六夜 雪
初夏の夜の満月の光に照らされるのは、目に美しい新芽の緑。しかし、今照らされる世界は白銀。暖かくなり始めた今には相応しくない、真冬の寒さ。一面の雪景色。
未希は普段起きるよりも早い時間に、異常な寒さで目が覚めた。彼女はあまりの寒さに、薄い布団を手繰り寄せ再度包まった。
「……布団変えるの早かったか……? 寒い……」
寝ぼけてぶつぶつ言いながら、何とか布団から出た彼女は、起きた時の癖で部屋のカーテンを開けた。そして、目の前に現れた景色に我が目を疑った。窓の外は雪国だった。梅雨に入ろうかという時に、雪など降るはずがない。
「……もともと眠れてないが、私は寝ぼけてるのか……? それとも、これは夢か……?」
「残念ながらお前は寝ぼけてないし、これは夢でもない」
呆然と呟いた未希に答えたのは、兄の貴仁。彼は妹の部屋の引き戸を開け、その柱の部分に背中を預けている。
「……朝開ける時はノックしろ、って言ったよね、兄さん……?」
「……今回は緊急事態だ……。ノック無しで開けたのは、その……、悪かった」
一瞬不穏な空気が兄妹の間に流れたが、兄の緊急事態発言に、未希はその空気を払った。
「……まぁいい。で、何が緊急事態?」
「この雪、この町だけみたいだ。何らかの物の怪の仕業かもしれない」
「……それ、何で分かったの?」
「天気予報」「……?」
天気予報で分かるなんて、ある意味凄い。だが、未希はそれを信用していないようで、兄の顔を疑問の色を湛えて見る。そういえば、微かに鈴の音が聞こえる。
「……鈴……」
「……まあそういうことだ」
鈴、だけで貴仁には分かったようだ。未希にそれ以上言わせず、彼女に聞き返す。
「今からになるが、やれるか?」
「……やれるも何も、兄さんじゃこれ、解決できないでしょ? 眠れてないから、気分悪いけど……」
「……そうか、すまない」
「いいよ……。頑張る……」
彼女が睡眠をまともに取れていないのは本当で、目の下にうっすらと隈ができ始めている。原因は、未だ意識の戻らぬ真奈のことだ。
だがそれはどうでもいいかように、未希は貴仁に聞いた。
「……雪の積もり加減は……?」
「足首までが完全に埋まる程度だ。……大丈夫か……?」
「了解。……頼んでおいて、心配するのは無しだろ……?」
「うっ……!」
妹に指摘され、兄は返す言葉に詰まった。そんな兄を見つめながら、未希は詰めていた息を静かに吐き出した。
着替えて朝食を済ませると、未希は学校カバンに札、それに置いてあった小さな鈴を取って、普段より一時間早く家を出た。石段の雪を踏む足は早い。階段を降りると、滑らないよう気を付けながら、暗い道を鈴の音を聞きながら走る。
音を気にしながら走っていたせいか、学校に近い曲がり角から出てきた人影に、未希は危うくぶつかるところだった。まあ、ぶつかる代わりに転んだのだが。
「えっ、ちょっ、大丈夫ですか?!」
「っ……。あぁ、はい。大丈夫で……って結美?」
「あ、未希。おはよう」
「うん、おはよ……。じゃなくて。なんでここに?」
「多分、じゃなくても未希と同じ理由」
結美は未希にそう返すと、ニコッと笑った。その笑顔を見て、未希は帰るよう諭す気力を失った。
未希は、陸上部のジャージに付いた雪を払いながら立ち上がり、結美に聞いた。
「……どこまで調べた?」
「家からここまで。でも、それらしいものはいなかったよ」
「そう……」
結美から聞いて、未希がため息をついたその時、彼女が手に持っていた鈴が独りで鳴り始めた。最初は小さかったが、徐々に大きくなっていく。
「鈴が……。近くにいるのか……?」
「未希、その鈴なに?」
「これは、佐伯家退魔の七つ道具の一つ、妖縁の鈴」
「妖艶? そんなに艶やかには見えないよ……?」
「……物の怪なんかが近くにに来ると、反応する鈴。音の大きさで、相手との距離を測るんだ」
話している間にも、音はどんどん大きくなっている。そして、気のせいかもしれないが、周囲が寒くなっている。
「……足が寒い……」
「制服だからね。……さて……、いるんだろ? 来いよ……」
その声に、結美の通ってきた道の曲がり角から小柄な人影が現れた。人のような姿ではあるが、足は雪の表面から浮いている。しかも、血の通っていない顔色だ。絵の具の薄い水色を想像したら、近いかもしれない。薄そうな着物は女物。物の怪に性別はあまり関係ないが、一応、女性なのかもしれない。
「……それ以上近づかないで……。寒い……」
『好都合よ。凍え死ねばいいわ』
「雪女か……。今頃出てくるとは……」
雪女、日本古来の妖怪の一つ。冷気を操り、雪は吹雪を起こすことが出来た女性を、こう呼ぶようになったらしい。
「……何故出て来た……」
『暑くてしょうがないからよ! “私達”の居場所が無くなるじゃない!!』
語気鋭く言い放った雪女は、口から吹雪を吐き出した。凄まじい冷気が二人を襲う。ジャージの未希はそうでもないが、制服の結美は堪ったものじゃない。
「うわっ、ちょっと!」
「……召喚……!」
吹雪がさらに酷くなり、雪が二人の視界を奪う。が、それを高熱が払った。未希が召喚したヒノカグツチが、恐ろしい高温を放っているのだ。身体が燃えているため、そこにいるだけでかなり暑い。
