拾弐夜 蝕
生物は、物を食わねば生きていけない。食を絶たれれば息絶えるしかない。共食いもあり得るが、普通はしない。
食欲は満たされるほうがいい。哀れな結末を迎える前に。そして、出来る限り食料を無駄にしないほうがいい。地獄で苦しむ前に。
珍しい事だ、と結美は思った。彼女の横、窓際の一つ空いた席には未希が座っている。今日は朝練が早く終わった、という理由で彼女は結美のクラスに来ていた。二日前に般若の能面の一件で負った傷は、もう既に完治しているようだ。
(未希といい雪斗先輩といい、何だか傷の治りが早い気がする……)
思っていても、口には出さない。出したところで、はぐらかされるのは目に見えているからだ。別の話題を振ろうにも、今の結美には話題が無い。さて、どうしようかと思っていると、未希が口を開いた。
「結美、うりこ姫と天邪鬼の昔話を知ってる?」
「……? うりこ姫と天邪鬼? この前の能面の話?」
「違う。あれは生成りの姫」
「な……、生成り……?」
「そう……「なになに? 生成りがどうしたの?」
「あ、新条君。おはよう」「……オカルトオタクが……」
結美と未希の会話に、結美のクラスメイト、新条真幸が割り込んできた。彼は未希がぽつりと言ったように、オカルトの類が大好きだ。特に、この国の妖怪達に無駄に詳しい。だが、未希に比べればまだまだ甘い、と結美は考えている。
未希は真幸が嫌いだ。なにせ彼は、全く空気を読もうとしないのだ。妖怪の話になると、何処からとも無く現れ、話を滅茶苦茶にして消えて行く。
「生成りの話してんの?」
「……成り行き上、そうなっただけ……」
無愛想もいいところだ。が、ここにフォローを入れるのは大体結美の仕事。これは幼い頃から変わらない。
「まあまあ未希。新条君、知ってるなら教えて欲しいな」
「ああ! 生成りってのは、恨みが募りすぎた女性が、鬼になる一歩手前の姿なんだ。こうなると、恨みを晴らした後に鬼になっちゃうんだけどね」
「……正確には、少し違う」
無愛想ながらも、未希が真幸の説明に口を出した。彼は、ほぅ、と問うような顔を見せた。未希はそれに構わず続ける。
「実際は、恨みが心を破って外見を変化させている最中の姿。こうなったら、鬼になるのを見るしかない。退治方法は、理性を失う前に殺すか、鬼になって理性を失ってから殺すくらい。後、生成りは能面の般若のモデル」
どっこいどっこいな説明内容だが、何故か真幸の説明より分かりやすかった。しかも、ちゃっかり二日前の能面の説明までしてくれた。これには真幸も頷かざるを得なかった。もっとも、認めてもらいたくて説明に補足を入れた訳ではないのは、結美が一番良く知っている。この時も、未希はフン、と鼻を鳴らしただけだった。
「なんだ、佐伯って詳しいんだな」
「職業柄ね」
「あ、そっか。家が神社だもんな。それじゃ!」
来たとき同様、彼は嵐のごとく去っていった。
「……何の話、してたんだっけ……?」
「うりこ姫と天の邪鬼」
「そうそう、その話。で、その話がどうしたの?」
結美の問いに、未希は一瞬目を閉じてすぐに結美に向きなおった。
「別に、家で読んでいた本にその話があっただけ」
「ふぅん」
「うりこ姫の留守番中に、天の邪鬼が来て彼女を喰うんだ。けど、天の邪鬼は実は餓鬼だという話があるんだって」
「餓鬼…………?」
未希はどちらかというと、説明が得意なほうではない。むしろ、下手なほうだ。だが未希は、その説明で分かってくれ、とは絶対に言わない。自分の説明が下手なのを自覚しているらしい。
「あー……、駄目だ。うまく説明出来ない……」
「ううん、大丈夫」
唸る未希が不意に視線を時計に向けた。朝のチャイムが鳴るまであと少し。彼女は慌てて、結美の教室から飛び出して行った。
いつも通りの担任の気だるいHRが終わった後くらいから、クラスメイトの様子がおかしくなった。全員が空腹を訴え出したのだ。それが生徒だけならまだ分かるが、授業担当の教師もどこか空腹そうなのだ。全員が朝食を抜いたのだろうか、と考えて結美は首を振った。そんなことありえない。あったとしても現実的ではない。
