弐拾壱夜 学校
古ぼけたコンクリートの建物の屋上に、夏の夜の月光が届く。不気味に照らし出されるそこに、丸い何かを抱えた人影がいる。人影は、抱えるそれを優しくなぞって空を見上げた。
「今宵も良い月よ……。こんな夜には我が琵琶の音こそ相応しい……。だが……!!」
手に持つ琵琶の、その弦を強く弾く。不協和音が夏の星座が煌く夜空に響いた。空から目を離したその影は、琵琶を見ながら憎しみの籠った声で呟く。
「我が心は、あの日より晴れぬ……!!」
真夏の部活というのは、跳ね上がる気温とだだ下がりのやる気との勝負だ、と未希は密かに考えている。照りつける太陽光を遮る物が何一つないグラウンドは灼熱地獄だった。
「早々に帰れて良かった、と思うべきだな……。かなり暑い……」
誰も居ない家で、作り置きの料理を食べながら、未希は何気なく外を見て呟いた。兄の貴仁は出張で留守にしている。一人は慣れているが、こうも静かだと心細く思えるし、料理も何処か味気ない。その奇妙な感覚は、携帯が音を立てて着信を告げるまで続いた。
「……着信……? 誰だ?」
その音がのおかげか、急に料理の味がよみがえり心細さが消えた。……同じような事が、遠い昔にもあった気がする。だが未希はその、遠い昔が何時だったのかを思い出せない。ただ漠然と、そんなことがあったような気がすると思った。が、彼女はそのことを思い出すのを早々に止めていた。思い出せない昔は、どう足掻いても思い出せないことを知っている。
「こんな時間に、一体誰だ?」
開いたメールの差出人は新堂所長だ。それだけ見ても眉間に皺が寄る。更に内容を読んだ彼女は、頭を抱えた。依頼内容くらい事前に知らせろ、と口の奥で文句を言いつつ残りをかき込んで立ち上がる。夕方に着けばいいだろうとか、どうせロクな依頼じゃないんだろうな、と考えながら食器を洗う。その胸の奥を妙な不安がざわめかせる。そして、何事もなく依頼が達成出来ればいい、とらしくないことを考えながら、未希は準備に取り掛かった。
夕方。激しい夕立の中を、未希は足早に事務所へ向かっていた。家を出る前から、雲行きは怪しかった。念のために傘を持って出たが、まさかこうも早く活用するとは思わなかった。酷い雨の中を、多少濡れながら走り抜けた未希は、事務所に駆け込んでほっとする。雨は嫌いじゃないが、ここまで酷いと嫌になる。
「何故急に……」
『難儀であったな……。そら、これで拭くと良い』
「……助かる、鬼女……」
鬼女が差し出すタオルを受け取り、未希は髪を拭きながら奥の部屋へ向かう。着いたそこには、既に結美が来ていた。
「やっほー未希。雨に降られたみたいだね。強かった?」
「ああ、傘がなかったらここまで来なかったな」
「それは酷い……」
『涼しさを通り越して寒く思えるぞ』
「うわぁ……」
「……えっと、そろそろ話に入ってもいいかい?」
完全にほっとかれた新堂所長が、申し訳なさそうに声を掛けてきたことで、三人はようやくおしゃべりをやめて彼の話を聞く体制に入った。話とは未希の予想通り依頼のことだ。ただその内容に、彼女は少なからず疑問を抱かずにはいられなかった。
「廃校になった上弦第三小学校に幽霊が出て、工事の邪魔をするって……」
「あの学校に、幽霊の噂などなかったはずだが……」
「でも、実際に被害があって、怪我人がいる。工事会社は、早急に解決して欲しいと言ってるよ」
「そう言われても……。悪戯って可能性もあるんじゃないですか?」
結美の疑問に、所長は少し唸ってから口を開いた。作業員曰く、事故が起こる前には必ず、琵琶の音が聞こえるという。
「だから、こっちに依頼したというわけさ」
「……なんだか……なぁ……」
「嫌な予感しかしない……」
「え?」
「私一人で行く……。嫌な予感しかしない……」
「何言ってるの……! そういう時こそ二人で行くべきだよ!!」
「だが……」
「大体、一人で行って大丈夫って保障ないし!」
