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ロンドンの墓には貝殻が眠っている

作者: 聖園 澪
掲載日:2026/04/04

「潮の香りが嫌いなんだ。でも、冬の海は違う。

寒さに匂いが殺されたみたいで。」

私は嘔吐する彼女の背中を擦りながら、そう独り言のように呟いた。小さい個室に酸っぱい匂いが滞留して、こちらまでむせ返りそうになる。そうしてトイレの白い便座に、彼女の細腕が震えながら掴まっていた。脂肪までが赤の裏側に見える、刃物での深い傷。血液を惜しみ無く垂れ流し、彼女は嘔吐の隙間、か細く言葉を紡いだ。

「・・・あたしも、潮は嫌い。冬も、波の音も、全部。」

「そうだね、嫌に・・・なっちゃうね。」

私たちはいつだって、嫌いなものの話しかできない。猫のように、どんどん小さく丸まっていく背中。服越しにも分かるほのかな温みが、彼女が生きているのだと私に思わせる。不意に彼女が息継ぎのためか、顔を水面へ向けたまま少し上げた。どろりとした吐瀉物、薔薇風呂にも似た赤い鏡。そんな鏡に赤く映った彼女と、一瞬目が合ってしまう。オーバードーズのせいで瞳孔が大きく、小動物のように可愛らしい。彼女の全てが掌に収まってしまいそうな、そんな錯覚が心臓を柔らかく撫で上げてくる。もしも今、私が彼女の吐瀉物を掬って、それら全てを丸ごと飲み込んだなら。彼女は私のことを、気味悪がるだろうか。それとも、愛しいと思ってくれるだろうか。一頻り吐き気を出し切ったのか、彼女は便器から倒れるように離れた。その後天井を向いて、瞳を瞑りながら大きく深呼吸を始める。口元には、黄色と肌色が混ざったような半液体の欠片。私はそれを、指先で優しく拭ってみる。それからじんわりと指に温かさが広がって、私はすぐにトイレットペーパーでそれをゴシゴシ擦る。ゴミになった紙をトイレへと投げ込んで、赤い水と吐瀉物と一緒に流した。

「包帯、取ってくるから。」

「ありがと。いつも。」

居間に転がっている薬の、中途半端に残る瓶や箱の死体。内臓のように飛び出た薬剤を包む銀色が、鉄の匂いを纏って一層重々しい。散らばったそれらを蹴飛ばして、私は背の高いラックへと向かう。立ったまま、私の手の届き易い位置にある彼女の包帯。それを見て私は、ボコボコと白い凹凸のある自分の手首をすっと撫でた。蝿が卵を産み付け、蛆が這い上がるような痒み。雨の日と、それから鉄の匂いがする日は特に痒くなる。私は包帯を手に取って、自分の腕を掻き毟りながらトイレへと戻った。血液で溢れた地面の上に、虚ろな瞳で天井の電球を見つめる彼女。自分より弱いものを見ると、心の底から安心できる。私はもしかしたら、生きていて良いのかもしれない。視線を全く動かさない彼女に跪いて、私は倒れている手のひらに指を絡めた。自分よりも随分冷たくて、弱々しい指先。とても汚らしくて、悍ましくグロテスクな生傷たち。私はそんな赤色に、優しくゆっくりと包帯を巻く。泥だらけの地面を、降る雪が覆い隠すみたいに。血が滲んでいく分、白さが失われてしまわないよう丁寧に、丁寧に。

「あたしの中に海があること、ゾッとする。気が狂って、頭がおかしくなって、叫び出したくなる。」

違う顔をした二つの血液。腕に包帯を巻いて、見えないように隠しても鼻から存在を明かしていく、粘性のどろりとした潮の赤。私たちはもうしばらく、月に一度ほど母なる海に穢され続けている。私は彼女をそっと抱き上げて、フラフラと覚束無なく、体重を感じさせない足取りを支えた。そうして居間のソファーに彼女を寝かせたあと、深くベッドに腰掛けて息を吐く。ベッドの中には備え付けの、少しだけ口をつけたペットボトルが潜り込んでいた。小さな家出のラブホテル暮らし、どこのメーカーかも分からない業務用の250ml水は、ぬるい不幸の味がする。

「ねぇ、冬休みが終わったら。」

ツルツルの布団の中へ入って、それで全身を覆ったまま私は喋った。じんわりと、自分の体温が広がっていく。ただそれとは対照的に、音は途切れたまま布団の中に立ち止まる。

「・・・高校には、もう行かない。」

彼女はそんな風に、私の途切れた言葉を勝手に掬っていく。水底に足を引かれているのか、水面に腕を掴まれているのか、私には分からなかった。

「ならさ、春から逃げよう?ずっと、冬休みの中に居ようよ。」

もうすぐ冬が終わって、私たちの気が付かないうちに桜だって咲く。みんながマフラーを取って、誰もが長袖を捨てているのに、私たちは長袖のまま、日差しの下に立たされる。そんなの、お前たちは正しくないって言われているみたい。

「・・・そうしよう。そうしようか。」

雪みたいにまっさらな計画の逃避行。私たちは傍に寄り添う事もなく、お互いの表情も見ないまま旅に出ることを決めた。目的地はとにかく、ずっとずっと北の方。消えかけの室内灯。その中に蠢く、弱々しい二匹の蛾。私は布団から少し出した瞳で、それらをぼーっと追っていた。


昼に起きて、少し可愛らしい服を着て、小さなバッグに荷物を詰める。見せたい相手が誰もいないフリルは、屋根の下に出来る氷柱に似て、私の心に鋭く透き通った。凍えてしまうほど冷たいけれど、刺さる傷口だけがじんわり温かい。荷物をほとんど詰めなかった私とは違って、彼女は沢山の本を大きめのリュックに入れて背負う。小さな体に重い荷物がのしかかり、今にも倒れてしまいそうだなと思った。

「本、好きだったっけ。」

「違うよ。あたしには他に、何もないだけ。」

彼女はそんな風に、無表情で言葉を吐き捨てる。動かない瞳の温度の無さが、とても澄んでいて羨ましい。今すぐに服のフリルをちぎって、彼女の足元に叩きつけてやりたくなった。イライラして、思いっきり壊れたフリルを踏みつけてやろうかと思った。でもそんな事をする勇気もないから、私は何も出来ずにスマホをベッドにそっと置く。

「いくなら、こんなの置いていこうよ。こんなもの、最初から要らなかったんだよ。」

「うん。結局、インターネットだってあたしの居場所じゃなかった。だから、もう要らないね。」

ベッドに転がる、二つのスマホ。ピンクで可愛くて、柔らかい素材のケースを付けた私のスマホ。黒でシンプルにまとめられたカバーの、シールが所々に貼ってある彼女のスマホ。ふと、古くなって剥がれかけた、ギターのシールがひらひらと手を振った。弾かれた音は、どこに消えていくのかな。シールのギターは音さえ上げてくれなくて、私はそれが答えな気がして苦しくなった。ドアのない部屋から抜け出して、暗い細路地を歩いていく。昼過ぎの、もうすぐ夕方になりそうな空の色。子供が零したような都会の青が、私はずっとずっと嫌いだった。電車には乗らないで、ひたすらに北へ向かって歩き続ける。どこまで行っても同じようなビルの群れが続いて、少しでも進めているのか分からない。ただ時々、まばらに置いてある地図だけが私たちの距離を肯定する。

