雨音棚の恋
五冊ほど積んだ本を持つ手が、機微に震えを覚える。窓の外から聞こえてくる整った雨音が僕の焦燥感を更に掻き立てて、カウンターの位置がいつもより近く感じた。ベージュのカーペットの上をペンギンのような歩き方で歩きながら、カウンターに近づくたびにのど元に遡ってくる緊張が、吐き出そうとした言葉を混乱に陥れようとする。僕は歩みを止めると、小さく息を整えた。
「これ、お願いします」
練乳を溶かしたような光沢を帯びたカウンターに山積した小説を置くと、目の前の眼鏡の奥の瞳が少しだけ笑い、小さく「はい」と言った。どくん、どくん。バーコード読み取っていく作業的な音が、ちっぽけな緊張感を狩りたて、目下映る小説のタイトルすらはっきりと確認できなくなる。
「はい、返却日は六月二十九日の水曜日になります」
本を差し出す小さな手がようやくわかると、僕は彼女の方を見た。小さな楕円型の眼鏡の奥の瞳が再び小さく笑みを浮かべ、お互いに会釈し合う。本を取る間の緊張感と、彼女の小さな声が混濁して――
「あっ」
がたり、と小さな音が、静寂を保つ館内に大きく響く。彼女の手が滑ったのか、積まれたハードカバーの本が二冊崩れ、彼女が慌てふためきながら身を乗り出した。
「す、すみません!」
「い、いえ、大丈夫です」
挙動不審に思われないように、最大限息を殺しながらそう返して、僕は足元に転がった小説をすくい上げた。しゃがみ込んでいた膝を立て直して、カウンターに再び顔を見せると、恐縮そうに肩を縮めた彼女が視線を下に下げる。
「だ、大丈夫ですから、気にしないでください」
「はい、すみません、またのご来館お待ちしています……」
僕も彼女と同じように会釈を返して、彼女の目腺と同じように落ちている夜空のような長髪と、山吹色のエプロンでじゃれつく二匹の黒猫のワッペンを一瞥して館内を後にした。トートバッグに本を詰め込みなおしながら、まだ少しだけ荒い息を整えて、首筋から吹き出しそうになる冷や汗をどうにか抑えようとハンカチで拭いていく。こういうやり取りはもう三か月以上にわたって続いているせいで、僕はこの現象が何か、自分でもよく分かっている。
僕は、海老沢凜子に恋をしている。
三月の終りの、街の桜が一斉に散った雨の日のことを、今も僕は忘れない。高校を卒業して、大学入学までゆったりとした時間が出来たころ、僕は受験勉強で読み貯めていた小説を借りようと市立図書館へ足を運んだ。雨の日の利用客は僕が知る限りでも一段と少なく、鼠色に淀んだコンクリの図書館の壁は雨に濡れて更に淀み、街の陰にも隠れてしまいそうな雰囲気すら醸し出していた。
海老沢さんに出会ったのはあまりにも偶然だった。な行の作家が執筆した作品が陳列した棚で、慣れない手つきで蔵書の整理をしていたのが海老沢さんだ。コロボックリを連想させるようなあまりに小さな身長のせいで、一番高い棚には館内に設けられた脚立を使ってもどうにも届くことが出来ず、悪戦苦闘しながら本を整理していたことは記憶に新しい。
「きゃっ」
何冊か本を取り、カウンターへ向かおうとしていた際に、海老沢さんが小さな声を上げて脚立から落ちた姿を僕は見た。反射的に大丈夫ですか、と声をかけると、その時かけていた赤縁の眼鏡の奥の目が微妙に涙目になっていて、聞く話によると身長がないせいで本の整理が終わらない、とぼやきだした。
「手伝いますか? あとこれだけだし」
海老沢さんが何か言葉をはさむ間もなく、僕は三十冊かそこらの小説を棚の上段に並べていき、何故か後ろで右往左往する海老沢さんは、自分で涙目を浮かべていたくせに今更謙遜し始めた。だから作業が終わった時の印象は、「ドジな人」としか思わなかったし、身長のせいで年下とすら思っていた。
「ありがとうございます、すみません……あの、今年新卒で採用になりました、海老沢凜子と言います。また、図書館使ってくださいね?」
その時一番驚いたのは、彼女が新卒で採用されたことでも、年齢の割に身長がかなり小さかったことでもなく――彼女が俺よりずっと年上だということだった。
大学に正式に入学した後、テスト勉強や読書で訪れていくたび、海老沢さんとの面識が更に進むようになり、本を受け渡すときに小言を挟むことがあったり、時には背丈の低い彼女に代わって蔵書の整理を手伝うことがあったりして、それがやがて僕に特別な気持ちを芽生えさせるのは至って自然なものになった。そして彼女が隣町からこの図書館に働きに来ていること、切ない恋愛小説が好きなこと、雨の日は雨音を聞くために自分から窓に近い本棚の蔵書の整理をすることなどを聞くことになり、自然と僕も自分のことを少しずつ語るようになった。
