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夏空  作者:
番外編
92/94

あんたのような、変態には相応の死に方があるわ

中3の秋、少年は選択を迫られる。

その選択が後に自分の人生を大きく左右することになるとは

この時はまだ知らない。

 神谷功は自室の窓を開けた。スウっと入ってきた秋の訪れを感じさせる空気が頬を撫でた。


「少し寒くなってきたかな」


 最近、日曜の朝は冷える日が多く、季節の変わり目の体調管理が難しくなってきている。特に夏場は炎天下のマウンドで投げていた功にとって、秋の空気は冷たく感じられた。

 リビングに降りると母の結衣がエプロン姿で台所から出て来た。父は会社の人と釣りにでも出かけたのだろう、机の上にはすでに空きの食器が並べられている。多趣味な父が休日に家に居る方が稀であった。


「朝ご飯は?」


「食べる」


 結衣が出した朝食の味噌汁を口にする。温かい液が喉を通り、胃を温める。その温もりは血液に移り全身を駆け巡った。体中の細胞が目覚めてゆく、そのことが眠気から次第に覚醒する意識のせいでハッキリと感じられた。


「今日もお勉強?」


「そうだよ、受験が近いし」


 功は朝食を食べ終えると二階の自室へと向かった。ノートと参考書が広げられた勉強机に座るとシャープペンを右手に握り、昨夜の続きに取り掛かった。

 志望の公立校は決して偏差値が高く難しいと言うわけではないが、自分の学力を考えるともしかすると功は考えていた。もし、落ちれば家から遠くお金のかかる私立に通うこととなる。親への負担を減らしたい功はそれだけは避けたいと思っていた。


 動かし続ける右手を止めたのは集中力が切れたのではなく疲れたから。時計を見ると時刻は11時を回っていた。始めたのが9時なので2時間ぶっ通しで勉強していたことになる。小学校から中学校の今までに勉強の習慣のなかった功にとってわずか2時間でも右手は悲鳴を上げた。


「功、入るわよ」


 ノックの音の後に聞こえたのは結衣の声だ。結衣はドアを開けると勉強机に座る我が子を見て満足したのか笑みを浮かべた。


「ちゃんと勉強してるじゃない♪ えらいぞ~」


「はいはい、茶化すのはいいから。なんの用?」


 結衣が用事もないのに功に絡むのはリビングなど一緒の空間に居る時だけだ。自身の息子の1人の時間を尊重する結衣が用事も無いのにわざわざ勉強中の自分の部屋に来ることは無いと功は考えた。


 結衣は部屋へと入り、ベッドに腰掛けると神妙な面持ちで功をじっと見つめた。無言の言葉に功は今から彼女が自分に伝えようとしていることがなんとなく察しがついた。

 彼女の雰囲気は今まで幾度となく経験してきた『あの雰囲気』だったからだ。


「功、学校は楽しい?」


「普通。舞もいるし今までと比べればマシかもしれない」


「そう……実はね。

来年からアメリカに行くことになったの」


 何度も経験した異なる地への移住。功にとっては慣れたことだがさすがに外国とは予想外だった。多少面食らった顔の功に彼女はつづけた。


「今までだったら、功も一緒に来てもらうつもりだったけど……」


「けど?」


「功も来年は高校生なんだし、自分のことは自分で決めなさい。

私たちと一緒にアメリカに行くか、ここに残るか。

自分で決めて、そのことに責任を持ちなさい」


 結衣はそう言い残し部屋を出て行った。1人残った功は椅子の背にもたれかかり天井を見つめた。結衣の放つ雰囲気から転勤の話だと察していたがまさか、選択肢が残るとは思わなかった。


 そして、『残る』と言う選択肢があると知った時、何故か自分が嬉しくなるとは思いもしなかった。


(どーすっかなー……)


 自分1人では考えても答えが出ないと思った功は『隣の家の窓』をノックした。カーテンが空き、顔を出したのは不機嫌な幼馴染だった。


「よう」


 功が右手を小さく上げると彼女は窓を開けた。


「勉強中はノックするなって言ったのは誰よ?」


 舞は眉間にしわを寄せた。


「まぁまぁ、細かいことは今はいいじゃねーか」


 功は彼女をなだめると舞の顔をじっと見つめた。


「な、なによっ」


「別に―」


「人の顔、じろじろ見といて何もないわけないでしょ。

何考えたの?」


 舞は功の胸ぐらをつかむとグッと自身の方に引き寄せた。功の上半身が半ば空中へと放り出される


「ちょ! 危ないから、離せ!」


「理由を言え! 理由を!」


 何故かヒートアップする彼女の顔が赤い気がするのは怒っているからだと功は考えた。何が彼女を怒らせたのか見当もつかないがこのままでは自分の命の危険を感じた功は舞の方へと飛んだ。


