繋がる
遠くの方から人々の喧騒が聞こえる裏路地。
時刻は優に夜の八時を回った頃。朝のニュースで天気予報士が告げたとおりに天気は崩れ、真っ暗な空からは針のような雨がしとしとと落ちてきていた。
その冷たい雨は、傘も差さずに立ち尽くす美佐子の髪や肩をじっとりと濡らす。
しかし彼女は濡れて重くなった服や、顔に張り付く髪には全く頓着せず、ただ一心に前方を食い入るように見詰めていた。
「・・・・・・・・ついに、ついに、来た・・・・」
――――不意打ちのように現代に戻って来てしまってから二年。ずっと、この時を待っていた。もう一度、この「道」が現れるのをっ。
「 絶対に帰ってみせるっ ! 」
目の前に出現した、ほぼ黒一色の黒いトンネルを目の前に、美佐子は拳を握り締める。
だが、その道に踏み出す一歩がなかなか出ない。強張った足が、ザリリッと地面を擦り、意気込みばかりが上滑りする。
「お、お父さん、お母さん・・・・」
あちらへ行かなくてはならない。そう思っても、頭の中をこちらでの大切な人達の姿が浮かんでは消えていき、美佐子の足を引き止める。
ずっと自分を守ってくれた人達。良く無事で帰って来たと涙してくれた人達。良いのだろうか。自分はそんな人達を無情にも置いて行こうとしているのだ。・・・・これは裏切りではないのだろうか。と、決まっていた筈の美佐子の心に迷いが生じる。
「 ん・・・・あれは」
その時、美佐子の揺れる瞳が二つの光に絡め取られた。
暗い「道」のずっと先に浮かんだ、揺れ動く小さな明かり。
その光は、見慣れた蛍光灯の安定したクリアな光ではなく、原始的に力強いが、もっと頼り無いもの。もっと不安定なものだった。
美佐子の意識を捉えて離さないそれは、良く見なければ見落してしまいかねないほど遠くにあった。
目を眇め、視線の先に集中する。
(ユラユラしてる。あれは・・・・蝋燭、いや、行灯 ? うぅん、違う。もっと大きい・・・・・篝火。そうだ、篝火だ)
美佐子はその時、二年前まで暮らしていた江戸の町の空気を、肌で強く感じていた。
もう、季節は春。江戸の町での春といえば、上巳(桃の節句)、少し先ならば、お釈迦様の誕生日である潅仏会がある。その時期は、神社の鳥居に篝火を掲げてはいなかっただろうか。確か掲げてあった筈だ。
脳裏に刻まれているはずの記憶を掘り起す。そして記憶が蘇るたび、益々、懐かしい空気が濃厚になっていく。
(じゃあ、あれはもしかすると―― )
それまで揺れ動いていた美佐子の心が、遠くに輝く光の正体に思い当たった途端、一つに決まった。
二つ光りの希望は、心を締め付けていた迷いすらもあっさり飛び越える。
「ごめんっ、みんなっ」
腹の底から出た声に、強張っていた足が前へと飛び出す。まるでスターターピストルの音に駆け出す走者のようだった。
走りながら美佐子は思う。きっと自分は後悔するだろうと。きっと一生引きずるだろうと。だが、ずっと続くであろう痛みの確信も、走り続ける足を妨げる事は出来ない。
雨に濡れ、足に張り付き、捲くれ上がるスカートすらも気にせず暗闇を走り抜ける。
( ごめん。本当にごめん。でも、私は行くよっ。 だって、この「道」の先には、私が自分で作った家族が、あの人がいるんだからっ ! )
美佐子の履く革靴がたてるパシャパシャという音が、真っ暗な穴のような「道」の奥深くに消え、その程無く後に「道」自体も消えた。
まるで美佐子を誘うように現れ、誘導し、目的は果たしたとばかりに口を閉じ、音も無く夜の闇に溶けたのだ。
そして、大通りのネオンで薄っすらと明るい裏路地は、何も無かったかのような顔を取り戻し、ただ静かに、遠くの喧騒と雨の落ちる音だけを響かせるだけに。
今日この日は、路地周辺の建物の中にいる人々や、喧騒の中に居る人々にとっては、いつも通りの夜、いつも通りの日である。
だが、美佐子と、道の先に居る「あの人」にとっては、願いが叶った奇跡の日になったのだった。
―――― 江戸 享保14年
