弐拾七夜 存在
大変長らくお待たせしました……。いやぁ、リアルが忙しすぎて書くことができなかったんです…、すみません。そして、この話と次の話は時間軸上同時進行です。あ、軽いですが流血表現とグロ注意です。お気をつけてお読み下さい
真夏の部活はやる気がでない。特に、大会が終わった後というのはその傾向にある。今日の未希は、特にその傾向が強かった。いつもよりペースが遅いランニングから始まり、百メートルのタイムが平均よりも二秒近く遅い。部活の仲間が体調不良を心配するほどに、彼女の調子は悪かった。
「未希どうしたの? 今日やけに調子悪いじゃん」
「紗季。どうもやる気が……」
「めっずらし! 未希にもそういう時期があるのね」
話をしながら部室で着替え、未希はいつもより早く帰路についた。今日はどうも調子が悪い。たちの悪い夏バテだろうと考えて、やけに重い身体を引きずる。鬱陶しい位の蝉時雨の中石段を登り、やっとの思いで家に着く。玄関を開けたそこに、見覚えのないサンダルが綺麗に揃えて置いてある。来客か、と思いながら靴を脱ぐ。
「リビングで話してるのか……? 部屋に入るのに時間がかかりそうだな……」
未希の部屋は、リビングを通った向こう側にある。来客がいると通るに通れない。しかし、来客を無視するのが未希だ。躊躇う素振りも見せずリビングに至る引き戸に手をかける。リビングからは話し声が聞こえ、隙間からは冷気と話し声が漏れ出ている。
「……あいつは、化け物だから……」
僅かに聞こえた兄の声に、未希の頭が真っ白になる。今、彼は誰に向かって化け物と言った? 把握した、いや把握してしまった瞬間、未希は思ったより強い力でリビングに繋がる扉を開いていた。その音は中で起こった音と合わせて、ひどく大きなものになる。
「あぁお帰り、未希。案外早かったな」
白々しく言う兄の顔を見ず、彼女は目線を下に向けたままリビングを通り抜けていく。か細い声が聞こえた気がしたが、全く取り合わずにすり抜けた。気が抜けたように自室に入った未希は、その部屋の籠った熱気に眉を寄せながら、タンスから私服を取りだし着替え始める。いつもなら汗を流してから、と思うのにそんな気にならず、汗を適当に拭いてから取り出したTシャツを着ていく。完全に着替えて軽く息を吐くと、心配そうな顔をした勾陣が声をかけてきた。
「我が主、そんなに深く思わずとも……」
「……うるさい……」
気遣われることも鬱陶しい。彼の方を向いた未希が吐いた言葉は、彼を縛る鎖となって依代へと封じてしまう。その時巻き起こった突風は、殺風景な部屋に置かれた物を散らかしていく。冷たい目のまま、勉強机の横にあるクローゼットを開けた彼女は、机の上に置かれた石のブレスレットに目を止めた。
「……お守り、か……」
呟いただけで手を伸ばさず、靴だけを持って部屋の窓から外に出た。
行く宛も無いままに、彼女は真夏の日差しの中をさ迷っていた。容赦なく降り注ぐ日の光の中、未希はうつむきながら歩いていく。頭の中では、延々と同じことを繰り返している。うつむき気味に歩いていても、ぶつかる人がいなければ、すれ違う人もいない。さすがに、気温が上がる時間に出歩く物好きはいないらしい。
(……家族として……信頼……していた……? してないわけない……。でなければ、このモヤモヤは? この感情は?)
――そんなの全部偽りだろう――?
