拾七夜 月
どうも、サボり癖が再発しました。ルナサーです。前半折り返しに、今回の話が当たります。しかし、おもs(ry)
とっ、とりあえず十七夜 月、お楽しみください!
夜空に掛かる月に、何を見るだろう。神秘さか、魔性か、光源か。それとも、数多くある天体の一つか。感じ方は見る者によって変わる。だから、これといった答えはない。
近くて遠い、大きな光に導かれ、あるいは、周囲に瞬く無数の小さな光に誘われて、暗闇の道を歩み行く。
最近の話題は、全国で観測出来る皆既月食だ。皆、月食が珍しいから、と騒いでいる訳だが、職場も営業で行った先もこの話で持ちきりだ。それがどんなに珍しくともさすがに飽きてくる。貴仁もそんな一人で、いい加減鬱陶しいとまで思っていた。
「どうした貴仁? やけに疲れてるな」
「……てめぇ程じゃない……」
にこにこしながら聞く拓人に、貴仁はうんざりした様子で返した。彼は、笑顔ながらも疲れが隠せていないことを言うと、まとめてあった荷物を持ってデスクから立つ。今日の仕事は終えたし、残業も無い。ならば、この疲れる職場に長々と居る必要は無い。まだ騒がしいそこに挨拶し、呼び止める拓人を無視して帰路に着いた。
彼が神社に戻った時には周囲はもう暗かった。自宅は社殿の裏側で、木々が生い茂った暗いところにある。普段なら月明かりで道が辛うじて分かるが、今日は満月にもかかわらず光が全く無い。苦労しながら自宅に戻り、玄関の鍵を開けて中に入る。
「ただいま。……未希……? いないのか?」
たいていは返事が返ってくるハズなのに、何も聞こえない。一体今日は何なんだ、と思いながら明かりが灯る居間に来た。しかし誰もおらず、彼は自室に荷物を置いて他の部屋を点々と、明かりが点いている部屋を重点的にまわって見た。だが誰もいない。首を捻りながら明かりのついていない部屋も点々とまわり、ようやく庭に面した暗い縁側に座る妹を見つけた。
夏の寝巻きに、未希は好んで浴衣を着る。貴仁は昔その理由を聞いたことがあったが、肌の露出を最小限に出来るから、だという。なのに、今の彼女はその浴衣を着崩している。あわせの部分だらしなく肌蹴て、胸部を僅かながら露出させている。その部分に黒い文字の羅列を見て、貴仁は慌ててジャケットを未希の身体にかけて、胸部に触れぬよう手で押さえた。妹とはいえ、女の身体をまじまじと見るものではない。
「……兄さん……? 帰ってたんだ、お帰り……」
身体にかけられたジャケットに気が付いたのか、妹は緩慢な動きで後ろにいる兄を振り返って見た。その目は、普段の彼女からは想像出来ない程の疲れが見え隠れしている。つい最近まで試験があったせいかもしれない。
「疲れているのは分かるが、浴衣を着崩す必要は無いだろう……」
押さえた手が妙なところに触れぬよう気をつけながら、貴仁は未希に苦言を呈す。深い藍色の闇の中で、見えないとでも思ったのだろうか。
「見るな変態」
「急になんだ?! しかも、いきなり変態扱いするな!」
「耳元で叫ぶな変態」
「誰のせいだ!!」
「女の身体をまじまじ見るのが悪い」
「一番見せたくない部分を露出させてるお前も悪い」
どうでもいい言葉の応酬に疲れたのか、未希が貴仁の顔から空へと目を移した。貴仁もつられるように空に目を向ける。そこで初めて、彼は月が欠けていたことに気付いた。彼女の左側に腰を下ろして、彼は一人納得する。職場でも、営業先でも月食の話で盛り上がっていた訳を。道が暗かったのもこれで理解できた。
「なんだ……。今日が月食の日だったのか……」
戻りかけの月を見ながら感嘆の響きをにじませて呟く兄の傍ら、妹はかけられたジャケットの前を掴み、上を見ながら何か小声で呟いた。その声が聞き取れず、貴仁が未希に聞き返す。
「何か、言ったか?」
「……最近、疲れが取れない、と……」
「……そっか……」
「……それに……。いや、なんでもない……」
徐々に満月に近づく月を見つめたまま、未希は口にしようとしたことを留めて再度沈黙する。しかし貴仁には、そんな彼女の言いたいことが分かったらしく、目線は空に固定したまま優しく未希に言う。
