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妖精とクマ  作者: さぁこ/結城敦子
第三章 椛島真白の挑戦。
18/60

3-6 オレンジチョコレートケーキと、彼の誘惑

 なにもかも順調に運ぶはずだった。


 里崎さんだってどうしてこんな事態になったのか、首を捻っている。

 でも、上手くいっていないのが現実だった。


 あれから訓練を重ね、ジャンの衣装も一部出来上がり、写真撮影の日までこぎつけた。

 私のするべきことは、宣伝に使うイメージ写真とカタログのモデル、それから、クリスマスに行われる日本初上陸を記念して行われるパーティーでのファッションショーを行うことなのだが、その最初の大仕事である写真撮影が滞っている。

 撮影自体は緊張したものの、ちゃんと出来たと思うのだけど、出来上がった写真にOKが出ないのだ。

 一回で終わるはずに撮影が、三回やっても終わらない。


 何がいけないのか分からない。

 ジャンの白を基調とした軽やかな衣装はとても綺麗だ。

 ……そりゃあ、ちょっと軽やかすぎて、背中がほとんど露わになっているのは恥ずかしいと思っているけど。

 しかも、顔を写さない約束だから、その背中を向けている写真が多い。

 やっぱり顔を写さないのは良くないのかしら。


 私なりに意見を出してみたりもしたけど、どの写真も受け入れてもらえなかった。

 ジャンにも……若社長にも。

 理由が分かれば対処のしようもあるだろうに、それもなし。

 強いて言えば『妖精』っぽくないからとのこと。

 と言われても……と内心思ってしまう。


 プロジェクトチームの中でも焦りが見え、撮影を担当する著名な写真家の人も苛立ちを隠しきれない様子だ。

 どう考えても、プロジェクトの危機で、秋生さんですら撮影現場に足を運ぶようになったと言うのに、それでも兄であるあの人は来ないのだ。

 興味がないとか無関心とか、私が嫌いとか、そういう事言っている場合じゃないのに!


「ああ、もう分かんない!」


 教科書を机に伏せると、頭を抱えた。

 数学の時間が自習になったとは言え、課題はきっちり出されていた。

 それをやり終えてから、自分がやりたい勉強が出来るとあって、同級生達は淡々とその問題を解いていた。

 学内の試験は終わったけど、特進科の生徒は、次の試験、そして最終的にはさらなる大きな試験『大学受験』を標的として常に邁進しているのだ。

 余計な時間はなかった。

 私も、少なくとも課題だけは終わらせないといけないのだけど、件の問題が頭を占めて、さっぱり進まない。

 契約書の中に勉強の支障にならないこと、という一文があったような気がしたけど、考えずにはいられない。

 今や、小野寺グループのプロジェクトは、私にとっても大事なものとなっているのだもの。

 若社長はともかく、必死で頑張っているチームのみんなの努力が報われて欲しいと、真剣に願うようになっていた。


「真白? 大丈夫? その問題、そんなに難しい?」


 同じクラスの友人が声を掛けてきた。


「難しい……」


「落ち着いて考えればそうでもないわよ」


 よしよし、と頭を撫でられる。

 が、随分と長い。

 不思議に思っていると、その友人、リサが感嘆の声を上げた。


「すごい、サラサラ。

最近、輝きが違うけど何があったの? シャンプー変えた?」


 ドキっとした。

 変えたなんてものではない。

 どこぞの王室御用達のヘアケア商品を惜しげもなく使っているのだ。

 おまけにエステでトリートメントも定期的にしてもらっている。

 勿論、プロジェクトの一環で、経費で落ちる。


「それに肌もスベスベだし。

なんなの? どうしちゃったのよ?」


「そうかな?」


 あまり嘘を吐くとか、白を切るとかは苦手なので、顔を上げないまま有耶無耶な答えをする。

 入学して以来の友達だけど、こればっかりは言えない。

 ごめん!


