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妖精とクマ  作者: さぁこ/結城敦子
第二章 小野寺冬馬の事情。
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2-5 『太陽王』の襲来

 会社全体が浮き立っていた。

 無理もない、ジャン・ルイ・ソレイユはファッションに関わる人間なら憧れの存在だ。

 その人間が、こともあろうに、自分たちの会社にやってきて、きちんと受付をしていった……と言う。

 想像出来ないな。

 受付嬢が感動のあまり涙ぐんでいた。

 昨日まで美園に困らされてきたが、その分の苦労は報われておつりがくるほどらしい。


 十五階に行くと、社長室の前室である秘書室に、部長二人が揃っていた。

 そう言えば、井上常務を置いてきたが、その内、来るだろう。


「社長!」


 冷静さを取り戻した秘書室長が、小声で俺を呼んだ。


「それで、太陽王陛下はいずこに?」


「社長室です……」


 言い終わるかどうかで、その社長室の扉が勢いよく開いた。

 太陽王とはよく言ったもので、ジャン・ルイ・ソレイユは輝く金髪に、深い緑色の瞳をもった青年だった。

 若くして成功したものが持つ自信からか、彼自体が光輝いているようだ。


 緑色の瞳が俺を捉えると、ただでさえキラキラしているそれを一層、輝かせる。

 いちいちオーラがうざい男だ。


『君がトーマか!』


 初対面の印象はよくなかった。

 美園とは違うベクトルで苦手だと思った。


 しかも、フランス語で話しかけてきた。

 フランス人だから当たり前なのだが、こちらは日本人なのだ。

 大学はアメリカに留学させられたから、英語はビジネスで困らない程度には使える。

 フランス語も一応習ったが、とても使いこなせるレベルではない。

 それでも錆びついたフランス語能力に必死に油を注し、ぎこちなく動かす。


『初めまして、ジャン・ルイ・ソレイユ。

小野寺冬馬です』


『ジャンで構わない。

ところで、真白ちゃんは?』


「はぁあ?」


「若社長……!」


 俺の態度を無礼と取った青井部長が咎めたが、それどころではない。

 なんでこの男が、あの子のことを知っている?


『久しぶり、ジャン。

真白ちゃんって、椛島真白ちゃんのことかい?』


『あれ?夏樹じゃないか!

どうしてここに?』


『ここ俺の家の会社だから。

こっちが上の兄の冬馬で、こっちが下の兄の秋生だ』


 兄よりも、よほど流暢なフランス語で夏樹が改めて紹介した。


『はじめまして。小野寺秋生です』


 小野寺の家では英語は当然として、フランス語の習得も必須とされている為、秋生もフランス語を話す。


 部長二人と牧田、及び、秘書陣は、フランス語担当の一人を除いて、事の成り行きを茫然として見守っていた。

 俺も挨拶程度なら出来るけど、これから先の交渉をフランス語でやるのは避けたい。

 が、ジャン……面倒なので、喜んでこの呼び方は使わせてもらおう……は、言語を変えるつもりはさらさらないようだ。


『なんだ真白ちゃんはいないのか。

それとも私から彼女を隠しているのか?』


『なぜあの子に会いたいのですか?』


『彼女は私の妖精だからさ!』


 ジャンが言い切った。


 夏樹が俺を引っ張って、驚きを隠せない調子で話しかけてきた。


「どういうこと?

真白ちゃんって、昨日、冬兄が助けた女の子だよね?

ジャンと知り合いなの?

と言うか、妖精って……!」


「よくは分かりませんが、ジャン・ルイ・ソレイユは真白ちゃんに会いに来たようですね。

兄さん、彼女に連絡を……」


「ここに来てから若社長と真白ちゃんに会わせろって言うのですよ」


「すぐに真白ちゃんに連絡して来てもらわないと」


「社長は真白ちゃんの携帯番号をご存知ですか?」


「お前ら……」


 ジャンに背を向けて、日本語で話し始めると部下たちも交じってきた。

 それはいい。

 それはいいのだが、なんで全員、普通に『真白ちゃん』呼びなんだよ!


