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妖精とクマ  作者: さぁこ/結城敦子
第二章 小野寺冬馬の事情。
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2-4 『若様』と『若社長』の構図

 一晩経ったが、秋生の機嫌は悪いままだった。

 俺が勝手にエリィに会いに行ったことに怒っているのだ。

 「兄さんはいつもそうやって、一人でなんでも背負い込む」……だ、そうだ。


 そんなつもりはないのだが、夏樹を従えて歩く秋生の足音は、俺を責めているように聞こえる。

 本来、この本社で行われる幹部会議に、夏樹は参加出来る立場ではない。

 グループ会社の一つ小野寺物産の専務である秋生は、大学を出るとすぐに小野寺グループに就職したが、夏樹は違った。

 小さい頃に小野寺の家に引き取られたためか、夏樹は兄二人とは違って、すぐに環境に適応した。

 義父にも慣れた。

 もともと、『父親』の影が薄かったせいもあっただろう。

 その屈託のない態度は、他の使用人たちにも好意的に受け取られ、俺たち一家の潤滑油的存在となってくれた。

 自由な弟だった。

 大学在学中に、絵の勉強をしたいとフランスに留学したものの、数か月もしない内に、そちらの才能には見切りをつけ、今度はファッションの世界に興味を持って、勉強するようになっていた。

 それが、俺が小野寺出版の社長に就任したとほぼ同時期に、会社専属のスタイリストとして入社して来たのだ。

 難色を示した俺に、東野部長が「若社長はご存知ないかもしれませんが、小野寺夏樹を専属のスタイリストにしたいと思っている人や組織は多いのですよ。七光りですって?おかげで、小野寺夏樹をこちらのものに出来るのです。望むところですよ」と言うので、いつの間に、そんな風になっていたのか、と驚いたものだ。

 それでも、あくまで小野寺出版の一社員にすぎない夏樹が、今回、秋生に連れられているのは、彼の交友関係にある。

 なんと、フランス時代、あのジャン・ルイ・ソレイユと友人だったそうだ。

 それを知った秋生は、なぜもっと早く言わなかったと憤慨したが、夏樹にしてみれば、ジャン・ルイ・ソレイユとの友人関係に家の仕事を持ち込みたくなかった、と聞いて、納得したそうだ。

 ファッション界の太陽王にすり寄る人間は多い、もし、夏樹が今度のプロジェクトが始まった時に、その話を持ち出したら、あっという間に、絶交されたに違いない。

 しかし、今回の騒動で、夏樹は友人よりも家族を取る方を選んだ。

 ジャン・ルイ・ソレイユも友人の最後の願いを聞いてくれるくらいの懐の深さはある、そうだ。


 折しもジャン・ルイ・ソレイユは、来日して雨宮邸に滞在している。

 予定がいっぱいで、気が向いた時以外は提携先の企業相手ですら代理で済ます彼に、なんとかして、直接面会する機会を作ってくれるそうだ。


 その話を会議で集まった幹部達の前で発表すると、ざわめきが広がった。


 この面子の中で、両親を除くと二つのグループが存在する。

 一つは俺を『若社長』と呼ぶ人達と『冬馬社長』と呼ぶ人達である。

 後者の方が親しみを感じる響きだと思うかもしれないが、実際には逆だ。

 それは俺を『冬馬社長』と呼ぶ筆頭が井上常務であることから分かるであろう。

 彼には幼い頃から苦楽を共にし、敬愛してきた小野寺の本物の『若様』が居た。

 義父と雨宮家から嫁いで来た先妻との間に生まれた小野寺家の正真正銘の嫡男だ。

 小野寺で『若』と付く人間はその人物ただ一人という訳だ。


 先妻であった女性は、美しく優しく賢かったが、子どもを産んですぐに病床に伏せるようになった。

 赤ん坊は、井上常務の母親である、今は家政婦長となった女性が、自分の子と一緒に乳を与えて育てたのだ。

 所謂、乳母と乳母子と言う関係になる。

 井上常務の父親は、古くから小野寺家の運転手として勤めており、何やら義父には深い恩を感じているようで、絶対の忠誠を尽くしている。

 彼に言わせれば、小野寺の大社長は自分を拾ってくれた上に、自分の立場では望めないはずの女性と結婚させてもらい、息子を『若様』のご学友にしてくれた大恩人なのだ。

 そんな彼ら親子を一層、感動させたは、息子……井上常務の名前が義父から与えられたことだ。

 自らの一字を使い、守文もりふみ、井上守文と名づけたのだ。

 小野寺守と言う、義父自身の名前と、大好きな文学を守る、加えて、嫡男を守って欲しいと言う願いが込められている。

 その『若様』の名前は文好ふみよしと言った。

 小野寺文好だ。

 文学を好む、まさにそのままの意味であり、望み通りに育った……はずだった。

 井上常務曰く、『若様』はカリスマ性があって、頭がよく、奥様に似て綺麗で……などなど、大分美化された思い出を聞かされたが、未だに根強い『若様派』がグループ内に多くいるのを見ると、あながち誇張ではないらしい。

