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妖精とクマ  作者: さぁこ/結城敦子
第三章 椛島真白の挑戦。
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3-3 説得のレモンメレンゲパイ

 若社長の専属の運転手の人はとても優しそうなおじいさんだった。

 丁寧に車のドアを開けてくれた。

 私のことを『真白お嬢様』と呼ぶのは気恥ずかしいけど、きっとこの車に乗る女の子には、みんなそう言っているのだろう。


 この車に乗った他の女の子達のことを考えると気分が落ちてくるから、あまり考えない様にしよう。

 それよりも、膝の上に載った、ケーキの箱のことを考える方がずっと楽しい。

 箱の上には焙煎したてのコーヒー豆の紙袋が乗っているので、そこだけすでにお茶会のような芳しい香りを発していた。


 父への手土産に戸田さんが用意した社食併設のカフェのオリジナルブレンドのコーヒー豆、それから、同じカフェのレモンメレンゲパイだ。

 ただのレモンメレンゲパイではない。若社長が、私にくれたものなのだ。


 それを見た永井秘書が、「あそこのレモンメレンゲパイは、すごく美味しいんですよ!」と教えてくれた。

 「なかなか手に入らないの。……今日もお昼には売れ切れだったのに……若社長が特別に取り置きさせておいたのよ」と東野部長が付け加えた。

 東野部長は、私の気持ちが変わらないのを知ると、反対よりも応援に回ってくれた。

 何かあったら、必ず相談するように念を押されたけど。


 きっと昨日のお詫びだろうレモンメレンゲパイだけど、若社長が私のことを気にかけてくれるのは嬉しい。

 時々、ちょっと怖いし、理不尽に感じることもあるけど……それは社食の座席から遠く見つめているだけでは分からないことだ。

 頭の中で作り上げられた完璧に優しい若社長ではない、実在する人間としての一面に触れているのだ。

 それに結局は、優しい人だと思う。


 ますます憧れに拍車がかかっている自分に注意を促す。

 気を付けなさい、真白。

 若社長に想いは届いたって、受け取ってはもらえないのだから、うっかり溢れ出させて気が付かれない様にしないと。

 これ以上、困らせたくない。


 それなのに、その若社長が隣に座っているので、その決意もぐらぐらと揺れていた。

 二人っきりではない。

 運転手さんもいるし、助手席には戸田さんが座っている。


 戸田さんと言うのは、小野寺出版の文芸部部長兼『晴嵐』編集長だ。

 若社長がジャンを社長室に押し込めて、私の家に行くと言った時、お願いして呼んで来てもらったのだ。


「戸田部長? なんで? 知り合いなの?」


 夏樹さんがさらに刺々しくなって聞いてきた。

 ファッション部と文芸部の間には見えたり、見えなかったりする確執があるらしいから、そのせいかもしれない。

 なにしろ、ファッション部は小野寺出版の屋台骨を支えている自負があるのに、大社長が大好きなのは文芸部が作る本だからだ。

 戸田さんを面倒なことに巻き込んでしまったと後悔したが遅かった。


 あっという間に、戸田さんは呼び出され、事情を聞いて、父への説得に同行することになった。

 入社二十年の文芸部部長は、まだ駆け出しの新人編集者の頃、父の小説に出会い、その才能にほれ込み、ずっと担当としてついてきてくれた人だった。

 家族みたいな人で、いろいろ難しい父とも、それなりに交流出来る……はずだ。


 若社長は父が自分の会社に関係する作家と聞いて、驚き、それから申し訳なさそうに知らない旨を述べた。


 私は若社長を責められない。

 何しろ、十五年前に一度だけ、短編が『晴嵐』に載っただけなんですもの。


「それでも戸田部長はずっと担当を?」


「はい……あの、他の業務に支障はないようにしていますので。

ほとんど私の趣味みたいなものでして……」


「趣味って……」


 道すがら、文芸部部長と会話する若社長は終始、呆れ気味だった。

 父、椛島真中は世に隠れた作家だった。

 隠れすぎていて、文芸部部長がこっそりひっそり担当をしていても、誰も気が付かないから、咎められたこともなかった。

 今回のことで、小野寺出版の首脳陣にそのことが知られ、切られることもあることを、今の今まで気が付かなかった。

 私ときたら、どうしてこんな軽率なのだろう。

 戸田部長は、最悪の事態を阻止するために、熱く語った。


「彼は……真中まなかさんには才能があると思います。

