蓋の重石は我慢の文字
後ろから追いかけて来た普一と、かりんとう売り(の誘惑)を振り切って、住処である甚平長屋に帰って来た十和は、草履を脱ぎ、足を拭くのもおざなりに真っ直ぐ奥の部屋へ。そして、自分用の葛籠の蓋を開けると、美佐子の荷物を放り込んだ。
「うーん。これじゃ開けたら丸見えだよねぇ。カモフラージュした方がいいかな」
畳んであった着物や、その辺に置いてあった布を集め、風呂敷包みの上に乗せると両手でぎゅうぎゅう押さえつけた。
ギチギチと中の物が悲鳴を上げる。確実に形が崩れた。
しかし、それがどうしたと手は止めない。ブランド物だと思われるバッグも、この江戸時代では無用の長物。形なんかどうなったっていいのだ。
十和はバッグを親の敵のように上から押さえつけ続けた。ちなみに、バッグが他人からの預かり物だということは忘れている。とにかく隠す事しか頭に無い。一つの事に集中すると他は無くなってしまう性質だ。
そして全体重をかけ圧縮したおかげで、コンパクトな収納に成功。蓋を開けただけでは、危険物は見えなくなった。が、まだ何となく安心できない。ついでに文机の上の帳面や小物を適当にぽいぽいぽいと投入。………ざっぱだ。
(よしっ、これで一見ガラクタ箱だよね ! )
満足した十和は、さも大業を成し遂げた後の様に「ふうっ」と一息つき、やおら立ち上がった。
「さーて、今度は洗い物でもかたづけるか」
今の時間ならば井戸端も空いているだろう。
十和は使用済みの茶碗や湯呑みを重ね持ち、また草履を履く。そして井戸のある長屋の内庭へ向うため、いったん戸口を出る。
そこで右見て左見ての確認動作。
「普一さん、ちょっと遅い…かなぁ」
直ぐに続いて帰って来ると思われた普一だったが、長屋前の通りにその姿は見えない。どこかに寄り道でもしているのだろうか。
何をしているのか少し気になった十和は、心当たりを思い浮べてみる。
「……資材の調達かな」
いや違う。それはこの間、済ませたはずだ。ならば仕事の取引先だろうか。
もし小間物屋なら自分も行きたかった。手に入らなくても、綺麗な物は見ているだけで楽しくなるものだ。前に、簪を納めに行く普一に付いて行った時に見た店の商品を思い出すと心が浮き立つ。
十和は小さくて可愛らしい物が好きだ。ちりめんの巾着。花柄の櫛。使用方法は解らないが、綺麗な貝殻。そして蝉の抜け殻。思い浮べると物欲が騒ぐ。
だが、直ぐにそんな場合じゃないと現実に引き戻された。………思い出したのだ。帰って来たらきっと叱られると。
「ううっ」
今日は無言で鼻を捻り上げられるか、アイアンクロー(別名:脳天締め)で攻められるか。たぶん、このどちらかだ。
お願いだからチョークスリーパーは止めて欲しい。ドキドキしてしまう。
(ちゃ、茶碗の他に洗濯もしちゃおうかなーっ。今日、天気いいしねっ)
普一の帰宅がちょっと怖くなってきた十和は、急いで部屋に引き返し、たいして汚れてもいない手拭いや雑巾を引っ掴むと、そそくさとまた井戸端に向った。
これで暫らくは顔を合わせないですむ。だがそれは問題を先送りにするだけの浅はかな考え。どうせ、二間しかない長屋では、逃げ隠れできる場所はどこにも無いのだから。
けれど諦めの悪い十和は、
「もしかしたら、時間を置く事で普一さんの機嫌が浮上する事もありえるしっ。きっと」
前向きに己を励ます。ちょっと涙目なのはドライアイ気味だから、そう自分に言い聞かせた。
そうこうしながら中庭に行ってみると、思ったとおり人影はまばら。あまり見ない顔の女達が二人いるだけ。
井戸の無い、別の長屋の女達が水を借りに来ているのだ。
「こんにちは」
頭を軽く下げ挨拶をする。向こうも同じに返して来た。その脇を通り抜けもっと奥へ。
これが同じ長屋の奥様達だったら大変だった。挨拶をする暇も無く世間話が始まって、暫らくは解放してもらえないところだ。彼女達は皆、バイタリティの塊のような性格。ついでに噂好きで、お節介。三人も集ればスズメのさえずりよりも姦しい。
それが毎日の様に続くわけだから、ご近所付き合いを苦に感じる人間は、絶対に長屋には住めない。プライバシー ? 何それ、美味しいのかい ? な、集団生活。それが長屋だ。それは何処も一緒らしい。