 ちなみに、『奥様』は雨宮から嫁いだ先妻を指し、俺の母親はあくまで『珠洲子すずこ様』だ。

 母も俺も、『奥様』と『若様』にことあるごとに比べられる。

 俺が雨宮との縁談を忌避しているのは、そのせいもあるかもしれない。

 雨宮家出身の二人の『奥様』に、母が苦しめられるのは見たくないのだ。


 そんな完璧で非の打ちどころのない『奥様』と『若様』だったが、『奥様』は若くして亡くなり、『若様』は家を出ていってしまった。

 理由は知らない。

 現在、小野寺家で、義父の前で、『若様』の話は禁句であり、わざわざ俺にそのことを話す人間はいない。

 知りたくない訳ではないが、調べようとする気にもなれない。

 夏樹は少しだけ事情を聞いたようだが、使用人と一緒に駆け落ちしたらしいとのことだ。

 俺の知っている義父ならば、使用人と結婚するのを反対するような人間ではないのだが、もう随分前のことだ、今とは違った事情があったのだろう。


 『若様』が去っても、まだ、お戻りを信じて小野寺に忠勤している井上常務が、疑問の声を上げた。


「ジャン・ルイ・ソレイユに会った所で事態が好転するのですか?」


「なるよ」


 軽い調子で夏樹が答えた。


「だってさ、ジャンがエリィを出せって言ったら、出すしかないんだよ。

美園が断れると思う?」


「こちらとしては、それに加えて、新たなモデルの選定も視野に入れています」


 夏樹に続いて、秋生も発言した。

 幹部達は、美園との関わりを避けたいのか、その案に賛同の様子を見せたが、夏樹に言わせると「それは無理」とのことだった。


 ジャンは誰かに考えを押し付けられるのは大嫌い、だそうだ。

 それでも、一縷の望みをかけて、昨日、遅くまで、既存のモデルたちから、ジャン・ルイ・ソレイユのお眼鏡に叶いそうな人材を三人で選んだのだ。

 そのせいで、今日は会社から直接こちらに来ることになった。

 シャワーは会社の仮眠室のを使い、服も、衣装部に置いてある数ある中から、夏樹が見繕ったものを着ているので、一応、清潔だが、朝食は取ってないので、お腹が空いていた。

 この会議が終わったら、どこかコーヒーの美味しいお店でモーニングでも食べよう。

 などと、考えていると、秋生の視線に気が付く。


 どうやら、『ジャン・ルイ・ソレイユに会う』、『エリィを使えるように助力を請う』、『新たなモデルを選らんでもらう』の三つの上に、もし、交渉が不調に終われば、『エリィを独立させる』と言う結論に達したらしい。

 エリィの独立に関する交渉は、秋生が請け負ったが、幹部たちの目は、一様に俺を向いていた。

 期待と侮蔑の二つの種類に、母の心配そうな視線が交差する。

 義父は目を閉じていて、反応は分からない。


 昨日の夜、エリィと会ったことは絶対に言ってはいけない、と秋生に釘を刺されるまでもなく、俺は素知らぬ顔を決め込んだ。


 気難しいジャン・ルイ・ソレイユと話が合うとは思えないので、おそらく、約束通り、エリィは独立することになるだろう。

 ただ、美園から離れるにあたって、ジャン・ルイ・ソレイユから何かしらの口添えがあった方がこれからの活動に有利になるはずだ。

 夏樹が上手く『友人』と約束を取れるよう祈りながら、会議は思ったよりも早く解散した。


「兄さんはこれからどうしますか? 社に戻りますか」


「ああ、でも、その前に朝食をとっていこうかな」


「ここの社食で、ですか?」


「出来れば別の所がいい。少し会社から離れたい」


「そうですね。では……」


 廊下を歩きながら、秋生は歩いてすぐの老舗の喫茶店ではなく、五分ほどの場所に店を構える、チェーン店を提案した。

 今の時間だと、その方が目立たないだろう。


「そこでいいよ!

あそこのバタートーストも食べたいけど、本社の社員がよく出入りしてるから、今日はやめておこう。

新製品のメープルハニーナッツ・ラテも試してみたいし。

秋兄も食べて行くんだろ?

