第6話 名を呼ばれるまで
朝、元勇者は茶屋の前を掃いていた。
頼んだわけではない。
気づいたら、箒を持っていただけだ。
「……落ち葉、多いな」
「風がありましたから」
「そうか」
それだけの会話。
だが、そのやり取りが、ここ数日、当たり前になっていた。
昼前、子どもが一人、店の前で立ち止まった。
小さな靴。
擦り切れた袖。
「……ここ、入っていい?」
「どうぞ」
子どもは中に入ると、元勇者を見て、少しだけ目を見開いた。
「強そう」
元勇者は、困ったように笑った。
「昔な」
「今は?」
「今は、茶屋の前を掃く係だ」
子どもは真剣な顔で頷いた。
「それ、大事だよ」
元勇者は一瞬、言葉を失った。
子どもは椅子に座り、足をぶらぶらさせる。
「ねえ」
「はい」
「ここにいると、名前なくなるの?」
唐突な質問だった。
「なくなるわけではありません」
「じゃあ、なんで呼ばないの」
私は答えなかった。
元勇者も、答えなかった。
「名前ってさ」
子どもは続ける。
「呼ばれると、やること増えるんだよ」
その言葉に、元勇者の肩がわずかに揺れた。
「でも、呼ばれないと」
子どもは、湯呑みを両手で包む。
「ここにいていい気がする」
しばらく、沈黙。
元勇者は、ゆっくりと口を開いた。
「……呼ばれなかった名前は、消えると思うか」
子どもは首を振った。
「ううん。
しまわれるだけ」
「しまわれる?」
「引き出しに」
子どもは胸のあたりを指差した。
「必要になったら、開ける」
元勇者は、何かを思い出すように目を閉じた。
遠い記憶。
剣を握る前。
誰かに、ただ名を呼ばれただけの日。
「……俺の名は」
声が、少し震えた。
私は、何も言わない。
子どもも、急かさない。
「俺は――」
一度、息を吸う。
「俺は、
アルトだ」
その瞬間、町の音が、わずかに戻った。
風。
遠くの声。
時間の流れ。
元勇者――アルトは、驚いたように自分の手を見る。
「……思い出した」
「おめでとう」
子どもは、素直にそう言った。
「出られる?」
アルトは首を振った。
「いや」
「じゃあ、いいね」
子どもはそれで満足したらしい。
しばらくして、子どもは帰っていった。
店内に残ったのは、私とアルトだけ。
「……名を思い出すと、
少しだけ、重くなるな」
「ええ」
「でも」
アルトは湯呑みを持ち上げる。
「消えてなかった」
「しまわれていただけです」
アルトは、静かに笑った。
「なあ」
「はい」
「俺は、しばらくここにいる」
「ええ」
「勇者じゃない名前で」
それは、宣言だった。
外では、町がいつも通りに動いている。
境界町は、
誰かに名を思い出させることはあっても、
行き先までは決めない。
今日も、
ぬるめのお茶が、ちょうどよかった。
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