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境界町の茶屋で、立ち止まる ― 何者でもなくていい時間が、ここにはある ―  作者: 森永あおば


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9/12

第8話 止まった時計は、誰のため

 境界町の時計塔は、町の中央にある。


 高くもなく、低くもない。

 見上げれば視界に入り、

 気にしなければ、背景になる高さだ。


 針は、動いていない。


 いつから止まっているのかを、

 正確に知っている者はいなかった。


 その日、女性は茶屋に来るなり、

 珍しく窓の外を見ていた。


「時計塔が、見えますね」


「ええ」


「……あれは、昔は動いていたのでしょうか」


 質問というより、確認だった。


「動いていたそうです」


「そうですか」


 それだけで、女性は満足したようだった。


 茶を淹れるあいだ、

 彼女は窓から目を離さない。


「止まった理由は、分かっていますか」


「噂はいくつか」


「教えてください」


 私は、ひとつ目の噂を話す。


「“出ていった人がいたから”」


「……出ていった?」


「ええ。

 町を出る条件を満たし、

 静かに、ここを離れた人が」


 女性は、わずかに指を組み直した。


「その人が出た瞬間、

 時計が止まった――そう言われています」


「時間が、止まったのではなく」


「“進めなくなった”と」


 女性は、小さく息を吸った。


「二つ目の噂は?」


「“誰かが待ちすぎたから”」


 今度は、女性の肩が、ほんの少しだけ揺れた。


「待つことを選び続けた人がいて、

 町が、それに合わせた――と」


「……優しい噂ですね」


「三つ目は」


 私は少し間を置いた。


「“誰かが、止めた”」


「誰が」


「分かりません」


 それ以上の説明はなかった。


 昼過ぎ、アルトが来た。


「今日は、時計塔の話か」


「分かりますか」


「町が、少し重い」


 アルトは女性を見る。


「……噂を聞いたな」


 女性は、隠さなかった。


「ええ。

 待つ人の噂を」


 アルトは、椅子に腰を下ろし、

 しばらく黙ったまま茶を飲んだ。


「昔な」


 やがて、ぽつりと言う。


「俺が来た頃、

 時計塔の針は、少しだけ揺れていた」


「動いていたのですか」


「いや。

 動く“気配”があった」


 アルトは、湯呑みを見つめる。


「だが、誰もそれを望まなかった」


「なぜ」


「急ぐ理由が、なかったからだ」


 女性は、ゆっくりと頷いた。


「止まっているほうが、

 待ちやすいですね」


 アルトの視線が、女性に向く。


「……待つのは、楽か?」


 女性は少し考えた。


「楽ではありません」


「それでも?」


「それでも、

 “行ってしまうよりは、確か”です」


 その言葉は、

 誰かに言い聞かせるようだった。


 外で、子どもたちの声がする。

 走る音。

 転ぶ音。

 そして笑い声。


 時計塔は、変わらず沈黙している。


「時間が動けば」


 アルトが言う。


「待っている人は、

 置いていかれる」


「……ええ」


 女性は、初めて目を伏せた。


「だから、止まっているのかもしれませんね」


 誰のために、とは言わなかった。


 夕方、女性は立ち上がる。


「今日は、少し長く居ました」


「ええ」


「……時計が動いたら」


 その先を、彼女は言わなかった。


 私は、答えなかった。


 夜、戸を閉めたあと、

 時計塔を見上げる。


 針は、確かに止まっている。


 だが、

 止まっていることを選び続けている町は、

 今も、確かに息をしていた。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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