「ねぇ、ちょっと歩くの早いって。ちょっと待ってよ。」

「あ、ごめん。」

私の厚底パンプスは、簡単に私の足を痛めつける。その一方で、彼女のスニーカーは彼女に対してとても優しい。くるりと、先行していた彼女はこちらへ振り返って立ち止まる。化粧っ気がないのに綺麗な肌、小さい背丈に似合うくりくりした瞳、ボサボサに見えて猫みたいな可愛らしさの髪の毛。彼女と目が合って、私は小さな頃の自分を思い出した。フリルとキラキラが大好きで、小さくてふわふわのものに憧れて、近所によく現れる茶トラの猫を可愛がっていた。今でも鮮明に思い出せる、肉に刃物を入れる感覚。小さい両手で力いっぱいカッターを握って、上手く進まない刃を思いっきり押していく。切断というよりは、押し千切るみたいな。可愛らしい生き物から零れた、グロテスクな臓物。そういうものを見ると、なんだか私はほっとする。

「・・・もう暗いし、どっかで休もうよ。」

彼女がこちらへと寄ってきて、私の手を優しく取る。猫が足元に寄ってきて、すりすり頬擦りをするような感覚。その時、私は足の靴擦れに強烈な熱を覚えた。

「そうだね。ホテル・・・スマホないんだった。ネカフェかカラオケでも探そっか。」

冷たい彼女の手を小さく握り返して、それから自然にそっと離す。歩く度にパンプスが私を苛めて、履かれることを拒み続けていた。それに耐えながら、私たちは夜を過ごせるような場所を探して回る。そうして案外近くにカラオケを発見し、今日はここで寝ることに決めた。手早く受付を済ませて、私たちは薄暗い部屋へと通される。仄かな明かりしかない部屋の真ん中にあるミラーボールが、キラキラとたくさんの色を疎らに吐き出した。私はそれが見たくなくて、そっとミラーボールの電源を落とす。

「ねー。一応カラオケだし、なんか歌おうよ。」

彼女はデンモクとマイクを手に取って、液晶を滑らかに指先でなぞる。何も塗っていないのに、暗闇でも映える自然なピンクの自爪。私はそれから逃げるみたいに、部屋の奥にもう一本置かれているマイクへと向かって手を伸ばす。彼女が曲を入れたのか、急に部屋のテレビが電源を灯して光を宿した。私のマイクを掴む歪んだトップコートの窪みと、その中に溜まっていく光の澱。液晶テレビから流れるミュージックビデオが、可愛らしいピンクと水色を大量に垂れ流して、私たちに浴びせる。

「おーんなのこーだけっ、もらーえるポケットティーッシュ。」

とても綺麗な歌声で、汚れてる部分なんかない澄んだ歌い方。私の汚い部分を撫でてくれるような曲を、彼女は綺麗に歌い上げてしまう。私のフリルを掴む指に、また少し力が込められた。手遊びが止まらず、爪と爪同士が何度も擦り合わされてトップコートがボロボロになる。彼女が曲を歌い終わるまでの二分半、私は一度も液晶テレビを目に入れることが出来なかった。ただじっと、彼女の長く伸びたまつ毛を見て、これが売り物だったらと何度も思っていた。彼女が歌い終わって、テレビは沈黙し少しの静かな時間ができる。私はその間、必死でデンモクを弄って自分でも歌えそうな曲を探した。可愛らしい曲、辛い気持ちを歌ってくれる曲、全て投げ出したみたいな軽やかさを持つ曲。そういうものを上へスクロールさせて、私はどうしても流行りの曲しか歌えなかった。うろ覚えの歌詞で、口から上滑りしていくメロディー。音程バーがフラフラ揺れて、採点はお情けの八十点をくれた。綺麗な歌だって、ただ綺麗に歌うこともできない。マイクが私の声を咀嚼して、それを反芻するように戻し、私の耳へと届ける。鼓膜に籠る自分の声が、なんだかとても気持ち悪く思えた。それから私たちは交互に何曲か歌ってから、疲れた後で長いソファーに横たわる。

「春から逃げるって。北に行くって、言ってたじゃん。」

「・・・そうだね。北だから、北海道とか?」

私は何も考えずに、安直な答えを呟く。すると彼女は間を置かないで、最初から決めていたかのように言葉を紡いだ。

「ううん。もっとずっと、北の方。イギリスのロンドンがいいな。」

そんなの、出来るわけのない幼稚な妄想だと吐き捨てたかった。けれどパスポートを作ったことのない私は、海外に行くだなんて想像もしなかった。彼女は私よりも随分小さな頭で、私よりも大きなことを考えている。

「昔、旅行で行ったことがあって。そこで聞いたの。ロンドンには悪魔が住んでいて、自殺で死んだ人の墓を荒らして、骨を盗んでいくんだって。そうして代わりに、貝殻を一つ置いていく。」

「そんなの、知らなかった。それで、だからロンドンなの?」

「うん。骨だって残さないで、誰の人生からも消えていく。そういうのが、あたしにとっては嬉しいんだ。」

私は、私の悩み一つも自分のものにできないんだと思った。彼女みたいに繊細で、きちんと自分の世界を持っている人だけが持つことのできる高尚な悩み。私の痛みや辛さは、いつだって世界のどこにも影を落としてくれなくて。もしも、私たちがロンドンに行けたって、私のお墓には貝殻は置かれないんだろう。それどころか、お墓だって立たないかもしれない。そう考えると、なんだかグッと泣きたい気分になった。

「・・・どうしたって残るでしょ。あんたは特に。」

細かく割れたガラス片ほどの大きさをした声量で、私は皮肉を摘んだ。指から血が流れて、自分だけが痛い。無視されたのか、それとも届かなかったのか。彼女は言葉を返さずに、部屋の天井を目を瞑って向き続けていた。廊下から漏れる光が彼女の顔を照らして、辺りの暗闇にぽっかり浮かんでいる。世界はやっぱり、彼女にスポットライトを当てているんだ。私は音を立てずに立ち上がって、綺麗な寝顔を貼り付けている彼女を見つめた。ニキビ跡なんて欠片も見当たらない頬に、きちんと矯正されたであろう歯列と、それを示す形のいい顎。今、彼女が目を開けていなくて良かったと、心底思う。こんな表情を見られてしまえば、きっと軽蔑されてしまうから。それに、彼女の瞳に映る私の顔なんて見たくなかった。私は自分の頬を撫でて、頬骨の凹凸に指を跳ねさせる。指の腹にはニキビの丘とクレーター。なぞった指を見れば、キラキラとファンデーションやラメが付着していた。彼女の顔にはない、人造の輝き。私は音と爪を立てずに、自分の顔を滅茶苦茶に押したり掴んだりした。低い鼻が両手にすっぽり覆われ、ただでさえ一重で小さい目がくしゃくしゃになる。全力で思いっきり叫んで、今すぐにこんな場所から逃げ出してやろうと思った。

