参拾壱夜 渇
誰かが呼ぶ声がする――。水の中で助けを呼ぶ声が聞こえる。水の中に誘う声がする。夢だと分かっていても、水の中に引き摺り込まれそうになる。声を振り払って、飛び起きた。あれは夢幻か現実か――。
ここ数日で、残暑は冬に向かう冷気にとって代わられ、木枯らしが色づき始めた木の葉を揺らす。なかなか暖房が出ない学校に苛立ちながら、未希は翔也と共に寒い廊下を歩いていた。
「佐伯さん、なんだか眠そうだね」
「……いつも眠いが……?」
「いつにも増して、かな? 夢見が悪いとか?」
「夢見……、いやそうでもないが……」
寒いせいかな、と聞かれたので、そういうものかな、と返事をする。その後にぴしゃりと、古典の授業は寝ないでね、と釘を刺される。返答に困った未希は、ただ黙って頷いて授業のある部屋に急いだ。
移動した先の教室は、今日一度も使われていないらしくひどく寒い。教師共々震えながら、古典の授業は始まった。一寸法師が川を渡る所から始まる教科書を見つめる未希は、不意に誰かに呼ばれた気がした。それは教師の声ではない。
(あの夢と……、同じ声……?!)
教師に気付かれないよう周囲を見渡す彼女の視界が、突然波打ち泡立った。冷たい感触が肌を刺し、白い衣が視界の端にたゆたう。制服ではない、そう気付いた未希は重い首を下に向けた。着ていたのは白い着流しだ。
『我……ヨ……』
(くっ……誰だ!!)
口を開けば何故か水が入ってくる。その中で、何者かが彼女に何か言っている。だが、水の中で声がくぐもって届き、何を言っているのか分からない。そろそろ息がもたない、そう思った時に、誰かの手が肩に触れた。
「……佐伯さん、問題はここ。当てられるよ」
「……っは……、ぁ……。如月……助かった……」
後ろの席に座る翔也に言われて我に帰る。水も着流しも、全ては白昼夢だったようだ。幻覚かな、と机に目を落とせば、そこに乗っている教科書とプリントが水浸しになっていた。
授業が終わり、次は体育と教室に戻る足を早めつつ、未希は翔也に古典でのことを咎められていた。
「古典の授業は寝ないでって言ってたよね?」
「寝てるように見えたか?」
ずぶ濡れになった教科書とプリントを持ち翔也に問えば、彼は言葉を無くす。何も言えない彼を見たまま、未希は事の一部始終を省きつつ説明する。それらを聞いて、翔也はなんとか納得してくれた。
「白昼夢とは違う気がするよ。溺れた記憶は無いの?」
「無い……な。それに、溺れた事があるとしても、本や紙は夢では濡れない」
「う~ん……。それじゃあ僕には分からないな。何か心当たりは?」
「無いことは……無い……。だが、あれは……」
夢か現かはっきりしない。予知夢ならば、何かを示しているのだろうが、生憎未希には良く分からない。ただ、次の授業が体育であり、急いで着替えなくてはならい事は分かっている。それが大切な教科書とプリントを濡らされた怒りと交ざり、どうしようもない苛立ちが増す。それを濡れた持ち物に当たるように机に叩きつけたせいで、机の上を水浸しにしてしまった。
昼休み。いつも通り弁当を持って結美のクラスへ向かう。そして珍しく、未希から愚痴り始めた。
「最悪だ……。まさか古典の教科書を濡らされるとは思わなかった……」
「何かあったの?」
「あぁ。実は、妙な白昼夢を見て……」
古典の授業で起こったことを軽く話せば、結美が妙な顔をして携帯を取り出した。そして、メールの画面を未希に見せる。
「実は四時間目に所長からメールが来てさ、依頼なんだけど……」
「体育だったから気付かなかったが、最近依頼が多いな」
