第72話 言われなくてもそうしますよ
鬼塚の投げたボールはインコースの胸元に構える赤司のミットへ。
そのボールに反応を示した淳だったが、その前に投げられたスローカーブの影響のせいか、反応が少し遅れた。
ただでさえ前のポイントでボールをさばく必要のあるインコースだ、今のタイミングの振り始めではクリーンヒットの望みは薄い。
せめて、ファールになってくれれば……
次の瞬間、自身の予想と願望とは違い痛烈な金属音が大観衆の甲子園に響いた。
淳の打った打球は右中間へ、ボールが外野の間を抜けたことで大きくなる歓声。
それを聞いたとき、俺は淳がヒットを打った事に気がついた。
慌てて走り始めるがボールは依然として外野をテンテンとしている。
ランナーコーチが手を必死に回しているのを三塁の直前で確認すると一気に本塁まで加速した。
均衡を破る先制タイムリーツーベース、値千金の一撃を決めた4番は2塁ベース上で両手を突き上げた。
Side 藤井 高志
「勝負あったな……」
9回表、二死福岡学院の最後の攻撃は最後の1人まで追い詰められていた。
ランナーはなし、スコアは7対0で開成高校のリード、6回に4番の山中君の一打で均衡を破り福岡学院のメンバーの緊張の糸が僅かに緩んだ。
その僅かな隙を春の王者は攻め立てた、打者一巡の一挙7得点、圧巻の攻撃だった。
隣の席に座り扇子で顔をあおぐ飯村がため息交じりに口を開いた。
「ここまで一歩的な試合になるなんて」
彼女の気持ちも分からない事も無い。
福岡学院の特集を組んだ記事は全て彼女が担当して作った。
少なからず感情移入もしていただろう。
オール一年生の夢のドーリムチーム、同じ世代なら間違いなく敵はいないだろう、しかし彼らが神谷君たちの代で同じようにチームを結成したとしても、史上最強の名を手に出来ていたかどうかは疑問だ。
照りつける日差しに奪われた体力が、喉の渇きをつくり身体が水分を望む。
さきほど、甲子園の売店で買った500mlのペッドボトルに入ったお茶を口に含む。
現役時代はこれがスポーツドリンクだったと思うと、少しだけ懐かしさがこみ上げた。
この暑さのなか、甲子園で野球をしている球児たちを見ていると、よく自分がこの暑さの中プレイしていたと感心する。
特に投手と呼ばれるポジションの選手はその特性上、人一倍体力を奪われやすい。
ましてやエースと呼ばれる者はその夏もっとも過酷な宿命を背負った選手だ。
複数の投手を使い分けるのが今の高校野球の流れだが、開成は公立校がゆえに神谷君以外の投手は全国レベルに達する投手はいなかった。
つまりそれは、神谷君は甲子園では1人で全試合を投げ抜く必要があるということだ。
だからこそ、彼にはここぞという時まで力を抑えるように教えた。
しかし、最後の打者鬼塚君を迎え、神谷君の表情が変わった。
――全力で投げる気だな……
Side out
Side 山中 淳
功から発せられる独特のオーラ、それはこれから全力投球をすることを意味していた。
打席に鬼塚に力の差を教えるつもりか……まぁ、最後ぐらいええか。
功が全力投球をすると決めた以上、細かいリードや多彩な球種のサインなど必要も無い。
全てストレートで押し切る。
打席の鬼塚も功の雰囲気が変わった事を読みとったのか、表情に緊張が走る。
試合の大局はほぼ決まってしまったが、その闘志は萎えていない。
負けん気の強さだけは上級生だな。
「鬼塚君、功の全力投球や。
よう、見ときや」
「言われなくてもそうしますよ」
鬼塚がバットを構える。
ストレートのサインを出し、アウトコースにミットを構えた。
功が振りかぶり投げたボールが構えたミットに寸分の狂いも無く収まった。
「ストライーク!!」
審判が腕を上げコールした。
久しぶりにボールを受けた左手に痺れるほどの衝撃が走った。
バックボードには『150km/h』の表示。
甲子園の歓声がざわつきに変わった。
この夏の甲子園、功が150という、数字を超えたのは初めてのことだった。
勝つために省エネ投法をしていたとはいえファンからしてみれば150キロを投げる高校球児は魅力的だし、その数字を超えて欲しいと思うだろう。
このざわつきは功が150を最終回に超えて来たという驚きと期待にこたえてくれたと言う思いから来るものだろう。
「ナイスボール!」
功にボールを返し、2球目に備える。
とはいってもサインとコースは1球目と同じ。
さて何キロがでるやろか?
Side out
Side 鬼塚 公平
2球目のストレートにバットを出すもかすりもしなかった。
バックスクリーンに表示された球速は『151km/h』。
球速も超高校級だが、何より球威そのものがすでに常軌を逸している。
クソが……手抜きでも手も足も出ないのに、本気の投球がここまでとは……
勝てると思っていた、一年生だけの俺達でも力を合わせればどんな怪物でも倒せると。
しかし、自分の今目の前に居る投手は本当の化け物だった。
マウンドの神谷はロージンを2回手で遊ぶと地面に落とした。
帽子をかぶりなおしキャッチャーである山中のサインを見る。
その一連の動作から発せられる雰囲気というものは『絶対的エース』というにふさわしいものだった。
これがエース、これが『神童』神鳥 哲也と並び賞される『世代最強エース』と呼ばれる男の姿か。
ふつふつと自身の中から湧き上がる今まで経験したことのない感情。
知ってる……俺はこの感情がなんと呼ばれているか知っている。
そうさ、これが『尊敬』って感情なんだろうな。
なんせ、神谷の投げるボール立ち振る舞い、そのすべてが俺の求めたエース像そのものだったからだ。
3球目、振りかぶった神谷から投げられたボールはアウトコースのストレート。
フルスイングでバットを出すも俺のバットはむなしく空を切った。
高校生、初めての夏が終わった瞬間だった。
Side out