いつか素晴らしい作品を世に出し、それが世間に受け入れられる日がきっときます。

その日まで、私は彼を支え続けたいと思っています」


「こんなことを聞くのは失礼かもしれないけど、その日が来るまで、どうやって家計を支えていたの?」


 これは私への質問だろう。


「以前は、母が……働いていました。

小さな会社でしたが、業績は悪くありませんでした。

正社員だったしボーナスも出てました。

それに、父もまったく働かなかった訳ではありません」


 父は自らの語学力を生かして、翻訳の仕事を請け負っていたのだ。

 主に、戸田さんが持ってきてくれる小野寺出版の仕事で、提携しているフランスと英語圏の雑誌や、インタビュー記事、コラムなど短いものを中心に訳していた。


「真中さんの英語とフランス語は見事です。

博識な方なので、あちらの経済にも法律にも詳しい上に、とても美しい日本語として訳してくれるので、各所で評判が良いんですよ。

ただ、自分の創作の邪魔になると言って、文学だけは翻訳してくれないんですがねぇ。

日本語からの訳も素晴らしい……と、言われていまして、彼の訳文で日本文学を紹介したいと、文芸部の部下たちからは、たまに提案されるくらいです。

悔しいですが、作家ではなく、翻訳者として認識されているようで……私が彼の原稿を読んだり、打ち合わせしているのを見ても……その、そちらの仕事と思われていて……いえ、それもありますよ!」


「そうか……じゃあ、それほど……なんと言うか」


 若社長が言いたいことは分かる。

 母が生きていた頃は、それなりに生活出来ていた。

 箱の上のコーヒー豆のように、父は質は良いが、それに比例して高いものが好きなせいで、いつも家計は苦しかったけど、今ほどではなかった。


 母が発病すると、父はそれまで以上に翻訳の仕事に励んだ。

 多分、本をまるごと何冊か訳したんじゃなかったかしら。

 すべては母の為だった。

 医療費だけでなく、家族で出かけたり、美味しい物を食べたり。

 みんなで懸命に楽しい時を過ごそうとした。


 母は最期まで父と私に心配をかけまいと、いつも笑顔を絶やさず、どんなに辛い治療でも穏やかな表情を崩さなかった。

 娘から見ても、素敵な人だった。


 そんな最愛の妻を失った父は、悲嘆にくれた。

 翻訳の仕事もしなくなったし、小説も書かなくなった。

 私の高校の入学式にも来なかった……と言うか、高校生になったのも知らなかったかも。

 そんな状況だったので、志桜館を受験するのは迷った。

 でも、母が生前、頻りに志桜館に私を入れさせたがったのを思うと、どうしても行きたかった。

 担任の先生が、奨学金制度を教えてくれ、手続きを助けてくれたおかげで、無事に入学出来た……といったことも知らないと思う。

 ただ喜ぶべきことは、最近、ようやく父が小説を書く気力を取り戻したことだ。

 毎日、机に向かっている。

 おそらくこれが最後の機会になるだろう。

 口には出さなかったけど、戸田さんと私はそう、思っていた。

 夢の行きつく先がどうなるか、とても不安だけど、考えても仕方がない。


 隣で何か言いたげな深い、深いため息が聞こえた。


「母の会社は福利厚生もしっかりしていたので、亡くなった時も、生命保険が下りたし、給料天引きの貯金もあったので、すぐには困りません……」


「でも、いつかはそのお金もなくなる」


「そう……ですね」


 父の小説が世に認められるか、諦めて他の仕事を探すか。

 しかし、父が作家以外の仕事をする姿を想像出来ない。

 そうなったら、私が働くしかないだろう。

 せめて母が望んだ高校は卒業したい。


「君は特進科だろう?

大学には行きたくないの?」


「……行きたいです……けど」


 またもや説教モードに突入しそうな若社長に警戒したら、案の定だった。


「親の夢を応援すること、もう、否定はしないよ。

だけど、そういうやり方はやっぱり犠牲になっているとしか思えない。

父親の為に、自分の将来を駄目にするつもりかい?」


 心配してくれているのは、十分、分かる。

 むしろ、若社長が私の父親のようだ。

 うん、それは嫌だわ!

 余計な考えを頭から払って、ことさら明るく言った。


「そんなつもりはありません。

働きながらだって、勉強は出来るし、お金を貯めたら、大学に行きます」


「大変だよ……それは、君が思うほどずっとね」


「そうですが、やってみないと分かりません。

それに、父の小説がなんとかなるかもしれないでしょ?