「……ねぇ結美……。お腹すかない……?」
「美香。急にどうしたの?」
丁度、二時間目が終わった後で、結美は三時間目の準備をしているところだった。急に、美香にそう言われても、結美にはどうすることも出来ない。
「なんだか凄くお腹がすいて……。いつもならそんなにすかないのに……」
「朝食、抜いた?」
「抜くわけ無いよ」
「だよね……」
まだ空腹を訴える美香に、たまたまポケットにあった飴を渡して席に戻す。そのまま三時間目の授業になった。やはりどの教師も、空腹そうな顔は消しきれていない。授業中も、腹の虫の大合唱だったのは言うまでも無い。
結局授業に集中できないまま四時間目まで終わり、昼休みになった。こんな日に限って弁当を持って来なかった結美は、足早に食堂に向かった。食堂では食券とパンと簡単なおかずを売っている。食券の方は売り切れることが少ないが、パンの方は争奪戦になることが多い。その為、かなり急いでいかないと買えないことが多いのだ。
食堂に着いて結美は我が目を疑った。いつもはガラガラの食堂が大賑わいなのだ。パンはおろか、食券も売り切れだ。満足そうなのは購買のおばさん達だけ。
「あ……はは……。どうしよう……」
呆然と呟く結美に答える者はいない。それどころか食堂にいる者は皆、空腹が満たされないことを訴えるばかりだ。一人で何食も食べていながら、だ。その異常な光景を見ても、思考停止した結美の頭に入ってこない。
その結美の腕を不意に誰かが掴んだ。そして、掴んだまま食堂のドアを抜け、そのまま走り出した。彼女は抗議するよりも、転ばないよう付いて行くことに精一杯になっていた。それだけ、この者の足は速かった。あっという間に体育館裏に引っ張られ、減速した所で手を離された。そこでやっと、結美は抗議の声を上げようとした。
「だ……「結美」
「……未希! 先に言ってよ、危ないじゃない!!」
「ごめん、緊急だった」
「もぅ……。転ぶかと思った……」
頬を膨らませて抗議するが、未希はまともに聞いたためしがない。もうしばらく口をきくまいと思った矢先、自身の腹の虫がきゅう、と切なそうに鳴いた。思わず顔を赤らめた結美の目の前に、弁当包みが出される。出した未希は無言無表情で、何を考えているのか分からない。少々の沈黙の後、未希が口を開く。
「いらないからあげる」
「いいの?」「うん」
礼を言い、未希の弁当包みを受け取る。中身はサンドウィッチとおかずが少々入っている。サンドウィッチの包みのうちの一つが開いていて、未希が少し食べたが残した、という形跡が残っている。
美味しそうなそれに、結美は夢中で噛み付いた。潰れてはいたがかなり美味しい。そんな結美を見ながら、未希が急に口を開いた。
「……おかしいと思わない……?」
唐突ではあったが、結美はサンドウィッチを頬張ったまま問いかけに肯定するよう頷いた。口の中の物を飲み込んで、問いかけに答えるよう結美が返す。
「確かに、おかしいと思う。全校生徒に先生もこんなに一斉に……。ありえない事だよ……」
返しながらもサンドウィッチを頬張るのは止めない。その様子を見ながら、未希はまた黙った。そのまままた沈黙が流れる。黙々と食べる結美の手の中に、おかずが入ったタッパーのみになったところで、未希が再度口を開いた。
「……さっきから鈴が鳴り止まない……」
「……? あっ、そう言われてみれば、鈴の音がする」
おかずを全て食べ終えて、結美が未希の方をきちんと見て言う。未希はおもむろにポケットに手を突っ込むと、陶器で出来たような鈴を取り出した。それはぶら下げる未希の指の下でチリチリと鳴っている。音は鈴の中でも低い方ではないだろうか。
「これ……」
「そう、妖縁の鈴」
