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妖精とクマ  作者: さぁこ/結城敦子
第三章 椛島真白の挑戦。
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3-4 憧れの君にコーヒーを淹れてみよう。

 私の家は、古い木造二階建てアパートの二階にある。

 入ってすぐが、台所兼居間兼私の部屋だ。

 真ん中に小さなちゃぶ台があって、壁際に私の使う本棚と箪笥、そして机があった。

 それでも畳部分は八畳はあって、母が生きていた頃は二人で使っていた。

 今は、母が使っていた場所には、小さな仏壇が置いてあり、写真の中で微笑んでいた。

 トイレとお風呂は、狭い台所スペースを示す板間から続く奥にある。

 それから、もう一部屋、東側の一部屋は丸ごと父の書斎だ。

 六畳ほどの部屋に本が積み重なっている。

 角部屋なので、日当たりの良い窓辺に向かって、いつも何か書いているので、私の父の印象は後ろ姿だった。


 若社長に名前を呼ばれた動揺が収まらず、力任せにコーヒー豆を挽きながら、横目で見れば、小さな部屋に置かれた小さなちゃぶ台の前に座る後ろ姿は、父のものよりも大きかった。

 父も背が高いけど、若社長は背だけでなく、肩幅もがっちりしているから、余計に大きく見えるのだ。

 それにしても、まさか我が家に若社長が来るとは、昨日、いや、今朝までは想像も出来なかった。

 何か見られて困るようなものを置きっぱなしにしていなかったかしら。

 洗濯物は若社長と戸田さんを玄関前で足止めして、慌てて取り込んだし、机の上に飾っていた、昨日貰ったチョコチップクッキーは冷凍庫に移した。

 もったいなくてすぐには食べらなかったなんて、知られたら恥ずかしいし、知ったら、乙女の所業にしたって、ちょっと引くと思う。

 だったら干していた下着を見られた方がマシだ……いえ、やっぱりどっちも遠慮したい。

 下着は昨日、見られた……と思うけど。


 ガスレンジの上では、お湯が勢いよく湧いている。

 顔が赤いのは熱気のせいと言い訳できそうだ。


 家に帰って来てからすぐに戸田さんが大事な用事で来たことと、美味しいコーヒー豆とレモンメレンゲパイを持って来てくれたことを伝えたが、まだ父は部屋から出てこなかった。

 これは決して珍しいことではない。

 もう少し、コーヒーの香りがすれば出てくるかもしれない。


 そう思って、コーヒー豆を挽いていると、突然、父の声がした。


「コーヒーはまだかい? 真白?」


「えっ??」


 見れば、コーヒー豆はすっかり挽き終わっていて、私はいつ頃からか、空のミルを回していたようだ。


「今、今、淹れている所。

それよりも、お客さんが」


 若社長が立ち上がっていた。

 背が高いから、一般的な日本家屋の我が家では、ギリギリに見える。

 父は鴨井、私もぶら下がっている電気の傘には要注意な部屋なんだもの。


「知っている。

小野寺の御曹司だね」


 父は不思議な人だ。

 長身で細身で、年は四十代前半だけど、それよりも若く見える。

 若社長と並ぶと兄弟みたいなのが、複雑な心境だ。


 母に言わせれば、私は父親似らしいが、どうだろう。


 実を言うと、私は両親のことをよく知らない。

 たとえば、両親は共に身寄りがなくて、祖父母に会ったこともない。

 親戚もそうだし、昔からの友人、と言った人すらいないようだ。

 母のお葬式は近所の人が手伝ってくれ、会社の人が来たが、私の知らない、両親の知人、友人は来なかった。

 世に隠れて生活しているような両親に疑問を持たない訳はなかったが、その度に、母は、父は本当は妖精の国の王子様なの、と私に説明し、父は父で、妖精の国のお姫さまだった母に会って、人間界に連れてきてしまったのだ、と昔語りをした。

 唯一、父が持っている『母』と称する写真の中の女性は、なるほど、妖精の国の女王様と言っても過言ではないほどの美しい人だったが、それが本当に私の『祖母』なのかどうかは確証がないことだった。

