壱夜 蜘蛛
少年が一人、桜の蕾が揺れる夕暮れ時を歩いていた。遊びに夢中で帰るのが遅くなったようだ。暗いのは怖い、と少しだけ急ぎ足になる。近道するために公園を横切ろうとした時、声が聞こえた。
「ねぇ、こっちにおいでよ。一緒に遊ぼう……」
その夜、その少年は家に帰って来なかった。
鬼女を封じてから二日間、特に怪異の目撃情報、噂は無かった。高校生である二人の情報源は高校生活での噂話。これが一番役に立つのだから怖いものだ。
「ねぇねぇ知ってる? 行方不明者の話」
未希に部活の友達、鎌原紗季が言った。彼女は未希と同じ陸上部員で、噂話が大好きなのだ。大体、未希の怪奇情報の情報源は彼女だ。
「? 行方不明者の話?」
「最近、昼に外に出て夜帰って来ないって人多いんだって」
「……そのうち帰ってくると思うが……」
「それが、もう一週間位帰ってないらしいよ」
「え……?」
一週間位、その言葉に未希は反応した。鬼女を封じたのが二日前。それより前から行方不明者が出ている。噂も情報も無かったはずだ。何故、という疑問が彼女の中を駆け巡る。所長が情報を掴んで無かっただけだろうか。
「始め家族は家出だって思ってたみたい。でも、増えたのは昨日からあたりらしいよ。問題視され始めたのも昨日から」
「そうか。なら、まさか……」「そ。全部活停止。部長が言ってた。伝えたからね!」
こんな事が起こる度に部活中止。部活の為に登校しているようなものなのに、と未希はため息をついた。
チャイムが鳴る一分前。クラスが違う紗季は慌てて教室を出て行った。それから昼休憩までの授業の内容は未希の頭には全く入ってなかった。席が後ろなのをいいことに、結美にメール。もちろん、バレないように。しかし彼女はメールを送信した後、見事に教師に携帯が見つかり、没収されなかったものの説教を受けた。
昼休憩に結美のクラスに弁当を持って行き、食べながらその話をした。
「う~ん。その情報は侮れないなぁ。……そうだ! 帰り、寄ってみようよ。もしかしたら、そのまま仕事になるかも知れないけど……」
箸を咥えながら、結美は言った。行儀が悪い、と呟いた未希は口の中にある物を飲み込んで結美に返す。
「賛成。じゃあ、終わるまで待ってて。……こっちのSHRは長いから」「了解」
やはり五、六時間目の授業も、未希は心ここにあらずの状態だった。
学校帰り、二人は家とは正反対の方角へと歩いていた。不気味だから、学校では近寄るなと言われている家。そこはある事務所。未希と結美のバイト先。入るのも気が引ける。
「入りますよ、新堂所長」「……」
「……返事がない、留守のようだ。と、いうわけで未希、帰ろ……」「いや、ゴメン! 居るから! 居るから帰らないで!!」
結美の言葉に、奥から慌てて修司が出てきた。いつものサラリーマンのようなスーツではなく、上下ジャージ。似合っていないジャージに笑い出しそうなのを堪えて、結美が学校で聞いた話をしようとした。が、
「……その話は中の方がいいね。外で、誰かに聞かれちゃまずい」
という事で、不気味な家……事務所の中に入った。
中はいろいろな、彼女達曰くガラクタ、修司曰く大切なもの、が足の踏み場がない程溢れていた。修司は“ガラクタ”を避けながら、二人はそれを蹴り飛ばしながら奥の部屋に入った。
「まぁ、君達の話をじっくり聞いている時間はない。こっちにも依頼はきている」
情報早いなと、呟いた結美と未希の前にお茶が運ばれて来た。お茶運びをする人でも雇ったのだろうか、と二人は顔をあげると、そこには二日前に封じた鬼女がニコニコしながら立っていた。
「えっ、ちょっ、オイ、新堂所長?! 何やってるんですか?!」
「? 驚く必要はないよ、結美ちゃん。ただ、お茶運びを雇うお金が無いから、彼女にやって貰っているだけさ」
普通は驚く。驚くなという方が無理だ。彼女を普通の人が見ても大丈夫なのだろうか。
『我をお前たち以外の者が見ても、鬼には見えぬ。我はそういうモノだ』