「泣いたら、もっとブスになっちゃうな。・・・今更か。」

私は力なく元の位置に戻って、硬いソファーに横になって倒れ込む。ツルツルと冷たいソファーは私の体温を自覚させて、心臓が波打って体が揺れることを教えてくる。私は、どこへ逃げたって私から逃げられない。体温で失われていく冷たさに嫌気が刺して、私は彼女を起こしてしまわないようにそっと部屋を出た。それからドリンクバーに向かって、横に配置されているコップを手に取る。丈の短くて、大した量も入らない薄汚れた青色のコップ。私は耐熱容器でもないそれに、真っ黒で高温のコーヒーを流し込み続けた。そうしてただぼうっと、黒色が溢れ返り零れていくのを眺める。液体が流れ落ちる音と、空調の吐き出す雑音がやけに耳の中から離れない。

「あの、大丈夫ですか?」

不意に、後ろから声をかけられた。振り返るとそこには、小太りの中年男性が怪訝な顔でこちらを見ている。顔を向いていた視線が、下へ下へと降りていく。フリルを備えた首筋を伝って、心臓の手前にある小さな膨らみへ。

「大丈夫に、見えますか。」

時々、人生に否定される瞬間がある。気が付けばコーヒーの香りは消えて、私は彼の取ったカラオケルームでセックスをしていた。外から見られないように、ドアに掛けられた背広から香る加齢臭が廊下の光を遮る。まるで、スポットライトから世界を切り離したみたいに。そうして私のお父さんよりも長く生きている人の体に乗って、私はコーヒーを零すみたいに腰を振った。何も感じない。何も感じられない。行為が終わったあと、私は一万円を握らされて部屋を追い出された。私は、札束一枚で買える女だった。それから、私は無表情のまま彼女のいる部屋に戻って、またソファーの冷たさを感じる。今度はちゃんと、冷たさが体に染み入っていく感じ。温もりのない、血を失いすぎたあとのような冷ややかさが、私を安心させてくれた。私はそのまま眠りについて、その晩夢を見た。歯がボロボロと口から逃げ出していって、何も喋れなくなってしまう夢。痛みはなく、ぼんやりと靄が濃くなっていく感覚。ひい、ふう、みい。まず28本の黄色い歯が転がって、それから4つの親知らずが血を纏ってまろび出る。最後に、真っ黒な虫歯が1本。口から血が出ているのか、やけに鉄の匂いが鼻をつんざく。よく覚えのある、大嫌いな匂い。私小さい頃、お父さんによくぶたれてたんだった。両親は、もう随分前に離婚した。私はちっともお父さんのことを好きではなかったけれど、それでもずっと、お父さんに捨てられたんだなって思ってしまう。私は一体、誰に愛されればいいんだろう。一体誰に、愛してもらえばいいんだろう。私はわざとらしく泣き声を上げてみたくて、叩きつけるように思いっきり叫んだ。それでも、歯がないから上手に泣くこともできない。私は地面に転がった虫歯を手に取って、それをもう一度口の中に押し込んだ。喉の奥にころころ、滑らかな乳歯が墜落していく。そうしてもう一度、赤ちゃんみたいに叫ぼうとしたその時、ジリジリとした電話の音で 私は夢から引き剥がされた。

「・・・はい、もう時間。はい、延長はなしで。はい。はい、わかりました。」

寝ぼけた頭のまま、目を開かずに壁へと腕をガンガン叩きつける。そうしてようやく、私は動くことのない受話器を捕まえることに成功して、うつらうつらと返事を返した。それからふとソファーに目をやると、彼女はまだ遠い夢の中にいる。ただでさえ、小さいソファーに収まってしまうほどの華奢な体つき。彼女は私の視線の先でもぞもぞと左右に揺れながら、起床することを全身で拒んでいた。クシで前髪を整え、手鏡で状態を把握しながら手早く化粧を済ませる。アイラインは曲がってないか、二重幅は綺麗か。昨日から使いっぱなしのカラコンを変えて、コンシーラーからファンデやシェード、ハイライトなどの諸々を済ませた。そうして最後に寝癖を取って服のシワを伸ばしてから、彼女の肩を優しく揺する。

「起きて。朝だから、もう出なきゃだよ。」

「・・・んー。あぁあ、わかった。なんか寝ちゃってた。今起きるね。」

相変わらず、ボサボサの髪。だから私は彼女の顔を見ていられなくて、いつものように目を逸らす。出来るだけ彼女の首から上を見ないように、私は部屋を出て支払いを済ませにいった。ポケットの中から取り出された、くしゃくしゃになった一万円。それを伝票と一緒に精算機へ投げ入れ、五千円を超えるお釣りを手に取る。ある程度ピンと背を伸ばした、綺麗に見えるお札。知らない人の温度がするお金は、冷たくなっていたって、汚れていなくたって気持ちが悪い。そんな風に考えて、私はお釣りを全部募金箱の中に投げ入れた。

「捨てるんだ、それ。」

「捨てるって・・・募金だよ。いい事じゃん。」

「ふーん。まあ、もうお金なんていらないもんね。」

都会の朝はずっと青くて、色彩が豊かだと思う。私はそれが嫌いで、少し早歩きの足で再び北を目指した。空気は澱んで臭うし、風は冷たくて体が凍える。都会そのものが、見えてる部分が綺麗なら、それでいいんだよって言っていた。

「あ、やっぱりお金。捨てない方が良かったかも。」

彼女は歩いている途中、そんなことを呟く。私はそれに対して、パンプスの足音と踵の悲鳴を同時に鳴らしながら答えた。

「ほんとにそれ。電車とか、持ち合わせのお金じゃ乗れないよ。」

「酷い世の中。電車に飛び降りるのだって、切符代は要るし。現代じゃ、六文銭は180円だね。」

180円で私たちは地獄に行ける。そう考えると、私の値段は180円な気がしてきて、昨日よりも安くなったな、なんて馬鹿なことを思う。それでもこっちの値段の方が、私にとっては一万円よりも息がしやすくて。そのことがなんだか、ぼんやりと不思議な感覚だった。私の思う自分の価値と、周りの思う自分の価値が擦り合っていく。銀に映った偽物の肌色が、すっと走って赤の真珠を残していくみたいな。見えない傷を、見えるようにわざわざ自分でつけている心地。そんな心地がそうさせたのか、私は昨日よりも足取りが軽く先へと進んだ。ビル群から逃げ切って、空の青が幾分か大きく見える。すると視界で端を捉えられるぐらいの大きさしかない畑と、静かな住宅街、加えてやたらに広く感じるショッピングモールが顔を出した。時計もスマホも持っていないから、今が何時かは分からない。それでもそこそこに歩き、疲れが貯まればお腹は空く。ということはつまり、今は私たちにとっての十二時、お昼時だということだ。私は進行方向を変えて、彼女に休憩を提案する。

「なんか、お腹空かない?」

「んー、若干わかるかも。」

吸い寄せられるかのごとく、私たちはショッピングモールへと入店。建物に入って早速、フードコートを探すことにした。

「食べるとしたら何系がいい?私はあればだけど、パスタとか。」

「そうだなー。やっぱり、あたしもパスタかも。あんま重めじゃないやつ。」

広めの割に、がらんと空いたフードコートはなんだか寂しい。今日は平日だっけ、それとも休日だっけ。そもそも、みんな冬休みだから関係ないのかな。誰にも管理されることのない時間を多く過ごしていたら、段々と曜日の感覚だって忘れていく。平日はなんとなく嫌いで、日曜日は明日を思って憂鬱な気持ちになる。だったら、今日は土曜日にしよう。お昼に起きて、ちょっと空いた小腹を菓子パンで満たすような。そんな、テント小屋の中みたいに明るい土曜日。