「こぞって名刺を渡していたくせに、あの子の連絡先を誰一人知らないとはね」


 自分だって彼女の連絡先を知っている訳ではないのに、意図せずに、嫌味が漏れてしまった。

 俺も秋生の秘書や牧田に劣らず、気が動転しているようだ。


「悪い……」


 憮然とするみんなに謝ると、秘書室を出て携帯を取り出す。

 あの子のことなら、母が詳しいはずだ。

 もう関わらないと約束した舌の根も乾かない内に、こんな問い合わせをしたせいか、最初は警戒されたが、事情を話すと、信じられないと言いつつも相談に乗ってくれた。

 予想通り携帯を持っていなかった。

 ただし、家に電話はあるらしい。

 それも、ちゃんと繋がる電話だ。

 もっとも、そこに電話するよりもよほど確実な方法があるらしい。


「つまり自転車を取りに来るから、その時に分かるようにメモを置くか、人を待たせておく、と言うことですか」


 牧田がメモ帳を開き、あの子の自転車の特徴を書き込んだ。


「すぐに人を遣りましょう」


「待て。

来るとしても午後だ。

今から行っても仕方がないだろう」


「しかし……」


 周りの人間がソワソワしているのが分かる。

 せっかく、やって来たジャンが怒って帰るのを恐れているのだ。

 だが、どうしようもないだろうが。


 試験中のあの子を呼び出すなんて、いくら太陽王のご命令だとしても、お断りだ。


 俺は部下達の意見も聞かず、ジャンに向き直った。


『彼女には会えない……ここには居ない』


 そこまで言って言葉が詰まる。


「冬兄……大丈夫?」


「急かすなよ。

フランス語は苦手なんだよ!

ちょっと待て、今、続きを言うから」


 夏樹が通訳しようか、代わりに話そうか、と提案するのを制して、フランス語を紡ぐ。


『今は。

午後になれば、ここに来る予定になっている。

会いたければ、それまで待ってもらおう』


 ジャンよりも、その後ろの人間が難色を示した。

 秘書兼ボディガードと言ったところだろうか。


『若様に待てというのか』


 おっと、間違えた。

 どうやら忠義に厚い執事のようだ。

 それにしても、ここでも『若様』とはね。

 プロジェクトが始まる前に読んだ資料では、ジャン・ルイ・ソレイユの父親はフランスのシャトーを持つ資産家で、母親は英国貴族の出らしい。

 才能だけでなく、家柄も良い『若様』は、人生で我慢すると言う機会を与えられなかったようだ。


『そうです、待ってもらいます』


 強気に出る俺に、屈強そうな執事は不服そうな様子を隠そうとしない。


『若様はお忙しい身なのだぞ。そんな時間はない』


『そのようですね』


 だったら、とっとと帰れよ、と言いたくなった。

 ジャンとの交渉は重要な仕事なのは知っている。

 プロジェクトの成否どころか、これからファッション関係の仕事をしていく上で、ずっと付きまとうことも知っている。

 そのことを思えば、どんな意に染まないこともやるし、どんな犠牲も構わない。

 俺がするのならいくらでも。

 だが、あの子は別だ。

 小野寺の経営に、あの子が犠牲になる理由がどこにある?