「大分、身体への負荷が重いんだろ……。大事には至らないよ」
それだけではないような気がするが、彼はあえて口にしない。言いたいことは自分から言うものだ、という意図を込めて横目で未希を見る。彼女はそんな彼の視線に気付かぬようで、目を細めたまま月に手を伸ばしている。そして、妹はその手で掴めぬと知りながら手を握る。呟かれた言葉は、どこか幼い響きを宿す。
「……見えて……、いるのに……」
「無理だろ、小さすぎる。俺たちの手で掴めるものなんて、僅かなんだから」
物凄く素っ気無い言い方だ、と貴仁は思う。だが、いちいち言い直すのもおかしいと、口からは音を漏らさない。空の月は半月。その光は満月ほどではないものの、周囲を静かに照らしている。その光でも、二人の間の闇を溶かせない。この兄妹の間に流れる沈黙も深い。
言葉が無ければ何も伝わらない、というのは偽りだ。話さないほうがより多くのことを、時には伝える。沈黙という名の、暗黙の了解という名の理解。それがあっても、やはり言葉は多くを正確に相手に理解させる。
「……兄さん……、私は……」
独り言に近い声で、未希は小さく呼びかける。その声に応じ、貴仁は未希の顔を見た。そんなに離れていない筈なのに、兄には呼んだ妹の顔が、表情が全く見えなかった。ぼんやりとする紺色の闇に、視界が阻まれている。いや、そんな気がする。目を凝らせば、ようやく帯状の白いものが浮かび上がる。それが、未希の左目を覆っている包帯だと気付くのに時間を要した。
「……どうか、したか……?」
それらに対する動揺と、自身の戸惑いが言葉に出ぬよう気を付けて、貴仁はきわめて感情の入らない言い方になるように未希に返す。兄の戸惑いや動揺に、妹は気付かないようだ。彼女は半月か少々膨らんだ月を見ながら、静かに続きを口にした。
「戦う事を知ったら、守ることが出来なくなった」
静かな言の葉は、確かな刃となって貴仁の心に突き刺さる。刺した本人はそれに気付かぬまま、また空の月に手を伸ばす。眩しすぎる光。その後ろに抱える暗く、深い影。守れなかった、と呟く未希の瞳は漆黒。心を置いてきた彼女の抱く傷の深さを、彼は量りきれない。さらに、かつての自分と同じ目をする妹へ、掛ける言葉が見つからない。黙り込む二人の間に、夏にふさわしくない冷たい風が吹きぬける。しばらくして、貴仁はかすれた声を絞り出した。
「…………あの…………、狐のことか……?」
「……うん……」
目の前で死なせた、と貴仁と同じようなかすれた声で、未希がいう。動揺する自身の中の冷静な部分が、珍しいことを言う、と声に出さず呟く。つい一、二年前であれば、死なせて当然だの、見殺しにすることの何が悪いだの言っていたのに、と。何が彼女を変えたのか、違う。何故彼女は変わってしまったのか。こんな風に、優しくなるような変わり方をしなければまだ……。
「……アイセテイタノニ……」
「……? 何か、言った?」
「……? どうした?」
「……何でも、無い……」
聞こえてしまったか、と貴仁はほんの少し反省する。声に出すつもりは無かったのだ。風が無いのに、庭にある大きな池に映る満月が歪む。貴仁は未希に気付かれぬよう、水面の歪な月を見た。
また項垂れた未希の頭にてをやり、反射的に顔を上げた妹の無表情に微笑む。優しい声色になるよう努力しながら、彼は妹に言った。
「疲れているんだろ? もう寝ろ。身体に障るぞ」
「……う……ん……。お休み、兄さん。……ジャケットは?」
「俺の部屋に、皺にならないよう置いていてくれ」
「……分か……た……」
貴仁のジャケットを羽織ったまま、未希は縁側を離れて部屋に向かう。彼はその背が見えなくなるまでずっと、未希が去った方向を、妹が消えた廊下の闇を見つめていた。池の水鏡に映る満月は、何かを嗤うように未だにゆがんだまま。
月光に照らされる神社の庭。その庭にある大きな池の水面に映る歪な満月を見ながら、貴仁は誰に言うでもなく呟く。
「……誰か……、教えて……くれ……。俺はあいつを……、俺から大切なモノを奪ったあいつを愛し続けて……、っ愛し続けなきゃならないのか……?」
その呟きに答えたのは、冷たく吹いた風と翳った月光のみ。