二人の心を見透かしたように鬼女が言う。
「……そう……ならいい」
それに呆れながら、未希は返した。
鬼女のせいで話がそれてしまったね、と修司は言うと机の上のファイルを手に取った。
「行方不明者に共通しているのは、帰り道にある公園を横切った、ということだ」
「……その公園はどこなんですか? この町の公園は二つですよ」
「もちろんわかっているさ、未希ちゃん。上弦第二公園だ。不気味な噂が絶えない所だよ」
うわぁ、と結美が呟いた。彼女が帰り道にたまに通る所だ。不気味だが、横切ると近道になる。修司はなおも続けた。
「夕暮れ時の事件だから、今から仕事になるよ。準備は大丈夫?」
「大丈夫な訳ない。確か、札預けていたと思うんだけど……」
札がなければ怪事件の解決は難しいものがある。人ならともかく、人ならざる者ならの話だ。
学校帰りの仕事に備えて、二人は怪異事件の解決に必要な物を彼に預けている。
「ああ、かなり預かっているよ。二人合わせて四十枚位」
「私は式神の札二枚と、普通のやつ十三枚。結美は?」
「十三枚も要るの……?私は式神の札二枚と、普通の札十枚でいいや。そんなにあってもしょうがないし」
「分かった。鬼女、金庫の中にある。持ってきてくれ」
『うむ』
鬼女が帰って来るまで、お茶を飲みながら、どのような状況で遭遇したのかを修司はわかり易く二人に話した。
夕暮れの道を二人は言われた通り急ぎ足で帰った。例の上弦第二公園をよこ切ろうとした時だった。
「ねぇ、こっちに来てよ。一緒に遊ぼう……」「「!」」
声のした方を未希と結美は同時に見た。そこには、可愛らしい少年が立っている。結美が、警戒していることに気付かれないように少年に言う。
「いいけど、何して遊ぶ? 私達、暇じゃないの」
「何でもいいよ、お姉ちゃん達。遊んでくれるなら、何でも……」
少年は楽しそうに答える。結美の警戒心が強くなったのを、未希は感じた。結美の手をさり気なく握り、未希は反対の手で札を取る。彼女には、結美が連れていかれそうに見えたのだ。それは、あながち間違いではなかったようだ。結美の緊張が目に見えてとける。
「……そうか。なら、こんな遊びはどうだ?」
未希は少年に向かって、いきなり手に持った札を投げつけた。それは少年に張り付く。甲高い悲鳴が静かな公園に響いた。張り付いた札が地面に落ちた時には、少年は気絶して倒れ、その子の背後から巨大な蜘蛛が飛び出し、二人に襲いかかってきた。
飛び出した巨大な蜘蛛の攻撃を、二人は左右に分かれることで辛うじて避けた。蜘蛛は未希の方を向いた。標的は未希のようだ。確信した彼女は、気絶している少年とは逆の方向へ走り出した。
「未希! 公園から出るの?!」
「出ない! 結美、あの子頼む。多分、神隠しに遭った子だ!」
叫んだ結美に未希が返し、結美と少年からなるべく離れる。結美が少年の方へ走ったのが見える。適当に離れた所で足を止めると、薄ら笑いを浮かべ、学校カバンから別の札を取り出し、少年の言葉を真似て呟く。
「さぁ、一緒に遊ぼうか……」
結美は未希に言われた通り少年の方へ走った。気絶している少年に張り付いていた札は、何かを封じた証拠に黒ずんでいる。札を地面に置き直し、彼女は印を結ぶ。置いた札から、小さな蜘蛛が出てきた。結美はその蜘蛛をつまみ上げて言った。
「他に隠した人は何処? 案内して」
蜘蛛を下ろすと、それは公園の隅の公衆トイレに向かって進んで行った。結美は札を持ち、起きる気配のない少年を背負ってその後をついて行った。
未希は、激しい蜘蛛の攻撃に苛立ち始めていた。避けるだけで精一杯になりつつある。
「……何でこいつ、怒っているの……? 繁殖期だったか……?」
繁殖期なら、この蜘蛛は子持ち。大量に行方不明者がでるのも頷ける。そして、厄介極まりない。取り出した札を蜘蛛に投げてみるも、効果は薄いし簡単に引き裂かれた。そして、それどころか、
「お……っと。……まさか、本気にさせた……?」