 そうでなくても、昨日、あんなひどい目にあったと言うのに、今日はこんな訳の分からない人間に絡まれるなんて……。


「兄さん……大丈夫ですか?」


 弟二人が同じことを言う。


「大丈夫だよ。

発音は拙いけど、文法は間違ってないだろう?」


「いえ、そういう意味では……」


 秋生と夏樹が後ろに居る部長や牧田に助けを求める。

 さすがに門前払いはまずいか。

 どんな用事か知らないが、彼女と会わさざるを得ないのならば、きちんと試験を受け終わって、俺の目が届く所で会ってもらおう。


 ジャンの後ろでは、あの五月蠅い柱時計が十時を告げた。

 試験期間中ならば、学校からここに着くのに、後四時間くらいだろう。

 たった四時間だ。


『それほど会いたいのならば、貴方の、その黄金の時間の粒を、費やして頂きます』


 執事を無視して、ジャンに直接言った。

 言い回しが、気障っぽくなってしまった。

 小野寺の家で、フランス語が必須なのは、この会社と同じで、義父の趣味だ。

 教材として、フランス文学や詩を随分、読まされたせいで、こんな顔に似合わない作文をしてしまう。


 ジャンと義父の趣味は合いそうだ。

 ニヤっとした笑みが浮かんでいた。


『妖精はそう気軽に姿を現す存在ではないのですよ。

当然、ご存知でしょうがね』


 いい年して、『妖精』なんて単語が口に出せるのも、フランス語だったからかもしれない。

 そして、この恥ずかしい台詞を聞いたジャンの顔中に笑いが、いや、全身が笑っているかのように震えた。


『素晴らしい!

ますます、会いたくなったよ、私の妖精に!

喜んで待とう!

私の黄金の時間の粒を、どれくらい払えばいいかな?』


『そうですね、普段ならば早くて十二時間、最大三日は待つことになりますが……』


 勤務時間の関係でね、と心の中で付け足す。


『貴方は運がいい。

今日は五時間ほどで会えるでしょう』


 念の為、一時間足しておいた。


 それでも、ジャンの気は変わらなかった。


 感動のあまり、俺の手を取り、きつく握ってくる。

 つい、『学校の試験中』と言う、非常に現実的な事実を伝えて追い返したくなったが、美園との一件を思い出して堪える。

 大体、この勢いを見ると、真実を知ったら、彼女の学校に突撃しかねない。

 それは避けたい。


 たとえ、ジャンが嬉々としてここで待つと言い、勝手に俺の部屋に入って行ったとしても、だ。


 安堵した様子の秘書室の雰囲気を横目で見ながら、傍若無人な客人を追って社長室に入ると、そこはすっかりジャンの執務室となっていた。


 昨日、あの子が座っていた応接セットのソファーに座り、彼は夢中でスケッチブックに鉛筆を走らせていた。


『悪いねトーマ!

さっきから創作意欲が湧き上がって来て、今すぐ、形にしないと、爆発しそうなんだ』


 そう言う間も、ジャンの手は止まらない。

 床には大きくバツがつけられた紙が散乱していた。

 俺を待っている間にも、何枚も書き上げたようだ。

 今も一枚、書き損じが空を舞った。


 執事が寄ってきて、『若様の紙ゴミもまた大変貴重なものなので、部外に漏れないようにして欲しい』と言うので、会社で契約している機密書類を処理する箱を教えた。

 後から聞いたが、バツがつけられたデッサンすら、ネットオークションで流されたら、高額な値がつくそうだ。


 希代のデザイナーの創作活動の邪魔をしないように、ノートパソコンを持って隣の秘書室に移ろうとするとジャンが止めた。


『気にするな!』


 まるで彼の部屋のような態度である。

 広い社長室が、ジャン一人の存在感でいっぱいで息苦しいほどだ。


『君も私の創作の源だ。

側に居るといい。

……あ、妖精ではないぞ』


 スケッチブックのページが一枚、めくられた。

 今度は無事に、この世に彼の作品が誕生したようだ。


 ノートパソコンを持ったまま、迷っていると、ジャンは口の端を片側だけ上げた。


『ここから一番近くのコーヒーが美味しい店を調べさせた。

良ければトーマの分も用意させよう』


 こちらの気持ちを見透かされたことに、ギョッとしたが、見れば、ジャンの前にはお馴染みのコーヒーカップが置いてあった。

 もっとも、中身が全て飲み干してあったのは意外だった。

 永井が用意したものではないのかと思ったが、どうやら、そうらしい。


『君の秘書の淹れるコーヒーは面白い味がするね。

とても面白かったよ』


『それは……永井が喜びます』


 思わず礼のようなことを言ってしまったが、あんなコーヒーを出したことを詫びるべきだったろうか。


 執事が用意したコーヒーは格別に美味しかったので、ジャンの味覚が殊更おかしいと言う訳でもないようだ。

 ここから一番近いコーヒーの美味しい店が、最上階の社食にあるカフェだと言うのにも同感だし。


 実は俺が社長としてやって来た時、社長室で提供されたいたコーヒーは実に美味しかった。

 永井が憧れる先輩秘書が淹れていたのだ。

 それが、コーヒーが縁で社食のカフェのバリスタと恋に落ち、結婚を機に退職したと思ったら、旦那と同じ職場に就職していた。

 おかげで、最上階のカフェのコーヒーはますます美味しくなり、社長室のコーヒーは迷走を始めたのだ。

 昨日、ココアを買いに行ったら彼女に対応されたのだが、注文に驚かれ、トッピングの追加で怯えられ、チョコチップクッキーにいたっては、お疲れですか?と心底心配されてしまった。