突然降って沸いた回答に、未希は思わず足を止めた。違う、と首を振っても、その結論は頭から離れない。その思考を断ち切るように、けたたましいクラクションが響く。顔を上げた彼女の目の前に乗用車が迫る。だが、当たると覚悟した衝撃は来なかった。そのかわりに生暖かい風が吹き抜け、辺りは一気に夕暮れへと様変わりする。そして周囲には、多くの異形がひしめいている。我知らず口角が上がり、手に太刀を握りしめた。
「こいよ、暇潰しにはなるだろ?」
もはや数えることもしない未希は、太刀を振りかざし嬉々として異形の群れに飛び込んで行く。そして数十分後。周りで動くモノは、返り血で白いカーディガンを紅く染めたか彼女だけだった。つまらなそうに死骸から太刀を引き抜き、付いた血を払う未希の目は狂気に爛々と光っている。
「……つまらない。もう少し手応えがあっても良いのに……」
呟く未希にはわからない。その顔は楽しそうに嘲笑っていることを。今の未希は、完全に狂気に染まっていた。
「とはいえ、ここから戻るわけにはいかないな。仕方ない……」
緋に染まった横断歩道から、細い脇道に足を進める。まだ周囲には障気が漂い、夕暮れの風景と重なってかなり暗い。宛がない訳ではなく、彼女は人が通りそうにない四ツ辻を探している。しばらく暗がりの中を歩き、未希はようやく人が通らないような四ツ辻を見つけた。
「……ここなら大丈夫か……?」
視界の悪い中でほっとした未希は、僅かに警戒を解いてしまう。その瞬間、左側から衝撃を受けて吹き飛んでいた。器用に回転して着地した未希は、周囲を見回して唇を噛んだ。群れる事を好まない筈の鬼が数十匹、棍棒を携えているのだ。
「……はっ。道理で、さっきの場所に雑魚しかいなかった訳だ」
小さく呟いた未希は、紅い太刀を握って振り下ろされた棍棒をかわす。そして、勢い余ったそれを弾き上げ、がら空きの胴体に刃を食い込ませる。力任せに太刀を引けば、硬い身体が輪切りにされた。一体が障気を撒き散らしながら倒れた事を合図に、群れる鬼が襲いかかってくる。
「遅い……。がら空きだ……」
殴りかかる棍棒を避け、弾き、あるいは叩き落として、凄絶な演舞を披露する。舞う未希の傍には、黒く凝り固まった障気が漂い、視界を更に悪くする。その中で武器を振るう腕は、確実に重くなっていく。疲労よりも、まとわりつく障気を吸って身体が思うように動かなくなっていることが原因だ。
「……何かが……障気を操っているのか……? 中級の鬼に、そんな芸当ができる訳ない……。慣れているとはいえ……くそっ……!」
苦しい息の中で呟きながら、近くにいた鬼に飛び掛かる。大小様々な傷を負いながら、それでも鈍らない太刀筋が鬼を袈裟懸けに切り裂く。だが、その身は最後まで斬れなかった。鬼の手が、自らの身に刺さる刃を掴んだのだ。その意味に気付いた未希が咄嗟に手を離すのと、腹部に痛みを感じたのはほぼ同時。背中から落下した未希の身体は、大きく跳ねて緋を散らす。腹部を抑えて立ち上がった未希は、青ざめた唇を震わせて障気と消えた鬼の背後を見つめる。
「鬼……武者……。っ……そういうこと……か」
鬼へと変わった落武者を前に、未希は鋭く息を吐いた。腹の傷は既に修復を始め、出血こそあるが内臓が飛び出す程ではない。その傷口にぼろぼろになった上着をきつく巻き付けて手を離し、剣を呼び出して鬼武者へと斬りかかる。しかし、僅かにふらついた足元に気をとられ、棍棒を振りかぶった鬼の接近を許してしまう。棍棒に目が行った時には、それは回避できる位置に無い。辛うじて出来たのは、障壁を張ることと太刀を持つ左手を離すこと。
「ぐっ……あああ!!」
獣のような悲鳴が、細い喉から上がる。障壁を崩された衝撃と太刀を支える右腕が砕けた痛みが、未希の痛覚の限界を超えた。限界を超えた痛みを抱えていても、攻撃の手が緩むことは無い。肉食獣に弄ばれる獲物のように、体力と命を少しずつ削られていく。それを黙って見るような未希ではない。反撃で二体の鬼を葬るも、出血量の多さからそれ以上の反撃が出来ない。殴り飛ばされた彼女の右目は、大太刀の切っ先が掠めたせいか視界は赤く塗り潰されて見えなくなる。
