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常盤は今日も技術研究課へ出向いていた。曇り空だが、ビルの中へ入ってしまえば天候など関係ない。
昨日から来ているここはいつも自分が仕事をするオフィスでは無いが、常盤はそれでも家より落ち着く気がした。技術研究課の入っている建物は、その大きさのわりに目立たず、壱岐に教えられなかったら入り口も分からなかっただろう。
常盤の勤めるオフィスのある官公庁のビルに紛れ込むようにして、技術研究課はあった。ビル自体は国防本部に割り当てられたもので、その中の少なくない割合をその課が締めていたことに初めて気がつく。
ビルの中のカフェでコーヒーを買い、IDカードで支払いをしてエレベーターに駆けこむ。エレベーターのフロア表示は暗いままだ。階層の表示がされる液晶の少し下にIDカードをかざすと、常盤が入ることが許可されているフロアボタタンのみがパッと灯った。
そうして着いた技術研究課へ入るフロアの前でもう一度カードを通し、手のひらをかざしてようやくフロアへ足を踏み入れることができた。国防省本部もセキュリティは厳しいが、ここまでではない。こぼれそうになるコーヒーに気をつけながら常盤は昨日の打ち合わせスペースへ入った。
「おはようございます」
「ああ、常盤さん。おっしゃってくださればコーヒーぐらい買っておきましたのに」
「いえ、習慣なので」
常盤は少ない荷物を置き、蛭間に会釈をかえす。もう一度昨夜の資料を見せてもうらうように頼み、作業スペースに机を借りた。データ集めや状況把握に充てる時間は、今日一日にしたい。常盤は早速データのまとめにかかった。
* * * * ** * **
無人の仕事場は、自宅マンションから近い。常盤よりずっと。歩いていける距離だが、千歳がいるので車で研究棟まで行く。
「大人しくしててよね」
千歳のことは被験ボランティアで押し通していた。無人は研究においてかなりの自由が効く。専門がなにか分からないほど、さまざまな方面に手を出している。その手をだした先々でそれなりの評価を上げるので、無人の研究には制限が設けられていなかった。ただ、研究データだけは常に監視されている。わざわざ報告するまでもなく。
自分専用の研究フロアに今日も千歳を連れ込む。彼女は椅子に座らせて食事とおしゃぶりを与えておき、無人は自分で淹れたコーヒー片手にPCの前に陣取った。ここには彼女の気を引くものがないらしく、千歳はこれで十分おとなしくなる。
タタタ……と並びだしたデータに目を移し、眺める。
「目も見えてるし、耳も聞こえてる。運動能力も、筋力的には問題なさそうなんだけどな… なんで歩けないんだろ」
無意識に髪を触る。耳にかかるくらい伸びていた。そろそろ切りに行かなくては。そんなことを並行して考えながら、データで届いた血液検査の結果を眺める。いたって健康だ。生まれてからのデータが一切ない人間など、今この国にどれだけいるだろうか。
遺伝子情報によってナンバー管理され、生まれた時から食べたもの、病歴まですべて記録されている。
何も分からないところから、エラーの原因をさぐる作業は無人の興味を誘ってやまない。千歳からあらゆるデータを取りたかった。
「ん」
新着を告げるポップアップが上がる。簡易な遺伝子解析が済んだようだ。体質、病気の傾向など、一般的な内容だけだが、知りたかった。データを自身の端末へ呼び出し、目を細めてそれらを眺める。上へ流れて行く数字・記号の羅列を目で追う。
「……」
無人は手にしていたカップを置き、顎をなでた。目はデータを追い、細かく動く。連れて来た千歳自身のことを忘れ、無人は釘づけになった。
* ** * ** * *
常盤は知った内容に眉を寄せていた。