物凄い剣幕で結美に捲くし立てられ、未希は言い返す言葉をなくした。一人で行って無事である保障も、二人で行って危険になる可能性も、完全にあると言い切れない。仕方ないか、と未希が折れたところで、二人は廃校となって久しい母校、上弦第三小学校に向かった。その頃には、激しかった夕立は止んでいた。
上弦第三小学校は、未希達を最後の卒業生として、第二小学校と統合合併した。校舎は何度か取り壊し計画が持ち上がっていたものの、予算の関係や汚職事件があったりとなかなか着手できなかったという。今回ようやく解体工事が実行されたが、そうすれば正体不明の事故が多発。今では不気味な噂ばかりが目立つようになってしまっていた。
「どんな噂が立とうと、私達の母校には変わりないのにね……」
朽ちた正門から、暗闇に沈む校舎を見上げる結美の目には、懐かしさが宿っている。その横で同じように校舎を見る未希の目には、何の感情の変化も見られない。
「懐かしいと思うが……。それ以上の感動が生まれないな……」
「そっか……。まぁ、そういうこともあるよね」
「……そうだな。……それより、少し離れていろ……」
隣で呟く結美に突然警告した未希は、ジャージのポケットから札を一枚取り出し、朽ちた正門へ投げつけた。門に当たった札は、激しい光を放ちながら塵と変わる。それを確認した未希は門に近づき、細い足を上げて門を蹴り壊した。
「……未希……。突然そういうことするのやめて欲しい……。びっくりする……」
「すまない。張られた結界は壊しておかないと……な……」
壊れた門を踏み越え、二人は懐かしい校内へと進む。結界が張られていたその中は、不気味なほどきれいだ。今でもまだ、使われている学校のようにも見える。
二人は体育館の横を通り、校舎内に入らないようぐるりと一周するが、不自然なほど綺麗であること以外に変わったことはない。
「う~ん……。なんか綺麗過ぎて不気味……」
「綺麗過ぎることが、こんなにも奇異にうつるとは……」
周囲の警戒を忘れず、二人は中庭から校舎を見上げた。廃校は手入れをされていないはず。なのにこの校舎は綺麗過ぎる。それを見上げる二人は、最上階に人影のようなものを見かけた。その人影に気をとられ警戒が緩んだ瞬間、何処からともなく物悲しげな、それでいて、憎しみの籠った琵琶の音が響いた。その音色を聞いた未希は激しい目眩に襲われ、頭を抑えて座り込んでしまった。そして、その目眩が治まった時には、何故か二年四組の教室の前にいた。
「くっ……。まだふらふらする。結美、大丈夫か?」
頭を抑えながら問いかけるが、返事がない。まさかと思い振り向くと、近くにいるはずの結美がいない。分断された、と気付くまでそう時間は掛からなかった。……嫌な予感が的中していく。冷静でいられない。結美の名を呼びながら、校舎の中を駆け回る。教室のドアを開ければ何故か、グラウンドに至る下足場にいる。そこから階段を上れば、今度は三階の家庭科室に出る。ルートも空間も滅茶苦茶に切り貼りされたその中を、まるで迷宮だと思いながら走り行く。
「くそっ! なんでこんなに空間が……!」
ようやく普通の廊下に出た未希の顔には、焦りを通り越して怒りが浮かんでいる。冷静になれと頭の隅で警告するが、今の彼女にその警告を受け入れる余裕がない。階段を上がった先は、一階の理科室の前。足を止めた未希は、背後に何者かの気配を感じ、反射的に太刀を向けた。
『おいおい、殺気立ちすぎだ。そんなので、勝てるかよ』
「……白虎? なぜここに……」
『私もいるよ! 久しぶり!!』
「青龍?! どうして……』
未希の後ろにいたのは、十二天将にして四神の二人、白虎と青龍だ。古代中国の鎧をまとい、土色に近い短髪に金色の目をした少年が白虎。狩衣を纏い、緑色に近い青い髪を後ろで一つに結んだ青い目の少女が青龍。二人とも未希は従えた記憶がない。
『白虎、青龍、何かあったのか?』
『いや、特に何も。ただ、勾陣の主人があまりにも冷静さを欠いてるから、心配になっただけだ』
『それに、一回くらい挨拶しとかないとって思って』