『きゃぁあぁぁ!! 暑いぃぃいぃ!! 溶けるぅぅうぅ!!』
雪女が悲鳴を上げるが、生憎未希は全く聞いていない。
「……そろそろいいか。カグツチ、戻れ」
無口なヒノカグツチは、何も言わず札の中に戻った。彼女達が立っている場所の雪は、完全に溶けて水になっている。
「……気絶してる……。どうする?」
「……いいよ結美、封じれば? 結構使えると思う」
「いいの? ありがとう」
カバンから札と筆ペンを取り出し、雪女を封じる。これで、すべての雪は消えるはずだった。しかし、積った雪が半分に減っただけで、全て消えない。
「……どういうことだ? 何故全部消えない……!」
「……! 未希、もしかしたらもう一体いるんじゃない? さっきだって“私達”って言ってたし」
「……っ厄介な……!」
未希が言った直後、持っていた鈴が微かに鳴り始めた。それは何かに引き寄せられるように、学校の方へ本体を傾けている。
「……初めて見た……。鈴が引き寄せられるの……」
呆然と呟いた未希に、結美は若干驚きながらも、未希を促し走り出した。
学校の周囲は、一メートル先も見えないほどの吹雪。何かがいるのは確かだ。
「……寒い……」
「何処だ……。この周りを探してたら、朝練の時間までに片付かなくなる……」
寒がる結美を半ば無視して、未希は呟き周りを見渡す。酷い吹雪のせいで視界は悪く、吹き荒れる風のせいで鈴が示す方向が分からない。鈴の音は聞こえるが、それで方向が分かるはずが無い。無意味な時間の経過が、二人を更に焦らせる。
不意に、風に混じって悲鳴が聞こえた。その声に顔を見合わせた未希と結美は、聞こえた方向――裏門に向かって走り出した。
裏門の付近は、吹雪が大分収まっている。そのおかげで、門の所に誰か居るのが良く見えた。近付けば、はっきりとその姿を見ることが出来た。座り込んでいる茶髪の女子生徒と、立ったままの雪女。雪女は、結美が封じたモノよりも遥かに大きい。女子生徒は腰を抜かしているようで、雪が付くのも気にせず、地面を這って雪女から距離をとろうとしている。未希と結美はその女子生徒を見て、真逆の反応をした。結美の足は走ろうとするが、未希の足は根が張ったようにピクリとも動かない。
「大変! 助けないと……!」
「……嫌だ……」
「未希?」
当然肯定の言葉が出てくると思った結美は、未希の口から出た言葉に驚きを隠せずにいる。そんな結美に関わらず、未希は更に言葉を吐き出す。
「何故行かなければならない……。助ける必要なんて無い……」
「なんで急に……! どうしたのよ、未希!」
真紅の瞳を更に紅くし、未希は知らず知らずのうちに思いっきり叫んでいた。
「“あいつら”を助ける必要なんて無い……!」
結美は、何故未希が怒鳴ったのか分からなかった。が、すぐに理由が分かった。茶髪の女子生徒は、不良グループの一人なのだ。その他のメンバーは、雪女の足元に倒れている。動かないところを見ると、恐らく凍死しているのだろう。
「なにそれ……。目の前で助けを求めてるんだよ?!」
「関係ない……。自分が犯した罪に対する償いだろ……!」
二人の怒鳴り声が雪女に届いたようだ。雪女が二人の方を向いた。
『あら? 貴方達も死にたいのかしら?』
「ぁ……あ……。先輩……、助けて……!!」
「このっ……。誰が助けるか……!」「くっ!」
後輩の助けを求める声に、未希は押し殺した声で目を剥き、結美は雪女に向かって駆けていく。未希は止めもしなければ、追いかけもしない。勝手にしろ、と言わんばかりだ。
しかし、彼女のその状態は、数分と持たなかった。結美が苦戦しているのが、遠目からでもしっかり分かったからだ。
「……くそっ……!」
何かに向かって毒づくと、彼女も雪女に向かって走り出した。走りながら札を取り出し、叫ぶ。
「召喚、ヒノカグツチ!」
再度呼び出されたヒノカグツチの凄まじい熱気に気付き、雪女が更に冷気の強さを増した。熱気と冷気、その双方がヒノカグツチと雪女の丁度中間でぶつかり合う。
『暑いわね……。でも私の方が強い……!』
「私の状態は気にするな……。全力で焼き尽くせ……」
未希の命令にヒノカグツチが答えるように、熱気の強さが増した。それは次第に雪女の冷気を圧倒していく。
『くぅ……。まさか、私が……!』
冷気が完全に負け、雪女が熱に包まれる。雪女が溶けきる前にヒノカグツチを戻し、倒れている雪女を札に封じた。その後、後輩が礼を言うより先に、未希は冷たく後輩に言い放った。
「勘違いするな。私は、お前を助けたわけじゃない。結美を死なせたくなかっただけだ……」「未希! そんな言い方する必要は無いはずだよ?!」
更に言おうとした言葉を、結美が遮った。傍で聞いていて、その言い方はしてはいけない、と思ったのだ。遮った結美を未希は、感情の無い、紅い瞳で一瞥し黙らせた。
「お前なんて、ほかの奴らと一緒に死ねば良かったのに……」
呆然とする二人を尻目に、言いたいことだけ言った未希はかばんを持ち直した。
雪はすべて溶けている。グランドは濡れているかも知れないが、朝練はあるだろうと正門に向かって走っていった。
分かれた二人を、遠くから見る影が一つ。空中に浮かんだ人影は、龍の姿に変化して暗雲垂れ込む空に消えた。