昼をまわったが、食事は取っていない。それどころではなかった。
「それは……、つまり」
「001Fは自力で逃げ出した可能性もあるということです」
001Fが生まれ、育った研究室はめちゃめちゃに壊されていた。常盤が驚いたのはそのことではない。蛭間の後ろには研究員数人がついてきていた。ガラス張りの部屋の向こうは無機質で、もとはどんなものか計り知れないほど、壊しつくされている。
「001F、彼女は我々の想像を超える出来栄えでした。自由にはさせられません。我々が殺される可能性があったんです」
「一見で人を覚えますし、聞いたことは忘れません。身体能力は、それは軍事用の用途がありましたから、ずば抜けています。そして、頭が……」
「天才です。知能指数を図ることは早い段階であきらめました。幼いうちから、我々の研究に口を出すほどで、それで、自分の用途を理解してしまったので……」
常盤は割れたガラスの散らばる部屋に足を踏み入れた。革靴の下で、砕けた破片が音を立てる。
「普段は薬で知能を奪っていた、と。自分のこともできないまでに」
常盤は研究員の後を継いで言った。蛭間の後ろから研究員が歩み出、訂正してきた。
「薬というか、脳に処置をしていたんです。それに反応して神経をかく乱する薬を……」
「どっちだって同じでしょう」
傾いた寝台に、ぐしゃぐしゃなシーツが絡まっている。ここで寝ていたらしい。黒いバンドが落ちている。これで動きを制御していたのだろう。ここの人間の感覚に常盤はぞっとした。
「その、001に」
「001Fです」
「001F、彼女、ああ女性でしたよね?彼女に投与していた薬の濃度が薄れていた。彼女は一時的に意識をはっきりさせて逃げ出した可能性もある、とおっしゃるんですね」
壊された研究室、機材を見渡して常盤はまとめた。今の社会情勢で到底許されないことがここでは行われている。
遺伝子を元にした出生管理、バースシステムが機能して30年だが、それでもこの研究は常軌を逸しているように思えた。バースシステムで優秀に掛け合わされた常盤ですらそう感じる。しかし蛭間をはじめとした研究員たちは、自分たちの研究に微塵も疑問を感じている様子は無かった。彼らの憤りは、自分たちの成果が目の前からいなくなったこと、それに対してなのだ。
手渡された写真データを見る。どうみても、人間の女性だ。髪が長くて、他に特徴がないが、冷たさを感じるほど無表情な少女。
「逃げだされたなら、すぐ拾われて連絡が入ると思ったんですが彼女のデータは公的には一切ありませんから該当なしになるんです。普通の施設に紛れ込まれたら分からなくなる。見た目はできるだけ平均的にデザインされていて特徴がないし、」
また研究員が説明を始める。線が細く、ひょろりとした印象の男だ。落ち着きなく手を動かしながらしゃべる。
「どこかで保護されたとして、遺伝子検査なんかされたら一発でここの実験がばれてしまう。最悪な方法で001Fは世間に知られることになってしまうんですよ。一時的には正気になれたとしても、脳の処置はそのままですからそれは続かない。傍から見たらただのエラーです。そんな状態の彼女が知られれば、末梢せざるを得なくなってしまうんです。それだけは避けたい」
ぐっと拳を握りしめて彼は訴えた。常盤に詰め寄らんばかりに、口角泡をとばしてさらに言う。
「グリーンリーフとか!宗教団体に奪われたら殺されてしまう!」
興奮した彼の肩を掴んで蛭間が諌めた。肩で息をしつつ、彼は他の研究員に連れられ、部屋の外へ出て行った。ガラスの扉のため、頭を抱えて隅の椅子に座りこんだのが見えた。
「すいません。彼はひときわ001Fに入れ込んでいましてね。
で、常盤さん、これでほぼ我々は全容をお見せしました。いかが思われますか?対策はどうとるお考えですか?」