「そう言えばなんだけど、あたしたち、お金なくない?」

「あー、うわ。やばいね。」

「いや、普通にやばいじゃん。」

沢山並んだ椅子の群れの、二つを捕まえて私たちは腰を下ろした。あまり顔が見えないように、向かい合わない隣同士の席。そんな肩と肩が触れ合うぐらいの距離感のまま、私は目の前にある机にうつ伏せになって目を閉じる。

「あたし、財布とか盗んでこよっか?」

「・・・は?」

唐突な彼女の言葉に、私は思わず起き上がった。そうして半ば反射的に、ぎょっと彼女の顔を見つめる。やや茶色の、カラコンもないのに綺麗で大きい瞳。少し見ているだけで、自分が嫌いになってしまいそうなぐらい澄んだそれは、ただ真っ直ぐに私を見つめていた。

「ダメでしょ。犯罪じゃん、そんなの。」

「なんで?捕まるから?・・・今だって逃げてる最中だし、どっちにしろじゃないの。」

彼女は酷いことを言っている。そう思うのに、それを零す彼女の唇は絶対的に仄かな桜色だった。黄ばみのない、無垢な白さを浮かべる彼女の可愛らしい二本の前歯。私はそれに、また力なく机へと倒れさせられた。顔を伏せて、私の大きな唇が机の冷たさに口付けをする。そうして彼女には聞こえないぐらいの声量で、私は敗北宣言を落とした。

「そういうのは、くすんだ目で言ってよ。」

音を鳴らさず静かに立ち上がって、彼女はどこかへと歩いていく。私はそれを止めることもできないまま、ほんの少しだけ顔を浮かせて机を見つめ続けた。その机にべったりと張り付く、私の淡いピンクな口紅。私の顔に似合わない、可愛い系統の色彩が血痕みたいに掠れている。私はその血痕を、犯人が証拠を隠滅するように拭き取って体を起こした。どこにも見当たらない彼女の姿と、ほとんど誰もいないフードコート。土曜日だっていつかは終わる。十二時を過ぎれば、魔法だって溶けて消えてしまう。私は今、自分がどこにいるのか分からなくなった。

「お待たせ。はい、そっちのはたらこパスタにしたから。」

しばらく待っていると、彼女は何食わぬ顔で私の隣に戻ってきた。そうして彼女の手にはレシートが一枚と、二つの呼び出しベル。私は彼女に、どうやって盗んだのか、誰から盗んだのかとか、そういうことは何一つ聞けなかった。ただ、店先で加工された豚肉だけを提供されるみたいな。屠殺している場面をひた隠しにされているような。そんな気分で、呼び出しベルを一つ受け取る。そうしてすぐに、手のひらの中でブルブルとそれは震え始めた。すぐに私たちは二人で店先へと向かい、料理を受け取ってまた席に戻る。私は彼女の言う通りたらこパスタで、彼女は和風のサラダパスタ。小さな紙コップに包まれた水を喉に流し込みながら、私たちは同時に食事を始めた。

「美味しいねこれ。あ、そっちのサラダのやつも一口ちょうだい。」

「いいよー。じゃああたしも、たらこ貰う。」

重くもない、不味い訳でもない、彼女が選んだパスタ。しっかりと調味料や具材の味付けを感じられてしまう自分が、なんだかとても嫌な奴だという気がしてくる。そのまま私たちは、普通の女の子みたいにお互いの料理をシェアし合った。彼女のサラダパスタは爽やかに健康的な味がして、やっぱり可愛い子は口にするものまで澄んでいるんだなと思う。

「なんかさ、ドラマの嫌いなセリフがあって。」

彼女はパスタをフォークで巻き取って、それを口に運びながら話を始める。小さな口に、小さく切り取られた野菜が詰め込まれていく。その指先の一つ一つの所作が、彼女の持つ柔らかな上品さを纏っていた。

「泣きながらご飯食べたことある人はさ、生きていけるんだって。ずるいよね、なんかそれって。」

「ずるい?ずるいって、何が?」

「・・・生きていけるからって、生きていかなくちゃいけないのかな。まるで、最初から正しい方向みたいなものがあって、あたしはそこに・・・」

彼女のフォークは止まらない。口にものが入っている時は黙り、きちんと全てを嚥下してから言葉が出てくる。けれどお皿が真っ白になったあとでも、彼女はそれに言葉を付け足すことはなかった。私はなんだかそれがやるせなくなって、思わず彼女の手を握る。冷たくて、小さくて、白くて細い指が五本丸まっていた。丸まった指を解いて、私の指を絡めたら、彼女の血管の動きをどくどくと感じる。私も彼女も、ちゃんと心臓が動いていた。それが悲しくて、私たちはフードコートを後にする。そうしてショッピングモールから出て、またもっと北へ進もうとしたその時。モールの入口に泣いている子供と、その子の手を握ってあたふたしている母親らしき女の人を見つけた。女の人はだいぶ若そうで、おそらく二十代の半ばあたり。近くに父親らしい人も見当たらず、彼女はたった一人で小さい男の子をあやしながら、あたふたとポケットを探したりしている。

「ない、ない、ない。どうしよう、どうしよう。あー、あぁあ。」

彼女は力なくその場に立ち尽くして、泣いている男の子の手をすとんと離した。嫌なぐらい静かなモールの中、鮮明に大きく木霊する子供の泣き声。彼女らを助ける人は誰もいなくて、私たちもほかの通行人と同じように、彼女らの隣を通り過ぎようとした。けれどその時、私の耳元で小さく声が弾ける。鈴の音のように透明で、泣き声に掻き消されそうな繊細さを持った、一瞬の告白。

「あの人の。あたしが、財布盗んだの。」

私はその言葉に、思わず足が動かなくなる。そうして視線の先には、やっぱり澄んだ瞳。下がった眉毛はいじらしくて、低い背丈のせいかこちらを見るのも上目遣いだ。彼女はそれ以上のことを何も言わず、ただ私たちの視線だけが交錯し合う。

「・・・ずるいよ。優しくするなら、最後まで隠してよ。」

また、茶トラの猫を思い出す。あの子をバラバラに引きちぎってしまう前、力いっぱいふわふわの毛を掴んだ時。こんな表情を、あの子もしていた気がする。可愛いものは、綺麗なものはずるい。何も言わなくたって、ただ生きているだけで彼女らには間違いなんて無いって思えてしまう。生ぬるい小さな内臓と、ピクピクたまに痙攣する肉の塊。それからツンと鼻を刺す、酸っぱい鉄とアンモニアの香り。彼女の中にも、きっと同じものが詰め込まれているんだろう。

「すいません。あの、この子が・・・。えっと、拾ったみたいで、財布。もしかしたらって思って、届けに来たん・・・ですけど。」

今更、善人ぶるなって思う。美味しかったじゃないか、たらこパスタ。きちんと全部食べきって、頂きますもご馳走様も言ったのに。それなのに、私はまだ正しくなりたい気持ちを捨てられなかった。私は彼女の手を引いて、女の人に話しかけに行く。そうすると、女の人は顔がパッと明るくなって私たちの方を向いた。