もっと怒らせたようだ。体を使った体当り、足を使って周囲を薙ぎ払う攻撃以外に糸吐きまでついた。気が付いたら、未希の背中にフェンスが当たる。後ろにはもう下がれない。蜘蛛が足を振り上げる。未希はとっさに、足の下をくぐって蜘蛛の後ろにまわった。やっと息を吐いた未希はカバンから別の、模様の入った札を取り出した。蜘蛛は、崩れたフェンスから足が抜けてないようだ。未希は札に息を吹きかけ、呟く。
「出番だ……。かまいたち……」
蜘蛛の後ろ足二本を風が傷付ける。未希の周囲に長い体のイタチが現われた。
子蜘蛛のあとをついて行った結美は、公衆トイレの後ろの蜘蛛の巣に人が捕らえられている事を確認した。蜘蛛を札に戻し、背負った少年を降す。繭状になっている人とそのままの人がいる。結美は、ため息をつくと学校カバンから模様の入った札を取り出し、息を吹きかけて呟いた。
「頼んだよ……。烏天狗……」
『……御安い御用……』
年老いた男の声が、すぐ隣から聞こえた。手に羽根団扇を持ち、翼のはえた老翁が現われた。彼は、蜘蛛の巣と捕らえられている人々を見て眉をひそめ、主である結美に言った。
『相手はどうやら、女郎蜘蛛のようじゃのう。子持ちの封印は苦労物じゃろうな』
「……うわぁ……。早く終わらせて未希を助けに行こう……」
女郎蜘蛛、巨大なメスの蜘蛛の妖怪だ。人を食い殺しそれを養分に生き、繁殖期になれば人を攫って卵を産み付ける、少々厄介な妖怪だ。
烏天狗は、御意、と言うと羽根団扇で風を起こした。その風は蜘蛛の巣を一瞬で粉砕し、繭状になっている人の糸をも切り刻む。捕われていた十五人全てに札を付け(何故か札は十七枚あった)、産みつけられている蜘蛛の子―土蜘蛛を取り除く。トイレの反対側から、まだひどい音が聞こえる。結美は札を回収すると、そちらに烏天狗と共に向かった。
足を斬り裂かれたことに気付いた蜘蛛は、声にならない悲鳴をあげ、やっと後ろを向いた。面倒くさいという顔のまま、未希はかまいたちに指で指図する。頷いたかまいたちは、その身を回転させ、再び風を起こした。蜘蛛が吐き出した糸は、風に切り裂かれ未希に当たらない。風は徐々に蜘蛛を攻撃していく。蜘蛛は何度も身悶え切り刻む風を避けようとしている。が、
「……見苦しいな……。だが、大人しくしろよ……」
かまいたちが起こす風が一段と強くなる。未希の身長よりも高い蜘蛛の前足が千切れた。蜘蛛が声にならない悲鳴を上げ、前のめりに倒れ込んだ。未希はかまいたちと共に後ろに飛び去ると、蜘蛛の顔の辺りから再度攻撃を開始させた。そこに、結美が烏天狗と共に駆けてきた。
「未希、大丈夫?」
「大丈夫、もう終わる。行方不明者は全員助け出せたみたいだな」「うん」
『……女郎蜘蛛にしては小さいのぅ……。まだ、子を育てたことのない子供じゃな』
烏天狗の言葉に、結美は自分の式神を見たが、未希は反応しなかった。もう、蜘蛛は動かない。辺りに青黒い体液が飛び散っているが、そのうち蒸発するだろう、と未希も結美も気にしなかった。
「……結美、この蜘蛛貰っていいか?」
「いいよ。不気味だから、私は使わない」
「ありがとう」
結美に許可を得て、未希はかまいたちを札に戻した。そして、何も書いていない札と筆ペンを、カバンから取り出した。結美は烏天狗を札に戻して未希から離れ、未希が空中に字を書いていくのを見ている。筆ペンを振って片付け、文字と共に札を蜘蛛に向かって投げた。文字が蜘蛛に絡まってから、札の中に消える。彼女がそれを拾い上げた。
「「仕事終了」」
二人の声が重なった。もう、辺りは真っ暗だ。結美がそれに気付いて、慌てて家に向かって走って行った。じゃあ、また明日、と未希に言うのは忘れなかったが。親のいない未希は帰っているであろう兄の顔を思い浮かべながら、救急車を呼んだ後、家に向かって歩いて帰った。
後日談だが、次の日の朝、救急車で運ばれていった十五人は行方不明になった日以降の記憶がなかった。そして結局、犯人が見つからないこの事件は、世間で神隠しと呼ばれることとなった。