弐拾伍夜 本
それは読む者に知識を与え、幻想の世界へ導き、楽しくさせ、悲しくさせ、嬉しくさせる。大切に扱い、次の誰かに引き継ぐ物。古くより親しまれた物。例え紙で書かれなくとも、それは失われることなく、本、と呼ばれるだろう。
気温が上がりすぎた真夏日。部活が急遽中止になったせいで、未希は暇をもて余していた。正直、暑くてどこも行きたくない。だが、このまま部屋で寝転んでいるのも退屈だ。
誰もいない家の中で扇風機の前に転がる未希は、急に鳴った家の電話の音に飛んで起き上がる。固定電話に掛かってくるということは、個人的な電話ではない。またセールスだろうか、とうんざりしながら電話をとる。
「はい、佐伯です。……はい、はい。あぁ、分かりました、すぐに……。はい。では」
電話機を置いた未希は、僅かに微笑みながらカバンを取って家を出た。午後の強い日差しに目を細めながら、どこか楽しそうに歩いていく。しばらく歩いて商店街のアーケード通りに近付くと、彼女はその通りに入らず裏通りに入る。日陰を選んで歩き、古い民家の前で足を止めた。その家の玄関には商い中の札がかかっている。
「いつみても寂れてるな。……だがまぁ、知る人ぞ知る古本屋が、賑わっていたらそれも嫌だが……」
そう呟くと、未希は躊躇う素振りも見せずに玄関を開ける。目の前に広がるのは、沢山の本棚とその中に収まる古びた本の数々。漂うのは古い本のインクと埃の匂い。口角が上がるのは仕方ないと、古本屋に足を踏み入れると、カウンターから壮年の男が顔を出した。
「よぉ、早かったな。お前、部活はどうしたよ?」
「今日は休みになった。……ところで、頼んだ本は? 世間話をしにきた訳じゃないんだが」
「おぉ、わかってるって。取ってくるから、まぁそこら辺の本でも読んで待ってろよ。まったく、こんなに早く手に入るなんて運の良い奴だよ、お前は」
「ふん、まぁな。運だけはいい」
「はっはぁ。運だけは、かぁ!」
豪快に笑って、店主は本棚の奥へ引っ込んでいく。馴染みの店主の背中を見送り、未希は本棚がところ狭しと並んでいる室内をぐるりと見渡す。本棚の中には、本以外にも様々な物が置かれている。アンティークドールや古い茶器、綺麗な扇や市松人形。果ては掛け軸に着物と、古いものならなんでもある。
「モノが増えてる……。相変わらず懐かれてるな……。買い取るのも考えものだろうに……」
ここ、“古書堂古猫”は未希のお気に入りの店のひとつだ。ありとあらゆる古書が手に入り、しかもあまり他人に知られていない。本以外にも、骨董品やいわゆる曰く付きの品々も買い取ってくれる。しかもこの店主は、そういったモノが視えるのだという。
「祟るようなモノはなし、か……。商売が上手いのか、懐かれたモノ達が新入りを更正するのか、どちらもありそうだな」
古びた人形がにこやかに手を振るのを見送り、古書堂の奥に向かう。そこには本棚が無く開けている。そして、本棚には入りそうにない大きなモノ、例えば五段の雛飾りや五月人形、大きめの甕や壷、花瓶といったものが置かれている。その中に、博物館で見るような物が置かれており、未希はそれをまじまじと見つめた。それは、古典の教科書の挿し絵でよく見る、貴族の乗る牛車のように見える。
「……何てモノを買い取ってるんだ……? どう考えても、博物館か資料館行きの物じゃないか……?」
不審に思い荷台を覗き込むと、中に鮮やかな着物を着た少女が座っていた。目が合ったような気がした未希は、一旦目を閉じて眉間を揉み、もう一度覗き込む。中にはやっぱり着物を着た少女が座り、未希をじっと見ている。
「……誰だ?」
『……文車妖姫って呼ばれてる』
「……いつから?」
『……さぁ……?』
「おぉい、注文の本……ってお前、なにやってんだ?」
「こっちの台詞だが……?」
本を取ってきた店主を巻き込み、未希はこの牛車――文車と呼ばれる物だが――のことについて半ば尋問するように尋ねた。店主の話によると、これを売った人物は、勝手に動くこの車を不気味に思い、二束三文でここに売ったのだと言う。その売られる原因を作った存在は車の中から顔を出し、店主が入れたお茶をすすっている。
「……で、どうする気だ?」
「んなもん、こっちで預かるに決まってるだろ? 別に悪いモンじゃないだろ?」
「……文車妖姫は名前通り文……女から男への手紙を運ぶ車が付喪神になった存在だ。……女の、男への恨みで……な」
「お前……俺を脅しに掛かってねぇか?」
「いや? これでもお気に入りの店でね。潰れるのは困る」
『私……悪くない……。悪いのじゃない……』
火花を散らさんばかりのにらみ合いの中、幼い声が悲しそうに呟く。その声に、店の店主はばつが悪そうな顔をし、未希は思いっきり目を伏せた。実際、この付喪神から邪気は感じない。一般的な文車妖姫は男女間の恨みで変化するが、この文車は大切にしていた思いから妖怪変化したのだろう。
「ま、悪いのじゃねぇなら大歓迎だ。良いんだろ、巫女さんよ?」
「……別に、邪気を纏う物じゃないし、その気になれば助けてくれると思う」
『……ここに、居ていいの?』
「おおいいぞ、文」
『? 文?』
店主にいきなりそう呼ばれ、文車妖姫は目を瞬かせて繰り返す。そんな少女の様子を満足げに見た店主は視線を未希に向けるが、彼女は特に何も言わない。そのうち少女は嬉しそうに、文、文、名前を繰り返し始めた。どうやら気に入ったらしい。
『私、あや。あや、あや!』
「気に入ってくれてよかった! お前は俺の家族だ! 新しい家族だぞ!!」
『かぞく? 家族!!』
「……家族、か……良かったな……」
嬉しそうに家族、と、文、と繰り返す付喪神を眩しそうに見て未希が呟いた。その声は、文車の周りに集まる他の付喪神の歓声と店主の笑い声に掻き消され、誰にも届くことは無かった。
その後、新たな家族を迎える、という名目の宴会に巻き込まれそうになった未希は、ただ本を買いに来ただけ、と言い訳して店を後にした。頼んだ本を胸に抱き、寂しげな夕焼けの中を歩いて行く。物悲しげに鳴くヒグラシの声があたりに響き、未希はその声に足を止めた。紅く落ちる夕日に目を細め、静かに頬を撫ぜる風に急かされまた歩き出す。本と共に胸を押さえたその少女を、すれ違う人は誰も見ていない。