弐拾九夜 恋煩い
恋だとか好きだとか、少なくとも彼女には関係ない話だと思っていた。今日この時、仲間に指摘されるまでは。
二学期が始まってすぐの大会が、先輩達の引退試合になる。その大会が終わった翌日の練習で、未希は先輩達の送別会について紗希から相談を受けていた。
「だからね、先輩達とスイパラ行きたいなって思うわけ! どうよ、このアイデア?」
「いいんじゃないのか? だが、予約はどうする? 人数だって分からないし」
部活終了後のストレッチの相手をしながら紗希に問うと、彼女は分かってないな、と言わんばかりに笑った。そして、交代するときに、未希の耳元で囁いた。
「先輩達以外は全員参加了承済み。予約は今日の部活終了後に取ってるの」
楽しそうに言う紗希に、未希は除け者にされたことを嘆けばいいのか、部員の団結力を褒めればいいのか分からなくなる。しかし、未希は絶対に断らない、という一種の信頼の現われだということで納得する。二人の話が終わった頃に丁度ストレッチが終わり、部員たちはそれぞれ片付けを開始する。早々に片付けは終わったが、グラウンドには誰が使ったか分からないハードルが八つ程残されていた。それらを見て見ぬ振りが出来なかった未希は、全部まとめて抱えて倉庫へ歩いていく。が、ハードルの重さに足が前に進まない。
「今更……置いて行けるか……! くそ、重い。使ったわけじゃないのに……!」
一気に全部を持っていこうとするのが悪いのだが、面倒臭がった未希は今更それらを置いて往復したくはないと、無理にでも引きずって歩く。その右腕から、急に重みが無くなった。突然のことで驚く未希の耳に、柔らかなテノールの声が届く。
「いくらなんでも、一人で一気に運ぶのは無理だよ。佐伯」
「雪斗……先輩?! あの、急にそうされると……驚くのでやめてくれませんか……?」
振り向いた未希は、誰もが見惚れる美しい笑顔を向ける雪斗の顔を見ないように告げた。このような行動は、今に始まったことではない。それでも、未希は慣れることが出来なかった。もっとも、彼女の場合は職業柄背後を取られることに抵抗があるだけなのだが。
「ああ、それは悪かったな。ま、これ片付けるからチャラにしてくれ」
爽やかな笑顔で言った雪斗は、未希の左手に持っていたハードルまで軽々と持ち去って行ってしまった。呆然とその背を見送った未希は、紗希の呼ぶ声で我に返り、部室に向かったのだった。そしてその計画は、未希が部室に戻った後に実行された。
「先輩方、今までお疲れ様でした!!」
「ん? 紗希どうした? 急に改まって」
「いえ、まぁ、今までお世話になった先輩がいなくなるのが寂しくて、つい」
「ふぅん? まぁ、私はちょくちょく来るけどね」
「え、本当ですか!! やった、まだ章子先輩に教えてもらえる!」
ガッツポーズした後輩の一人の頭を軽く叩き、章子は紗希を薄い笑みと共に見つめる。その目は、紗希の言葉の真意を探っているようにも見えた。しかし、部室内に殺伐とした空気が流れないのは、先輩達以外は紗希が言いたいことを知っているからだったりする。
「それで、紗希は何を企んでるの? いい加減教えてくれても良いんじゃない?」
「企んでるなんてそんなぁ。ただ、先輩達とスイパラ行きたいなぁって」
「端的に言うと、送別会をしたい、というだけです」
「バラすな、ばかぁ!!!」
「ふむ……。紗希もなかなか考えるな」
「スイパラって、出来たばっかりだよね? 大丈夫なの?」
「予約はばっちりです!」
それらを聞いた先輩達は全員、その送別会に参加してくれた。そして、示し合わせたように私服に着替え、全員でスイパラへと向かった。
「それじゃ、先輩達の引退とこれからの活躍を願って、乾杯!」
予約はソフトドリンク飲み放題と食べ放題で二時間。人がいない時間を見計らった紗希の手腕は、本当に見事なものだ。それぞれ部活後ということで、スイーツの他に軽食を取って戻ってくる。そこからは女同士のおしゃべりに花が咲く。そ知らぬ顔をしてスイーツを食べる未希にも、その話題は飛んできた。
「未希って色恋沙汰に興味なさそうよね?」
「でもさ、こういう子に限って好きな人いるんだよね」
「……ん……? せ……、先輩……?」
「さぁ白状なさい、未希。男子陸部の中で、誰が好きなのよ!」