腹が減っては戦は出来ぬ、って言うしね」


 当然のように夏樹がついてきて、結局、兄弟三人で朝ごはんを食べに行くことになったのだが、途中で母に呼び止められた。

 俺だけ。


 二人に先に行くように促し、小さな会議室を借りて向かい合う。


 どうせエリィのことかと思ったら、違った。


 あの子のことだった。


 昨日は牧田に伝言して済ませた内容を、もう一度、少し詳しく語り、俺の行動に賛意を表し、そして、ジャン・ルイ・ソレイユとの会談が上手くいくように励ましてくれた。

 それから、もう一つ。


 今後、あの子に関わることは、自分たちが責任を持つから、関わらなくてもいい、と。


 母の願いに反したことはないが、納得出来ない。

 会社で起きた事の責任は、社長である自分が取るべきだ。

 母親が出てくるのは、可笑しいし、第一、これまでなかったことだ。


 そうは思ったが、義父が本社の顧問弁護士を連れて、美園会長に会うと聞き、もはや、俺の出る幕がなくなったことを知る。


 しぶしぶと頷く俺に、さらに「真白ちゃんに手を出してはダメよ。あの子は……子供なの。これまでとは違う問題が起きるわ」と釘を刺してきた。

 驚いた。

 今まで、俺の女性関係を気にはしつつも、黙って見ていた母が、そんなことを言うなんて。

 母があの子のことを気に入っているのは知っているが、あんな子供をどうこうしようなんて、考えたこともなかったから、心外だ。

 昨日も常務や部長二人にも同じ忠告を受けたが、あり得ないだろう。


 とても心外で、苛々する。


 思わず弟達が待っているから、と言う理由で、足早に去ってしまった。


 本社ビルから出ると、青空が広がっていた。

 どんなくだらないことであれ、心配する母を邪険にしたのを思うと胸が痛んだ。


 途中、幹部専用の駐車場に寄って、運転手にもう少し待つように言いに行くと、井上常務が居た。

 俺の運転手が例の井上常務の父親なのだ。

 義父と若様の専属運転手として忠義を鳴らした井上さんが、俺の専属にさせられたことに満足しているはずはなかった。

 もはや引退してもいい年であり、悠々自適の隠居生活も出来たはずの井上さんが、それでも勤務を続けているのは、息子と共に若様を待ち、俺達兄弟に小野寺家が乗っ取られない様に監視したいからだ、と思う。

 普段は、老年を理由に、朝十時から夕方四時までしか働かない契約の彼が、俺の失敗を聞きつけ、朝も早くの六時から社で待ち構えていたのを知るや、秋生は怒って、彼を無視してタクシーで行こうと言ったほどだ。

 義父はきっと、井上さんを納得させられなければ、小野寺の後継者として失格だと思っているに違いない。

 秋生と夏樹を説き伏せて、彼の運転する車に乗って本社まで来たのだ。

 こそこそと話していた井上親子に、遠くから、用件を投げかけて、またもや、足早に去った。


 神経が逆立って、さすがに丁寧に接する余裕がない。


 朝から井上さんの顔を見たのはいつぶりだろう。

 普段は、それこそ朝早いので、一人で出社している。


 その日のやるべき仕事を確認して、各種朝刊を持って最上階の社食に向かう。

 眺めがいいし開放的なので、多くの社員が出社する前に、ゆったりした時間を過ごすのだ。

 自販機で買ったコーヒーを飲んでいると、高校の制服に着替えたあの子がやってくる。

 挨拶を交わして、とても幸せそうにココアを飲む姿を見ると、今日も元気なのだと安心する。

 あの穏やかな朝が、いつかまた、俺の元にやってくるのだろうか。


 約束したコーヒー店に向かう途中に、つい白夢中にふけってしまったせいで、車のクラクションが鳴り響いた時、自分に向けられたものかと思った。

 しかし、それは目の前で横断歩道を渡りきれなかった年配の女性へのものだった。

 車の主が罵声を浴びせかけている。

 思わず駆け寄り、女性の大きな荷物を代わりに持つと、中央分離帯に下がらせる。


 女性は驚いた様子だったが、怪我はないようだった。

 どこまで行くのか聞くと、偶然にもこれから行くコーヒー店の名前を言われた。


 ならば、と荷物を持ちながら一緒に行くことにした。

 注文に戸惑う彼女を手伝い、確保した席にトレイを運ぶまで、聞いてもいないのに、女性が嫁いだ娘を訪ねてやって来たことと、その娘の旦那の職業と孫三人の年齢と趣味、運動会の成績、学芸会の演目と役名まで知ることになった。