それまで、母が残したお金を使い切らない様に、バイトをしようと探していたら、戸田さんがちょうどいいバイトがあるって紹介して下さったんです。

私、実は……編集の仕事に憧れていて……大学に行けたら文学の勉強をしたいのです。

さすがに高校生は出版社のお仕事には関われないけど、少なくとも空気くらいは感じられるんじゃないかって」


「だから、小野寺清掃に来たんだね」


「はい!」


 早朝と夕方の裏方のお仕事では、出版業の神髄に触れるなど、とても出来ないけど、代わりに若社長に会えました。

 近くで横顔を見ると、顎の線が素敵なのが分かった。

 見つめ続けていると、その顎が、なぜか苦虫を噛み潰してしまったかのように、喰いしばられた。

 それが緩められたかと思ったら、また、ため息を付く。

 そんなにため息ばっかり付いていると、幸せが逃げてしまう、と教えてあげた方がいいかしら。


 けれども、その前に、若社長が私に信じられないことを教えてくれた。


「まぁ、今度の仕事が成功すれば、三ヶ月で大学に行けるくらいは稼げるよ。

それで大学に入学出来たら、うちの会社で良ければ、バイトも世話出来ると思う」


 えええええ!!

 驚きのあまり身動きしたせいで、箱の上のコーヒー豆の紙袋が滑り落ちそうになった。


 すかさず、若社長が身を乗り出して大きな手で落下を阻止し、元の位置に戻しながら、私の顔を覗き込むようにして「そんなに驚くこと?」と言った。


「驚きますよ!」


 声が上ずった。

 顔が近いです!

 ……っと、ではない! いくらなんでも破格の待遇すぎませんか?


「まさか、お金をもらうつもりはない、とか言わないよね」


「ええっと、正直、そこまで考えていませんでした」


 とにかく若社長の役に立ちたいと望むだけで、深く考えてなかった。

 そんな私に、若社長はこちらに視線を残したまま、身を離した。


 一瞬、穏やかになったと思ったのに、説教モードは続行中のままのようだ。


「これは仕事で、小野寺は君と契約を交わし、君を使うことで利益を得る。

そのお返しに、君への報酬が生まれる。

それは理解出来るね」


「はい」


「そう、それは良かった。

君は頑固だから、また説得しないといけないと思ったよ」


 頑固? 私が?

 若社長の中で、私はそんな評価なの?

 それってあんまりよくない印象よね。

 おまけに、面倒臭い女の子と言うニュアンスも含まれている気がする。


 レモンメレンゲパイのせいで浮かれていたけど、やっぱり、若社長は私を疎ましく思っているのだろうか。

 ここにきて、またもや、私の意思を翻そうと試みてくる。


「仕事には責任が伴う。

特にこの仕事は、我々にとって重要で大事なものだから、報酬も大きくなる。

それは君への期待だし、果たしてもらう仕事の困難さも含まれている。

生半可な気持ちでやってもらっては困るし、出来ないんだよ。

イメージの再検討をする必要もあるし、君を一から訓練する時間もそれほどない。

だから、断るなら今のうちだよ。

ちゃんと考えてね」


 また、恥ずかしい気持ちになった。

 私への厳しい姿勢は、決して個人の好悪ではなく、あくまでビジネスとしての判断だ。

 大人で、経営者なのだ。


 勢いでやると言ってしまったのは確かで、、自分がどうしてジャンに指名されたのか分からず不安なのも否定しない。

 それでも若社長には、出来れば励まして欲しいと思う……のは贅沢な望みだとしても、私の存在を肯定して欲しい。認めてもらいたい。

 その一心で、身を乗り出した。


「頑張ります……いえ、必ず成し遂げてみせます!

若社長は、私では無理だとお思いですか?

身の程知らずだと……」


 再び落ちかけたコーヒー豆の袋を、今度も若社長が抑えてくれた。


 あ、すごい顔が近い。





「……いいや。出来ると思うよ。

真白ちゃんなら」






 ついにコーヒー豆は足元に落ちた。

 私が乗り出した時と同じ勢いで身を引いたからだ。

 なぜか若社長もそのまま固まっていた。


 運転手さんがうっかり青信号になったのに気が付かなくて、後続車にクラクションを鳴らされなかったら、そのまま二人で見つめ合ってしまいそうだった。


 うわぁ、初めて名前で呼ばれてしまった。

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