弐拾参夜 雨
雨と言っても、降り方によって名称は変わる。夏の夕暮れ時に降る通り雨は夕立。五月に降るから五月雨。霧の中に降る、霧と見分けが出来ぬ雨を霧雨。晴れているのに降る雨を天気雨。場所によっては、狐の嫁入り。
久しぶりに部活がない休日。未希は何もせず、一人自室に倒れていた。窓は開いていて風は通るが、その中はひどく暑い。扇風機を回しても、暑さは逃げてくれない。
「暑い……」
呟くだけで動きはしない。普段なら予定を入れておくなり、出掛けるなりするところだが、その気力すら沸かない。ここ一週間、いろいろなことがありすぎた。今は休養が必要、と言うわけで、彼女はぐったりと部屋のフローリング部分に寝転んでいるわけだ。
『……大変聞きにくいのですが、宿題、とやらは終わっているのですか?』
「夏休みに入る前に終らせた……」
『……なら、よろしいのですが……』
心配性だな、とは決して言わない。そもそもサボり癖がある未希が悪い。頭の中でぶつぶつ言いながら、彼女は床に寝転んだまま窓の外を見た。雲一つない快晴で、気温は上がる一方。水分は適度に補給しているが、外に出ていたら熱中症は免れないだろうな、と他人事のように考える。しかし、冷房がない室内も十分暑い。
「雨が降れば、涼しくなるかな……」
『恐らくは』
「……降らないかな……」
『……無理でしょう……』
「通り雨でいい……」
『無い物強請りです』
「涼しくなればそれでいい」
『雪姫でも喚んだらどうですか?』
「下らんことで喚ぶな、といわれるに決まっている。大体、真夏に喚べるか」
雪姫とは、未希が春先に結美とともに従えた式神の名前だ。雪女では分からなくなる、ということからこの名前になった。だが、雪姫は性格に難がある。彼女は気難しいのだ。
「……くそ……。暑い……」
『……私を見てもしょうがないですよ……』
「知っている……」
どうでもいい話を繰り返したせいか、暑いが増した気がする。しかも、ずっと床に転がっているせいで、フローリングがじわりと温い。動くのは嫌だが、このまま温くなるのも嫌だ。いやいやながら身体を起こした未希は、誰かに呼ばれた気がして窓の外を振り返った。
『……どうかされましたか?』
勾陣の問いに答えず、ただ窓の外を見つめている。少しの間じっと外を見ていた彼女は、急に勾陣の方を見た。
「出掛けてくる」
『は?』
「出掛けてくる」
『……お気を付けて……』
二度言えばさすがに分かったようで、勾陣はため息をついた。主人を止めるのは越権行為だと自覚しているのだろう。一言だけ言うと姿を消した。
白い傘を差した行列が、静かに道を進んで行く。男は皆紋付袴に刀や槍を持ち、女は華やかな振り袖で傘や扇を持ち歩いてゆく。紋付袴の男達に守られた列の中央に、豪華な篭が担がれている。その周りに、女達は固まっている。彼らは皆、人ではない。所々獣の手足が見えている。
『姫様、もう少しで町に入ります』
篭の傍を歩く男が、中に乗っている者へと声を掛ける。中から返事は返ってこなかったが、彼は小さく頷いて先頭へと足を早める。列の前が騒がしくなり、歩みが止まったからだ。
町への入口、ちょうど行列を止めるように、一人の女が立っていた。巫女装束の女は白い狐の顔、丸腰で列を止めている。彼は、無礼な女だ、と思いながら列の先頭に立ち、女に向かって声をあげた。
『何者か知らぬがこの列を、神に嫁がれる方の花嫁行列と知っての狼藉か?! 道を開けよ!!』
「これは失礼致しました。私は、この地へ至る行列の道案内を頼む、と申し付けられた者です」
『そのような話、我らは一切聞いておらぬ! 何者より申し付けられた?』
「姿は見ておりませぬ」
それだけ言った巫女は不意に口を閉ざし、行列を守る男達を見てまた口を開いた。
「……しかしながら、この地は妖共が多く住まう地。無礼を承知で申し上げるが、皆様では多少、荷が重すぎるかと」
明らかに丸腰の女に言われ、列を守る男達は頭に来た。当然だ。何せ彼らは、その腕を買われてこの行列を守っているのだ。それを侮辱されるのは、誇りを貶されたも同然。血気に逸る者達の一部は、既に己の得物に手をかけている。
『我らが誇りを侮辱するか……! ならば、それ相応の覚悟はあるのだろうな?』
脅すと同時に、彼も得物に手をかける。護衛の者達と巫女の娘の間に、瞬く間に緊張が走る。丸腰の巫女と武装した男達、殺気立つその間に、一人の侍女が静かに進み出た。彼女は男達の殺気をものともせず、巫女に向かって頭を下げる。
『我らが申し出、受けていただき感謝しています、と、姫様が申しております。姫様は、無用な流血を望まれません』
『……姫様直々の案内役であったか……。ならば、顔を見ておらぬと言うのも納得。失礼つかまつった』
「いえ、こちらも。挑発紛いの言動、御許しください」
一悶着あったが、花嫁行列は巫女を先頭に町へと入って行く。誰もいない道路を進み、曲がり道を抜け、山を目指して歩いていく。行列が通ることを周囲に知らせる鈴の音が、誰もいない空間に虚しく響いている。護衛の者達は、肩透かしを食らった気分を味わっていた。案内する巫女があれほど脅したにもかかわらず、一体の妖も出てこないのだ。護衛するには楽だが、と思うが、どこか気分が浮わついてしまう。