 見ず知らずの俺に、そこまで個人情報を話すなんて危ないですよ注意したいくらいだ。


 ようやく自分の注文を済ませ、弟達の元に行くと、一部始終見られていたらしく、「相変わらず、お人良しだね」と口をそろえて言われた。


「別に……目的地が一緒だったし、荷物も重そうだったから運んであげただけだ」


「それが人が良いってことだと思うけど」


「しかも、自然。

冬兄ふゆにいが女性にモテるの分かるよ」


「お前ほどじゃないさ」


 若くて朗らかで、母に似た華やかな顔立ちの夏樹は、小さい頃から女の子達によく好意を寄せられていた。

 秋生は顔立ちも性格もクールでとっつきにくそうな雰囲気を持っているが、兄弟の中で唯一の既婚者である。

 大勢の女の子にはモテなかったが、高校生の時から付き合っていた女性と、大学を卒業してすぐに結婚して以来、幸せな家庭を築いている。

 会社での姿とは違い、家ではそれはそれは愛妻家で、双子の娘達の前では目じりが下がりっぱなしの有様で、その豹変っぷりは、会社の人間に言っても、おそらく信じてもらえないだろう。


「兄さんは……どうなの?」


 各々の選んだものを食べていると、その秋生が歯切れが悪く聞いてきた。

 これは歓迎したくない会話の流れになりそうだ。


「何が?」


 洒落たサンドウィッチをコーヒーで流し込み、とぼけた。


「結婚……する気ある?」


「なんでそんな話……」


紅子べにこ緑子みどりこが、弟が欲しいって言うんだ」


 むせた。

 朝から何を言いだすのだ、この親馬鹿弟が。


「へぇ~!俺も甥っこ欲しいな。

女の子だと、乱暴な遊び方出来ないからさ」


「欲しければ作ればいいだろう。

お前の給料なら、余裕で養えるだろうし、母さんもお手伝いさんも居るから、瑠璃子るりこさんも三人に増えたとしても、安心して子育て出来るはず。

何も支障はないはずだ」


 秋生は小野寺邸に住んでいるのだ。

 もっとも、数えきれない部屋がある小野寺邸では同居と言うよりも、同じマンションに住んでいる感覚だと思われる。

 お屋敷は、広いだけでなく、多くの使用人が居て、その中には専従の医者までいる。

 子供が熱を出そうが、怪我をしようが慌てて病院に駆け込む必要すらないのだ。

 昔とは考えられない贅沢な環境だ。


 それなのに、秋生はため息をつく。


「分かってないな、兄さんは。

俺に男の子が生まれたら、後継者問題が起きるかもしれないってこと。

時期を見て兄さんの養子にする?」


「そうだったな」


 贅沢な身の上になると、別の悩みが出てくるものだ。


「悪かった。

確かにそろそろ身を固めるべきだと思う。

あと、一年か二年でなんとかするから」


「そういう意味で言った訳じゃない!」


「じゃあ、どういう意味だよ」


 牧田の話では、雨宮の姫との縁談も反対で、エリィと打算で付き合うのにも難色を示すくせに、早く結婚しろと急かす弟の真意が分からない。


「誰か真剣に付き合いたい人はいないのかってこと」


「誤解があるようだから言っておくけど、俺はいつでも真剣に付き合っているんだよ。

恋人は大事にしている。

だから、出来る限り優しくしているし、束縛もしないし……」


「嫉妬もしない?」


 厳しい表情で秋生が遮った。


「俺だって、誰かを好きになるのに、多少なりとも抵抗があったさ。

瑠璃子に会ったおかげで、嫉妬する自分も許せた。

兄さんはその歳で、いつまで昔のこと引きずってるの?」


「そうやって、秋兄あきにいは俺が分からない話をする。

自分が幸せだからって、冬兄を責めるなよ」


「夏、お前は黙ってろ」


 疎外された気分の末っ子は不機嫌そうに、すぐ上の兄の皿から大きなマフィンを奪って食べた。

 かつては、それで秋生が怒り、俺が自分の分をあげたものだったが、もう、そんな争いは起こらなかった。

 長兄として、弟二人を心配していた身が、逆に心配されるようになるとはね。


 険悪な空気が流れた席に、全く違う雰囲気の声が響いた。


 見れば、先ほどの年配の女性が、そっくりの若い女性と、さらによく似た女の子を連れて立っていた。

 娘さんに無事に会えたらしい。


「先ほどは母を助けて頂いてありがとうございます」


 丁寧に礼を言われて恐縮する、

 なにもしてはないし、むしろ、秋生の尋問から助けてもらって、こちらがお礼を言いたい気分だ。


 「良かったらこれを」と、娘夫婦のために持って来たであろう菓子折りを差し出され、困惑する。

 けれども、夏樹が目を輝かせて受け取ってしまった。


「このお菓子! この間お土産で貰って美味しかったやつだよ!