ただの鈴のように見えるが、それが妖怪の類との距離をはかる物だとは説明がないと分からない。だが、その鈴以外の別の鈴が鳴っている。何だろう、と問うような視線を結美が未希に送れば、彼女は目元を少し緩めて不自然に握った手を開いた。そこから零れたのは銀色の鈴。
「この銀色の鈴は……?」
「これは力縁の鈴。佐伯家退魔の七つ道具の一つ」
「これも? どんな効果が?」
「これは、怪異が関係する事件が起こって、放置してはいけない時に鳴る。だから、普段は揺らしても鳴らない」
成る程、と結美は納得し、揺れずに音だけを鳴らす銀と陶器の鈴を見る。銀の鈴は普通の鈴と同じような音を鳴らしている。要するに、放置できない事件、ということだ。
鈴を見ながら結美はタッパーを弁当包みに入れ、未希に返した。未希は鈴を片付けてそれを受け取り、札をまたポケットから取り出す。
「……探索し、見つけ出せ。来い、管狐……」
呼び出された狐は、名前どおり管に入るような細長い身体の白い狐だ。彼女はその狐に指を振ることで指示を与え、校舎へと赴かせた。
「……二日前に見た狐と違う……」
『あれも、管狐の一種です』
突如、男の声が割って入った。その声は、結美にトラウマ級の恐怖を与えた勾陣その人である。恐怖からびくりと身体を震わせた結美に、未希は静かに、大丈夫、と呟いた。彼は今未希の式神である。心配する必要は無い、未希は暗にそう言ったのだ。
「勾陣の言った通り、あれも管狐。小さな籠に入るような大きさの狐が、般若の時に見せた方。今のは文字通り、管の中に入るような細長い身体の狐」
「な……成る程……」
管狐の説明に頷いた直後、昼休み終了のチャイムが鳴った。しかし、教師が通る気配も、生徒が教室に向かう気配も感じない。そのうち、捜索に行かせていた管狐が戻って来た。狐は細長い身体を空中でくねらせながら未希に何か告げようとしている。
『見つかったようですね……』
「ああ。……結美、行ける?」
「もちろん!」
結美が答えると、未希はふっと息を漏らして狐に再度指示を出す。狐は心得たのか、案内するように二人が走って追いつく位のスピードで飛んでいく。非常階段を駆け上り二階、三年の階へ。さらに廊下を走り、非常階段のから四つ目の教室の後ろのドアへ。そこで狐は停止し、主を仰ぎ見た。どうやら、ここのようだ。未希は狐に頷き札の中に戻すと、ドアに手をかけた。
「……大体、見当は付いてるんだが……。外れてくれ……」
祈るように未希が呟き、弁当包みを廊下に置いてドアを開けた。教室の中の先輩たちも、皆空腹を訴えながらのた打ち回っている。その中で唯一人、茶髪に緩いパーマをかけた女子の先輩だけが、平然と窓際の席に座っている。その横顔は、空腹とは無縁そうだ。
「……あの先輩だね……」
「ああ」
ドアを後ろ手に閉め、未希と結美は静かにその先輩の方に歩み寄る。それに気づいたのか、彼女が二人の方を見た。その頬は痩せこけ、よく見たら制服がぶかぶかだ。食べているのか食べていないのか、と聞かれたら、間違いなく後者を選ぶだろう。
「何? 何か用?」
「あんたにじゃない」
誰が相手だろうと殆ど敬語を使わない未希は言うと、突然先輩との距離を縮めて蹴りを放った。あっという間の出来事だが、未希が舌打ちをしたのが分かった。彼女が蹴りを放った場所には既に先輩はおらず、その横に立っていたのだ。
「暴力とか、マジないんですけど……」
「……うるさい……」
近距離で睨みあう二人に、結美と勾陣は完全に蚊帳の外にいた。何と言うか、割り込める雰囲気ではない。
『まさか……。主のあの蹴りを避けるとは……』
「……どちらかと言うと、見切られたわけじゃなさそう……」
勾陣に返した後、結美ははっと息を飲んで未希の援護に行こうとした。が、それより早く、先輩の出した拳が未希を突き飛ばした。未希はそのまま飛ばされたが、辛うじて後ろにいた勾陣に受け止められる。
『主?!』
「く……。餓鬼だけじゃない……?」
