桜色の。
俺は小さく手を振った。
ひと気のないホームから、反対のホームに居る女子大生へ。
名前も知らない彼女は、名前も知らない俺みたいな男子高校生に笑顔で手を振り返してくれる。
たった一度だけ、同じホームで会話をしたことがある。
手を振ってくれるようになったのは、その時からだったと思う。
彼女はいつも同じ時間の電車に乗っている。
同じ時刻、同じ車両。
その事はすでに俺も気づいていて、俺もまた彼女と同じように。
同じ時刻、同じ車両に乗るようになっていた。
あの日も俺は彼女と、反対のホームに同じようにして居た。
彼女はいつもより荷物が多く、ホームのベンチに座り、電車を待っていた。
その日は風が冷たくて、彼女は綺麗な桜色のストールを羽織っていて。
なびかれる茶色の長い髪とストールは、今でもよく覚えている。
彼女のホームに電車が入ってきて、その姿が見えなくなる。
俺は思わず呟く。
「お気を付けて」
と。
電車が消えていく。
と、そこに残ったものがあった。
ストールだった。
立ち上がったときに落ちたのだろう。
風ではたはたしているそれを、俺は掴まなければ、と思った。
気がつくと反対側のホームへかけていた。
はためく桜色のストールを、俺は蝶を捕まえるみたいに、ふわりと腕の中にいれた。
柔らかいストールは、色によく合う柔らかい香りがした。
彼女の香水の香りを、俺は初めて感じた。
また、風が吹く。
手にしたストールが再びはためき、俺ははっとした。
どうしようか。
取り敢えず俺は、彼女が座っていたベンチに腰をおろす。
滅多に来ない反対側のホーム。
いつもと逆の景色がそこにある。
俺側のホームに電車がやってくる。
俺は横目でそれを見送り考える。
彼女はこのストールに気づいているだろうか。
戻ってくるだろうか、と。
ふと空を見上げる。
「君」
見たことのある顔が目の前にあらわれ、俺はびくりとする。
「ストール、捕まえててくれたんだね、ありがとう」
「あ、いえ……」
初めて聞く声は、思っていたより落ち着いたトーンだった。
彼女は、「戻ってくるか悩んだんだけどね、さよならするなら、ちゃんとありがとうを言わなきゃいけないと思って」と言った。
頭の悪い俺はよくわからずに「はあ、」と相槌をうつ。
「元彼からのもらいものなのよ。なかなか捨てられなくて。ね、」
「ああ……」
俺はなるほどと数回頷いた。
「ありがとう、捕まえててくれて」
「いえ」
俺は彼女の寂しそうな笑顔を見て、立ち去ろうとした。
「いつも、ありがとうね」
「はい?」
俺は不意をつかれ、バッと振り返る。
「私、君がいつも同じ時間の電車に乗ってるの、知ってるよ。
反対側のホームに居る君見ると、なんだか安心するんだよね」
彼女は電車が来ても、乗らなかった。
だから俺は再びベンチに座った。
すると彼女も隣に座り、再び口を開く。
「私たちが君ぐらいの時だった。
彼が事故で亡くなったのは」
彼女はそう言った。
「彼の家は私と逆方向にあって、学校帰りはいつも駅の改札をはいったところで別れてたわ。だから、反対側のホームに居る彼に手を振ったりして。
あの日も、風が強かった。小さい子の、帽子が。飛んだのよ。
その駅のホームは、その時間すごく混みあっていて。帽子に手を伸ばした彼にね、ぶつかった人がいたのよ。」
彼女はそこまで言って、目をつぶって続ける。
「その時、同じホームに。
隣に私がいたとしたら、私はきっと。彼を捕まえたのに。
手を。伸ばすことすら、できなかったのだから……
反対側の電車が緊急停止して、初めて私は事の重大さを知った。走って、向こう側へ行った……」
彼女は目を開き、涙を流して最後に言った。
「その駅の、そちら側のホームに降りたのは。
それが最初で最後だったわ」
と。
彼女は手にしていた桜色のストールに顔を埋める。
「それ、大事にした方が良いですよ。絶対、捕まえておかなきゃ」
俺は、うまい言葉を見つけられなかったが、そう声をかけた。
「きっと今日だって……
あなたの大事な人は、俺の代わりにそのストールを捕まえたかったはずだから」
彼女ははっと顔を上げて、俺の顔をじっと見た。
彼女の唇が軽く動く。
何か言いたげな、そんな動きに見えたが、彼女は何も言わずに桜色の頬で頷いた。
それから彼女も俺も。
お互いのホームに降りることはなくて、こうやって手を振り合うだけ……。
名前も知らない、桜色の人。
その日は珍しく、俺側のホームには人が居た。
ベビーカーに女の子をのせたお母さん。
女の子は紐を垂らしたピンク色の風船を手にしていた。
俺はまさかと思った。
風が吹くような、そんな気がした。
そして俺は、何かを捕まえなくてはならないような、そんな気がした。
俺はその嫌な予感に身構える。
ふと彼女を見ると、彼女はあの桜色のストールを羽織っていて、それがふわりと風になびいたように見えた。
しかし強い風は吹かない。
ほっと息をつこうとしたとき、
「ふうせん!」
と突然女の子が声をあげた。
手を離したのだろう。
同時にこちら側のホームに電車が入ってくるのが見える。
風の流れが変われば、風船は舞い上がってしまうだろう。
手を伸ばせば、今なら、まだ届くような気がした。
だから俺は、反射的に風船に手を伸ばしていた。
垂れた糸が指に触れる。
その紐を手元に引き寄せた時、風船は電車によって起こった風に巻き上げられ、捕らえられた魚のように、俺の顔もとで暴れる。
俺は捕まえたその風船を、女の子のベビーカーの手すりにくくりつけてあげた。
その母親は、ありがとうございますとすみませんを繰り返し言いながら、何度も頭を下げた。
「手放したら、戻ってこないものもあるんだよ。捕まえておかなくちゃ」
俺は女の子に言った。
「うん、お兄ちゃんありがとう」
その親子は電車に乗り、電車は消えていく。
俺は電車を見送り、向こう側のホームを確かめた。
が、向こう側に彼女はいなかった。
彼女のほうも電車が来て、それに乗って行ってしまったのだろうか。
桜色の彼女は……。
「君」
後ろから声がした。
心地好いと感じる、あの人の声。
「良かった」
彼女は俺にそう言った。
「え?」
俺が聞くと、彼女はこう続ける。
「私、君のこと、捕まえに来たの。
同じことが起きないように。
君のことを……つかまえに。」
走ってきたのだろう。
途切れ途切れに言った彼女の息は、少しだけ上がっていた。
「君は私の思い出を、繋ぎ止めてくれた。そして時々、すごく良いことを言う」
俺は耳に髪をかけながら話す彼女の、次の言葉を待った。
「時々、来てもいいかな?
こちら側へ」
俺はただ頷いた。
俺もずっと前から、あなたのことを見ていました。
なんてことは言えないから、まずは名前を聞こうと思った。
――桜色の君の。