誰が好きとか、男子陸上部限定なのかとか、いろいろ突っ込みたいことは多いが、突然フォークと共に突き出された言葉に未希は返答が遅れた。ついでに、柔らかなスポンジが喉につっかえ、咳き込む羽目になる。
「私は……、特に……、好きな人はいませんよ……?」
咳き込みながら返せば、先輩は目を細めて笑った。その顔はどこか心当たりがあり、確信があるという顔だ。未希の背中に嫌な汗が落ちる。それは、絶対に勝てない相手を目の前にしたときのような感覚と似ている。
「私見たわよ、未希。今日雪斗と一緒にグラウンドで話してたわよね?」
「あ……、あれは……!」
「なぁぁにぃぃ!! 羨ましいぞ、未希! なんの話をしていた!!」
「か……片付けてただけだ……!」
「雪斗が後ろから声を掛けていたな。あいつがあんな事をすることは無いに等しいのに」
「あ、章子先輩と雪斗先輩は幼馴染だから、行動パターンは把握してるんですね!」
「……勘弁してくれ……」
未希の色恋沙汰に花が咲く中、当の本人は皿をそっと持って席を離れた。向かう先はスイーツコーナー。色とりどりのケーキやアイスが並ぶそこに、再度足踏み込んだ未希は僅かな違和感に周囲を見渡した。そして、いつの間にか人の気配が消えていることに気が付く。しかし、スイーツや軽食の置かれた皿は消えていない。
「はぁ……。今度は誰だ?」
『さすがじゃ、未希。わらわ達に気付くか』
『ふふ、やっぱり勾陣が認めただけはあるね』
いつの間にか、彼女の左右には十二単を着た髪の長い女児と水干を着た少女が佇んでいた。だが、気配はそれだけではない。肩越しにちらと後ろを見ると、赤い袈裟を纏った赤髪の男と、白拍子の装束によく似た服を着る少女がいた。
「六合に大陰、それに大裳と朱雀か。普段見ない組み合わせだな」
未希の独り言に似た言葉に、十二単の女児――大陰はふんと、可愛らしい鼻を鳴らして未希を見やった。彼女は本来知恵に長け、善悪の判断を任されることが多いのだが、何分子どもっぽさが抜けない行動や発言が多いのだ。
『私は大裳や六合と一緒にいるのよ』
『うむ、わらわ達はよく行動を共にしておる』
大陰の言葉を引き継ぐように水干を着た少女――六合は、笑って大陰の頭を撫でている。その光景は、年下の妹を甘やかす真ん中の姉である。その真ん中の妹を諌める役を担う筈の姉もとい大裳は、まったく別の物に興味を示している。
『この素敵な色合いの物はなんですか?! 甘い匂いもしますね!!』
『大裳、はしゃぐのは構わないが、少し落ち着け』
落ち着きの無い子供をたしなめる親もとい朱雀が、軽く大裳の頭を叩く。未希は一連の流れを見ているだけで、大分疲れてしまった。本当に、あの天后や勾陣と同じ天将なのかと疑いたくなる。
「大裳、これはケーキという異国の菓子だ。和菓子と違ってかなり甘い」
『けえき……! 食べてみても?!』
「これで良ければ……」
目をキラキラさせる大裳に、未希は皿に取った木苺のケーキを渡す。このくらいならいいだろうと、踏んだが、ちょっと目を離した隙に自分の皿に乗せた全てのスイーツを取られていた。大裳だけでなく、六合と大陰も気に入ってしまったらしい。申し訳なさそうに謝る朱雀も、好奇心からかチラチラとスイーツの乗った大皿を見ている。
「……お前ら……。少し待っていろ……」
彼等の行動に呆れ返りながらも、持ち帰り用の箱――しかも大きめ――を四人分拝借し、仕切りも使って彼等が欲しい分だけスイーツを詰めるという暴挙に出る。本来ならば箱代と持ち帰り用の代金を払わなければならないが、裏側で人がいないことを良いことに、黙って持って行かせることにしたのだ。
『おぉ! こんなに入れても良いのか!』
「駄目に決まってるだろ……。物珍しげに見るから、興味深げに見るからだ……」
ため息混じりにそう告げ、未希も欲しい分だけ皿に取る。時間はそんなに経っていないが、そろそろ戻らないと怪しまれる。
「箱を振るなよ? 中身が大変なことになるぞ」
『軟らかい物ですからね、大丈夫ですよ!』
『……なんだか……、すまない』
「……そう思うなら、トラブルメーカーを連れて来るな、朱雀……」
異常な疲れを覚えて、未希はテーブルに戻る間に表側に返る。そんな彼女を待っていたのは、トラブルメーカー達よりも疲れる質問責めだった。
「未希、雪斗とどういう関係なわけ?」
「は?」
「ばっくれても無駄、先輩命令よ!」
「関係……?!」