でも運良く十和は、取り留めの無い馬鹿話が嫌いではなかったし、甚平長屋の皆が好きだった。だから最初、ここでの暮らしに多少の戸惑いはあったものの、彼等との関わりを嫌に思った事は無い。
――けれど。今日はなるべくなら会いたくないのだ。
何故なら昨日の祝言の事を聞かれるのは必然。はっきり言って何度も同じ事を説明するのは、
(めんどくさーーー)
なのだ。これでは普一の性格を怠惰だ、などとは言えない。
結局、十和の願いが通じたのか長屋の方から顔馴染みが現れる気配は無く、落ち着いて仕事が出来そうだ。ホッとして、洗い物を抱え直す。
木製で造られた井戸枠の周りは、やはり木製の板敷きで囲まれている。零れた水で地面がぬかるまないようにだろう。
いつもなら、その場所に陣取って水仕事をする十和だったが、今は先客が居て入れず、仕方なく水だけを汲み少し離れた場所に腰を下ろした。
(あーー、いたたたたーっ。毎度の事ながらきっついわー)
ただでさえ重い木桶が水を入れて更に重くなり、少しの移動でさえ腕やら腰やらに負担をかける。こんな時、自分が生まれた時代は本当に便利だったのだなと実感する。今思うと、蛇口からお湯が出るとかまるでミラクル。
(でも、ま、家の直ぐ近くに井戸があるだけマシだよね。贅沢は言えないや)
十和は自分に『我慢』の二文字を突きつけると、さっそく汚れた茶碗に手を伸ばした。
洗剤にはサイカチの実の皮で作った泡を、スポンジの代わりには丸めた藁を使う。油物は無いので楽に綺麗になった。
一心不乱に暫らく手を動かして、あらかた汚れ物がなくなると集中力も途切れてくる。するとまわりの音が耳に戻ってきた。
小鳥のさえずり。子供達の童歌。物売りの口上。そして、井戸端の女達の話し声が途切れ途切れ。
「だ…なのよぉ」
「あらぁ、怖い」
聞きたいわけではないが、つい耳を澄ませてしまう。
「ねぇ、おかしいと思わないかい ? 」
「何がさ」
大根を洗いながら、もう一人が聞く。
「あの捕物の夜、あたしらの長屋の方に盗人が逃げて来たって言うじゃないか ? でもさ、あの日の夜は、そんなおかしな奴は見えなかったんだよ」
「あははっ、見えなかったって、そりゃあんた、家ん中に居たらわかんないさね」
笑われた女が、それがさぁと続ける。
「実はさ、あたしゃあの時、探し物してて結構長く長屋の周りにいたんだよ」
「ああ、そういえば、夕方、利助ちゃんが風車を無くしたって言ってたっけね。もしかして、あんな夜中まで探してたのかい。そういうのはお天道様が顔を出してからおやりよ」
「だって利助が泣くんだもんさぁ」
どうやら女達は、お京が疑われている事件の噂をしているようだった。
詳しく教えてくださいと割って入りたいのをぐっと堪えた。けれど自然に耳がダンボに。
「でも、怪しい奴がいたから、こっちの木戸番が柏木を鳴らしたんだろう。だから捕物のやつ等が大勢押し寄せてきたんだ。ああ、もう、あん時は五月蝿くって大変だったよ。赤ん坊は起きちまうし」
「まったくだ。ぴーぴーぴーぴー、いつもの倍は鳴ってたね、ありゃ」
忌々しそうに言う。
そして、洗い終わった野菜を盥に山にすると、二人がかりで持ち上げ、さっさと井戸を後にした。口も良く動いていたが、手も疎かにはしていなかったようだ。さすがベテラン主婦。仕事が速い。
一人残った十和は、
「そこんとこ、もうちょっと詳しくっっ」
そう言って後を追いたいのをぐっと堪えた。
普一に咎められたばかりだというのもあるが、違う長屋の知らない人間に可笑しな事を聞いて、不味い印象を与えたくなかったのだ。
(我慢、我慢。私はやれば出来る女)
好奇心を押し殺し、目の前の仕事に戻った。というか、戻らざるを得ない。食器洗いは終わったが、洗濯物はまだ手付かずなのだ。
また暫らく手元に集中する事にした。そして
「よっし、こんなものかな」
茶碗の水を切り、洗った洗濯物を干し、水桶の中身を長屋の間を通るドブ川へ棄て、仕事を終える。
さて、帰るか。しかし、木桶を持って立ち上がり歩きかけた十和の足が、ぴたっと止まる。
(そういえば、もうさすがに普一さん帰って来ているよね)
別に喧嘩をしたわけではないが、何となく顔を合わせ辛い。