未希の呟きが聞こえたが、結美は気にせず先輩に向かって殴りかかる。だが、それも簡単に受け止められ、弾かれる。細すぎる腕の、何処にそんな力があるのかとも思う程、弾かれたその力は強かった。思わず怯んだ結美に、先輩は追撃するよう手を差し出す。その動きは遅いのに、何故か速く感じ避けられなかった。
「ったぁ……」
「大丈夫、結美? くっ、やっぱり餓鬼だけじゃない……」
「あのさぁ……弱いなら掛かって来ないでくれる?」
挑発と取れる言葉を言いながら、先輩が攻撃を仕掛けた未希を蹴り飛ばす。普段なら避けられるはずの遅い蹴りが、超高速に見えた。避けれらず、腹で受けた未希は“たまたま”開いていたドアの向こう側、廊下まで蹴りだされた。更に運の悪いことに、窓のサッシの辺りに首を強打したのだ。掠れた声が結美の耳に届く。
「未希!!」
「うっさい、邪魔……」
更に結美にも蹴りを繰り出すが、それを見切ったように片腕で止める。足と弾いて睨みあう。その間に五時間目開始のチャイムが鳴るが教師が上がってくる気配は全く無い。
結美が先に動き、先輩に拳を突く出す。しかし、スピードを伴うはずのそれは、結美の思いに反してゆっくりしていた。それを避けられ反撃に蹴り飛ばされる。未希と同じことだ。廊下まで飛ばされ、床に背中を打つ羽目になった。
「弱いし、遅いし、論外」
先輩からの挑発に、結美の頭の中で何かが切れた。飛び出そうとした彼女の前を遮るように、矛が差し出される。矛の持ち主である勾陣を仰ぎ見れば、その目が怒りに燃えていた。
「勾陣……」
「……殺すなよ……」
『主! ……分かりました』
未希の掠れた声に、勾陣が答えて矛を構える。先輩は新たな標的に面倒臭そうな顔をしていた。
「未希……。餓鬼って何?」
先輩と勾陣の戦闘を尻目に、結美が未希に聞いた。呻きつつ立とうとする未希はそれに答える為に息を吐いて返した。
「仏教における六道の一つ、餓鬼道に落ちた亡者共の総称。永遠に満たせない飢えに苛まれる奴らだ」
だから、今回の件の予測はすぐについた、と未希は言う。だが、何か別のモノが手を貸している。そうでなければこんなに苦戦するはずが無い。そう言う未希の目を見て、結美は何か引っかかっていた。その目が、勾陣の矛を避けて反撃する先輩を見た途端、何か閃いたように輝いた。
「未希、うりこ姫と天邪鬼の話だよ!」
「うりこ姫と天邪鬼? どういうこ……と……!」
未希の目が驚愕に見開かれたが、結美は気にせず勾陣と先輩の戦闘に割り込む。勾陣がそれに驚き、武器を片付けて後ろに飛び去った。さっきまでとは違い、結美は“ゆっくりした”動きで先輩に向かって拳を突き出す。それは通常、結美が使うスピードで先輩を襲った。彼女はそれを避けれらず、腹に受け吹き飛んだ。が、“たまたま”閉まっていたドアに身体をぶつけ、教室に入ることは無い。彼女はぐったりとドアの傍に倒れた。
「……なるほど……。反対、ということか……」
『天邪鬼、ということですね』
「未希、私忘れたから封印お願い!!」
「了解」
結美に促され、未希はポケットから札を取り出し先輩の額の上に置いた。それは程なくして下に落ち、何事も無かったかのように拾い上げる。教室内からは、空腹の声とは違う声が聞こえ、階段からは慌ててあがる足音が響く。その足音に結美は慌て、中央階段から自分の教室へと、未希を放置して上がって行ってしまった。結美は振り向かなかった為気づかなかったが、未希はその背に小さく手を振っていた。
教師が行き過ぎるのを待って、未希は屋上に上がっていた。夏に近づく風は、心地よさでは無く不快な暖かさを伴って吹いている。給水塔の辺りに隠れるように腰を下ろしている未希に、勾陣は言い難そうだが声をかけた。
『まさか、あそこまで戻っているとは……』
「……そう……だな。正直、“予想外”だ……」
何に対して予想外なのか、勾陣はそれについて聞かなかった。グラウンドでは、体育祭の行進練習がなされている。そんな様子を見ながら、彼女は小さく口を開いた。
「――――か……」
言葉の始めの方は強風に流され聞き取れなかったが、従者はそれに対して眉間に皺を寄せることで答えた。