「そうよ……もしかして……恋?」


「ええっ!」


 クラスの半分の人間に振り向かれた。

 会話の内容ではなく、私の驚く声が大きすぎたせいだ。


「そう見える?」


「うーん、にしては覇気が無いかな。

元気がない。

楽しい恋じゃなさそう。

なのに肌艶がいいのは謎だけど、悩んでいることがあったら、相談して欲しい」


「ありがとう」


 持つべきものは友だと感謝するとともに、その友に相談出来ない心苦しさ。

 しかし、さすが学年トップスリーを誇る友人は、洞察力がするどい。するどすぎる。

 ただ、憧れの人の気持ちが分からないまま、その人の命運がかかっている秘密のお仕事の為に、エステに通っているとはさすがに見抜けないだろう。

 とても現実とは思えない話だもの。


「あ、私に相談するつもりナシって顔ね」


「そ、それは……」


「ひどいなぁ。

親友だと思っていたのに隠し事とは。

じゃあ、あの子には?」


「え?」


 リサが視線を向ける方に、姫ちゃんの姿があった。

 外国語科と特進科は棟自体違うこともあって、あまりこちらに足を運ぶことのない彼女がどうしてここに?


「どうしたのかしら?」


「さぁ。雨宮のお姫さまの考えなんて想像もつかないわ。

でも、友達なんでしょ?

私に言えないことでも、あの子には言えるのだったら、遠慮なく相談しなさい。

とにかく、真白に元気がないのは心配だから」


 リサのピンク色のフレーム眼鏡越しの視線に、泣きそうになった。

 困った。

 若社長の前で泣いてから、涙もろくなってしまって治らない。


 「ありがとう」もう一度、礼を言うと姫ちゃんの方へ向かった。


 「どうしたの?」姫ちゃんの前に立つと、返事もそこそこに、封筒を差し出された。

 厚い紙で出来ている、立派な封筒だ。


「お願い!」


「何を?

それに今、大丈夫なの? 授業中じゃあ……」


 突然の『お願い』に戸惑って、さらに質問を重ねると、姫ちゃんは、前段階の説明をすっ飛ばしていたことに気が付いたようだ。


「ごめんなさい。

お茶会にご招待したくて来たの」


 お茶会って、月に一度、定例で行われる政財界からたくさんの人たちがくるというので有名な、あの雨宮家のお茶会のこと??