 俺は見た目よりも甘いものは好きなのだが。

 今も、お茶請けは欲しい気持ちだが、ジャンはコーヒーしか注文していないようだ。

 この時間だったら、昨日は売れ切れだったカフェの看板メニューである絶品のレモンメレンゲパイがまだ残っていたかもしれないのに。

 あれは本当に美味しくて、社長であっても、なかなか口に出来ないほどの人気なのだ。

 あの子にも出来ればチョコチップクッキーではなく、あのレモンメレンゲパイを食べさせてあげたかった。

 それは無理としても、一度思ったら、無性に甘い物と一緒にコーヒーを飲みたくなった。


 その時、不意に先ほど貰ったお菓子の存在を思い出した。


「あ……」『コーヒーと一緒にお菓子でもどうですか?』


 コーヒーカップを片手に、テーブルに置いたスケッチブックに覆いかぶさるようにして、尚も描き続けている男に声を掛けると、上目遣いで見られた。


『お菓子?どんな?』


『さぁ?ちょっと待ってて下さい』


 受け取ったはいいものの、どこに置いたか記憶にない。

 秘書室を覗くと、とっくに開けられた菓子折りを中心に、弟二人と親友が顔を突き合わせて、何事か相談中だった。


「お菓子二つもらっていっていいか?」


「……っと!ビックリした!

とうま……じゃない、社長でしたか」


 俺が近づくまで気が付かないなんて、何を夢中になって話していたのだろうか。

 秋生と夏樹が、こちらを観察しているような視線を投げかけている。


 かすかに気に障ったが、問い詰めている暇はなかった。

 代わりに箱ごと持っていく。


 夏樹が「それはないよ……」とぼやいたが、「ジャンは大事な客人だぞ」とあしらった。


「その大事な客人を追い出しにかかったのは兄さんですよ」


 小声で秋生が言う。


「人聞きの悪いことを……ところで、このお菓子、どういうものだ?」


 フランス人の口に合うかな?


 牧田が包装紙の下から、菓子箱に入っていたらしい由来書を取り出して渡した。

 古風な言い回しで、『弊社の菓子』について説明している文章に、思わずうめいてしまった。


「これをフランス語で訳すのか……」


「大丈夫だよ。

冬兄のフランス語は、悪くないよ!」


「本当かよ。

あれだけ大丈夫?大丈夫?って聞いてきたくせに」


「……いや、それは別な意味で……」


『おーい、お菓子まだ?

コーヒーが冷めるぞ』


 開けたままの扉の向こうから、ようやく創作意欲がひと段落したらしいジャンが コーヒーカップを両手で包み込むように持ってこちらを見ていた。


『はいはい』


 可哀想なので、箱の中から三つ、お菓子を取り出し牧田に渡すと、残りは四つになった。

 一人二個だから、十分だろう。

 そう判断したものの、フランス帰りの弟が絶賛した菓子は、その友人にも受けが良かった。

 俺がたどたどしいフランス語で、由来書を読んでいる内に、ジャンはすでに二個目に手を出していた。


『これは美味しいな!