「これ、・・・違ったらごめんなさい。あたしが拾ったの。」

女の人は手渡された財布を受け取って、心底救われたみたいな安堵の顔をした。それから私たちは、命の恩人にでもなったかのような感謝を女の人から受け取る。そうしてお礼にお金をと言われたが、それだけは受け取れないなと思い、とにかく全力で拒否した。去り際、男の子が泣き止んでいて、私たちのことをキラキラと、雨上がりの太陽みたいな目で見つめていた。潤んだ瞳の中で、私の背中だけがぐらぐら揺れている。

「ごめんね、中途半端で。」

「いいの。私だって、どっちつかずだから。」

私たちはロンドンには行けないんだろうと、この時私は確信した。なら私たちは、どこになら行けるんだろう。春はすぐ後ろに迫っていて、今にも背中を掴まれてしまうほどの勢いを保っている。私も、きっと彼女も、それを分かっていてまた歩き始めた。


日が落ちる頃、私たちは随分進んだもので、およそ埼玉の中心部辺りまで到着していた。出発地点の東京から、二日かけての徒歩移動。引き返すことはもうできないのに、死にかけの冬は私たちに厳しく当たる。お金が無いからどこかに泊まることも、シャワーを浴びることだってできない。私は急に全部がバカバカしく思えてきて、もう一歩だって歩きたくなくなってしまった。

「今日はあたしたち、どうするの。お金ないし、野宿でもする?」

「なにそれ皮肉?うざ。出来るわけないじゃん。こんなに寒いのに。」

言葉が口を滑って、その後すぐに私は自己嫌悪に陥る。それなのに、ごめんがどうしても言えなくて、言いたくなくて私は黙った。時間が経つにつれて、街は車通りが少なくなっていく。店は電気をさっさと消して、街灯とコンビニだけがポツポツと光を放っている。そんな風に街から音が消えていって、余計に私たちの沈黙が浮き彫りになるのが痛かった。そうしてまた、パンプスだけがひとりで喋る。それからしばらく経ったあと、いつの間にか、私の後ろにあったはずのスニーカーが無言になっているのに気付く。振り返ると、後ろには彼女の姿がない。どうでもいいと、全部馬鹿らしいことなんだと、そう思うようにした。それでも一歩、また一歩と歩くごとに、足が重くなる。私は思わず、いつの間にか元来た道を全力で走っていた。パンプスの硬い生地が足にくい込んで、石が刺さったみたいに痛い。でも、痛いのにはずっと慣れているから、気にせずに私は走った。息を吐き出しながら走って、元来た道を少し遡った二十四時間営業のコインランドリー。そこに、彼女は顔をすっぽり覆った体育座りで蹲っていた。私はコインランドリーの扉を開けて、ガクッと倒れ込むように彼女の隣へと座る。それでもやっぱり、何を話していいのか分からない。私が彼女にかける言葉は全部負け惜しみで、全部嘘になってしまう気がした。

「・・・嫌いなの。」

「・・・え?」

彼女の膝と膝の間。その僅かな隙間から、微かに声が聞こえてくる。震えていて、泣いているのかも分からない声で、彼女はひとりごとみたいに喋り始めた。

「南条あやも。完全自殺マニュアルも嫌い。そういうの、全部全部嫌い。勝手に掬わないで、偉そうにしないで。誰かに愛されてるくせに、有名なやつのくせに。」

彼女の包帯が解けて、半分生傷のままでいる傷跡が露出する。私はそれを、反射的に見てはいけないものみたいに思って目を逸らした。

「傷ついている人を歌う歌が嫌。あんた、もう有名人じゃん。お金持ちじゃん。なのに、あたしを分かってるみたいに。」

私は、自分の手首を強く掴む。凸凹で、真っ白い線が沢山入っていて。まるで傷の大きさが、自分がどれだけ傷ついているか示しているみたいに喋る彼女。私は、ずっと嫌な奴だった。

「・・・あんただって、十分恵まれてんじゃん。」

「だから、恵まれてるから、あたしはいつまでたっても逃げられない。」

可愛くてずるいなと思った。家がお金持ちでいいなと思った。頭が良くて羨ましいなと思った。センスが良くて妬ましいなと思った。私は彼女の、いい所しか知らなくて。いい所しか、見ようとしていなかった。いきなり、彼女は不意に立ち上がって、コインランドリーを出ていく。そうしてすぐに戻ってきて、彼女は私にあったかいおしるこを差し出してきた。おそらく外の自販機で買ったであろう、120円のおしるこ。

「お金、あったんだ。」

「さっき、洗濯機の下に200円落ちてて。それ。」

私はそれを受け取って、手のひらでおしるこの温かさを感じる。生きている、小さな猫みたいな温かさ。私たちはそれを半分づつ分け合って、一緒に寄り添いながら飲みきった。わざとらしいぐらいに甘くて、胃袋の居場所が分かるほど温かい。

「ねぇ、あたしたち。どうなるんだろうね。」

彼女は私にもたれ掛かりながら、そんな事を言って目を瞑る。私はそれに、何も答えられないまま、彼女と同じように目を瞑った。洗濯物が一つも入っていないコインランドリーは、地球の自転が止まったみたいに動かない。固定された時間の中で、私たちは世界に従うように黙って眠りについた。もしも、神様が私たちを見てくれているなら。どうか、どうかこのまま、どうにもならないままでいさせてください。そう願わずにはいられないぐらい、春はもう私たちの後ろ髪を掴んでいた。


また一つ、新しい朝がやってきた。太陽に追いつかれて、私たちは眩い日差しに瞳を叩かれる。硬い床と冷たい洗濯機にもたれて寝たからか、身体中がバキバキと痛んだ。私たちはその痛みを感じながら、よろけるようにコインランドリーから逃げ出す。北へ、北へ闇雲に歩き続けて、しばらくすると自然に足が止まった。そこは寂れた銭湯で、朝早くなこともあってか、暖簾をくぐった先に客は誰一人として存在していない。ただその中で、ぽつんと番頭のおじいちゃんが私たちを不思議そうな目で眺めていた。

「あの・・・どうしましたか?入浴なら手前の券売機で・・・」

「お金、ないんです。あたしたち。」

私の隣で、彼女は俯きながらそう言った。服は汚れているし、髪はいつもよりボサボサで荒れている。見るからに可哀想で、明らかに哀れなその悲壮さが、また一つ彼女の魅力に色を足した。私は彼女の後ろに隠れて、重い前髪に隠れた自分のおでこを触る。大きくて赤い、中々治らないようなタイプのニキビ。

「・・・若いお客さんなんて、珍しいもんでなあ。色々、あんでしょう。いいよ、入っといで。」

「ありがとう、ございます。」

彼女はほんの少しだけ顔を上げて、ささやかに笑った。身なりからは想像もできない綺麗さで、痛々しく口角を柔らかく上げている。私はそこで不意に、またあの猫を思い出した。腹をちぎって、ぽこぽこと血の泡を噴きながらいびきをかいている猫。その胃袋から、頭のないネズミの死体がいくつも零れてきたこと。私はそこで初めて、猫を殺したことに後悔を覚えたんだった。私たちは更衣室で服を脱ぎ、そのままお風呂場へと直行する。彼女がまず体や髪を洗いに鏡の前で行く一方、私はさっさと湯船に浸かり、長い髪を水面に遊ばせた。

「・・・先、体洗わないの?」

「今はいいかな。私は後で洗う。」

「・・・そっか。」

彼女は鏡越しに私を見て、それからすぐに目を逸らす。私はそんな彼女の、真っ白で汚れのない背中を見つめていた。白いのに、空っぽじゃない背中。何を書いているのか分からないけど、どれでもこれが完成された絵だと分かるような、白のキャンバス。私はそれが、何の絵であるか知りたかった。