 いつだったか外国語科の女の子たちが招待されて、それはそれは大騒ぎになっていたのが、特進科まで聞こえてきたことがあった。

 でも、誘われた誘われていないで、密かに揉めていたのも噂になっていた。

 雨宮家のお茶会というのは、そちらの世界の人たちにとっては、参加することに、招待客として選ばれることに、ある種の優越感を持つものらしい。

 姫ちゃんは例のごとく、まったく関心がないようで、招待客の選別も人任せのようだ。

 そして、雨宮会長公認の友人ではあるものの、その厳選される客人の中に、これまで私が入ったことはなかった。


「実は今度のお茶会に、またあの人が招待されるらしいの。

ほら真白ちゃんの朝日の君よ」


 胸が鷲掴みにされたみたいにきゅうっとなったけど、努めて素知らぬ顔をした。


「小野寺の若社長が?」


「そう。

来るか来ないかは分からないけど、もし来たらどうしよう。

私、あの人、怖いわ」


 姫ちゃんがここまで他人に対して感情を持つのは珍しい。

 それがたとえ嫌悪であっても、ある意味、他の人たちよりは若社長は特別な存在なのだ。

 姫ちゃんは若社長が自分の感情を揺さぶる人間だということに気が付いていない。


 雨宮の会長は孫娘の気持ちを本人よりも把握しているのかもしれない。

 まだ見込みがあると踏んでいるのだ。

 それゆえ、再び若社長をお茶会に招待し、姫ちゃんと顔合わせさせようとしているのだろう。


 さて、もう一人の張本人である若社長は、招待に応じるつもりがあるだろうか。

 プロジェクトが暗礁に乗りかかって大変な時だ、そんな暇はなさそうだけど、だからこそ、雨宮家との縁をおろそかには出来ないはずだ。

 何しろ、ジャンと雨宮家は昵懇の間柄だし、そのジャンのブランドのお店は、一部の路面店を除いては雨宮系列の百貨店に入って全国展開する予定なのだから。

 ここは出席だろう。

 となると、私は若社長と顔を会わせることになる。

 父に談判してくれた時は、とても頼もしくみえたけど、この所の情のない様子に失望している気持ちもある。

 どちらが本当の若社長か会って確かめたいけど、それも怖い。

 何しろ頼みのプロジェクトは進展していないのだ。

 会いたいかどうかも、もう分からない。


 しかも、こんな風に不意打ちで、私が現れたら彼はどう思うだろう。

 プロジェクトに首を突っ込んだように、どこにでも介入してくる、うっとおしい女の子という烙印を押されそうだ。

 なんと言っても、お見合いだなんて、特殊な状況下でもある訳だし。


「あ、あの、私、どうしても怖くて、真白ちゃんに助けてもらおう、ご招待しようと思っていたら、今日の美術が校内写生だったの。

場所を探すはずが、つい真白ちゃんの教室の方に足が向いてしまって、覗いたら自習みたいだったから……邪魔してしまって、ごめんなさいね。

駄目かしら?

真白ちゃんがいると心強いから、一緒に居てくれると嬉しいのだけど」


 黒目がちの大きな瞳がうるんで、さらに大きく見える。

 封筒の形がゆがむほど強く握りしめているのが、彼女の必死さを伝え、お願いを無下に断るなんて出来ない風情だ。

 おまけに、その日の予定は開いていた。


「力になれるかどうか分からないけど……」


 手を差し出すと、花が開いたように微笑まれた。


「嬉しい!

紅葉はまだ見頃じゃないけど、今回はおばあ様の秋の庭でお茶会をするの。

でも、きっと気に入ると思うわ。

私、今までどうして真白ちゃんを誘おうと思わなかったのかしら?

春の庭の方は英国式だし、薔薇園もあるのよ。

真白ちゃんこそ、ご招待すべき人だったのにねぇ」


 首をかしげた拍子に、まっすぐな髪の毛が肩からさらりとこぼれ、大きな目がゆっくり二度瞬いた。


「今度の冬でもいいわね。

温室でのお茶会と、お外のかまくらで甘酒を飲むのと、どちらがお好き?」


「かまくら!?」


 恐るべし、雨宮財閥。

 年に一度は、わざわざ豪雪地帯から雪を取り寄せ、人工降雪機まで動員して、雪国を演出するお茶会が行われるらしい。

 姫ちゃんにとっては普通のことすぎて、わざわざ語るようなものでもないらしいというのもすごい話である。


 そこからしばらく、二人とも好きな小説に出てくるような場所があるとか、「高校生になって、母が姫にもそろそろお茶会の主催をしないといけないわね、っておっしゃっていて、不安に思っていたけど、真白ちゃんを呼ぶと思えば、いろいろアイデアが浮かんできそうよ」といった話などでしばし盛り上がってしまい、見かねたリサに止められてしまった。


 姫ちゃんが慌てて去った後、筆記でお茶会に招待することを教えたら、自分以外は他言無用と返された。

 それから、数学のノートの端に「で、何を着ていくつもり?」と可愛いうさぎが聞く絵を描かれた。


 しまった。

 雨宮家の壮大なお茶会の話を聞いた後では、生半可な格好は出来ない。

 たとえ、招待状に『気軽なお茶会』と書かれていようともだ。

 かと言って、私が精一杯用意しても、焼け石に水。

 難題にまたもや頭を抱えそうになったが、リサが「じゃあ、制服にしたら」と忠告してくれたので、ありがたく受け入れた。

 考えてみれば高校生の正装は制服だ。


 不安だったので、同じ日、訓練を見学に来た東野部長にこっそり確認もした。

 ファッションにも社会にも、そう言った社交にも詳しい大人の意見も必要だと思ったからだ。

 雨宮家のお茶会に行くと聞き、「うちで何か用意してあげようか?」と申し出てくれたが、制服の話をしたら同意してくれた。


「そうね、高校の制服なら冠婚葬祭、どこにでも着ていける正装だものね、いいと思うわ。

なまじ着飾って行って、可愛い真白ちゃんが碌でも無い金持ちのドラ息子あたりに言い寄らても困るし。

いや、制服姿も可愛いから、そう安心も出来ないか……で、どうやって行くの?

