1-2 憧れの人は叶わぬ人
十五階の作業に使う掃除道具を台車に積み込むと、バックヤードから正面ロビーに出る。
その出入口には、『笑顔で挨拶』と言う、小野寺グループの社訓が書かれた張り紙がしてあった。
初めて見た時は、小学校みたい、と思ったものだ。
吹き抜けの明るくて綺麗なロビーに出た途端、モデルのようなスタイルとファッションの女性社員に笑顔で「お疲れ様です」と声を掛けられた。
さらに、管理職風の恰幅の良い社員さんにも。
その都度、私たちも、笑顔で挨拶を返す。
篠田さん曰く、挨拶が活発に行われている会社は、良い会社らしい。
同じ十五階担当の吉野さんも同じ意見だ。
「ここの会社の空気は、ホント、最高だよ〜」
元は別の清掃会社に所属していて、ある会社に派遣されていたそうだ。
その会社は、社員同士ですら挨拶は顔見知りのみ、出入り業者にはまったくなかったらしい。
「しかも、人が掃除している前で床にゴミ捨てるやつまでいるし。
もう、最悪。
ムカついて勢いで辞めてやったけど、子供四人も居て、どうしようかと途方にくれていたのよね。
そうしたら、偶然! 小野寺グループの会社の人が、その会社に出入りしてて、私が、社員連中に散々、無視されているのにめげずに挨拶しているのを見ていてくれていたらしく。
ここを紹介してくれたんだよ。
いやぁ〜、日頃の行いってやつ?
小さい頃から、挨拶だけは! って厳しくしつけられてたお蔭だね」
「だけど……」と吉野さんは続けた。「篠田さんみたいに、辞めた会社がダメになった…ということはなかったわね」と。
なんと、篠田さんに関しては『彼女が見捨てた会社に、未来はない』という恐ろしい伝説があるそうなのだ。
実際、彼女が転属願いを出した会社は、企業再編入とか、事業縮小とかになったとか、ならなかったとか。
座敷童みたいですね、と言ったら、吉野さんに爆笑されたものだった。
でも、確かに、挨拶をすると気持ちがいいし、「頑張ってね」と言われるとやる気が出る。
特に『若社長』に挨拶してもらった日には……。
そこまで考えた瞬間、篠田さんから咎めるような声がした。
「真白ちゃん……何を考えているか当ててあげましょうか?
所長には大丈夫って請け負ったけど、やっぱり十五階は私一人で行った方がいいかも」
「あっ……あの」
突然どうしたんですか? と、とぼけたかったが、無理だ。
どうして、私は感情がすぐに顔に出てしまうのだろう。
相当、腑抜けた顔をしていたに違いない。
篠田さんは、『伝説』を知る前から、憧れの女性だった。
とても若々しく、二人のお孫さんと一緒に撮った写真を見ても親子のように見るほどだ。
とても親切で優しいが、三人の息子さんを育ててきただけあって、時に威厳すら感じるほど毅然としている。
それに、何と言っても、小野寺清掃随一と言われるすご腕。
海老沢所長も彼女の前では子供のようだったし、実際、パートであるものの勤続年数もずっと長いと聞く。
そんな篠田さんが、せっかく私を認めてくれて、やっと『若社長』のいる十五階に行けるというのに。
……そういう動機が不純なんだ。
「篠田さん……私……」
そんな私に、篠田さんはため息をつき、「どうしてそんなに『若社長』がお気に入りなの?」とにわかに口調を緩め、興味津々で聞いてきた。
「なっ……!」
なんで知っているの?そして、こんな帰社時間を過ぎて、人がたくさんいる中で、そんな質問するんですか!
と思ったけど、東西あるエレベーターホールのうち、私たちの居る西側は人気が無かった。
この時間帯は夕日がキツイから、人気がないのだ。
設計ミスだと思う、と小さな声で囁かれている場所である。
篠田さんは、面白そうな顔をしながら、エレベーターのボタンを押した。
最上階からエレベーターが下りてくる。
私が、初めて『若社長』と会った階だ。
「あんな『モデル喰い』やめておきなさい」
「篠田さんは、『若社長』に対して厳しすぎます」
『若社長』と声に出して言うだけでも、顔が紅潮する。
「え?あら、厳しいかしら?」
「そうですよ。
……頑張ってると思います」
具体的に、何をしているか、よく分からないけど。
エレベーターがやって来たので、台車を押して中に入る。
篠田さんがは、私が中に入るのを見届けて、ポケットの中から、カードを取り出すと、操作盤に向け、それから、十五階のボタンを押した。
このカードを持っていないと、どのエレベーターも十五階には止まらないのだ。そして、乗り込んだら、十五階以外にはこちらから操作しない限りは、どこにも止まらない。
「まぁ、頑張ってはいるわねぇ」
思いもかけず、しみじみとした篠田さんの声が、肩越しに聞こえた。
そうですよ! と同意しかけた時、ものすごい足音がして、エレベーターの中に、髪を振り乱して女の人が駆け込んで来た。
「ちょっと待った!