「……冷静さは、欠いていたな……。だが、」
『急がば回れ、だよ。ね、そうでしょ? ……あとね、空間を支配してる奴は、上にいるよ。一番上に』
彼女の言葉を遮り、青龍は片目を閉じて笑いかける。それに対し未希は、僅かに目を見開きゆっくり深呼吸することで返答した。そして、落ち着いたところで三人の天将に向き直る。
「自分が情けなく思う……。助言、感謝する……」
『ま、助言くらいはしてやるさ』
『そうそう。それに勾陣の大切な主様だし』
一言礼を告げた未希は、ジャージのポケットに入った札を手に持って階段を駆け上がる。手持ちの札の大半を使い、張り巡らされた結界を無理矢理砕いて一番上の階の廊下にたどり着いた。
『ほぅ……。あれだけの結界を悉く破り、ここまで来られるとは……流石です……』
「琵琶法師? いや、琵琶の付喪神か。何故こんな真似を?」
ざんばらに伸びた白い髪に、紅く汚れた狩衣を着て琵琶を抱えた男は、未希の問いに顔を歪めた。そして、未希の顔をじっと見た後に琵琶を撫でて呟いた。
『何故か……ですか。愚問ですな……。あなた様は私を覚えておられないのですか……?』
「覚える? 何をだ。生憎だが、妖の友人はいないのでな。それより、結美を返せ……」
付喪神のその問いを、未希の方も愚問と切り捨て、太刀の切っ先まっすぐに向けた。殺気と共に琵琶法師に向かい、太刀を振り下ろす。だが、その太刀が薙いだのは、教室に置いてある机だった。軽く舌打ちした未希を、今度は音波と衝撃が襲う。傍にある机を投げてそれらをやり過ごすと、また場所が変わった。紅い眼差しに剣呑な光が宿る。相手は琵琶を抱えたまま、低い声を絞り出すように未希に憎悪をぶつけた。
『何故だ……。面差しは似ている、あの方と同じ紅い目……。なのに何故……!』
押し出された憎悪が琵琶の音と重なり、刃となって未希に襲い掛かる。数少ない札を使って障壁を張り、攻撃をやり過ごす未希には、その憎悪の意味が分からない。だから、彼女は無言で反撃するだけだ。琵琶法師に向かい縦に降り下ろした太刀は、コンクリートの床に傷を付けるに留まり、琵琶法師に当たらない。
「何と勘違いしているか知らないが、こんな事をして何が楽しい?!」
『あの方ではない……。お前は、あの方ではないのか……!!』
「……話すら出来ないか……!」
全く噛み合わない会話と、場所を変えながら繰り広げられる攻防戦。未希の体力は削られる一方だ。何度目か分からない薙ぎ払いは、狭い教室の壁に阻まれる。この部屋は、他の教室よりも少し狭い。
「図工室か……。成る程考えたな……」
『……あの方は、そのような顔をなさらない……。いつでも、花が綻ぶ様に笑っておられた……!』
「あの方……か。結局、その名も知らないのか……」
哀れな付喪神、と続けて短く変化させた刀で薙ごうとする。が、彼女の刃は琵琶法師の持つバチで止められ弾かれる。体勢を崩したところに衝撃波を受けて、教室の端まで吹き飛んだ。更に、音波の連撃が立とうとした身体を襲う。辛うじて間に合った障壁のおかげで、身体へのダメージは少なく済んだ。
『この女がお前からあの方の……、あの方の記憶を……』
倒れた未希はその時丁度、ぶつぶつ言う琵琶法師の足元に誰かが倒れているのが見えた。その姿を見た瞬間、彼女は弾かれたように法師に向かって刀を突き出した。その瞳は火に焼かれたバラのように赤い。しかしその攻撃は、単純な単純な突進。フェイントも何も掛けられていない。それでも、琵琶法師を結美の傍から離すことには成功した。
「……結美、大丈夫か……?」
「ぅ……ぁ……、未……希……?」
『何故だ……。何故私よりも……!!」
結美を抱き起こし、その身体に纏わりついている細い弦のようなものを断ち切って、未希は焦点を紅の瞳で狂った付喪神を睨みつける。その眼差しの焦点はあっておらず、狂っている、と称されてもおかしくはない。まだ意識がはっきりしていない結美を床にそっと降ろし、未希はゆらりと立ち上がった。そして、場が狭いにもかかわらず、物凄いスピードで連続突きを繰り出した。