お迎えは来るの?」


 頭を振り、「バスで行く」と伝えたら、「まさか」と笑われたが、東野部長の心配は的を射ていた。


 雨宮本邸の最寄りのバス停は、最寄と言っても、そこから歩いて二十分はかかるほど離れていたのだ。

 ここに来るのにバスを利用する人はいないのだろうか。

 それとも、雨宮家側で正門前にバス停を置くのは景観的に良くないと判断したのか、とにかく、最寄りのバス停は雨宮家の端の道路を挟んだ向かいに設置されていた。

 涼風が吹く秋の気候ならまだ良かったのだが、運悪く残暑がぶり返した今日は、雨宮家の敷地を囲う白い壁伝いに延々と歩くだけですっかり暑さに参ってしまっていた。

 若社長に会うと思う緊張で、あまり寝られなかったのも不調の原因の一つだった。

 それから、次の日にある四回目の写真撮影が頭をよぎるのと、周りの着飾った人たちからの視線。気が重かった。


 それでも、嬉しそうに出迎えてくれた姫ちゃんを見ると、来て良かったと思った。

 姫ちゃんの親しげな態度に客人達も、私への評価を改めて、盛んに話しかけてくるようになった。

 どういう家柄なのか、というような困る質問もあって、疲れに拍車がかかる。

 頼みの姫ちゃんも次々やってくるお客さんを母親と一緒に出迎えるのに忙しくて、側には居てくれなかった。

 立場は逆転して、助けて欲しいのはむしろ私の方だ。


 たまらず人目と日差しを避けられる木陰に置かれたテーブルを選んで座った。

 日差しのせいで、頭が痛くなってきたし、たっぷり日焼け止めを塗っては来たけど、汗も大分掻いている。

 明日は撮影がある日なのに、うっかり変な日焼けをしたら大変。

 行き詰った事態を打開する為のリフレッシュに、と特訓を休みにしてくれたみんなに申し訳ない。


 美しく高い木々に囲まれると、少しだけ気持ちが楽になった。

 白く高い壁からでも覗えたように、自然溢れる庭だった。

 姫ちゃんが言った通り、素敵な庭だ。

 秋の庭は日本式のようだけど、どことなく東洋趣味の外国人が作った庭みたいで奇妙な印象だったが、一流の庭師がそれを微妙なバランスで品よく仕上げていた。

 気温に反して空はすっかり秋で、青く高かった。

 その青さに、木々の緑と、小さくて可愛い橋の赤、そして、ところどころに置かれたテーブルの白さが映える。

 後ろの林の奥に次の庭に続くであろう、小道のようなものがあった。

 話に聞く、春の庭はあちらの方だろうか。

 出来たら行ってみたいけど、今日は解放されていないかもしれない。


 給仕の人がやって来て紅茶とお菓子を置いて行ってくれた。

 この暑さで、紅茶はアイスティーも用意されたいたので、そちらを選ぶ。

 たっぷりの氷が浮かんだ冷たいアイスティーは乾いた喉を潤してくれた。

 おまけに、すっごく美味しい!

 浮かんでいるレモンの酸味とミントの香りに負けない、しっかりと抽出された濃い目の味なのに、渋すぎず、苦すぎもしない。


 しかし、甘い物禁止令が出ている身に、お菓子の誘惑は困る。

 実は、少しだけなら食べてもいいと言われているのだけど、一度口にしたら止まらなくなりそうで、それが怖くて、一切の甘味を絶っていた。

 アイスティーにもガムシロップは入れなかったし、ココアもしばらくは飲んでいない。

 いい加減、訓練所に溜まりすぎた差し入れのココアはいつの間にか撤去されていた。


 そんな中、見た目も美しい季節の和菓子や洋菓子は目に毒だ。紅茶の美味しさを思えば、お菓子の味も想像出来るのが辛い。

 真ん中のチョコレートケーキが特に目を惹く。

 周りの凝ったデコレーションのケーキの中で、上にアイシングがかかっただけの見た目は素朴なケーキだけど、どっしりとした濃厚な甘みを感じさせるチョコレートケーキの存在は際立っていた。