「ロンドンにさ、悪魔がいるって言ってたじゃん。墓を荒らすのもよくわかんないけど・・・なんで、貝殻を置いていくんだろうね。」

私が何かを聞くのも、何かを言うのも届かなさそうで。そうしてその届かなかった距離の分だけ、無理解が彼女を傷つけるような気がした。だから私は結局、何を話していいのか分からなくて、彼女の言っていたことを口に出す。

「なんでだろ。何も入ってないからなのかな、残った骨も、貝殻だって。」

彼女は頭をシャンプーでわしわし洗いながら、淀みなく滔々と話している。泡が付いて曇った鏡は彼女の体と表情を隠して、私はその映るものを凝視した。

「あたしは、死んだら終わりであって欲しいの。死んだ後まで、何かが残っちゃうなんてぞっとする。」

「地獄になんか、行きたくないもんね。」

「天国にも行きたくないよ。だから、救うための言葉なんて気色悪いものより、悪魔に盗まれる方が、優しいなってあたしは思う。」

シャワーが泡を流して、鏡のもやを晴らしていく。水を浴びて水滴を流す彼女の像が、泣いているように見えて嫌だった。私の中で勝手に、彼女が哀れなものになっていくような感覚が這いずり回る。彼女は少しだって、泣いてなんかいないのに。私は彼女のことを、いつまで経っても理解できないような気がしてならなかった。シャンプーが終わり、体を洗ってトリートメントをしている彼女の背中。それがさっきよりも、ずいぶんと白いように見える。私は茹だった体を外気で冷やしたくて、浴槽のへりへと腕を突き出してもたれかかった。タイルとタイルの隙間にある、ざらざらとした茶色の線が汚く思える。その茶色の線と手首にある線を重ねて、部屋中に広がっていく線を私は見た。

「熱い?お湯の調子。」

「ちょっとだけ。でもちょうどいいよ。」

彼女は私の真横を通って、隣にちょこんと座る。身長が低いからか、完全に腰を下ろすと顔まで浸かってしまうようで、彼女は指先を少しだけ立てている。普段は血色が薄く肌も青みが深いからか、彼女はすぐに体全体を赤くさせた。

「あたしさっき気づいたんだけどさ。ここ、後ろに富士山描いてあるんだね。」

「そうだね。なんか・・・昔の銭湯って感じ。」

私たちは同時に振り返って、背後の壁に大きく描かれた富士山を見る。桜を両脇に纏って、真ん中には白を冠とする濃紺色が華やかにそびえ立っていた。

「ねぇ、桜がもっと増えていったら。」

あの白も、なくなっちゃうのかな。そう言おうとした言葉は、彼女に届く前にお湯へ溶けた。冬が終わると、世界は色を取り戻したみたいに色彩豊かになっていく。桃色が咲き、緑が産まれ、太陽が微笑んだ空は明るい青色に変わる。モノクロなのは私たちだけで。もしかすると、他に色を持てないのは彼女だけだったり、私だけだったりするのかもしれなかった。

「桜は・・・綺麗だね。」

「・・・え?」

彼女は不意に、そんな事を言う。それから立ち上がって、お湯をかき分け浴槽から体を出した。ぺたぺたと水気の含まれた足音を鳴らして、彼女は出口の扉の方へ向かっていく。そうして私を置いて、彼女は扉に手をかけながら最後に言葉を残す。

「嫌いなのに、綺麗だって思う。思っちゃうんだよ、あたしは。・・・あたしも本当は、春の中で生きれちゃうんだ。」

私たちはやっぱり、嫌いなものの話しかできない。彼女が出ていったあと、私は一人で鏡に向かって頭と体を洗った。彼女と同じ場所で、同じ鏡を使っているのに、私は少しだって白くない。一刻も早く鏡の前から逃れたくて、シャンプーもトリートメントも手早く終わらせる。その後、身体を洗い流すと同時に、私は鏡にシャワーで水をかけた。どうしても汚れているような気がして、何度も何度も水をかけながら鏡を洗い続ける。そうしてしばらく経ったあと、それが意味を持たないことに気がついて、私はその場を後にする。私がいなくなって、誰も映さなくなった鏡。その鏡には、どこにも汚れなんて付いていなかった。


お風呂を上がって、髪を乾かして服を着たあと化粧をする。黄色が根ざしている私の肌に合わない、パープルの下地。不自然なトーンアップと白浮きした肌が、可愛くなれないんだよと私に言っている。私は、彼女になれない。彼女は救うための言葉が、気色悪いと言った。私はそうは思えなくて、救うための言葉で満ちている歌を聴いているし、そういう本が好きだ。それでも、彼女だって救うための言葉がぎっしり詰め込まれた歌を歌っていた。

「それ、矛盾じゃないよ。」

私は、私にもなれなかった。化粧が終わって、私は独り言を呟きながら更衣室を出る。紅色の暖簾の手前、小さく切り取られた視界の先には、彼女と番頭のおじいちゃん。彼女はお風呂上がりの匂いのまま、整った髪の毛で、おじいちゃんから一万円を受け取っていた。それはまるで、孫がお年玉を受け取るような陽だまりに似ていて。私はそれを見て、変な笑いが音もなく出る。私が色々なものを引き換えにしなきゃ出来ないことを、彼女は。

「あっ。」

彼女はこちらに気づいて、すぐに一万円をポケットにしまった。私はその嘘に乗っかって、何も見なかったように振る舞う。知らないでいた方が、惨めに思われないから。私はこの時、彼女の背中なんて見ない方が良かったと思った。ただの綺麗な空白だと思ってさえいれば、あれが何の絵か知ろうと思わずに済んだのに。顔が歪んで、小さな微笑が作られる。私は番頭さんに頭を下げて、ありがとうございますと感謝を伝えた。少し遅れて、彼女も同じように頭を下げる。番頭さんは彼女の頭だけを撫でて、銭湯から出ていく私たちを優しく見送ってくれた。私は向けられなかった視線の分、一歩春から遠のく。

「あのさ。電車、乗らない?」

「うん。そうしよっか。」

彼女はそう言って、顔を俯かせる。私は何も聞かずに、それに了承した。私たちはすぐ近くの駅に入って、切符売り場へと向かう。すると彼女は素早くお金を取り出して、二枚の切符を購入。そのうちの一枚を私に手渡した。私たちはそれを持って改札を抜け、電車に乗って北へ行く。電車は凄まじいスピードで進んで、景色から段々と色が抜けていくのがわかった。この速さは私たちの徒歩を否定するもので、同時に彼女の美しさを肯定するものでもある。私は景色の流れていく窓に、左手を添えて外を眺めた。太陽が私の影を切り取って地面に落とし、痩せた薬指の第二関節が嫌に目に入る。浮き出た骨が気持ち悪く、大きな影は光を拒絶していた。痩せているのに、すとんと線を落とす彼女の指とは大違い。

「どこまで行けるかな。」

私は彼女を見ずに、そう零した。すると、彼女は私の右手に触れてぎゅっと手を握る。私の視界の端に入ってきた彼女は、私の見ているものを私ごと見ていた。私が見ているものを、彼女が見ることなんてできないのに。