気象庁の梅雨晴れ宣言が正式に出た翌日、僕は本の返却日と言うこともあり二週間ぶりに図書館に顔を出していた。海老沢さん以外の、いわゆる母親世代の事務員の人たちにもすっかり顔を覚えられた僕は、入り口近くのカウンターで会釈しながら大衆小説の棚の方に足を歩めると、やがて窓の方からテレビのノイズのような音が窓の方から零れてくることに気が付く。口から零れそうになる音を抑えようとすると、そのノイズをかき消すような、蔵書の山が崩れ落ちる音が館内に響き、僕は半ば嘆息気味にその騒音の方に足を進めた。
「……何してるんですか」
不思議と前みたいな緊張は無く、自然と僕の声と足は、尻餅をつく海老沢さんの方へ近づいていた。足元に散らばったハードカバーの惨状を見る限り、おおよその予想はつく。
「……無理して一番上に入れようとして、つま先立ちしたらそのままバランス崩して転びました……」
「素直でよろしいですがそういうときは他を頼ってください」
怪我してませんかと付け加えると、彼女はのそのそと立ち上がり、ジーンズのほこりを払う。僕はそのよそで保護者のように散らばった小説を拾っていく。
「海老沢さん身長低いんですから、無理しない方がいいですよ。足くじいたらどうするんですか」
言葉もありませんと俯く彼女をよそに、俺は脚立に足を立てて拾い上げた本を上段に積み上げていった。事務員でもないのに、そのやり取りはいつしか自然なものになっていて、海老沢さんの目にも困惑の色が見えるけれど、自分でどうしようもできない問題だけあるのか僕の行動に口を挟もうとはしなくなっている。
蔵書を詰めなおして脚立から降りると、いつもすみませんと彼女は眉を潜めながら頭を下げた。
「もうなんか慣れましたよこのくだり」
思わず苦笑してしまった僕を上目遣いで伺う海老沢さんの目には、年上の威厳なんてものは微塵もなく、餌を取れずに縮こまる小動物のようにも見えた。苦笑しながら彼女に笑い返してはいるけれど、目の前でそんな表情を見せられると、彼女の可愛さといったものが前面に感じられて、逆に恥ずかしさが込み上げてきてしまう。
「あ、雨……」
彼女が雨音に気づいたのは、彼女が脚立を畳んでいた時で、雨脚は僕が気づいた時よりもずっと強まっていた。彼女は小さな歩幅で窓際の方に歩み寄ると、ブラインドの隙間から見える、雨に溶け込んでいく街並みをしばらく見届ける。
僕が借りる本を選んで、彼女の姿を見るときまで彼女はそうしていた。仕事しなくていいんですか、と小言を挟むと、彼女は優しく微笑む。
「雨音って、落ち着くんですよ。夜寝ながら雨音を聞くのも好きだけど、こうして雨が溶けてくのを見るのも落ち着いて」
窓の方に向けていた体を翻して、僕の方を見た彼女に一瞬だけどきりとさせられたけど、そういった間もなく彼女は、僕の胸元に見えたタイトルを見て言葉を続ける。
「雪野くんも、雨が好きになったんですか?」
「え、どうしていきなり」
「その本。雨の町が舞台の小説なんですよ」
僕は手元の雨空が全体を覆った薄めの文庫本を見る。何年か前に若い層に受けて、映像化一歩手前まで行った作品のタイトルをなぞっていると、苦笑気味に僕は返した。
「でも確かに、海老沢さんに影響されて雨が好きになったかもしれないですね」
雨音にかすんでいく街並みを見るあなたの姿を見て。
その情景があまりに僕の世界で美しいものと錯覚してしまいそうになると。
僕は心の中でそうつぶやき、まだ形にはできない想いを思い浮かべる。
「……あと、雪野さんが恋愛小説を借りるのも初めてですよね」
「え」
なんでそこまで知ってるの、と口を挟むそうになったところで、僕の背中から彼女を呼ぶ小太りの女性事務員の声がした。すみませんすぐ行きます、と返した彼女を見返すと、彼女の頬が少しだけ紅潮して熱を帯びているようにも見えて、胸の奥に張り付いた動悸が激しくなる。
「私も好きなんです、その話。……また、感想聞かせに会いに来てくださいね」
ブラインドにひっかけていた指を離した彼女は、僕の背中を過ぎて声の方へ駆けていく。それ、どういう意味ですかと口挟もうとする言葉を発する間もなく。
雨にかき消されることもない胸の焦燥を抑えながら、僕は彼女の頬に見えた機微な感情を反芻して、胸元から落ちそうになる小説のタイトルを見返した。雨脚が弱くなり始めたころ、僕は軽く息をついてカウンターの方に本を置き、せわしない足取りで僕の前に掛け寄ってきた海老沢さんの顔を見るなり、たどたどしい声で言う。
「お願いします」
「はい」
そのとき、本を差し伸べた僕の指と、本を取ろうとする彼女の指が少しだけ重なる。反射的に引っ込めようとした指から、震えるようにも感じた彼女の体温が伝わってきて、お互いに無言になりながら静かに指を引いた。
「……感想、楽しみにしてますね」
微笑む彼女の声から、梅雨の終りの恋が聞こえた気がした。
年上の彼女っていいですよね!
何も考えずに打ち込んでいました。いろいろおかしかったかもしれないです。校正とかしてないし。
読了していただきありがとうございました。