季節は暦の上ではとっくに春を迎えていたのだが、お天道様が顔を隠すとまだまだ肌寒く、火事と喧嘩が華と詠われる熱い江戸の町も、冷たい空気に静まり返っていた。その日は、だいの大人でも家の外に出るのは憚られる寒さで、小さな子供の体では一瞬で芯まで冷えてしまうだろう気温だった。しかも運悪く、小雨だが雨まで振り出す始末。
旅装束の親子の体にも、その雨は容赦なく降り注ぎ、旅に疲れた体に鞭を討つ。
母親であるお京が、意地の悪い天を仰ぎ疲れた目を強くつぶると、隣を歩く娘に気付かれないように溜め息を付いた。
(まいったな、雨か・・・・)
ならば傘を差せば良いのだが、左手には子供の手。右手には足元を照らす提灯。ついでに背中には商品である薬が入った大きな葛籠を背負っている。当然、傘など差せる余裕は無い。この江戸の町では、無灯火での夜歩きは禁じられている。提灯は手放せない。だからと言って娘の手も放せない。
せめて今が昼間だったらと、お京の口から溜め息が出るのは仕方のない事だった。
雨にあたる子を憂い、お京が握った手を擦って言う。
「お文、大丈夫かい、もう少しだからね。もうちょっと耐えておくれよ」
労り深い声に、10歳に満たない幼子が顔を上げる。精一杯の笑顔を乗せた小さな顔には、隠せない疲労が色濃く現れていた。
「平気だよ、おっかさん。これくらい、なんともないよ」
早くに夫であり父親である大黒柱を亡くしたこの母子は、生きていくために薬の行商を生業とし、村から町へ、または町から村へ渡り歩き生計を立てていた。
常に動き回り、一箇所に落ち着けない日々は辛く、それは決して楽な仕事ではなかった。幾つもの山を越えての旅もある。だが、今回はそんな旅とは違っているはずだった。さすが天下の江城のお膝元、江戸は流通の便が良く、向う道はある程度舗装されているし、旅籠も多く、旅の者にはありがたい事が多かった。だから今回の江戸入りは、本当なら楽に終わる仕事の筈だったのだ。二日か、三日の旅になるだろうかの。
が、それは大人だけの旅の話。子供連れともなるとそうもいかない。小まめな休憩のための時間を多く費やし、お京が思っていたより随分と江戸入りが遅れてしまっていた。
辺りは夜の帳もとっくに下り、人っ子一人いない時刻。
顔に少しの焦りを滲ませ提灯を揺らしながら、お京は背中の荷物を背負い直した。ぐっと、薄い肩に重みが掛かる。
( ふぅ、この品を皆木屋さんへお届けしたら、あちらが手配してくれた仮宿で休める。やっとゆっくりできるのね。よし、もう少しよ・・・・ )
今日は無理だが明日はこの子と湯屋にでも行こうかと、お京が久し振りの和やかな時間を楽しみに、お文の小さな手を見た瞬間、静寂に包まれていた闇を甲高い音が切り裂いた。
「なに ? おっかさん何の音 ? 」
「こっちおいで、お文」
この音は捕物の時に目明しが吹く呼子の笛。きっと何か事件があったのだと、咄嗟に思ったお京の体が強張った。
こちとら、がんぜない子供を連れてるんだ、巻き込まれるのは御免だよ。
子供を抱え、近くの長屋の塀に身を寄せる。
「ぴーって音、こっちくるね」
「・・・・そうだね」
お文の言うとおり、呼子の音はどんどん此方へ近付いて来ている。それどころか複数人の慌ただしい足音まで一緒に。
(まったく、今日はついていないねぇ)
何度目かの溜め息を吐いた時、暗闇の中に音の出所が現れた。
ぞろぞろと列をなして走ってくるのは捕物提灯を掲げ、物々しく武装している男たちだった。
その先頭を執っていた同心の男が、身を縮めている母子に気付き走り寄って来た。
「おい、お前達。こんな時分に何をやっておるっ ! 」
「はっはい」
何があったかは知らないが、気を荒げる男達から見て、下手人を追っている最中なのだろう。罪人に間違われては堪ったものじゃないと、子供を抱えた母親は自分の生業と江戸入りが遅くなった理由を包み隠さず述べた。
その言葉に嘘偽りはなく、同心の男も素直に信じた。
「そうか、それは難儀であったな。だが、早々にここを離れよ。捕物の邪魔になる」
そう言いおき、同心は目明かし達の集団に戻っていく、その時、
―――― カンカンカンカン !