 すごく美味しそう。

 よく見ると、オレンジピールが入っている。

 オレンジチョコレートケーキかもしれない。

 ますます食べたい。


 親の仇に会ったような心情で、ケーキと対峙していると、ふと、周りの空気が変わった。

 木々が風にあおられてさんざめくように、小鳥がより集まってさえずるように、招待客が何個かの集団になって、ひとしきり話し合うとどこかに行ってしまった。

 案内はなかったけど、何か集まってしなければいけないことでもあるのだろうか。

 椅子から腰をあげかけたが、流れに逆らってやってくる人影を見て、凍り付いてしまった。


 若い女性がその人に一言二言話しかけると、名残惜しそうに母親らしき人に引っ張られていった。

 同じような人が二、三人続き、その度に、徐々に私に近づいてくる。

 辿りつく前に逃げようかと思ったが、ここに居るのを見られている以上、突然、席を立つのは不自然だ。


 それに、その人がこちらに向かっているのは、少なくとも彼自身の意思だ。

 背が高くて足が長い人が大股で歩いてくるから、そんなことを考えている内に、あっという間に目の前に立たれた。


「ここ座っていい?」


「はい、でも、あの……いいんですか?」


「何が?」


「みなさん、どこかに行かれていますけど」


「ああ、あれね、珍しく雨宮の御曹司が顔を出したんだよ。

だから、みんな、ご機嫌伺いに行っただけ」


「若社長はいいのですか? 行かなくても?」


 私の向かいの席に座った若社長はあんまり興味がなさそうに、ちらっと後ろを見ただけだった。

 新しくお客が加わったのを見て、先ほどの給仕がすぐさまやって来た。

 同じくアイスティーを受け取った若社長は、礼を言うなり一息に半分ほどを飲んだ。

 ストローを咥えている口元に見とれていると、それに気づいてか、気づいていないか、「今日は暑いね。雨宮家と言えども、天気を従えるのは無理のようだ」と言って笑いかけられた。

 「そうですね」同意するふりをして、慌てて自分のグラスからアイスティーを飲もうとしたら、もうなくなっていた。

 仕方が無いのでストローで氷を突いていると、若社長もあっという間に飲み終わったようで、手を軽く上げて、給仕を呼び戻した。


「お代わりいる?

同じアイスティーでいい?」


 頷くと、自分の分と一緒に、私の分も頼んでくれた。

 一応、アイスコーヒーはないかどうか確認したのが若社長っぽいと思った。

 この人にコーヒーを淹れてあげたのが、遠い昔のように思える。


「ここのお茶会はコーヒーがないのがね……」


 ネクタイを緩めながらぼやく。

 よく見ると、若社長の恰好は、雨宮家のお茶会に来た割には普通だ。

 もっと、そう、初めてジャンと会った時にしていたみたいな、お洒落な格好をしてくると思っていたのに、いつもの仕事をする時のスーツに見える。

 ジャンと会った時と同じなのは、疲れた様子くらい。

 そりゃあ、普段のスーツだって、相当の品だし、制服着ている自分が言うのもなんだけど、こういうのって、お茶会に対する意気込みみたいなのを表していると思う。

 自分に都合の良い解釈かもしれないけど、若社長は、姫ちゃんとの縁談は望んでいないのかしら?


 新しいグラスが運ばれてきて、給仕から受け取った若社長が私の前に置いてくれた。

 それから、ケーキを、あの一番美味しそうなチョコレートケーキまでも取り分けてくれた。


 「ありがとうございます」とは言い、フォークを取ったものの、あんまりありがたくない。

 なんだろう、この無駄な優しさは……などと罰当たりなことまで考えてしまう私は、心が荒んでいる。

 若社長的には自然な振る舞いなのだろうが、それはそれで、余計に罪作りだ。

 このところ冷たくされて傷ついていたくせに、なんて自分勝手。

 だけど、こうやって優しくされるとやっぱり勘違いしてしまいそうになる。

 好きだけど、嫌いになってしまいたいのだ。出来ればまだ、傷が浅いうちに。


「食べないの?」


 ケーキと睨めっこしている私に、若社長が促した。

 それが切っ掛けで、これまで溜まっていた感情が噴出してくる。


 一旦、取り上げたフォークをテーブルの上に戻す。


「食べませんよ!

甘い物禁止なんです。

ご存知でしょう?」


 知らないかも。

 だって、一度も様子を見に来てくれないほど無関心だものね。


「知ってるよ。

でも、厳しすぎない?

