第7話 待っている人は、動かない
その人は、もうそこにいた。
朝、茶屋の戸を開けたとき、
店の一番奥の席に座っていた。
いつから居たのかは分からない。
ただ、湯呑みはまだ空だった。
「おはようございます」
声をかけると、女性はゆっくり顔を上げた。
「……ああ」
微笑んだようにも見えたが、
それが“今の表情”なのか、“昔の名残”なのかは分からない。
「開く前から、居られましたか」
「ええ。
でも、待っていただけなので」
「何を」
「お茶を」
嘘ではなかった。
湯を沸かし、
いつも通りの茶葉を入れる。
女性はその手元を、
ひどく丁寧に見ていた。
「この町は、静かですね」
「ええ」
「待つには、ちょうどいい」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
女性は名を名乗らなかった。
だが、名乗らない人の多くがそうであるように、
名を失った感じもしなかった。
“使っていない”だけ。
そんな気配。
「長く、ここに?」
「長いと思います」
「どれくらい」
「数えなくなってから、ずっと」
湯呑みを差し出すと、
女性は両手で受け取った。
すぐには飲まない。
「冷める前に、飲まれますか」
「いいえ」
「冷めるのが、困りますか」
「いいえ」
少し考えてから、女性は言った。
「冷めていくのを、確認したいだけです」
私は、それ以上聞かなかった。
昼過ぎ、アルトが来た。
「……新顔か」
「今朝から」
アルトは女性を見ると、
ほんの一瞬だけ、足を止めた。
「待ってる人だな」
小さな声だった。
「分かりますか」
「分かる」
アルトはそう言って、
いつもの席に腰を下ろす。
「長く待つ人は、
町の音と同じ呼吸になる」
女性は、アルトの言葉に反応しなかった。
聞こえていないのか、
聞かないことを選んだのか。
やがて、女性がぽつりと口を開く。
「ここを出る方法は、あるのでしょう」
「あります」
私は、正直に答えた。
「……そう」
それだけで、満足したようだった。
「行かないのですか」
アルトが聞く。
女性は、少しだけ首を傾げる。
「待っているので」
「誰を」
女性は、答えなかった。
だが、その沈黙には、
迷いがなかった。
「その人は、来ますか」
アルトの問いに、
女性は初めて、困ったように笑った。
「来ないかもしれません」
「……それでも?」
「それでも」
その声は、静かで、柔らかく、
そして、動かなかった。
夕方、女性は立ち上がる。
「また、来ます」
「ええ」
「同じ席で」
「承知しました」
女性が出ていくと、
店内の空気が、少しだけ軽くなった。
アルトが言う。
「……あれは、危うい」
「どちらがですか」
「待っていることが」
私は答えなかった。
境界町は、
誰かを急がせない。
だが同時に、
誰かが動かない理由も、壊さない。
それが、救いかどうかは、
まだ分からない。
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