「く……そ……、まだ……」
血だまりに転がる身体を起こそうと、手に握る刃を杖代わりに立ち上がろうと体重をかける。その瞬間、あまりにも軽い音と共に、太刀が根元から折れてしまった。突然のことで対応出来なかった少女の身体は、再度血だまりに伏せた。滑る手に力は入らず、足は震えるだけで立つことも出来ない。
(……もう……良いかな……。疲れた……)
鎧がすれて立つ音が、未だ立とうともがく子供の前で止まる。のろのろと顔を上げて見たのは、舌舐めずりする鬼と持ち上がる大太刀。それを今の彼女が避けられる筈がない。全てを諦めた少女は黙って首を差し出した。家族と思っていた兄に裏切られ、友に拒絶される妄想に取り憑かれた彼女は、正常な判断が下せなくなったのだ。死の間際の甘美な幻想に身を委ね、彼女はゆるゆると目蓋を閉じる。降り下ろされたる太刀が首をはねる様を想像するも、覚悟した衝撃はなかなか来ない。ボンヤリ開いた彼女の目が捉えたのは、札を持ち掲げた左腕とそれに阻まれる大太刀。
「……どう……して……?」
無意識の行動に疑問しか生まれない。戦慄く唇からこぼれ落ちる言葉は、彼女自身の悲痛な叫びだ。
「どうして……! もう良いだろ!! 死なせろよ……!」
膝をつき、腕だけ上げた状態の身体が、彼女の意思と関係なく持ち上がる。そのまま大太刀ごと鬼の身体を弾き飛ばした。操られるような感覚は、鬼と間合いが空いた途端なくなっていた。しかしその力に任せきっていた形の少女は、力なく血だまりに膝をつく羽目になる。俯く顔から手の甲に、赤が混じった滴が落ちる。彼女はその滴の名を知らない。だが、その滴が右目に光を宿し、左目の視界を滲ませることは分かる。
「……死なせないって……言いたいのか……? っ分かってる……。この身の使命を果たすまでは……死ねないのは……!」
絶句に近い悲鳴を上げ、血だまりの中に手を埋める。手の甲が隠れる程度の血だまりの筈なのに、その手は更に沈んで肘まで濡らす。そして、勢い良く引き上げた両の手には、長短一対の緋色の双剣が握られていた。間合いをとった鬼武者が、ふらふらと立ち上がった少女に襲い掛かる。その攻撃は、両の腕の動きを確認した彼女の刃に阻まれる。
「……分かっ……てる……。死なないし……、死ねない……。分かって……る……、でも……」
ぶつぶつ呟く少女が、鬼の刃を受け止めた。そこからは怒涛の連撃だ。彼女ですら、どんな攻撃をしたのか分からない程がむしゃらに、ただ目の前の敵を打ち倒す為だけに対の刃を振るう。同じだけ食らう反撃が気にならない。そして肉を裂く感触をなくしたそれは、主の意思を重んじて血だまりへと帰った。音も気配もなくしたその場所に立ち尽くすのは、頭から朱を被った少女だけ。
「……く……そ……。血を……流し、過ぎた……」
壊れていない塀へ身体を預け、未希はか細い息を吐く。流しすぎた血のせいで、己の身は酷く冷たい。ふと揺らいだ身体と遠退く意識の狭間で、彼女は驚愕の表情で手を伸ばす黒い長髪の巫女を見た気がした。
僅かな振動が身体に伝わって、彼女のたゆたう意識を呼び覚ます。ボンヤリ開いた瞳が最初に捉えたのは、褐色の肌と羽織られた深紅の着物。
(……誰……だ? この服……、知らない……)
歩いている筈なのに、抱えられている身体に振動が来ない。人肌よりも高い体温で抱かれ、もう一度目蓋を閉じそうになる。だが、その誘惑に抗って顔を上げる。それに気付き、抱えている者も顔を向けた。
『なんだ、起きたか』
「……っ騰蛇……。お前……か……?」
十二天将随一の力を持ち炎を操る凶将、騰蛇の不機嫌そうな深紅の目を未希は真っ直ぐ見る。
「……お前を……、従えた記憶は無いんだが……?」
『そうだ、俺はお前に使役されているつもりは無い。ただ青龍と白虎が言っていたから来てみただけだ』