制限するほど太ってないよ、君は」


「誘惑は受け付けません」


 耳を手で覆って、若社長の言葉をシャットダウンした。

 魅惑的な唇から紡がれる、優しい囁きを直に聞いてしまったら、なんでも「はい」と言ってしまいそう。

 甘いお菓子よりも、若社長の方がずっと危険な誘惑だ。


「それに太るからだけでなく、肌にも悪いから禁止されているのです。

一番の責任者が何言ってるんですか。

私は、若社長と違って、自覚があるんです。

俄かモデルだけど、気持ちだけはプロの心持でいたいんです」


 キツイ物言いになったけど構わない。

 怒っているんだから。

 ムラのある優しさって、本当に迷惑。

 そんな悲しそうな顔をしても駄目です。


「真白ちゃん」


 名前を呼ぶのも辞めて下さい。

 あと、見つめるのも。


 若社長はたまにこんな風に私のことを見る。

 私も捕えられたように目が離せなくなる。


 傍からみたらどう見えるのかしら?


 こんなに見つめ合っているのに、まったく表情が伺えないせいで、何を考えているのか分からない。


 私の顔に何か書いてある?

 それとも、無意識にケーキを食べていて口にクリームがついているとか!?

 その顔で、甘い物禁止なんてよく言うよ、とか思っているとか???


 ついっ、と若社長が視線を逸らした。

 まずい嫌われたかも!?

 いやいや、嫌われてもいいんでしょ、自分。


 ……やっぱり嫌だ!

 嫌われたくない。そんなの耐えられない。


 謝ろう。

 今日は優しい若社長だから、きっと許してくれる。


 意を決して若社長の方を見たのに、こちらの内心の嵐を余所に、自分の分のケーキを皿に載せていた。

 えっーっと、私の怒りすらも無視ですか?


「もったいない。

雨宮家のお茶会に招待されたら、このケーキを食べて帰らなければ、来た意味が無いと言われているくらい美味しいのに。

チョコレートにね、オレンジの風味が絶品なんだ。

代々、お抱え料理人に伝えられてきた、秘密のレシピらしいよ」


 私の心を揺さぶる微笑に、すでに陥落寸前だ。

 ただ、引っかかる。

 いつもの笑い方じゃない。

 確信犯的な邪なものを感じる。

 優しいだけじゃない、心がざわめくような笑みだ。


「真白ちゃん、はい、口開けて」


 だから、その笑顔で若社長にこう言われたら、操られるように素直に従ってしまった。

 つい開けてしまったその口に、若社長はフォークに刺した大きめの一口大のオレンジチョコレートケーキを、差し入れた。


「うんっ……あまーい、美味しい〜」


 口の中に広がる、久々の甘さ。カカオ。オレンジ。それから、ナッツの香ばしさも。

 しっとりしていて、口の中でまろやかに溶ける。

 想像以上の美味しさに、夢中に差し出されるまま、二口、三口と食べる。


「どう? 美味しいだろう?」


「はい! ――――っ!」


 目の前で若社長が笑っていた。

 さっき一瞬見せた艶然としたものとは対極にある、悪戯っ子みたいな笑い方だった。


 私はというと、結果的に若社長にケーキを食べさせてもらったという事実に、嬉しいのか、恥ずかしいのか、騙されて腹立たしいのか、何がなんだか分からない混乱に陥っていた。

 そんな私に、目の前の大きな人は、口を押えて笑い出した。

 面と向かって笑わなかったのだけは、彼なりの心遣いだったかもしれない。


 しかし、そんな私に背を向けた若社長の動きが止まった。

 何事だろうと思う間なく、遠くからたくさん人が移動してきていた。


 その先頭、真ん中に姫ちゃんとお母さんが居る。

 と言うことは、その隣の威厳のある和服で白髪の男性は、雨宮会長だろうか。

 彼ら一団が、こちらにたどり着く前に、若社長は至極、真面目な顔に戻り、緩めたネクタイを締め直し、立ち上がって、迎える準備を整えた。

 その一連の動作は、世間に慣れた大人の対応で、寂しく思えた。

 笑われて恥ずかしかったけど、若社長の笑顔には値千金の価値がある。

 悔しいけど、好きなのだろう、この人のことが。


 しかし、哀愁に浸っている場合ではなかった。

 若社長が私にも立つように、軽く促したのだ。

 慌てて立ち上がって、スカートの皺を伸ばし、若社長の隣に立つ。

 不安に思って、顔を見上げると、見返された。

 片眉をかすかに上げて、やれやれと言った感じに、今度は不敵に笑った。

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