「どこにも。」

彼女はそう言って、握っている手に私が痛くない程の調節をして、強く力を込めた。皮肉だと、そう思う。どこにも行けないのは、私の方なのに。ただ彼女も、それを分かっているように私には見えて。私は握られた方の手を翻して、恋人のように強く握り返す。生きたいから、ネズミを殺す猫。でもそれが嫌で、頭を捨てていく猫。私の頭は一体、どこに行くんだろう。何も詰まっていないのに、大きくて重いような気がする。私たちはそれっきり、何も話さないままお金を使い果たすまで電車を乗り継いだ。とうとうお金がなくなった時、私たちは電車を降りてホームに足を出す。すると強い風が吹いて、私たちの髪をかき上げた。冬の冷たさをまだ全身に残している風と、泥にまみれて溶けかけた雪。私の想像している白さとは違った冷たい泥が、自殺をして轢かれた死体みたいに横たわる。彼女はそれを見て呆けたのか、手に入れていた力を抜いてだらりと腕を脱力させた。それと同時に、ずっと繋がれていた手が離れ離れになる。私の手は虚空へ、そうして彼女の手は私のフリルに引っかかり、蜘蛛に捕まった虫のよう。それなのに、彼女はフリルを掴んで離さない。

「あたし、あたしさ。どこまで行っても女だ。」

膝から崩れ落ちて、彼女は手をそのままに、その場へ座り込む。私はそれを、表情を変えないままにただ目線だけで追いかけた。私も、潮の香りが嫌いだよ。そう心の中で唱えて、私は彼女のほっぺたをビンタする。パチンと快音が響き、彼女の頬は赤く、私の手はビリビリと痺れた。指先だけが当たったのか手のひらは何も感じず、指の先端までゆっくりと血が届いていく感覚。その感覚がまだ残るうちに、彼女は顔を見上げて私を見た。綺麗な顔に、赤い殴打痕。

「・・・行こっか。」

私は彼女を叩いた手で、彼女の手を握り直して手を引く。私は、自分の手首を切っていたカッターで猫を殺した。油でべとべとになって、何度洗っても汚れと匂いが落ちずに錆びた刃物。私はどれだけ経っても、同じことを繰り返している。到着した駅は福島の、ほとんど真ん中辺り。私たちはそこから少し歩いて、大きな公園へと出た。そこは辺り一帯が薄い雪で、所々土の塊が顔を出している。吐く息は白くて、雪を踏む足の感覚が奪われていく。私はとにかく雪のない所へ行きたくて、コンクリートで作られた橋の下へと避難した。そこは橋に遮られているからか、雪はほとんどなく、他の場所よりは比較的暖かい場所で。私たちはそこに座り込み、お互いに体重を預け合う形でもたれかかった。

「ライターのゴミばっかり。ここ、治安悪いのかな。」

「東京の方が絶対多いよ。ねえ、私これ、火つくか試してみる。」

地面に転がっている、色とりどりのライターの死骸。私はそれを一つづつ拾い上げて、まだ生きているものがいないか確認した。そうして幾つか試していると、そのうちの黄色いライターが小さく火を吐く。すると、か細いオレンジ色の光彩が彼女の黒い瞳の中に吸い込まれて優しく灯った。

「やばい、消えちゃう。」

残りのガスが少ないのか、灯る火は弱々しく脆い。それに寒空の下、冬の風は容赦なく私たちに降り掛かった。そんな時、彼女は背中に背負っていたバッグを下ろして、消えそうなオレンジを目に宿したままファスナーを開ける。

「・・・これ、燃やしちゃおっか。」

「・・・いいの?」

「うん、いいの。」

私は彼女から本を受け取って、それに火をつけた。ページの一枚一枚がパチパチと悲鳴を上げて、黒く丸まって消えていく。それは雨にも、拍手にも似ていて。音のしない雪の代わりに、炎が代わって叫んでいるような感覚が私に焦げ付いた。そんな叫びを聴きながら、彼女はひたすらに本を火に焚べ続ける。初めは小さな火だったオレンジが、彼女の瞳の中で大きく肥っていく。それは、彼女の瞳が実際に焼かれている光景。私たちは両手を火にかざして暖を取り、体を少しづつ暖めた。

「どれも、あたしのこと、助けてくれなかった。」

「あんた、救われたくないんじゃないの。」

今、彼女に刃物を入れた。そんな確かな手触りを、私は自分の右手に感じていた。ずぶりと、反発する肉の硬さから、刃を拒絶する筋までもを感じ取れる。そうして彼女は、頭を動かさないで、瞳だけをこちらに向けた。

「何がわかんの。あんたに、あんたに。あたしの、あたしのこと。」

彼女は突然、私に飛びかかってこちらの首を全力で絞める。ただ、彼女の手を置く場所が鎖骨に近い場所のせいで、酸素が普通に通ってしまう。けれどきっと、もし彼女の手がもっと上にあって、今が命の危機だったとしても。私は、今みたいに何もせず彼女を見つめるだけだっただろう。

「・・・あたしだって、あんたのこと、なんも知らない。知らないの、なんにも。知れないの、これっぽっちも。」

しばらくの間、彼女は私に馬乗りになって首を掴み続けた。そうしてそのうち疲れたのか、力を抜いて抱きしめるみたいに私に倒れ込む。

「ヒス女。」

私は動かなくなった彼女の耳元で、そう呟いた。返事はなく、体で感じる彼女の軽い体重と心拍だけが虚しい。私は不意に、彼女の耳を甘噛みした。ピクっと、全身が痙攣したように跳ねる。

「私ね、昔、猫殺してたの。」

「・・・サイコパス。」

「猫って、可愛いじゃん。みんなから可愛がられて、無条件で愛されてて、ずるいなって思った。お母さんだって、猫は可愛いって。私には、言ってくれなかったのにね。」

唾液が糸を引いて、私の口と彼女の耳を線で繋げる。糸電話よりも、もっと直接的な告白。

「だからね。中身は同じだって、証明してやりたかったの。可愛い猫も、可愛くない私も。同じ、汚くて赤黒い血が流れてるって。」

彼女を強く抱き締めて、よりお互いの心臓の位置を近くした。誰かと一つになれることなんか、一生ないって分かってる。だから私たちは、違う生き物のまま、一つにならないまま抱きしめ合った。炎を傍らに、お互いの熱だけが他人で。こんなに近くにあるのに、彼女が何を考えているのか分からない。彼女もまた、私が何を考えているのか分からない。

「ねぇ、もしさ、悪魔が本当にいたなら。あたしの貝殻は、あんたが持っておいてよ。」

私はそれに返事をしないで、そのまま眠りについた。それと同じように、彼女は小さく私の上で丸まって眠った。


朝と言うには早すぎる時間。まだ太陽の頭さえ見えていないような、仄明るい時間に、私たちは寒さで目を覚ます。示し合わせることもなく、起きてすぐに私と彼女はその場から北へ進んだ。歩いている最中、見かけた自販機は全てお釣りがまだ入っていないかチェックし、少しでもお金を集める。悴んだ手で自販機をまさぐると、大体十回に一回は当たりが見つかった。時には10円、時には100円。そうして、一番運がいい時は500円。私たちはそんな風にお金を集めながら、気が狂ったようにどんどん北上して行った。道の途中、溜まった大量の小銭を、駅の切符売り場で機械に流し込む。買う切符は二枚、福祉とこどものボタンを押す。百円以下の異常に安くなった切符で、ぴよぴよ音を鳴らしながら改札を通り電車に乗った。電車の中は暖房が暖かくて、睡眠不足の私たちは思わずうとうと眠くなってしまう。人の少ない朝方の、さらに田舎へと行く電車。私たちはたった二人だけで、睡魔に犯され薄くなった眼から外の雪景色を見る。気分は電車のジャック犯。銃もナイフも持っていないけれど、今の私たちを止めれるものは何にもない。法律も大人も、世界だって無力のまま、電車に乗って山形の下の方までたどり着く。