「気を緩めれば、いざというときに動けませんよ。あなた方は、力あるモノ共にとっての絶好の餌なのですから」
『貴殿に言われずとも存じている』
「……ならばよろしいのですが……」
浮わついた気配に巫女は懸念を示すが、護衛隊長は取り合おうとしない。外様である彼女はそれ以上忠告しようとはせず、道案内を続ける。やがて、山が正面に見える直線に差し掛かった。そこで、彼女の懸念が現実になる。行列の右側から青い大蛇が襲って来たのだ。大蛇には護衛の攻撃が通用しないかの如く、彼らを蹴散らして守られている篭に迫る。
『くっ……! 抑えられぬ……! 姫様が!!』
「だから気を緩めるな、と言ったのです……。あなた方は極上の獲物。しかも、神に嫁がれる方であれば尚更……」
護衛と付き添いの侍女達が、驚きに声をあげた。さっきまで先頭にいた丸腰の巫女が、長い紅の太刀を持って大蛇の牙を押さえているのだ。その身体が僅かに沈んだと思うと、次の瞬間には大蛇が吹っ飛んだ。だが、大蛇は諦めない様子で再度襲い掛かってくる。それをまた受け止めた巫女は切り払い、牙を一本へし折る。怯んだ大蛇のその口を、今度は横一文字に切り裂く。更に大きく口が開くようになったが、大蛇は耳障りな悲鳴上げて尻尾を巻いて逃げ出した。しかし、
「……逃がすとでも思ったか……?」
冷酷な死刑宣告の声が聞こえたかと思うと、その巨体が縦半分に斬られた。誰もが呆然とするなか、巫女は彼らに頭を下げた。
「これより先、私は通ることを許されません。そして、何者も襲う事は叶いません」
ぽかんとする一行に、巫女は頭を上げて手で道を示す。陽炎の揺れる道に、山への続く階段が現れた。彼らはそれを見て我に返ったようで、行列を整えて歩き始める。篭が通り過ぎる刹那、その中から鈴のような美しい声が聞こえた。
『我が兄の頼み、聞き入れて下さりありがとうございます。人の巫女よ……』
「いえ。……お幸せに……」
感謝の言葉に、彼女は小声で返して行列を見送る。階段を上がる行列は、最後尾が階段に足を踏み入れた途端、その階段ごと姿を消した。後に残るのは、雲のない空からこぼれ落ちる雫だけだ。
雨を眺めて、彼女は白い狐の面を外した。滴り落ちる雨の雫と汗の粒を服の袖で乱暴に拭き、未希は思い切りため息をついた。予想以上の重労働だった。
「言っておくが、お前だから聞いただけだ……」
『えぇ、分かっていますよ』
隣に現れた金髪の青年を見て、未希は自分に言い聞かせるように呟いた。青年はその様子を見て苦笑いを浮かべる。
「……さて聞くが、あの行列を守らせるために呼んだわけではないだろう……?」
『さすがに分かりますか……。一つ、伝えておこうと思い……』
「なんだ?」
『山であなた方と共に戦った空狐が人を気に入ったらしく、式神として仕える、と言われまして』
「……? あぁ、結美の方か……」
『そうでございます』
結美なら適任だろうな、とぼんやり思う。あの狐と初対面で戦闘になった事を思い、未希は苦虫を噛み潰したような顔をした。青年はそれを、あえて見ないふりをする。
『あと、ささやかな贈り物を送っております。どうぞ、召し上がって下さい』
それだけ告げると、金髪の青年は美しい金毛の狐に姿を変え、山に向かって駆けて行く。その姿は、階段があった場所で消えた。
『……我が主……、これは一体どういうことでしょう……?』
「見ての通りだ」
勾陣の目の前には、白い箱が乱雑に散らかっていた。その箱を片っ端から開けて中身を確認し貪り食う未希が、一瞬悪食娘に見えたのは仕方のないことだったかもしれない。リビングの床は開かれ中身が無くなった箱と、開いているが中身が入っているもの、そして閉じられたままのものとが散乱して、足の踏み場もない。
『片付ける気は……』
「勿論ある」
『では……』
「…………冷蔵庫に入れる物と、今夜の夕飯とを分ける」
『……出来るだけ早く、お願いします』
「分かっている。……待て、勾陣」
『何で……っん?!』
主人に呼び止められ振り向いた勾陣は、突然口のなかに広がった甘味に文句を言うのを止めた。適度な冷たさは、身体に貯まった熱を逃がすのに丁度いい。もごもごと口の中のものを咀嚼する勾陣に、未希は表情を変えずに言う。
「美味いだろ、狐の葛餅。花嫁行列の護衛の報酬の一つだ。まだ、鯛とか赤飯とか紅白餅とかいろいろある」
『……』
「片付けるのは、少し後になるな」
彼女の顔は変わらなかったはずだが、勾陣にはいたずらが成功した子どものように笑ったような気がした。そして、いたずらっぽく言う主人に小言を言う気が失せて、彼女の好きにさせることにした。窓の外では変わらず、快晴の空から雨の雫が落ちている。
その日の昼から降りだした雨は止むことを知らず、夕方まで降り続いた。そして、暑さにあえぐ人々の、一時の涼となった。