1-1 それは始まりの日
「椛島さん。
椛島真白さんは出勤したかな?」
いつものように学校が終ってから向かったバイト先の入り口で、私の名前を呼ぶ声が聞こえた、
あれはおそらく、所長の声だ。
なんだか少し、焦っている感じがしたので、私は急いで返事をした。
勤務時間開始までは、余裕があるはずなのに、どうしたのだろう。
まさか、時計が狂ってた?
「はい!
椛島、参りました」
慌てて、人の良さそうな所長の前に立ちながら、後ろの壁にかかっている時計を確認したが、まだ五時過ぎで、むしろ早すぎるくらいだ。
苗字と恵比須顔なことから、エビちゃん、と呼ばれている、所長の海老原さんは、私の顔を見ると、安堵の表情を浮かべた。
「ああ、椛島さん、いつもお疲れ様だね。
突然で申し訳ないのだけど、今日の夕方から、篠田さんと十五階を担当してもらいたいと思って」
「えっ……」
バイトの高校生相手でも、丁寧な口調を崩さない上司の言葉だったが、その内容に、すっかり驚いてしまい、絶句してしまう。
「なにか不都合でも?」
「い……いいいいいえ……とんでもない!
嬉しいです!!」
自分でも挙動不審になってしまったと思う。
顔が赤くなってないといいのだけど。
「嬉しいですか?」
海老原さんも不思議そうに言う。
小野寺清掃会社は、小野寺グループに属する一企業で、主にグループが所有するビルや、または他の企業のビルの清掃と、一般家庭の清掃サービスを行っている会社である。
ここはその内の、小野寺出版の自社ビルを担当する出張所で、十五階と言うのは、社長室とその直属の部署である企画戦略部と宣伝部、秘書室がある階なのだ。
会社の中枢ということもあり、信頼された長期勤務の選ばれた人が掃除を担当することになっているのである。
つまりこの仕事をしている人間にとっては、特別な階であり、私にとっては、さらに別の意味で特別な場所だ。
普通なら、自分のような入ったばかりのバイトにお鉢が回ってくることはないはずだ。
思いもかけない幸運に、私は酷く動揺し、それがばれない様に、慌てて取り繕った。
「う、嬉しいです……その、私の仕事ぶりを認めてもらったと思うと」
あながち嘘という訳でもない。
「いや、ほら、岡島さんが今日の昼に腰をやっちゃってね。
七瀬さんも昨日から気管支炎で休んでいるでしょ。
おまけに、吉野さん。
下のお子さんがインフルエンザらしくって、二、三日はこれないらしいんだ。
流行っているんだよね、インフルエンザ。
実は他の作業員さんたちも、お休みしている人が多くて、どうにもやりくりが難しくてね。
篠田さんだけでも出来ない訳じゃないけど……やっぱり一人だと大変でしょう。
篠田さんまで、腰とかやられちゃったら、一大事……ほら……ここ回らなくなるからねぇ」
うわ、「仕事が認められて嬉しい」なんて、言わなきゃ良かった。
海老沢さんの言うとおり、掃除業務だけならベテラン中のベテラン、もはや神業の篠田さん一人で十分すぎるくらいなのだ。
ただ、掃除道具や補充する用品、回収したゴミなど運ぶべきものは多い。
十五階担当の三人だけでなく、他にも欠勤者が相次いでいる今、篠田さんにまで何かあったら、他の出張所に応援を頼むしかない。
現場を預かる所長としては、それは避けたいはずだ。
その場合、単に荷物運びと考えれば、スキルの高い他の従業員をつけるよりも、経験は少ないが若手のバイトを選んだ方が、他の部署にベテランを回せて良い、という判断なのだろう。
『荷物運び』だけなら、バイトでも出来る。
恥ずかしすぎる。
おまけに、半分嘘とは言え、半分は本音だったのだ。
ガッカリもする。
今度こそ、赤面するのを隠せない。
頬が熱くなっているのが分かる。
「椛島さんが、この仕事に真面目に取り組んでくれて、こちらこそ嬉しいよ。
みんなが復帰するまでだけど、宜しく頼むね。
十五階は大変だけど、篠田さんの傍に付いていれば、間違いないでしょう
あそこは夕方五時半から作業が始まるから、少し早めに用意して待機してて下さい」
海老原さんは優しいなぁ。
でも、そこは管理職。
しっかり釘を刺された気がする。
「頑張ります!」
せっかくの機会を潰さないように、私は精一杯、頼りになりそうな顔で、請け負った。
早速、高校の制服から清掃会社の制服に着替えた私は、ふと、思い立って、普段は大して見たこともないロッカーの扉についた小さな鏡を覗き込んでみた。
今日、二度目の失敗だった。
眉毛はかろうじて整えているものの、化粧っ気のない顔は、青白くて、唇も荒れている。
せめてリップでも……と、鞄の中を探ったものの、出てきたのは、我ながら見事なまでに使い切られたものだった。
もう、掻きだす余地すらない。
そうだった、あと三日で薬局の特売日だから、それまでは……と買わずにいたんだ。
女子たるもの、いついかなる時に王子様に出会うか分からないから、油断大敵!とは、高校の同級生の座右の銘だ。
まったく、その通りだ。
途端に、空腹まで感じ始め、その場にしゃがみこんでしまう。
「真白ちゃん!?
どうしたの!?
どこか具合が悪いの?」
更衣室に入ってきて、その様子を見た篠田さんが、驚いたように声を掛けてくれた。
「大丈夫です。
ちょっとお腹が空いて……時間、まだありますよね?