「きゃっ」


「うお!」


 2人はもみくちゃになりながら舞の部屋へとダイブした。部屋の床にあたる間際、功は反射的に自分が床と舞の間に入るように身体を入れるとグッと眼を閉じ、背中から床へと落ちた。

 衝撃が背中から胸へと突き抜ける、その胸の上には身を小さくした舞。


「いってー、舞、大丈夫……あ」


 功が目を開けると右手が彼女の胸のふくらみをがっちりと掴んでいた。


「あんた……いい度胸ね……」


 舞が功の手から離れて、立ち上がった。


「ち、違う! これは事故だ!」


 功も立ち上がり両手を前にして舞に無実を訴える。しかし、右手に残るやわらかい感触に一瞬だけ顔がゆるんだ。

 その一瞬を彼女は見逃さない。


「何、考えてんだ! この変態!」


 素早い左足の踏み込みで功の懐へと侵入した舞は身体を左肩から回転させ下半身でパワーをつくりだす。足先から腰、腰から右拳へと見事な体重移動を果たし握った右拳は功のボディを捉えた。


「ぐふ!」


 身体が宙に浮くと錯覚するほどの衝撃が功の腹から背中へと突き抜けた。殴られた場所を両手で抑え、功は膝から崩れ落ちた。


「あんたのような、変態にはそれ相応の死に方があるわ」


 舞はパキパキと指を鳴らし戦闘態勢に入った。功は彼女の後ろに鬼のようなものが見えたと思うと、自分が今どれだけ危険な場所に居るか理解した。猛獣の巣に迷い込んだ小動物は狩られるしかない。全身から冷たい汗がにじみ出すのを確かに感じた。


(や、やばい! 本気で何か考えないと、俺が死ぬ!)


 頭をフル回転させ自分の生き残る道を考える。ここはアウェイで逃げ場は無い。この狭い舞の部屋で逃げ切ることは不可能。真っ向からの打ちあいに勝ち目はない。しかし、単純な力はこちらが上である。


(これしかない!)


 功は足に力を込め前へと飛び出した。


「な!」


 自分の胸を触った男の予想外の行動に一瞬、動きが止まった舞は両手を功に掴まれるとそのまま後方のベッドに押し倒された。


 快晴の秋空が広がる下の家内で繰り広げられる駆け引き、中3とはいえ女子の上に男子が覆いかぶさるその姿は第3者が見れば完全に誤解を招く形だ。


(ど、どうしよう……この後……)


 同い年の幼馴染を己の身の安全のためとは言え押し倒した功はこの後の展開をどうするか困っていた。咄嗟の判断で前に飛び出し舞の動きを封じることに成功はしたがこれでは完全にこっちが彼女を襲った形になってしまっている。


 両手を抑え向き合う彼女の身体が嫌でも目には入ってくる。白い首筋から視線を下に移すと胸元が少しゆるいTシャツを歪める二つの山。もうすぐ高校生となる彼女の身体は幼さを残しながらも確実に大人の女性へと階段を上っていた。


「ね、ねぇ……どいてくれない?」


「お、おう」


 舞からの提案を反射的に受けた功は両手を離し彼女から離れた。


「わりぃ」


「いいよ、先に悪いことしたのこっちだし」


 とりあえず彼女の怒りは収まっている。安心した功はその場に尻もちをついた。


「あー、殺されると思った」


「こっちは襲われるかもって、思ってたんだぞっ」


「勝手なこと言うな!」


「うるさい! あんたがか弱い女の子を押し倒すから!」


「か弱いだと? 寝言は寝て言え!」


「なんですって!」


 幼馴染とのいつもの口論。もし、親の転勤について行けばこんな日常は無くなる、向こうではもっといいことがあるかもしれないと言うのに。


(俺にはどうしてもそれが想像出来ない)


 功は何故、自分が『残る』と言う選択肢を選ぼうとしたのか少しだけ理解できた。自分が今いるこの場所以外に居る未来が見えなかった。見えるのは今ある日々の延長線だけ、その日々で次の3年を生きる。そう心に決めた。



 その日の夕方、両親に「残る」と自分の意思を伝えた功が自分をこの地に留まらせたモノが幼馴染への『本当の気持ち』に気がつくのはもう少し先である。


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