるのだが、上述のように、紅子がシンデレラ、緑子が白雪姫が好きなせいで、その二冊を交互にローテーションで読まされる為に、他の童話に触れる機会がなかったのが悔やまれる。
次の機会には、泣こうがわめこうが、癇癪を起そうが、別の本を読むことにしよう。偏った読書は教育に悪い。
人生とは不可思議なもので、こんな図体のでかい強面の三十路にすら、童話の知識が試される時がやってくるのだから。
そりゃあ、無理に当てなくても良いのだが、なんとなく、真白ちゃんとのやり取りが楽しくなってきてしまい、この会話を続けたいのだ。
会話するくらいなら別に罪はないだろう。
なにか他にヒントはないかと、視線を彷徨わせると、空になったコーヒーカップとケーキ皿が目に付いた。
お揃いの食器には、船の絵が描かれていた。
それに合わせてかスプーンとフォークには貝のモチーフが付いていた。
「そうだ、魚のお姫様もいたね」
「人魚姫ですか?」
「そうそう、その……」
「もう、最悪です! あの王子は!」
よく話の内容を知りもせず、口にしてしまったら、真白ちゃんを怒らせてしまった。
と言っても、全く怖くもないし、むしろ可愛らしい。
漫画ならプンプンと言う擬音がぴったりだ。
さきほど決意を新たにしなかったら、よしよし、と頭を撫でてあげたくなる。
「人魚姫は、王子様の為に、家族も声も捨てて、人間になったのに、王子様は他の国の王女様と結婚してしまうんですよ」
「それは……仕方がないんじゃないかな。
王子なんて身分なら政略結婚が普通だろうし」
「でも、人魚姫は海で溺れた王子様を助けたんです。
なのに、その手柄を王女様が横取りしたんですよ。
それで結婚することになったんです」
「なんで、自分が貴方の命の恩人ですって、王子様に言わなかったの?」
「人間の足になるために、声は海の魔女に差し出してしまって、しゃべられなかったんです」
夢見がちな少女と、現実に塗れた男では、しょせん、会話はかみ合わない。
かみ合わないなりに、面白くもあったのだが、でも、やはり真白ちゃんをからかってはいけなかった。
助けた男を追って、全てを捨てるほど思いつめた人魚姫と、それを、まるで自分のことのように擁護する真白ちゃんに、危うさを感じずにはいられない。
「でも、伝える方法なら他にもあるだろう。
手紙を書くとかさ……君みたいに」
「それは……そうですけど」
「それで? 失恋した人魚姫はどうしたの?」
「……海の泡になりました」
「はぁ?」
「お姉さんたちが、海の魔女と交渉して、王子を殺したら、人魚に戻れるようにして貰ったんですが、人魚姫はそれを拒否して……」
「ええっ!」
驚きのあまり、身体のどこかをテーブルにぶつけたらしい、上に載っていた空のカップとソーサーがガチャンと音を立てた。
カウンターの奥から、店の主人夫婦が大事なカップの安否を伺う。
急いで調べると、どこも欠けたり、破損した様子はなかったので、軽く掲げて、無事なことをアピールすると、二人は元の通り、それぞれの作業に戻った。
俺はでかい図体を出来るだけ縮めて、真白ちゃんの方へ身を乗り出し、小声で言った。
「ごめん、驚いて。
何、人魚姫って、そんな話だった?
それでいいの? 人魚姫は?
まぁさ、助けてもらったのはありがたいけど、勝手に惚れられて、勝手に失恋されて、挙句、殺されたりなんかしたら、王子もたまったもんじゃないけど」
「……そう、ですね。迷惑ですよね」
真白ちゃんが意気消沈した。
当てこすりを言われたと思ったのかもしれない。
可哀想だけど、人魚姫も真白ちゃんも、相手の男に期待しすぎたんだ。
恋をするのは悪いことじゃないけど、どちらも相手が悪いよ。
「だからって、何も海の泡になることはないよ。
人間になってしまったのなら、そこで幸せを見つけるべきだった。
王子の他にも男はいるんだし、その中には人魚姫を大事に、幸せにしてくれる人が居たはずだ。
きっと、必ず、相応しい人間に出会えるはずだよ。
初めての恋なんて、大体、勘違いなんだから。
人魚姫も、もう少し大人になれば、それが分かっただろうに。
ジュリエットもそうだけど、早まって思い詰めるものじゃない」
意図せず、真白ちゃんを突き放すようなことを言っていた。不意打ちすぎて、俺の方が動揺してしまった。
明日、大事な撮影があるというのに、彼女の気持ちを低下させることになったのは後悔せずにはいられなかった。
何もこのタイミングで、わざわざ言うべき言葉じゃなかった。途中まで、我ながら楽しく会話していたのに。
それなのに、つい、踏み込んでしまったのは、俺自身の問題のせいだ。
早く決着をつけたいと焦る気持ちが、突っ走ってしまった。
もし、これでプロジェクトが失敗したら、それは全部、俺のせいだ。
結局、真白ちゃんの初恋の君の正体は分からないまま、いつかのように、今度はタルトタタンの箱を抱えた彼女を見送った。
父親がそのケーキを喜んだのかどうかも、分からず仕舞になった。
その後、俺はまたしても真白ちゃんから逃げたからだ。
会えばまた、期待させるような振る舞いをしてしまうかもしれない。
何が気に入られているか分からないから、気を付けようがないのだ。
そして、それよりも何よりも、彼女を『からかって』しまいそうになる自分を恐れた。
会わなければ、そのどちらもない。
気持ちも遠く、離れていくことを望んだ。
それでも、呼ばれれば行くつもりだった。
不安だと言うならば、写真撮影に立ち会うつもりでいた。
でも、彼女はやり遂げた。
即日、上に届けられた写真には、確かに『妖精』が居た。
小野寺の『若様』の人生を狂わせた『妖精』を彷彿とさせる『妖精』が―――。