 小さい頃は素直に信じていたし、今だって、ロマンティックな話だとは思うけど、さすがに疑わしくなってきた。

 確かに父は浮世離れしているけど。

 それなのに、父はともかく、母も冗談なのか本気なのか、私がいつ妖精の国に帰ってもいいように、と言い聞かせて育ててきた。

 フランス語とか英語とか、バレエや人間界での礼儀作法が妖精界でなんの役に立つのかは分からない。

 バレエ以外は両親が教えてくれたから、お金はかからなかったけど、月謝がかかるバレエの方は、身長が伸びてきて、ペアを組める男の子がいないことを理由に辞めてしまった。

 ひどくガッカリされたけど、残念ながら娘は両親よりも現実的に育ってしまったのだ。


 現実的にならざるを得ないでしょう? この状況では。

 それでも、同級生には夢見がちという評価をもらっている。


 そんな私よりもよほど妖精界に片足を突っ込んでいるような父は、けれども、なぜか人間界の情勢に詳しい。

 それにしたって、若社長が名乗る前から、知っているとは、どういうことだろう。

 資料探しと言っては、頻繁に図書館に通っているから、そこで例の噂を面白可笑しく書いた週刊誌でも読んだとしたら、これからの交渉に分が悪そうだ。

 そんな娘の心配を余所に、父は半年前に発行された経済雑誌の名前を挙げた。


 ――若社長、ごめんなさい。

 モデルとの熱愛スキャンダルばかり取りざたされている思っていた私を許して下さい。

 若手経営者のインタビューとかって、あるよね。

 なんでそのことに思い至らなかったのだろう。

 今度のお休みに、私も図書館に行って、その雑誌のバックナンバーを漁らないと。

 コピーとか出来るかしら? ちょっと高くても絶対、カラーでお願いしよう。


「真白……コーヒーがこぼれているよ」


「えっ??」


 今度は、コーヒーカップからコーヒーがこぼれていた。


 出来れば若社長に美味しいコーヒーを飲んでもらいたいけど、今日は、無理なようだ。

 それどころか、火傷したり、カップをひっくり返したりしないようにするだけでも一苦労。


 小刻みに震える盆を気づかれない様にしながら、ちゃぶ台に持っていく。

 家にある一番良いカップに、若社長は咎めるような視線を向けた。

 ええ、百均じゃありませんよ。

 有名な窯のものです。本物です。父の趣味です。

 でも、私が生まれる前からずっと使っているから、コスパ的には良いと……思いたいです。


 若社長はコーヒーにも、切り分けたレモンメレンゲパイにも手を出さず、用件を切り出した。

 対する父は優雅にレモンメレンゲパイを食べ、コーヒーを飲んでいた。

 コーヒーの味に、少し首をかしげたけど。


 大体のことを聞き終わっても、父は平然と自らのお茶タイムを続けていた。

 私はとても、そんな風には出来なくて、じっと自分の分のレモンメレンゲパイを見つめていたら、若社長がそっと、その皿を押した。

 目を上げると、「食べるといいよ」とでも言うような目をして、小さく頷いた。

 こんな状況で、味なんて分かるとは思えなかったけど、ノロノロとフォークを持ち、一口食べると、その美味しさにびっくりした。

 甘さ控え目のふんわりとした、上だけカリカリに焦がされたメレンゲの下に、レモンの酸味がほど良くするくちどけ滑らかな生地。底にひかれたサクサクのパイ生地が絶妙に絡む。


 「美味しいです!」

 声に出さずに、若社長に訴えると、嬉しそうに笑ってくれた。

 久々に見た、あの少年みたいなニコっとした笑顔だ。

 思わず見とれてしまい、父がこちらを見ているのに気づくのが遅れてしまった。


 父の皿も空になっていた。


「ジャン・ルイ・ソレイユのことは知っている。

彼の記事や、インタビューを何度か訳したことがある」


 これは好感触と受け取っていいのだろうか。

 『妖精』繋がりで言えば、父とジャンは波長が合いそうだ。


 しかし、そうは簡単にはいかなかった。


「私は反対だな」


「真中さん、そこをなんとか許してもらえませんか?

条件も真白ちゃんに、十分、配慮されたものです」


 それまで黙って成り行きを見守っていた戸田さんがここぞとばかり父を説得にかかる。


「確かに真白は私の……私たちの妖精だ。

妖精のように育ててきた。

ジャン・ルイ・ソレイユにはそれが分かるのだろう。

だが、世間のさらし者にするつもりはない」


 若社長が無表情になっている。

 心の中で、私のどこが妖精? とか思っているに違いない。

 それを表に出すのは失礼だから、我慢しているのだろう。


「お気持ちは分かりますが。

私たちには今、彼女の力が必要です」


「真白はやりたいの? どうして?」


 来た。

 父の質問は、父が無視した若社長がここに来る前に、散々したようなものだ。

 納得させる答えをしないと。

 だけど、どれが正解なのか、まったく分からない。


 はっきり言って、若社長の為としか答えられないけど、それってどうなのかな。

 東野部長の娘さんの話を頭をよぎった。


「お……お金が……割のいいバイトだから?」


 感情面を避けて、現実的な理由を言ってみたのだけど、父の答えはずばり「お金? 必要なの?」だった。

 ああ、ごめんなさい、若社長!