けれど、ずっとここに居るわけにもいかない。ここは井戸と便所とゴミ溜めがある共同スペース。常に誰かがいる場所だ。何時までもいると邪魔になるし、奥様たちに見つかってしまう。
十和は諦めの溜め息を吐くと、仕方なく帰路に着いた。
暖簾を潜り中に入ると、やはり普一は帰ってきており、仕事場をかねている手前の部屋で広い背中を心持ち丸め座っていた。
かっかっかっか。鋭い鉄音。
先の細いのみで金属の板に模様を刻む繊細な仕事をしているのだ。顔を下げたままでも、集中しているのが分かる。
「お、おかえり、なさい」
「ああ」
いつもと同じ低い声。
良かった怒っていない。 機嫌が悪い時の「ああ」と平常時の「ああ」。物凄く微妙だがちょっと違う。十和は何となくだが日々の生活で、その違いを理解していた。日頃、普一を振り回している成果かもしれない。
少し気が楽になった十和は洗った茶碗を箱膳に戻すと、濡れた手を拭くために奥の畳敷きの部屋へ。手拭いは全て葛籠の中に入れてしまっていたのだ。カモフラージュのために。
「ん ? 」
葛籠に手を伸ばそうとした時、隣に置かれた文机の上に、見知らぬ袋があるのに気付いた。
(……なんだろ、これ。ここに置いてあった物は全部、葛籠の中に放り込んだはずだよね)
小袋を手に取り、開けて中身を見てみると、薄茶色をした――――かりんとう。
「あっ」
思い当たる節があって小さく声を上げた。
(普一さん、わざわざ買ってきてくれたんだ ! )
帰ってくる途中、遭遇したかりんとう売りに気を取られていたのを、見られていたに違いない。
そんなに高価なものではないが、心遣いが嬉しかった。
「ふへっ」
気まずかった事も忘れ、十和の目じりがにまっと下がる。実に単純だ。
そして、礼を言うために口を開きかけたが、流した視線にキラリと光る何かが映りこむ。
文机の上に置いてある何か。かりんとうの袋の下敷きになっていたそれは、
「っっ !! 」
――――刃物。
勿論、十和の物ではない。第一、「のみ」なのか「彫刻刀」なのかもあやふやなのだ。だが間違いなく普一の仕事道具だという事は分かった。
(意味深なんだけどっ ! もももももしかして、この菓子でも食って大人しくしておけ、でないとこれで……さ、さ、刺すってかっ ?! )
いーーーやーーーーっ !! 十和が、握ったのみと普一の背中を交互に見た。
刃物の、しのぎの部分がギラつき、外の光を反射して普一の背中の一部が照らされる。まるでサスペンス劇場の一場面のようで、思わず息が詰まった。
……これは、警告なのだろうか。ごくり。一度生唾を飲み、恐る恐る普一の背に声を掛ける。
「あ、あの……これ」
「ああ、食いたかったんだろう」
作業の山場なのか、手を止めずに言う。
やはり、かりんとうは普一の土産のようだ。だが、十和が聞きたいのはそれじゃない。
「え、はい。かりんとう有難うございます。それと、あの」
それまで背を向けていた普一だったが、十和の様子がおかしいと感じ振り返った。
「……これ」
普一の前に、おずおずと突き出された手には鋭く光る刃物。
「…ん、ああ」
「これが私の机の上に」
そうか、と言って十和の手からのみを受け取り、道具箱に敷かれた手拭いの上にそっと転がす。
そして何事も無かったかのように、作業に戻ってしまった。
疑問に答えが貰えなかった十和は、
(ノーコメントッ ?! 何も無しですかっ、これ、逆に怖いんですけどっ !! )
内心で叫びを上げた。
実は、さっきののみは、かりんとうの袋を置いた時に普一が置き忘れた、ただの忘れ物だった。だが慌て者の十和は、普一のそっけない態度を見事に曲解。誤解を大きく膨らませた。
(いつもどおりだと思ったけど実は怒ってる ? 静かに怒ってるの ?! )
三歩後退。普一から離れ、
「私、ちょっとおトイレに行ってきますっっ ! 」
だっと駆け出し、暖簾を跳ね上げて表へと出て行った。まるでつむじ風の様だ。
「おといれ ? 」聞き慣れない言葉に普一が一瞬手を止めるが、直ぐに十和が走って行った方向と、慌て具合から「厠」だなと当たりを付け作業を再開した。
一方、長屋の内側にある共同スペースにとんぼ返りして来た十和は、粗末な便所小屋の陰に隠れ、かりんとうの袋を握り締めると戦々恐々と呟く