「ねえ、ここから電車。ないってさ。」

私は駅を降りて、その場にあった地図を指さしてそう彼女に言う。現在の位置から山形の中央部まで向かうには、どうしてもバスか車での移動が必要で。それはつまり、今日やったような不正乗車の手段が使えないということ。

「どうでもいい。どーでも、いいよ。全部、もういいんだよ。」

あっけらかんに、笑った。その笑顔は彼女だったのか、私だったのか。どちらもだったかもしれない。とにかく、私たちは手を繋ぎながらバスに乗って、山形の中央部。それからまた、北へ進んだ。そうして折を見て、乗客が乗ってくる隙に開いた後ろのドアから、勢いよく二人で飛び出す。

「あは、ヤバ!ヤバいね、ヤバいよあたしたち。」

「あーバカ!ほんとにバカじゃん!」

息が切れても、足から血が出ても、耳からドクドク心臓が鳴っても走る。アドレナリンが出過ぎて気持ち悪いぐらい、二人で笑いながら走った。そうして実際に、私たちは雪の上に嘔吐する。白みを帯びた肌色っぽい液体が湯気を立て、雪を溶かしながら重なった。口の中が酸っぱさでいっぱいになって、鼻の奥までゲロまみれになったみたい。楽しくもないのに、笑いが止まらなくて自分でも怖くなる。けれど可笑しくってしょうがなくて、どうしようもなくて。私たちはまた自販機を漁って、お金を集め始めた。私も彼女も、お金を探したり、バスから逃げたりする時は笑顔があった。ただ唐突に、再び電車に乗った頃その笑顔がふっと消える。道なりに進む電車は、北から西へ方向を変えて、海沿いまで進んだ。そこから更に、電車は北へ上がって止まる。

「降りよ。止まるって、電車。」

ちょうど山形を抜けて、秋田との境目。そこで、私たちは電車を降りる。相変わらず雪が降っていて、空はほとんど白のモノクロ。細く痩せた木と雪、空、建物から遠くに聞こえる波の音。全てから色が抜けて、ただの抜け殻みたい。そんな中、唯一色を付けているものを私たちは見つけた。それは、真っ赤な真っ赤な、椿の花。私はそれを見て、彼女を呼んで椿に指を向ける。それからすぐ、彼女は表情を付けないままに、椿の花を掴んでバラバラに引きちぎった。

「やめてよ!冬でも咲くなんて!気持ち悪い、気持ち悪い!辛い中でも、頑張れって言われてるみたい!」

ちぎれた花弁を、子供が地団駄を踏むように踏みつける。人生は、人生は酷い。時々偶然のフリをして、意味を持って私たちを否定してくる。過程を省いて、手続きを無視して、死刑判決だけが首を何度も何度も絞めにやってくる。私は彼女を抱きしめて、背中をさすったあと、波の音が大きくなる方へ歩いた。足元には、踏みつけた椿の花弁が血の足跡となって続く。

「貝殻、あるかな。もしあったら、私は綺麗なのだといいな。」

彼女の横顔は、いつになく白かった。そうして雪が降る。流れた血を隠すために、私たちの傷跡を見せないように。でも、彼女はそんな降りたての雪よりも、白かった。

「死のっか。」

ぐるんと、彼女は海を見る。私はそれに何も言えなくなって、彼女の背中を追い続けた。海へ着いて、彼女はただ真っ直ぐ地平線へ向かっていく。足跡のない浜辺に、彼女の足跡がぽっかり空いた。私は彼女の足跡を避けて、彼女と同じように進む。軽く雪の積もった浜辺は不思議な踏み心地がして、歩く速度が落とされる。手を伸ばしても、彼女の背中に触れられない距離が空いた。潮の香りがしない、冬の海。ちゃぽっと、海に足が触れる音がする。

「あたしね、ずっと。女の自分が嫌だった。」

彼女は止まらない。ずんずんと、彼女が海に溶けていく。春もまだなのに、雪が海に飲み込まれていた。彼女が膝をすっぽり海に覆わせた頃、ようやく私も足先が波に触れる。冷たくて、感覚が奪われて、怖い。それがとても、とても怖かった。

「私たち、上手に生きられないね。」

彼女より早く進んで、私は海に入る。そうしてやっと、彼女の背中に追いついた。

「怖いよ。ねぇ、死ぬの怖い。私は、死ぬの怖いよ。」

彼女を引き留めようとして、私はそんな言葉しか出なかった。どこまでも自分勝手で、臆病すぎる私。私は彼女の背中に触れて、そっと指を撫で下ろした。波飛沫が強く、頬に水がバシャバシャかかる。化粧は全部流されて、唇は気色悪いほどに真っ青。その顔を見られたくなかったけれど、彼女はくるりと振り返って、私の目を見た。飛沫が、顔に飛んでいる。

「どうせ、あんたは幸せになるよ。幸せになるの。私なんかよりずっと、何十倍も何百倍も。幸せになるの。」

「あたしは、あたし・・・幸せになんかなりたくないの。あたしは、今のあたしを裏切りたくない。今のあたしを、嘘つきにしたくないだけなの。」

気が付けば、私たちは抱き合っていた。彼女の頬が、水滴一粒分だけ暖かい。私はそれを涙なんて呼ばないし、そうとも思わない。本当にただの、春の水飛沫。

「死ねないんだよ、私たちは。何回やっても、何回だって失敗するよ。だって、死ぬのが怖いんだから。」

私は、私たちは人生に敗北した。世の中には悪魔なんて居ないし、私たちはただの女子高生でロンドンにはいけない。時間を止めることはできないから、少し時間が経てば冬休みは終わるし、家にだって戻される。当たり前みたいに朝が来て、いつかは学校にだって通えてしまうのかもしれない。それが、私たちにとっては絶望なんだ。

「死ぬの、怖い。あたしも、あたしも死ぬの。怖いよ。」

「そうだね。私たちはだから、ずっとこのままだよ。一緒に全部捨てることも、諦めることもしてあげられない。して、あげられないんだ。」

私たちはそんな風にしばらく抱き合って、最後にほんの一瞬、お互いの唇が触れ合ったような気がした。同じ紫色をした、気色の悪い色。そうして海から上がって、私たちの逃避行は終わった。




冬休みが終わって、彼女はもう二度と高校には来なかった。世界は何も変わらないまま、私も何も変わらないまま長袖を着ている。きっと夏になっても、日傘の下に長袖を着ている。多分、彼女もどこかで。

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― 新着の感想 ―
またまた、なんとも言えない読後感の作品でした…。 オーバードーズ、自傷、器物損壊、援交、窃盗、無賃乗車。汚くて吐瀉物まみれで、冷たくて空虚で。 何とも救い難い、少女2人の逃避行。 そんな彼女らに下…
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