「未希、今ならマカロン一個奢りで許してやるから白状しろ!!」
「マカロン一個奢らされるのか?!」
「早めに白状した方が楽になるぞ、未希」
「白状も何も……。部活の先輩以外の関係なんて無いです!」
矢継ぎ早の質問に否定的な返事を返すも、彼女達は全く納得してくれない。逆に、気付け馬鹿、や、鈍感にも程がある、と言い返して来るばかり。一体何が鈍感なのか把握出来ない未希は、ただこの時間が早く終わることを祈るだけだった。
「食べ放題の二時間って……、あんなに長いのか……?」
漸く解放された未希は、部活用鞄とお持ち帰りの箱を持って帰路を急いでいた。代金がいる筈のお持ち帰りは、オープニングキャンペーンという名目の下無料で持たされた。
「……次の部活から、どんな顔をすれば良いんだ……」
「何が?」
「……! 誰だ!!」
独り言に返答があり、未希は咄嗟に殺気立った。振り向くと同時に部活用鞄の隙間に手を入れて札を掴んだ後、相手が人間であることに気付く。ニコニコしながら彼女を見ているのは、正直今会いたくなかった雪斗だ。
「そんなに驚く必要無かったんじゃないかな?」
「……っ、私は、後ろから声を掛けられるのが嫌なので……。すみません」
「あぁ、そういうことか。ごめん、俺が気にしなきゃいけなかったな」
微苦笑を浮かべて謝る雪斗の顔を、未希はやっぱり見れないままに俯いた。どんな顔をしても魅了できる彼の目に、自身の顔を写したくないだけなのかもしれない。俯いたままぼそぼそと、謝らなくていい、と言いはしたが、果たして彼に伝わっただろうか。
「ふふっ、人の目を見て謝りなよ。謝るなら」
「……謝って無いです。気にしなくて大丈夫って言っただけです」
俯くばかりの未希に、雪斗は苛立つこともなくその頭に手を置いた。そして、そのまま乱暴に彼女の短い髪をかき乱す。次々と未知の体験をする彼女は、その手が離れると弾かれたように顔を上げた。そして夕陽を背に立つ先輩の顔をまじまじと見上げる。自身の目に端麗な男の顔が映り、思わず赤くなってしまう。
「いやぁ、妹みたいに見えてつい、ね?」
「……い……いも……妹……?!」
「ふふっ可愛い。じゃ、また次の部活で」
爽やかな笑顔を共に、ランニングの最中だった雪斗は、未希が通ってきた道を走って行く。一人残された彼女は、未だ混乱から立ち直れずにいた。その右手から、スイーツの入った箱が落ちる。それは地面に激突する前に、小さな狐の背に乗った。
「……なんだったんだ……あれ……」
茫然と呟きながら、未希は無意識に乱された頭に手を置く。そして鞄に突っ込んだままの左手から、札を引き出すと同時に、後ろに向かって振り返りながら投げつけた。札は一直線に飛んで行き、吐かれた煙の中にかき消える。舌打ちした未希に、キセルをくわえた半裸の男――天空は、ニヤニヤ笑いながらキセルをふかしている。
「……なんの用だ、天空……!!」
『いや、特に用事なんて無いぜ? しかし面白いモンが見れたな』
「くっ……、いつから……!!」
『さぁな?』
相変わらずニヤニヤしている天空に苛立ち、もう一枚程札を投げようか、と考え始める。その行動が照れ隠しであることに、未希は全く気付かない。分かっている天空は、何も言わずキセルをふかし続けている。
『想い想われるのを、悪いとは思わないぜ?』
「……想い想われる……」
天空の言葉を反駁した未希は、狐の背に乗った箱を拾い上げる。一応中身を確認したが、大惨事になるような物は入っていなかった。幾分かほっとした彼女は、それを元通りに閉ざしていきなり天空の方に投げつける。予想しなかったであろうその動きに若干驚きつつ、彼は投げられた箱を受け止める。
「やる、持って帰れ」
『口止め料ってか?』
「黙れ!!」
思わず鳴った未希に対し、天空はからから笑いながら吐き出したキセルの煙と共に姿を消す。その気配が完全になくなるまで立ち尽くした未希は、左肩の鞄の紐に狐が乗るのを待って歩き出す。空いた右手は無意識のうちに頭を触っていた。
「こんな……感情……知らない……」
またもや無意識に呟いた未希の頬は、夕陽だけではない赤みがしている。そして、明日どんな顔をして部活に出れば良いか、彼女は本気で考える羽目になった。
次の日の部活から、未希がこの手の話でからかわれるようになり、更に話がファンクラブに伝わって、生暖かい目で見られるようになってしまった。