「私、もしかして凄く怖い人と結婚しようとしてる ? 」
そういえば、彼の両親はDVを愛情表現だと言って憚らない人達だった。
もしかして……
(……いや、いやいや。私、今まで普一さんに手をあげられた事ないもん。ちょっと耳が千切れるくらい引っ張られたり、鼻が捥げそうになるくらい捻られたりしただけ……って、あれ ? これもDVか ? )
「いーーーやっ ! 違うっ。あれは私に駄目な事は駄目って分からせる為のお仕置きだもん。つまり愛ある折檻なのだよ、きっと ! 」
独り言にしては大きな声で言う。言葉にしたらしっくりきた様だ、一人頷き悦に入っている。
だが、「折檻」と認めている時点で普一の両親と同じだとは気付いていない。
(でもさ、愛だなんてそんなっ、ふへへ、でへへへへっ)
黙っていれば美人だと言われている顔面を総崩れさせ、十和が汚い便所の壁に引っ付き身をよじる。くねくね。そして正体不明の染みや、落書きだらけの壁を転がりはじめた。重ねて言うが、本当に汚い。ついでに臭い。
ちなみに落書きは現代と同じ様な文句が書かれている。○○が好きだ、とか。馬鹿、とか。恋人募集中!、だとか。後は店や商品の宣伝。というか、いつの間に入り込んだ商売人よ。
「おー、厠掃除か ? 偉いじゃん、お十和」
突然聞こえてきた子供の声に十和が我に返り、板塀に手をついたまま顔を向けた。
手を付いた場所は丁度、「○○の馬鹿」の馬鹿の字の前で、無自覚だろうが笑いを誘う。
「でもさぁ、掃除は雑巾を使った方がいいぜ。何で自分の着物でやってるんだ ? 」
そこに居たのはニノ助、三ノ助。
ニノ助が、答えに詰まった十和を眺め「変だよな」と隣の弟に話を振る。
「きっとお十和は、自分は雑巾と同じ、もしくは以下の酷使される存在なんだって言っているんだよ、兄ちゃん」
何だお前、随分と卑屈な奴だな。気持ち悪ぃー。とニノ助が壁に引っ付いた十和に鼻を摘みながら近付く。
全く可愛くない台詞を吐いた三ノ助もそれに続く。
「……別に、掃除なんてしてないわよ。それよりあんた達なんか用 ? 私、急がしいんだけど」
今はあんたらの相手をしている暇は無いのだと、二人を突き放すように言った。
だが、そんな十和の都合など知ったこっちゃない兄弟は構わず纏わり付く。
「なーなー、お十和。良い事教えてやろうか」
「…………」
無視して顔を明後日の方向へ背けた。
するとニノ助が十和の着物の袖を引っ張ろうと手を伸ばした。――が、「あ、きったないんだった」と直ぐに引込めた。ぺっぺっと手を振るい、完全にばい菌扱いだ。
「なんだとっ失敬なっ」
怒った十和が大人気なく怒鳴る。
この時点で、もう子供二人の思うつぼ。罠に引っ掛かったと同然だ。
「うっさいわねっ。なんなのよっもうっ ! 」
乗ってきた十和に、しめしめとニノ助。
「聞いてくれよー。昨日、俺ら桜を見に行っただろ ? そこで聞いたんだ。な ? 」
「うんうん」
同意を求められた三ノ助が頷き、思わせぶりに二人、顔を見合わせた。
そして、さすが血の繋がった兄弟か。同じ様な笑顔を焦れた十和に向ける。
「一昨日の捕物、あれって押し入られたの恵比寿屋って店だったんだけど、盗まれたの雛人形だったんだぜ。知ってたか ? 」
「しかも店は違うけど、去年も同じ様な事件があったんだって」
兄の台詞の不足を弟が補い、そして二人は声を揃える。
『 大発見だろっ! 凄いだろっっ !! 』
二人の声が汚い厠の壁に反射して、それまで下を向いていた十和の頭にぶち当たる。
何かを我慢するかのように拳を握り締めていた彼女は、二人の合唱にキッと顔を上げ吼えた。
「お前等もかーーーーっっ ! 」
普一のため、自分のため、我慢して我慢して押し殺した好奇心。
なのに。虎二、井戸端の女達、そしてこの悪ガキ達。会う人、会う人、探究心を刺激する。
どうして神様は私を放って置いてくれないのか ?!
(お願いだから、私の前に餌をちらつかせないで ! 我慢するってストレスが溜まるのよーーっっ)
と、思いながら、実は新しい情報に胸が高鳴ったのは、トップシークレットなのである。
貝殻の正体は毛抜き。お洒落な江戸っ子のマストアイテムです。男女兼用。おかげで湯屋では常にケロケロ。