日本のお菓子は、どれも美味しいから、大好きだ!』


『フランスの菓子も美味しいじゃないですか?』


『そうだが、日本のお菓子は、そこら辺で売っている安いのに至るまで美味しい』


 当然のように三個目に手を出したので、慌てて自分の分の一個を確保したら、恨みがましい目で見られた。


『一人二個ですよ。

計算できるでしょう?』


『割るのは嫌いだ。

もっとないのか?』


『お昼ごはん食べられなくなりますよ』


 どこの母親だ! と自らの台詞に苦笑しつつ、もう一度、秘書室に戻り、渡したばかりの菓子を弟たちから回収する。

 ついでに、「そう言えば、昼はどうするつもりだ?」と牧田に尋ねる。


「それに関しては、ご心配なく。

寿司でも天ぷらでも松坂牛でも神戸牛でも……どんな要望にも対応出来るように準備してあります。

こちらの菓子が気に入ったようならば、すぐに取り寄せましょう。

支社の人間に頼めば、新幹線を使って二時間で持ってこられます」


 有能な秘書室長がいると助かると同時に、どれだけの我儘が許されるのかと思うと、恐ろしくもなる。

 もっとも、ジャンの思考は俺達の想像の及ぶものではなかった。


 彼の希望は『日本のカレーライス』だった。

 なんでも、ネットで話題らしく、来日したら絶対食べたいと思っていたらしい。


『だが、昨夜、雨宮で頼んで出てきたのは、美味しかったが、どうも違うような気がする。

私は普通のお母さんが作ると言うカレーライスが食べてみたいのだ。

君なら、分かるだろう?』


 それは買いかいぶりだ。

 母親が作るカレーは知っているが、一般的な『普通』のカレーはよく知らない。

 給湯室で誰かに作ってもらおうかとも思ったが、それよりもいい方法が思い浮かんだ。

 秘書室をスパイシーで食欲をそそる香りでいっぱにせずに済む。


『分かりました。

ご期待に添えるか分かりませんが、お昼はカレーにしましょう』


『さすがトーマだな。

ああ、ついにカレーライスが食べられるのかと思うと、また創作意欲が湧いてくる。

このお菓子も美味しいし!』


 お前の創作意欲、実は『妖精』関係ないだろう!? と言ってやりたがったが、そこは堪えた。

 気楽どころか、馴れ馴れしい態度につい忘れがちになってしまうが、目の前で呑気に地方銘菓を頬張っているのは、世界に名だたるデザイナーで実業家の王様なのだ。


 再び意識を紙の上に集中し始めたジャンに倣って、俺も、少ない時間ながら午前中の仕事を済ませようと机に向かった。

 時折、電話をかける関係で、隣の秘書室に足を運ぶと、いちいち弟二人にジャンを怒らせていないか確認されたが、「うまくやっているよ」と言うことが出来た。

 自分でも不思議だが、初めて会った時の苦手な感じがすっかりなくなっている。

 会話もなく、別々の仕事を同じ部屋で二人でやっていることに違和感もないのだ。


 ジャンは確かに困った男だとは思う。

 気難しいのとは違ったが、ただ、興味を持ったものが現れると、後先考えず、そちらに突進し、没頭する癖があるせいで、結果、計画や約束がおざなりになってしまっているようだ。

 お付の人間が、今日の予定の変更に関して、各方面に連絡を入れているのを見て、大変だなと思ったが、彼が仕える主人を縛れば、その特異な才能は輝きを失うのだろう。

 凡人には許されないことでも、彼ほどの才能と実績……そして、あの妙な人懐っこさがあれば許されるのだろう。


 それにしても、そんな気まぐれな男が、あの子のことをどこで知ったのか。

 気にならないと言ったら嘘になるが、それは純粋に仕事に関わることだからだ。

 ジャンがあの子に会って、面倒なことにならないといいが。


 面倒なことと言えば……。

 俺は取りあえず、最後と決めた書類に目を通し、決裁すると、立ち上がった。


『そろそろお昼を食べにいきますよ』


『もう? まだだ、まだ残っている』


 右手を鉛筆で真っ黒にしつつ、ジャンは抵抗した。

 誰かの意見を聞くのが嫌いらしいが、今度ばかりは聞いてもらうしかない。


『駄目です。

十二時を過ぎると、混むんですよ……社食が』


『社食???』


『そう、社食。

会社の食堂。

今日は天気がいいから、富士山が見られるはずです』


『……!!』


 日本に何度も来たことのあるジャンに、今更、富士山など見たいだろうか……と 思ったが、見事に釣れた。

 と言うか、喰いつきすぎだろう。

 急かすつもりが、急かされる。


『日本人だって、何度見ても富士山はいいものだろう?』


 それは………同感だな。

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