 私、一番、まずい答えをしたかも。

 この父に、経済とか家計とかの話が通じるはずがなかった。

 バイトを始めた頃は、何を聞いても生返事だった時期なのをいいことに、ただ報告しただけで済んだのに。


 こうなったら、若社長も納得させた勢いに頼るしかない。

 息を吸い込んだ私だったが、それが声になる前に、若社長の怒気に触れて、ため息になって消えた。


「必要ですよ。

まさか霞を食べて生きている訳ではないでしょうが」


 低い声がさらい低くなっている。

 顔は無表情のままだだけど、私でも怒っているのが分かるほど、怒っていた。


「働く能力が無いわけでもないのに、娘が行きたいと願っている大学に行く費用を出す気もなく、それならば自分で稼ごうとするのすら、邪魔するのですか?

横暴ですよ。

いくら親で子供だからって、そんな権利がありますか?

彼女の夢は彼女が叶えます。

貴方の夢は、貴方が叶えればいいでしょう。

これ以上、真白ちゃんを巻き込むのは辞めて下さい」


 若社長のいつになくキツイ言い方に、戸田さんは青ざめているし、私も気が気ではなかった。

 それなのに、父だけは余裕の表情だ。

 しばらくの間、目の前の人間を興味深そうに眺めた後、笑った。

 それも口の端を軽く上げる、嘲笑にも思える笑い方だ。

 真剣に話そうとしている若社長に対してするような態度ではない。

 そんな父は初めて見たし、あまり好きになれないから、もう見たくない。


「契約書は?」


「はっ?」


 いかにもこれから辛辣なことを言いそうな雰囲気だった父が、いきなり譲歩したので、若社長は拍子抜けしたようだ。


「出来次第、目を通させてもらいたい。

私はこれでも真白の保護者で、娘はまだ未成年だからね。

難しい法律用語満載の何ページにも及ぶ契約書に、どんな罠が仕掛けられているか分からない。

こちらが妥協する以上、条件は厳しくさせてもらわないと。

うちの可愛い娘を売り飛ばすようなことはさせない」


「うちの社長はそのようなことはしませんよ。

真中さんだって、小野寺の大社長のことをご存知でしょう。

息子さんも、それに倣って大変、立派な方です」


「いや、戸田部長、構わないよ。

貴方の言う通りです。

安心してお嬢さんをお任せ頂けるよう、最善を尽くします」


「頼もしい言葉を聞けて嬉しいよ、小野寺の若様。

では、そのように」


 あっさりと、考えていたよりも簡単に、父は承諾してくれた。多少、皮肉っぽかったけど。

 もっとも、後から契約書にどんな口を挟むか分からないと言う不安はあるにはあるが、そういう人ではないと信じている。


 話は終わったとばかりに、父が自分の部屋に去った後、若社長も同じような感想を言っていたもの。

 私のこと、父なりに大切にしているって。


 会談が首尾よくいって安堵したのか、若社長がようやくコーヒーカップに手を伸ばした。

 慌てて止める。


「あ!駄目!」


「えっ?」


「淹れ直します! ……ぬるくなったから、あの、淹れ直します……」


 自分も飲んだが、正直、このコーヒーの味には納得出来ない。

 自慢ではないけど、母直伝の私のコーヒーは普段はもっと美味しいのだ。

 それを若社長には飲んでもらいた。

 我が家にお招きして、コーヒーを飲んでもらえる機会が、今後あると思う? ある訳ない!


 それなのに、「ぬるくても平気だよ」と言って、飲み始めるなんて、ひどいです。

 ほら、手が止まったじゃない。

 コーヒー好きらしい若社長に、私への印象を良くしてもらえるチャンスなのに!


「やっぱり淹れ直します。

そう、井上さんにも持っていこうと思っていたんです。

コーヒーとレモンメレンゲパイ!」


 若社長の運転手の井上さんは、私たちを家まで送り届けると、一緒に上がってコーヒーでも、という勧めを頑なに断って、車内に残っているのだ。

 だから、コーヒーとレモンメレンゲパイは持って行ってあげようと思っていたことに、嘘偽りはない。

口実にはしたけど。


「社長、真白ちゃんのコーヒーは美味しいですよ。

是非、もう一杯頂いていきましょう」


 コーヒーの中に毒物でも入れられたような顔でカップを見つめていた若社長は、戸田さんの言葉に我に返ったように頷き、「そうだね、井上さんも喜ぶよ」とやや上の空で言った。

 そして、私がカップを下げる前に、残りも全部、飲んでしまった。


 これは、絶対に、汚名返上をしなければ、と気合を入れたコーヒーは、力みすぎて、一杯目ほどひどくはなかったけど、実力八割くらいの味になってしまった。

 後悔しても、しきれない。


 落ち込んだまま、井上さんに新しく淹れたコーヒーとレモンメレンゲパイを持っていったら、とても喜ばれつつも、心配されてしまった。


 これから起きることを考えれば、若社長にいまいちの味のコーヒーを出してしまい、ガッカリされるくらい、大したことではなかった。

 私は呑気で世間知らずなのに、向う見ずな小娘だったのだと、本気で後悔する日々が待っていたのだから。

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