D5
家では、迷子の少女、千歳が這いまわっている。疲れてソファに座りこむ常盤の膝によじのぼってアルミケースから栄養補助食品をすすっている。甘えるような年頃でもないのに、常盤の膝にうつぶせになっている。彼女をどかす気力もない。
キッチンでは無人が千歳の見解についてペラペラと喋り続けている。研究者はしゃべり続けるものなのだろうか、とうんざりしながら常盤はそれをすべて聞き流す。「へー」と「ほー」だけで相槌を打ち常盤はぼーっとしていた。
蛭間に聞いたことを無意識に反芻する。事が重大すぎて、自分の考えをまとめるに至らない。常盤は何度も蛭間の話を頭の中で繰り返していた。
「ねー、それでさ、既往歴も分かんないでしょ、その子。なんの予防接種してるかとか分かんないの。ヘンな病気もってないかは調べたけど、薬の副作用ってどうでるか個体ごとに違うからさ、あ、その個体ごとの差を調べるのが……」
ビーフシチューをもってきながら無人が絶え間なくしゃべる。目の前に置かれたシチューの香りが濃厚すぎて、胃がいっぱいになる。ひざの上の千歳も邪魔だ。とりあえずスプーンを手にし、そのまま常盤は途方にくれた。
「あうあ?」
千歳が目をぱちぱちさせて常盤を見上げた。はあ、とため息をつく。
「無人」
呼びかけて、ようやく無人がしゃべるのをやめた。何?と続きを待っている。今日は戦闘型の大まかな説明と、研究員の経歴の説明で終わってしまった。無人は彼らより優秀だろうか。
「遺伝子操作、どう思う」
「何、唐突だね。倫理の問題?」
「いや、そうじゃなくて」
千歳ごしに常盤はシチューをかきまぜた。背中にのられた形の千歳がうーうー呻く。意外に肘おきに丁度良い高さだった。
「遺伝子操作と、おれたち、どっちが優れてるんだろう」
ごろり、と大きな人参が現れた。スプーンでよける。
「へえ?ヘンなこと聞くね。今はヒトの遺伝子操作は禁止されてるから、対象がいないよ。すでにある遺伝子から、掛け合わせだけを追求したデザインが一番優秀でしょ。そういうふうに計算されてんだから」
無人はエプロンを放って常盤の前に座り直した。
「遺伝子操作、つまり組み換えとか意図的に自然では起こりえない発現をさせることを意味してんだよね?」
ああ、と頷き、常盤は続けて聞いた。
「興味はあるの?やっぱり学者だと」
無人は一瞬きょとんと呆けたあと、静かに笑った。
「ヘンなこと聞くね、今日は」
テーブルに頬杖をついて無人は常盤を眺めている。常盤がしゃべるのを待っているようだった。おおきな牛肉を転がしながら常盤は黙った。千歳がじたばたあがく。これはナチュラル。こんな悩みとは無縁だ。それが幸せなのかどうかは分からないが。
常盤が話さないままでシチューをいじっているのを見て、無人が言った。
「チャンスがあれば、ね」
常盤は顔を上げて無人を見た。頬杖をついたまま笑顔ではあるが、無人の目は笑っていなかった。千歳が手を伸ばし、常盤の手のスプーンを取ろうとあがいている。
「今の環境じゃ無理さ。倫理的にも規則的にも手出しはできないよ」
無人は茶化すように両手を広げて肩をすくめた。そんなんでごまかされるかと、常盤ははっ、と鼻で笑った。皿を持ち上げてソファにもたれ、シチューを口に運ぶ。学者の好奇心は、本当に侮れない。
001-Xを作りだした蛭間のチームも、それを盗みだした輩も、どっちも似たり寄ったりなのかもしれない。
常盤は頭の中でそんなことを考えながらビーフシチューをたいらげた。今、001-Xはどこで何をしているだろう。盗みだした派閥によっては、すでに処分されているのだろうか。
明日も技術研究課で調査をしなければならない。今日だけでは聞き取れなかったことが多すぎる。事が重大な分、はやくカタをつけたい。
「ぎゃーぶー」
考え事を邪魔するように千歳が顔にさわってきた。ベタベタと手を頬に押し付けてくる。いつのまにか無人はキッチンへ片づけに行っていた。
「やーめーろ」
手を払いのけても、千歳はその手に絡みついてくる。落ち着いて考え事もできない。時計はすでに0時をすぎようとしていた。
「ぶー!」
千歳は機嫌が悪いようで、押しつけていた手の勢いが増してくる。何を訴えているのか分からず、うんざりする。ぶかぶかのシャツの袖は唾液をふくんで湿っており、そこが当たると地味に痛い。汚い。
「おい無人!これ!」
「あーお風呂じゃない?」
無人は汚れた皿をぽいぽいと自動食器洗い機に放り込みながら応えた。キャビネットにはめ込みで作られた食器洗い機は、千歳よりずいぶん静かに仕事をする。
「またおれか!?」
「おれゴハン作ったし。昼間面倒見てるし。お風呂くらい常盤がやってよね」
あくびをして無人は自室へ向かっている。呼び止める間もなく、無人は行ってしまった。千歳はプンプン怒っているように見える。わぁわぁ喚きながら常盤の目の前で動き回る。
「ぎゃぶー!」
「ああもう……」
あきらめて常盤は、千歳を小脇に抱えて立ち上がった。本当に、さっさとしかるべき場所へ預けてしまいたい。ふと、研究のために預かりたいと言って、千歳を引きとめたのは無人だと気づく。すでに遅い。
(あしたは絶対無人にやらせる)
「あー」
抱えられた千歳の声のトーンが変わった。
「あ!おい寝るな!バカ!」
「あー……」
さっきまで暴れていたのに、千歳は目をとろんとさせている。このまま寝かすには、千歳は汚れすぎている。常盤は舌打ちをしながら、千歳を風呂場へ引きずっていった。しばらく気の休まる時は、なさそうだ。