蛭間が壊れた研究室を歩きまわって両手を広げて見せた。これだけの秘密を明かした対価はいかほどか、と言いたいのだろう。
ここ数日の出来事がつながり始め、常盤は努めて冷静に蛭間を見つめ返した。言いたいこと、言わなければいけないことが頭をぐちゃぐちゃと駆け回り、何から口にすべきかわからない。
「あの、蛭間さん…」
ピピ、と常盤の端末が着信を知らせる。開いた口を閉じ、常盤は胸ポケットの端末を覗いた。
"無人"
疑心が確信に変わる。千歳が0001Fだ。常盤が端末に手を伸ばした時、蛭間の端末も鳴った。蛭間は常盤にことわることなく即座に応答した。
「はい、はい!ええ!……え」
話をしながら、蛭間の目が常盤を捉える。常盤は蛭間の視線を受けながら、ゆっくりと無人からの連絡に応答した。
「あぁ、おれだけど。千歳のことだろ」
電話の向こうで、無人が早口で切れ目なく話し続ける。それを聞きながら蛭間とにらみ合う。
「今、いる。本当か」
蛭間はそう答え、表情を険しくしながら端末を握りしめ、常盤から目を離さない。
ひょろ長い研究員は、おろおろと2人を見比べていた。蛭間の靴が、じゃり、と瓦礫を踏む。その時、急に慌しくなり人がなだれ込んできた。黒いスーツの男たちは勢いのまま常盤を取り囲む。
「おまえ、おまえがアレを!」
蛭間は端末を放り出し、常盤を指しながら声を震わせる。
「違う」
声を押し殺して常盤は否定した。常盤も端末を放り、両手を上げた。取り囲んだ黒服を一瞥し、敵意はないことを示す。
「国土防衛本部から、壱岐利三の命できています。貴方方は?」
「国土防衛軍直轄の諜報部です」
「お互いの立場は同じでは?」
「いえ、11003常盤、あなたには背信罪の容疑がかかっています。身に覚えがあるのでは?」
黒服の男が、常盤の前に立ち冷たい目を向ける。厚い胸板とスーツ膨らみから、内側には武器を仕込んでいるのがわかった。本当に軍人だ。
「そのことについては今しがた思い当たって」
「白々しい。自宅に被験体をかくまっていますね」
「誤解だ。説明なら全部する」
常盤の立場がどんどん押し負ける。立場的には対等なはずなのに、完全に負けている。千歳が0001Fだとわかり、安堵こそすれ、あらぬ疑いに身を晒すことになるなど予想もしなかった。
蛭間が騒ぎ出した。
「くそ、スパイだったのか!あれを返せ」
それを制して黒服が言う。
「経緯説明など不要。あなたが被験体の存在を一度通報し、その後いなくなったと偽って隠したことはわかっている。ここで長々と話し込む必要もない。あなたの身は諜報部預かりとさせていただく」
「な」
一方的過ぎる。事実上の逮捕だ。さすがに狼狽して常盤は声をあげた。焦る気持ちを抑え、常盤はぱたんと手を下ろした。ふみこんだタイミングからして、きっともう無人のところへ別のチームが到着しているのだろう。無人も事のあらましを説明してくれるはずだ。この状況は、そう長く続かない。常盤はそう自分に言い聞かせた。
「さあ、被験体はどこだ。吐け」
「……は?」
うなだれていた常盤は眉を寄せて、自らを取り囲む黒服を見た。
「何言ってんだ、あんたら。あいつを見つけたからおれを捕まえに来たんじゃないのか。誰が隠すもんかよ、ほら」
回線をつないだままだった端末を常盤は拾い上げた。もれ聞こえる向こう側が騒がしい。スピーカーに切り替え、黒服にも聞こえるように話す。
「あいつならここにいる。無人、おい!無人!きけ!」
「あー常盤、またあの子消えた。ほんの目を離した隙に。ほんのちょっとだよ。こっちも人たくさん来ててさあ。もう大変……」
何度打ちのめされるのか。ちら、と黒服のほうに目をやり、黒服達がインカムをつけていることに常盤は今更ながら気が付いた。無人のところのチームとリアルタイムで連絡をとっているのだろう。
なんというややこしい事態。