『その様な攻撃など届かぬ』
その言葉が聞こえていないように、未希は強く足を踏み込み上下左右に斬りかかる。無言で、しかもかなりのスピードを伴う連撃に、少しずつ琵琶法師が追い詰められていく。そして、壁際まで追い詰めた未希が、刀を眼前の付喪神の首に当てる。
「……サ、ヨ、ウ、ナ、ラ……」
『……どちらが、ですか……』
追い詰められているのも関わらず、嗤った琵琶法師の前に未希の膝が折れた。何が起こったのか、彼女は咄嗟に理解できなかった。分かったのは、全身を駆け巡る激痛。痛みに疎い身体なのに、駆け巡るそれのせいで身体が動かない。そして、罠にかかった獲物を見る琵琶法師を下から睨むことしか出来ない。
『怒りは、痛みを感じさせなくなるそうですよ……。ですが、まさか毒の効きまで悪くなるとは思いませんでした』
「ナニ……ヲ……、シタ……!」
『即効性の毒を……。しかし、ここまで遅いとは……』
「…………コ……ノ……!」
『……私を殺せば毒は消えますよ……。しかし、それがあなた様に出来ますか……?』
「だま……れ……!!」
動けない未希がギロリと下から睨むが、琵琶法師は全く動じない。それどころか、血走った茶色い目で彼女を見下ろした。真っ向から睨みあう形になった未希が一瞬怯んだほど、凄まじい狂気をその目は孕んだ。その狂気を殺気に乗せて、付喪神は琵琶を撫でて構える。
『もはや……、思い出すことも無いか……。ならばここで……』
「……させない……。未希ハ……ワタシが、守ル……!」
未希の動けない身体に毒とは違う痛みが走る。悲鳴を奥歯で噛み殺し、痛みに鈍る身体を必死に動かし、彼女は後ろを向いた。声の主は分かっている。自身の後ろに立つ少女は、彼女の知る友人とは違うようにすら思える。
「や……めろ……。結美……!」
首筋が痛い、締め付けられるように痛い。胸が痛い、圧迫されるように痛い。身体の中に、何か得体の知れないモノが流れ込んでくる。未希の位置からは見えない目を見て、琵琶法師の顔が歪んだ。
『な……っ、一体、なんだ! ナニモノなのだ、貴様は!!!!』
「『黙レ……! 付喪神ノ分際デ……! 身ノ程ヲ知レ!!』」
「やめろぉ、結美ぃぃ!!!!」
「『召喚――――』」
未希の声にならない悲鳴と、結美の静かで奇妙な声が重なり合う。閃光と疾風が、結界に閉ざされた空間を駆け渡る。光の中に白い影が浮かび、本体の琵琶を一瞬で粉砕していった。
未希の意識が持ったのはそこまでで、いや増しに増した身体の痛みに意識を飛ばした。そして意識を失う直前、未希は結美の身体に何かの影を見た気がした。が、彼女はそれがなんだったのか知ることは無かった。
解体工事が行われている校舎の一角に、二人の少女が倒れていた。二人とも外傷は少なく、眠っているようにすら見える。倒れている二人を見下ろす影は、感心したように頷いた。
『ここまでお互いを思いやる人間、はじめて見たかも知れないな』
『そうかな?』
『だってそうだろ? こいつはコレの力を抑えているから霊力に余裕がないし、制限まで受けてる。単なる“トモダチ”って関係なら、ここまでしないって』
『……そう考えると、そうかも。よっぽどの仲なんだろうね。……それよりこの二人、どうしよう?』
『……神社まで手を貸してくれるか?』
『あ、勾陣』
『え? 勾陣が運べばいいだろ?』
『悪いが、まだやることがあってな』
『……ちぇ、分かったよ。どうせやり残したことの内容は教えてくれないんだろ?』
『まぁな』
茶色の髪を夜風に揺らし、勾陣は笑みを湛えて頷く。白虎はその内容を教えてもらえず不満そうだが、青龍は苦笑いを浮かべて倒れている少女を背負った。それに倣い白虎も片方背負い、二人して夜闇に消えた。それを確認し、勾陣は足元に転がる木片を一瞥した。
『……愚かな付喪神。従った主に恋慕の情を抱くなど……』
囁くような小声で呟いた勾陣は、一際大きく丸みを帯びた木片を踏み潰した。