堅い物を打ち付ける音が、遠くの方から発せられた。木戸番が不審者を発見した時に鳴らす柏木の警報音だ。
「うなぎ長屋の方だぜっ ! 」
「おらっ、急げっ ! 」
瞬時に荒くれの男衆が動き出す。
「わぁ」
慌ただしく走り出した小物達の集団に巻き込まれそうになった母子は、もっと壁へと身を寄せようとしたが、子供が足をよろめかせ多々良を踏む。
すると集団から一人の若い男が抜け出して来て、転びそうになったお文を支える。
「おっとすまねぇ、大丈夫かい」
「うん。ありがとう、おにぃちゃん」
破顔した男は、ぽんとお文のひっつめ頭に手を置くと立ち上がり母親に向って、
「悪い事ぁ言わねぇ、直ぐにここから離れるんだ。まだ逃げた下手人がどっかに潜んでいるとも限らねぇ。ばったり会っちまったら、目もあてられねぇだろ」
そう言って、じゃあなと踵を返し先に行った集団に向って歩いてゆく。ひょこひょこと上下する頭。どうやら足が悪いらしい。捕物で怪我でもしたのだろうか。想像するお京の顔に影が差す。
「くわばら、くわばら。―― さぁ、お文、行くよ」
「ねぇ、さっきのおにぃちゃん良い匂いがしたね」
お文が、男たちが去った方を見ながら母親の袖を引く。
「そうかい?気のせいじゃないのかい、私は何にも感じなかったけどね。そんなことより、さっさと行くよ。こんな危ない所、生きた心地がしない」
「はぁい」
疲れているのだろう、いつもより幼い言葉で返事をする娘の手をしっかりと握り、暗闇の中を薄ぼんやりとした提灯を頼りに、また歩き出した。
庶民の住居スペースである長屋の密集する地区を抜け、暫らく歩くと町を横断するように流れる川に突き当る。そこでふいにお文が足を止めた。
どうしたのとお京が声を掛ける間も無く、お文は繋いだ手を放し、川の辺に走り出した。
「これ、お文、何処に行くのさ。駄目だよ、さっきの人が言っていただろう。速く行かなくちゃ危ないんだって」
追ってお京が駆け出し、川べりで雨に揺れる柳の下に佇むお文の隣に並ぶ。
「おっかさん、あそこ誰かいるよ」
「え、誰かって――――」
まさか、捕物で探していた盗人じゃないでしょうね・・・・
お文が指差した暗がりを、びくびくしながら目を眇めて見る。
と、そこに人影が横たわっているのが確認できた。
( えっ、えっ、ほ、本当に・・・・ ? )
恐る恐る近付く。まず、長く赤い髪に目が行った。
「おんな・・・・・の人 ? 」
雨の中、地面にぐったりと倒れるその様子は、とてもではないが押し込み強盗をしてきた人物にはまず見えず、お京は警戒を幾分解くと急いで傍により声を掛けた。
「も、もし、大丈夫かい ? ねぇ、あんた」
応答がない。
・・・・まさか死んでいる ? 恐々、女を抱き起こし顔をあお向ける。
と、女の口元が苦しげに動いた。
「ああ、良かった。生きてるじゃないか」
お京がホッとして、女の夜目にも赤い顔の額に手をやる。
かなり熱い。息も荒い。
「あらやだ、凄い熱っ ! こりゃ、大変だわ。・・・・お文 ! お文 ! ちょっと来て手伝ってちょうだい ! 」
女を運ぶ手伝いをさせようと、道端でしゃがみ込む娘をお京が呼ぶ。直ぐに走ってきたお文は長い物を握っていた。暗くて良く見えなかったが、お京の目には房の付いた紐に見えた。縄にしては細すぎる。
「落ちてた」
「紐 ? ああもう、そんな物より、今はこっちよ。この人、凄い熱なのよ。でも、この時刻じゃ、お医者はやっていないし、私達の宿に運ぶわ。さ、手伝っておくれ」
お京が紐をチラリと見ただけで言うと「じゃあ、私が貰っておこう」と、お文が自分の懐に紐を丸めて仕舞う。
その紐は落ちていたわりに綺麗で、雨にもまだあまり濡れてはいなかった。色も、お文が持っている紐のどれより美しく自分の物にしたくなったのだ。
( むらさき色、綺麗だ。それに……良い匂い )
「お文、行くよ。急いで」
雨には降られ、捕物には巻き込まれ、全くついていない母子は、この時はまだ自分達が拾ったものの正体が解ってはいなかった。
紐と女。
そして、この母子にとって、どちらがより厄介なものなのかも。
タイトルとあらすじに番外編って書いたので、大丈夫だとは思いますが、この話だけだと色々、説明不足で何が何やらになると思います。
(ただでさえ、何が何やらなのに・・・・)
なので、先ずは本編をどうぞ。
(それでも、何が何やらだったら、すみません)
それと今回、一人称ではありません。未知の領域の(うそ臭い)三人称です。