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夏空  作者:
第3章
58/94

第58話 普通っすよ

 春の選抜で優勝してから一か月、周りは以前とは比べ物にならないくらい騒がしくなった。

 学校ではプロに行くのかとか、夏はどうなんだと聞いてくる連中もいるし、練習中にはスカウトらしき人が来ているらしい。

 来ているらしい(・・・・・・・)、つまり俺はその人たちを直接見たことは無い。


 加地先生の判断で選抜の疲れがとれるまでは投げ込み禁止、ついでに周りが静まるまでは練習に顔を出すなとのことだ。

 一度全国制覇を経験した人の言葉は重みがある、さすがの俺も従うことにした。

 淳によると今年の新入生は、なかなかの粒ぞろいとのことだが……練習に出ていない俺がしっかりコミュニケーションとれるか心配だ。


 

 そんなこんなで今、俺は加地先生の紹介でとある大学の野球部の練習施設に居る。

 学校から一時間ほどの大学には、高校生より少し体格の大きい部員が数人いる。

 室内練習場には甲子園でも見たが、この大学のものは大分大きい、内野一つ分なら楽々入る大きさだ。


 にしても、俺はいつまで待たされるんだろう?


「臨時コーチって一体誰だよ」


 大学の人には、話は聞いているから着替えてここで待てと言われ30分……室内練習場の端で身体を温め終わりひたすらストレッチ。

 身体を冷やさない様にするのも、結構大変なんだぞ。


「遅くなってすまんなぁ」


 聞き覚えのある声が室内練習場に響いた。

 振り向くとそこには、上下黒のジャージに身をまとった藤井さんの姿があった。

 

 まさか……


「加地に頼まれてなぁ、まぁよろしく頼むわ」


 彼は握手を求めて右手を差し出した、とりあえずそれに応えたが……大丈夫なのだろうか?

 

「そう疑うような目をしなでくれよ、全盛期は10年以上も前なんだから衰えてるよ」


 そう言って、彼は近くにあったバットを手に取り持って軽く振った。

 鋭い音が聞こえ、バットが通った場所の空気が切り裂かれた、何気ない一振りだけどこの人が普通じゃないってことだけはハッキリと分かった。


「じゃあ、とりあえず始めるか」


 屈託ない笑顔の藤井さんに緩さと不安を感じた俺だったが、その判断が甘かったことをこの後知ることになった。









Side 加地 幸一


「先生、これ春の大会中のウチの部員のデータです」


「わざわざ、すまんな」


 バックネット裏で練習を見ていた俺に北川が一冊のノートを渡してきた。

 彼女から渡されたノートを手に取り目を通す。

 

 いつもながら、よくまとめられたノートだ、打率などの数字などはもちろん選手のフォームに関する事までも細かく書いてある。

 我が開成高校では大会中の試合前ミーティングは北川の作ったレポートを参考に進める、そういった所も含め北川はウチにとって貴重な戦力だ。


「神谷君、密かに練習してませんかね?」


「大丈夫だ、監視役は頼んであるから」


「誰ですか?」


「俺の知る中で最高の打者だ」


 手を顎に当て彼女は首をかしげる。


「先生の知り合いですか?」


「まーな、それよりも山中とは順調か?」


「な、なんのことですか?」


 彼女は顔を引きつらせながら笑った。

 なんともぎこちない笑顔だ。

 別に誰も主将とマネージャーの恋愛は禁止など言った覚えはないんだが。


「まぁ、末永く幸せにな」


 視線をノートの方に戻した、北川は「失礼します」と言ってグラウンドの方へ戻って行った。

 ……家に帰ってから見るか、パタンとノートを閉じてグラウンドを見た。

 

 キャッチボールの途中だった、グラウンドはサッカー部と陸上部などと共有なので出来る練習も限定される。

 選抜で優勝したので優先的に使っても構わないと、各部の顧問から言われたがそのことを山中たちに伝えると「他の部の練習スペースを削ってまでするつもりはない」と言い、その話は流れた。

 その代わりに練習道具が欲しいと言って、追加の部費は全てそちらに回した。


 それにしても神谷はどうしているだろうか?

 自分で教えるには少し気が進まないので藤井に託した、予定では6月までの3カ月は藤井に預けるつもりだ。

 その間にこっちはこっちでチームの底上げをはかるつもりでいる。


 神谷と山中に依存しているチーム状態を脱却するのが夏までのとりあえずの目的だった。

 あとは……ノリと勢いだな。


「先生、アップ終わりました」


 山中がそう言った。


「よし、ノックするぞ」


「先生が打ちはるんですか?」


「嫌か?」


「いえ、今まで見たことないもんなんで……」


 何を隠そう、俺はノックバットを持つのは監督になって初めてだ。

 選手が楽しくやってくれればそれでいいので、ノックも選手に任せていた。

 しかし、今年は事情が違う、選手が本気で勝ちたいと思うのなら力を貸すのが指導者ってもんだ。


「怪我だけは無いようにみんなに言っとけ」


「はい、分かりました」


「じゃあ、しまっていこう」


Side out






「初日だしこんなもんか」


 練習所の人工芝の上に大の字に寝転ぶ俺に藤井さんはそう言った。

 

 ――持っているものを見たい。

 その一言で始まったトレーニングは、熾烈を極めた……内容そのものよりも間の休憩が短すぎる。


「息を整えたらグローブを持て」


「へい?」


「キャッチボールだ」


 10数メートルの距離で軽くキャッチボールをした、ボールを投げるのは久しぶりだったので指の感触を確かめながら投げた。


「やっぱり、150キロ投げる奴のボールは違うな!」


 藤井さんが嬉しそうに言った、彼のボールは肩・肘・手首が連動し鞭のようにしなり回転が加えられる。

 内野手だと言っていたがピッチャーも出来るんじゃないか?


「普通っすよ」


 そう言い返し少し強いボールを投げるために、軽く振りかぶった。

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