第52話 勝負にならん
後ろのポケットに入れておいたロージンを右手の指先に馴染ませる。
試合開始のときは小雨だった雨も試合中盤からは、本降りとなっている。
「巧! しっかり叩きつけろよ!」
視線の先にいる淳がそう言いながら、右腕を振るデスチャーで指示を出す。
最終回、桜井のスクイズで1点を奪い取った開成は最後の守りで二死満塁のピンチを迎えていた。
打席には、3番の左バッター。
ミートが上手くて弱点が少なく攻めにくい打者だ。
今のカウントは、ワンボール、ツーストライク、つまり俺たちが追い込んだ形だった。
しかし、追い込んだ後に投げたチェンジアップを見逃され少し投げるボールの選択に困っている。
最初はストレートが待たれているような気配を淳も俺も察しスライダー2球で追い込んだ。
スライダーはタイミング捕まえられてる気がするし……たて続けにチェンジアップを投げるのは、このバッターに対してはリスクが高すぎる。
腕を振り切れと言った、淳のサインはストレート。
あえて投げ込むか、じゃあ思いっ切り行ってみますか!
セットポジションの姿勢から3塁ランナーに目で牽制を送り、ゆっくりと足をあげた。
左手を3塁の方へ突き出し壁を作る、下半身から生み出した力を指先へ。
放たれたボールは、打ちに来たバッターのバットに当たることなく淳のミットへ。
大歓声が響く中、息をゆっくり吐き、表示された球速を帽子のつばから覗き見た。
151キロ……自己最速だ。
Side 前川 千紘
「へー、神谷って子凄いじゃん」
撮影の合間に携帯のワンセグで高校野球を見ながら呟いた。
ただの野球好きの素人にもわかる、圧倒的存在感とチームメートからの信頼。
彼が普通ではない事は容易に想像できた。
まぁ、私を知らないくらいだし忙しいに違いない。
でも、初対面で私にあんな素っ気ない対応をした人は同年代では初めて。
だから私は彼に興味があった。
マネージャーに宿舎に行けないかどうか、聞いてみようかな……大会が終わるまでは仕事で関西に居るんだし。
「千紘ー!
来て頂戴!」
マネージャーが私を呼んでいる。
「はーい」
携帯のワンセグを終了し自分のカバンに入れた。
マネージャーへの頼みごと忘れない様にしなくちゃ!
Side out
試合後のインタビューを終えて、甲子園内の通路を歩いている時だった。
帝羽学園と書かれたユニフォームを着た選手が1人で前から歩いてくる。
あの高校のことはよく覚えている。
秋の神宮大会で決勝で戦った相手だ。
淳の逆転サヨナラスリーランで7対5でギリギリ開成が勝った。
「よう、ナイスピッチング」
すれ違いざま、帝羽の選手が話しかけてきた。
見たことあるような気もするが対戦相手の顔を普段覚えない俺は、誰か思い出せない。
印象に残っていると言えば、4番サードで出ていた奴のみ。
なんせ完璧な当たりでホームラン打たれたからな……
男は続ける。
「帝羽と当たるまで負けんなよ」
ベスト8決定の後に行われた抽選では、帝羽とは決勝であたることになっている。
「あいよ」
誰か分からないので適当に返事をした。
「じゃあな」
そう言って、すれ違う男の背番号に視線を移した。
ーー5番。
神鳥不在で今大会No.1スラッガーと呼ばれる男の背番号だった。
準々決勝第2試合は、帝羽学園の圧勝に終わった。
「4番、横尾 剛か……」
宿舎の広間で帝羽の試合を見終えた後、呟いた。
「強力打線の核になる人物やからな。
対戦するときはキーパーソンになるのは間違いないやろな」
隣にいる淳が今日の試合が載っているスコアブックを見ながら言う。
「それより先に準決勝あるからね」
北川が俺たち2人に釘をさすように言った。
広間には俺たち3人以外人の姿がない。
ほかの奴らは外でバットでも振っているんだろう。
俺もシャドーでもすっか。
そう思って立ち上がり広間の出入口へ向かい歩を進めた瞬間上着の端を誰かに捕まれた。
振り向くと北川が俺の服を掴んでいた。
「どこに行く気かしら?」
俺の本能が警告を促している。
目が笑ってないとは、こうゆうことを言うのか……
「さ、散歩だ」
北川の性格はこの2年である程度は、把握しているつもりだ。
経験上、この感じは少し怒ってる……
「休暇が一番必要なのは誰か分かってる?」
「……監督?」
「そう……分からないなら身体で覚えるしかないようね」
や、ヤバい!
北川の後ろに般若みたいなのが見える!
彼女は、俺との間合いを詰め。
「フッ!」
舞直伝のボディブロー。
声なら無い声を出しながら俺は、ひざをついた。
おのれ舞め……余計なモノを教えやがって。
「たたでさえ、開成は層が薄いんだからしっかり休んでなさい!」
「はい……かしこまりました」
結局、俺は北川の気迫に圧倒された。
「神谷、肘や肩に違和感は無いか?」
夕食後、部屋へと向かう廊下で加地先生に話しかけられた。
我が開成高校の監督にして、現役時代は春のセンバツ優勝、夏の選手権準優勝の実績を持ち、高校野球史上最強チームの1つと言われた舘鳳高校のエース……普段の緩い感じからは、そんなことは微塵も感じられない。
さらに藤井さんがそのチームの4番だったと言うから、凄さがイメージしにくい。
「淳が僕の疲労を考慮して、リードしてくれてるんで大丈夫です」
「そうか、確かに山中は心配性だからな」
そう言った、先生に俺は以前から思っていた疑問をぶつけてみた。
「今の状態で、開成と聖王が試合をしたらどうなりますか?」
先生は少しだけ目を見開き、腕を組んで目を閉じ廊下の壁に寄りかかり。
「率直な意見が欲しいのか?」
「開成高校の監督してではなく、個人の意見が聞きたいです」
少しだけ間が生まれた。
そして……
「勝負にならん」
そうハッキリと先生は、言い切った。