おにぎり食べていきます」
心配させない為に、すぐに立ち上がりたかったけど、経験上、立ちくらみを起こすことが分かっていたので、座ったまま、篠田さんに笑みを浮かべた。
そして、そのまま、リップを鞄の中に戻し、代わりにラップに包んだ小さなおにぎりを取り出してみせた。
「じゃあ、お茶を淹れてあげる。
それから、そうそう、渡辺さんの京都旅行のおたべがあるのよ。
あと……なんだかいろいろ。
みんな休憩で食べたお菓子があるから、好きなの選んで」
ゆっくりと真ん中の休憩用テーブルに座ると、篠田さんが私の前に山のようにお菓子を積み上げた。
「ご心配かけてすみません」
「いいのよ!若い子は遠慮しないの。
真白ちゃんは、もっとみんなに頼ってもいいと思うの」
「でも……やっぱり申し訳ないです」
私がそう言うと、篠田さんが真剣な顔をして言った。
「真白ちゃんが一所懸命がんばっているいい子だから、みんな助けてあげたいな〜って思うのよ。
人徳よ。
もし、それでも納得出来なかったら、出世払いにしてあげる。
私に返してくれてもいいし、私が知らない困っている人に返してもいいわ」
最後は少し、お茶目な口調だった。
「ありがとうございます。
実はこのおにぎりのお米も、海老沢さんから頂いたのです。
それも二十キロも! あと大根にじゃがいももくれました」
その話をした途端、篠田さんが咎めるような顔つきになった。
「聞いたわよ!
自転車の荷台に括り付けて持って帰ったんですって!?
こんなに可愛い女子高校生が……あれは見ものだったって、吉野さんから聞いたとき、私、ビックリして卒倒しそうだったわ!
私が出勤していたら、絶対に車で送っていってあげたのに。
吉野さんだって車通勤なのに……」
「いえ! 違うんです!
吉野さんも車で送ってくれるって言ってくれました。
断ったのは私です。
自転車を置いていったら、次の日学校に行くのにバスを使うしかないですから。
それは困ります」
バスは学校とバイト先と家を網羅しており、利用に不便がある訳ではない。
ただ、バス代がもったいないだけだ。
そのことを、篠田さんも十分、察してくれたのか、それ以上は追求されなかったが、代わりにまじまじと顔を見つめられ、嘆息された。
「あなたもねぇ……うちの長男とそっくりなことを……」
「ご長男さんですか?」
篠田さんからはお孫さんの話はよく聞くけど、息子さんの話題になるのはごく稀だ。
それも、堅物な次男か明るい三男のことばかり。
そうだ、長男の話は初めてだ。
もしも、折り合いが悪かったりしたらどうしようと思いつつ、それでも気になってしまう。
「え? あらやだ、ごめんなさい。
あんな図体のでかいクマみたいな子と、真白ちゃんみたいに可憐な乙女とを一緒にしたら失礼よね」
本当にごめんなさいね、と篠田さんは言いながら、慌てたように目の前のお菓子を食べ始めた。
「このお菓子、新製品らしいわよ。
とっても美味しいから真白ちゃんもおにぎりを食べ終わったら、試してご覧なさい」
はぐらかされたようだけど、仕方がない。
少なくとも、口調に嫌悪感がないので、仲が悪いとかそういうものではないらしいし。
それからは、たわいもない雑談をしながら、私もお菓子のご相伴にあずかった。
きっと残った分は、帰りに鞄に詰め込まれるのだ。
経済的理由で始めたバイトだったけど、みんないい人だし、やりがいもあるし、紹介してくれた人に感謝しないと。
「それにしても……」と、チョコレートの包装を開けながら、篠田さんが言った。
「今日は、真白ちゃんが早く来てくれて良かったわ。
六時からでしょ、仕事」
「試験期間中だったので、いつもより早く学校が終わったのです」
なんてことのないように言ったが、私の高校と、そこに在籍する私の立場を知っている篠田さんは、途端に心配そうな顔になった。
「試験勉強の方は大丈夫なの?」
「はい。
明日の試験範囲は帰りに勉強してきましたから。
帰ってから、また少しさらえば大丈夫だと思います」
「そう? 真白ちゃんは優秀だから、大丈夫そうだけど、無理だけは、絶対しないでね。
なんならバイト、お休みすればいいのに」
篠田さんの言葉はありがたいけど、バイトを休む訳にはいかない。
勿論、試験勉強の手を抜くわけにはいかない。
大げさに言うと、これは生存競争なのだから。
「大丈夫ですよ。
それに、今、欠勤者が多くて大変だって聞きましたよ」
「そうね、確かに、そうだわ。
今、真白ちゃんまでいなくなると困ったことになるわね。
今日もくるかどうか、所長が散々やきもきして!
でも、吉野さんとやり取りして、あなたにくれぐれも宜しく伝えて欲しいって言われた時、思い出したの。
真白ちゃんが携帯持っていないこと。
いつも三十分前までには来て、いろいろ準備したり整理してくれているから、間に合うはずよ〜と、所長には請け負ったんだけどね。
所長ときたら、そりゃあもう、見苦しいほどに行ったり来たり……」
「す、すみません」
慌てて謝ると、篠田さんは、それに対して、慌て首を振った。
「携帯は採用の条件じゃなかったし……それに、ちゃんと時間に間に合うように来ているんだから、気にすることないのよ。
今日のシフト変更は、突然だったんだもの。
あ〜、私も今週は五日勤務だ。
この年だから、週三で十分なんだけど。
まぁ、困った時はお互い様だからね」
そう、突然だった……リップのことを思い出して、落ち込む。
それでも、慌ただしいおやつの時間を終えるころには、満腹なこともあって、再び、気分が高揚してきた。
第一、お目当ての人物に会えるとは限らない。