自身でも携帯を開き、メールを確認する。依頼は農業用水が枯渇した原因を探り、解決してほしいとのこと。 場所は上弦第二小学校の裏山だという。白昼夢は水に関わり、依頼も水に関わること。偶然とは思えない一致に、彼女はこの依頼を早急に解決する決意を固める。幸いにして、部活は顧問不在の為に休みになっている。
「結美、帰りに用事があるか? 無いならこの依頼、今日中に終わらせたいと思うんだが」
「別に何もないから大丈夫だよ。所長のとこ寄る?」
「いや、寄らない。内容も詳しく書かれているし、札も自衛用があるから問題ない」
「そう言えば、私も大丈夫だ……。じゃ、直接だね」
弁当を食べ終え、放課後の約束を交わして教室に戻る。午後からの授業も、彼女は妙な気を張って授業を受けていた。
上弦第二小学校の裏山は便宜上山と呼ばれているが、実際は雑木林の類いである。その中に農業用水の貯水池はある。木が鬱蒼と生い茂るそこは、昼間でも暗い。そこに、二人は足を踏み入れた。雑木林の中は、秋とは思えない程の湿気に満ちている。
「なんか、空気が重い」
「……水気で満ちてる……。鬱陶しいな……」
「水気?」
「分かりやすく言えば、湿気だ。ただ、湿気よりも瘴気を含む分重いな」
水を司る妖怪は、自身の周囲に結界もどきとして水気を纏う事がある。それを感知した未希の目の奥には、あの白昼夢と同じ世界が広がっている。違う部分と言えば、息ができる事と傍に結美がいる事だろう。濁った水の中を歩くように、しかし実際は普通に腐葉土と枯れ葉を踏みしめて、林の更に奥にある貯水池へと進む。
「えっ、貯水池ってあれだよね?」
「囲ったという話は聞いたが、……何だ、あれは」
二人が進んだ先に見たのは、コンクリートで固められた筒状の何か。池というのだから、池のような形をしていると思ったが、目の前にあるのはどう考えても池ではない。そう言えば、よく子供がこの池で溺れたという話を聞いた事がある。そしてそれを防ぐ為、池の周囲に入れないようにしたという話を聞いた記憶が未希にはあった。
「ここ以外に、池は無かったよね……?」
「あぁ……。無かった……。ならこれが……?」
「貯水池……だよね……?」
にわかには信じられないが、ここが問題の池なのだろう。半信半疑の二人だが、取り敢えず貯水槽の周りに漂う気配に気を引き締める。そろそろと周囲を探る二人は、気配の正体を早々に発見した。とぐろを巻く蛇に似た何かが、唯一の出入り口であろう場所に踞っていた。
「えっと……、蛇……?」
『何者ダ、貴様ラ』
「この声……。助けを求めていたのはこいつか……」
「未希?」
「こいつは蛟。龍の幼生だ」
「幼生?」
「子供だ」
蛟は水の守り神であり、龍の子供であるともされる。その体躯は蛇に似ているが、角があり、全身逆鱗で覆われている。池や沼など、比較的人の生活に近い場所で生活し、蛟がいなくなると水が枯れるとさえも言われている。
『誰デモ良イ。我ヲアノ池ニ帰シテクレルナラバナ』
「えっと……、あの池が棲み家なの?」
『ソウダ。暖カイウチハ開クコトモ多カッタガ、今ハ一切開カヌ』
コンクリートの囲いを恨めしそうに見上げ、蛟は低い声で呟く。結美が会話に困る中、未希はどうやって蛟を池に戻すか悩んでいた。掴んで放り投げるにしても、逆鱗に触れる事は龍を激怒させることに繋がる。かといって、モノを宙に浮かせる術など体得していない。
「どうしよう……」
「方法が無い訳ではないが……、逆鱗に触れたくない」
『我トテ逆鱗ニ触レラレタクハナイ』
「……ねぇ、蛟って全身逆鱗に覆われてるんだよね? なら、逆鱗じゃない所が逆鱗に当たるんじゃない?」
結美の何気ない疑問に、一人と一匹がぽかんと口を開けた。彼らの言い分はこうだ。
「その発想は無かった……!!」
『素晴ラシイ考エダ! 我ニモ思イ付カナカッタ!』