そのわりにしっかりと抱かれた腕は離れることなく、歩くことによる揺れを与えないよう慎重になっている。最初に召還した時もこうだったな、と思いながら騰蛇の顔から自身の身体に目を落とす。ぼろぼろの服が見える筈のそこには、濃紺の衣が巻き付けられている。ただ、身体の傷は全て癒えているわけではないらしく、血が流れ落ちる感覚と砕けた右腕からの痛みが絶えずある。
『あの程度の相手に油断したか? 傷を負いすぎだ』
「……油断なら……良かった……な……」
『……それ以外の要因か。やはりお前を、主と認めるには早すぎるな』
俯く未希は、騰蛇の足元に赤い柱を見つけて顔を上げた。いつの間にか、彼女が飛び出してきた神社に連れていかれていたのだ。目を剥いて見上げる少女に対し、式神はしたり顔で見下ろしている。
『お前が何を思おうとも、簡単に否定されはしない。身を持って知ればいい』
「……騰……蛇……!」
『俺はお前が主だと認めてはいない。他は知らないがな』
「……ここに、私を受け入れる……場所はない……」
騰蛇の声が聞こえず、未希は全く違う返答を口走る。それは、彼女が何かしら不安に思っていたことだったのだろう。騰蛇はそれに関して、僅かな間を空けて彼女に答える。
『そうとは思わんがな』
「……化け物を……受け入れる人間が……、どこに……」
自傷気味に呟く未希の言葉が、途中で止まった。右腕が急に痛んだのだ。それは脈動と共に与えられるものではない。誰かに直接握り締められた痛みに似ている。だが、騰蛇は右腕を支えていないはず。黙って何かを考える未希の身体を静かに降ろした騰蛇は、きょとんとした顔をした少女を置いて火柱と消えた。僅かに笑ったのを未希は見ていなかった。
「……痛い……、引っ張るな……」
強く引っ張られる右腕に誘われるように、彼女は濃紺の衣の前を合わせて歩き出す。痛む身体を引きずり、家の玄関を開いて中へ。リビングまで引っ張られ、引く手が離れる。しかし、リビングへの引き戸をあける勇気はなく、未希は中の話を盗み聞く形になった。
「……あいつを人として接せれるか?」
「どんなことを言われても、私は未希の傍にいます」
「……あいつが、望まなくても?」
「それでも……、それでも私は、未希の居場所になります。私は未希の友達ですから」
(……友……達……?)
口の中で反駁した未希の頬を、あの時と同じ滴が伝う。それは不思議と不快なものではなく、止めなくてもいいのだと思う。僅かに力を込めて引き戸を開くのと、中から呼ぶ声が重なる。
「良かったな、未希。お前の居場所はここにあるって」
「え……?! 未希!!」
隙間から結美がこちらに駆け寄るのが見える。紺の衣が落ちるのを気にせず、差し出される手を掴んだ。その手は誰よりも暖かく、意図せず己の身を委ねるように倒れ込む。しっかりと抱きしめられた腕の中で、未希は小さくありがとうと呟いて意識を飛ばした。
「……あぁ、彼女は自己血輸血だ。ストックと使用期限を確認しとけ……」
「……病院……?」
見慣れぬ白い天井と白衣の男女を見送って、未希は小さく呟いた。起き上がる程の元気はなく、彼女はもう一度目を閉じようとした。しかし、この部屋に似つかわしくない気配に再度目を開く。
「……誰……?」
『ごきげんよう。ご無事で何よりです』
現れたのは柔らかな雰囲気を纏う、古の女官服を着た美しい女性。彼女は腰まで伸ばした茶色の髪を揺らし、微笑を未希に向けている。
「天一……、貴人か……」
『そう呼ぶのは、今となっては貴女だけですね』
「……何か用があったのか……?」
眠気に抗いながら、未希は貴人に問い掛ける。勝てる見込みのない勝負の行方を見る貴人は、少女の目蓋の上に白い手を乗せた。そしてその耳元に小さく囁く。
『また、日を改めて参ります。今はお休み下さい』
言葉と睡魔に勝てず、未希は全身から力を抜いた。小さな寝息を聞いた貴人は、柔らかな笑みを浮かべて血の気が失せた頬を撫でる。撫でながら小さな声で眠る未希に言う。
『貴女が、私達をどう従えるのか、非常に楽しみですよ』
乱れた寝具を整えて、貴人はそっと姿を消す。彼女が消えたのち、少女の左目を覆う文字が二つ、虚空に消えた。