また食べたかったんだ。

ありがとうございます!!」


「……なーつ……今度、誰か出張に行くとき、頼んでやるから、その手を離せ…」


「あらあら、いいんですよ。

そんなに喜んでもらえて嬉しいわ。

郷里では美味しいって有名なお菓子なんですよ……ところで」


 喜色満面の夏樹の顔を見ながら、婦人は頬を赤らめて聞いて。


「皆さんはモデルさんか何かなのかしら?」


「母さんったら」と止める娘の方も、こちらを見てソワソワしている。


 先ほども言ったように、夏樹は華やかで、秋生は涼やかな、どちらも悪くない顔立ちだ。

 背も高いしスタイルも良い。

 おまけに、今日の服だ。

 俺としてはもっと普通のサラリーマン然としたスーツが良かったのに、「ここにそんな服があると思う?」と言う、嘘か誠がはっきりしないことを言われつつ、小野寺出版の衣装部で夏樹が選んだものなのだ。


 とても普通のサラリーマンには見えない風体に、おまけに、こんな時間にコーヒー店で話している男三人をどう説明したものか。

 悩んでいると、思わぬ所からあまり嬉しくない解決策が飛び込んできた。


「専務! 秋生専務!!」


 コーヒー店に響く秘書の声。

 店内の客が一斉にこちらを見る。

 そして、専務と呼ばれた男が、まだ二十代後半の若者と知り、驚きの色を隠さない。


「専務、こちらにいらっしゃいましたか!」


 いつもは秋生とタメを張れるくらい冷静な秘書が、これほど気が動転しているとは。

 気になりつつも、災禍がこちらに広がらない様に祈ったが、それは叶えられなかった。


「若社長もおいででしたか!

ああ、それに夏樹様、どうして教えて下さらなかったのですか!」


「何? なんで俺のせい!?」


 目を丸くする親子の前で、秋生の秘書は夏樹の問いに答えようとしたが、ここでは言えない! とばかりに口を閉じ、また開いた。

 走ってきたからか、興奮のせいか、顔が赤いせいで、酸欠の金魚みたいに見える。

 あんな若造達が、どこの社長と専務だろうか、と言う好奇の視線がざくざく刺さってくる。

 こうなるならば、事情を知る客が多かったであろう本社近くの喫茶店でバタートーストを食べれば良かった、と後悔した。


「大変です」


「どうした?何があった」


 自分の秘書を落ち着かせようと、秋生が水を差し出した。

 一息飲むと、やっと息を整えた彼は、静かにもう一度言った、「大変なんです」。

 まさか会社に何かあったのではないか、ここで言わせていいのか、不安になった時、携帯が鳴った。

 今度は俺の秘書である牧田からの着信だった。

 いよいよもってただ事ではなさそうだ。


『冬馬……大変だ』


『らしいな』


『知っているなら、急いで戻ってこい』


 牧田は牧田で、秘書の口調を保っている余裕すらないようだ。


『詳細は知らない。

今、コーヒー店の中にいる。

秋生の秘書が来た』


 簡潔に説明すると、牧田は心得たように言った。


『分かった。

つまり……社に、ここに……あの、太陽王が来ている』


 思わず夏樹を見た。

 末の弟は、兄にまで疑いの目で見られたことに困惑していた。

 それもそうだろう。

 俺は夏樹と昨日の夜から一緒に居たから分かる。

 夏樹はまだ、彼に連絡を取っていない。


 それなのに、彼はやって来た。

 そう、こちらから出向くどころか、彼の方から、小野寺出版を訪ねてきたのだ。


 あの、ファッション界の太陽王、ジャン・ルイ・ソレイユが!


『……コーヒー飲み終わってから行っていいか?』


『コーヒーならうちの永井がいくらでも淹れて差し上げますよ!

今すぐ帰ってこい! 今すぐにだ!!!』


 この会話、他の社員に聞かれたら大変だぞ。


 どこか現実感がない俺は、コーヒーをテイクアウトにしなかったことを悔いながら、キョトンとしたままの親子に挨拶をして、本社へと駆け戻った。

 なるべく急ぐように、と井上さんに頼むと、彼は裏道を駆使して、俺たち兄弟を小野寺出版に連れて行ってくれた。


 その速さと正確さに、秋生と夏樹は驚いていた。

 抱く感情がどうであれ、井上さんの運転手としての技術と意識は高いのだ。

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