天を仰いで叫ぶ蛟と顔を覆って呻く未希。提案した形となった結美は、何が起こったのか正直分かっていない。首をかしげて彼女らを見ている。
「えっと……未希?」
「結美がいてくれて良かった!」
友人に礼を言うが早いか、未希は蛟の頭を掴んで持ち上げた。そして、コンクリートの壁めがけて力一杯投てきする。投げられた蛟は一直線にコンクリートの壁に向かい、ひどい音を立てて壁にぶつかった。
「そぉい!!」
「未希何やってんの?!」
「え? お約束じゃないのか?」
『誰ガ壁ニ向カッテ投ゲヨト言ッタ!!』
「教科書とプリントを濡らされた仕返し」
「おもいっきり私怨じゃん!!」
『ソンナコト我ハ知ラヌ!』
ひときり叫びあった後、未希はようやく鞄から札をいくつか取り出した。そして、鞄を湿る腐葉土の上に投げると蛟を掴み、コンクリートの壁から大きく距離を取る。
「今度こそ行くぞ……」
『同ジコトハ許サヌゾ』
「大丈夫だ。必ず戻す」
「数は足りる?」
「あぁ」
湿る腐葉土の具合を確め、助走体勢を取る。そして、走りながら蛟を軽く前に投げ、札で足場を作りながらコンクリートの壁を駆け上がる。その過程で蛟を受け止めるのを忘れない。壁を越えられる高さまで達すると、彼女は今度こそ蛟を壁の向こう側に向かって投げ入れた。蛇体から手が離れる瞬間、触り心地が違う部分に触れてしまった。その瞬間、未希の身体は水に包まれた。
(我ノ逆鱗ニ触レタコト、後悔セヨ……)
水の中に響く低い声。それは白昼夢と同じ光景。急な事で対応し切れなかった未希は、水の中でもがいた。水を飲んだ事で呼吸が出来なくなったのだ。口から白い泡を見ながら、地面までの距離を測る。息が持たないだろうな、とぼんやりする意識の中で考える。誰かの叫び声が聞こえたが、答える余裕など無い。その水に沈む背中が何かに触れた。途端、彼女を包む膜が剥がれ、濡れた身体も乾いていた。
『世話が焼ける』
「……騰蛇……?」
『主に対し世話が焼けるとは、随分な言い草だな……! 主を下に下ろせ……!!』
『俺が受け止める筈だったのに、騰蛇の方が早かった!!』
『お前では未希共々灰にするかも知れないのだから、私が受け止めるべきだったのでは?』
「みっ……、未希ぃぃ、この人達誰ぇぇ?」
騰蛇に抱き止められた未希は、地面に下ろされてすぐに騰蛇、勾陣、白虎、朱雀から距離を取り、半泣きの結美の傍に駆け付けた。半泣きの理由は、未希が突然水の膜に包まれた事も含まれるらしい。
「とにかく、ここを離れてから説明する。あれらの霊気がここにまだ留まる以上、蛟は何も出来ない」
言い争う四人の十二天将を放っておき、二人は足早に裏山を後にした。その後、結美に事情を説明すれば、半泣きの目を更に潤ませ、未希の無事を喜んでいた。
言い争う四人の十二天将を放っておき、結美と別れて神社への石段を登る未希は、奇妙な生き物が階段で干からびているのを見つけた。カエルとも言い難いそれを爪先でつつくと、軽く身動ぎしたのが分かった。しかしこのままでは何も出来ないと、それを持って神社の裏側に向かう。そして、山から流れてくる湧水を溜める池に放り込んだ。
『ぷはー、生き返りました! 蛟様のみならず、私まで助けて下さり、ありがとうございます!!』
「蛟の使いか。何者だ?」
『私は河童でございます。蛟様に代わりお礼を申し上げに参りました! ささやかですが、贈り物を置いております故、これにて失礼いたします!!
「あ、おい! ……帰られた……」
水を通じて姿を消した河童に舌打ちしつつ、彼女は神社から家に戻って行く。玄関先に置いてある山盛りのきゅうりに奇声を上げるまで、あと少し。
その後、近くのスーパーからきゅうりが大量に消えていた事が分かった。