私も乗せて行って。
十五階よね、十五階に行くんでしょ、このエレベーター!」
美人だった。
小野寺出版は、元々、多数の企業を抱える小野寺グループの社長の『趣味』によって作られた会社だと言われている。
と言うのも、こよなく文学を愛した小野寺社長は、自らの手で文芸誌を刊行し、専門書を出版し、辞書を世に出すことを使命と考えていたからだ。
しかし、このご時世、残念ながら、文学だけでは会社は回らず、古くは漫画雑誌で糊口を凌ぎ、今では、ファッション誌が小野寺出版の屋台骨を支えているのが実情となっていた。
それゆえ、そびえ立つ自社ビルの中は、華やかな女子社員が、ハヒールの音も高らかに闊歩している姿が多く見られていた。
締切が近い時は、パジャマみたいな恰好で社内をウロウロしている美人さんもちらほら見かけるけど。
この人はモデルバージョンの方で、隙の無い服装に、びっくりするほど高いヒールを履いて、化粧もばっちりだった。
髪の毛は、さすがに乱れていたけど。
「またカードを忘れたのね?」
「ご名答。
携帯で、部下に持ってきてもらおうかと思ったんだけど、なんか、ちょっと休憩したくなって、下の喫茶でお茶してた。
五時半になったら、篠田さんがきっと十五階に行くから、その時に便乗すればいいか〜と思って。
さすが、私!
ナイス判断」
その女性は息を整え、小さなバックからコンパクトを取り出すと、髪の毛を整え始めた。
爪は短かく整えられていたけど、綺麗な色でキラキラしていた。
私は見とれてしまっていたが、篠田さんはとても冷静だった。
さっきから『開』のボタンを押し続け、エレベーターを動かしていなかったのだ。
「社員証は?」
右手でボタンを押し続けながら、左手を催促するように差し出している。
「……篠田さん厳しい。うちの警備並に厳しい。
顔パスじゃだめなの? 私、結構偉いのよ」
不満を言いながらも、女性は胸元から、社員証を引っ張り出すと篠田さんに見せた。
エレベーターはようやくその扉を閉め、動き始めた。
「こういうのはちゃんとしないといけません。
偉い人間ほど、特に」
やれやれと肩を竦めた女性は、やっと私の存在に気が付いたようだ。
まじまじと見られる。
「何、この子?新しい子?」
そう言えば、私もこの人のことを見たのは初めてだ。
「そうです。
二、三日だけですが、十五階を手伝ってもらうことになったんです。
宜しくお願いしますね」
女性は、私を見たまま、篠田さんに返事をした。
「いいの?
こんな可愛い子、十五階に上げちゃって。
うちの『モデル喰い』に食べられちゃうかもよ」
篠田さんは応えず、私に意味ありげな視線を送った。
私はうつむいて、その視線をそらそうとしたが、目の前に立った女性に、顔を上げられてしまった。
しかも、なぜか指親で顔をごしごしされる。
「にしても、ホント、こんな可愛い子、どこに隠してたの?
化粧もしてない、整形もなしの天然もので、この顔?
なんの小細工もなしでこの睫毛? この目の大きさ?
泣いてもパンダになったことないでしょう?
もったいない……あなた、読モになりなさい」
「ど、どくも……ですか?」
聞きなれない単語に当惑した私に、女性が驚いた顔をした。
篠田さんの口元が緩んでいる。
どうしよう。
たまに遭遇する、『その年頃の女の子なら知らないとおかしい』ことかしら。
「あなた、うちの雑誌とか……読んだことない?」
胸に手を当てて、祈るような姿勢の女性は、少し芝居がかっている。
私は、この会社の人に自社の雑誌を読んでいないと思われるのは嫌なこともあったし、事実、読んでいる雑誌もあったので、エレベーターが十五階につくまでに答えようと、急いで言った。
「よ、読んでいます!毎月!
『晴嵐』を!!」
そう大きな声を出した瞬間、エレベーターの扉が開いた。女性の肩越しに、驚いた顔の警備員と社員の姿が見えた。
ああ、今日は恥ずかしい日だ。
女性は、後ろの人たちよりもさらに驚いた顔をしていた。アイラインで縁取られた目がますます大きく見える。
「あ、それはありがとう……」
エレベーターはすでに到着しているのに、女性が邪魔で台車を出せない。
しかし、それも、十五階で驚いて居た人の中で、女性の姿を認めた人が、彼女を呼んだことで、解消された。
「部長〜!
どこに行ってたんですか!
大変なんですよ、美園社長が……」
そこまで聞いて、女性は舌打ちをして振り返った。
「またあのアホぼんが!」
女性の形相と言った内容に、彼女の部下らしき男性は青ざめながら、口に人差し指を当てた。
「ダメですよぉ。
聞かれたらどうするんですか。
プロジェクトが……」
今度は女性が、部下を制した。
すると私の方を振り返り、小さなバックの中の名刺ケースから、名刺を一枚取り出した。
「私はこういう者よ。
読モ……はね、読者モ・デ・ル。
あとで、ネットか何かで調べて。
興味があったら連絡してね」
ネット環境なんてありません……と言う前に、女性は部下を従えて、大きな木の扉に続く通路へと立ち去って行った。
手元に残った名刺には『小野寺出版 企画・戦略部 部長 東野真』と書いてあった。
本当に偉い人だった。
「これどうしたら……」と、篠田さんに見せると、笑いながら「とっておきなさい。縁は大事にしなくちゃ」と言われので、自分の名札の裏側に差し込んでおいた。
名刺から、ほんのりと香りがした。
イランイランベースの複雑な香りが、大人の女性にぴったりだ。
「さてと、それでは作業を始めましょう」
台車を、女性の消えて行った通路とは反対方向に向けて、篠田さんが言った。
「あっちはゴタゴタしているから、落ち着くまで、近寄らない方がいいわ」
その後、作業した部屋が、例の女性部長の企画・戦略部と、広報・マーケティング部だったことを思うと、向こう側が社長室なのだろう。
案の定、その日、私は望んだ姿を見ることは出来なかった。