第5話 それでも、名を呼ばない
雨が降っていた。
境界町で雨が降るのは、珍しい。
降るときは決まって、長く、静かだ。
茶屋の窓を叩く音は小さく、
まるで、誰かが様子を窺っているようだった。
客はいない。
私は炉の火を弱め、茶葉の整理をしていた。
――気配は、戸を開ける前からあった。
あの影だ。
今日は、戸口に立たなかった。
すでに、店内にいる。
柱の影と重なり、
そこに「ある」ことだけが分かる。
「雨宿りですか」
返事は、すぐには来なかった。
「……急ぐ者が、いたな」
低く、沈んだ声。
「ええ」
「通す気か」
「私は、通しません」
「だが、止めもしない」
「ええ」
影は、ゆっくりと形を濃くした。
「矛盾している」
「そうでしょうか」
「選ばぬと言いながら、
結果として、選別が起きている」
私は茶を淹れ始める。
雨の日は、少しだけ濃くする。
「境界町は、安全すぎる」
影の声が、わずかに強まる。
「立ち止まることに、理由を与えすぎだ」
「理由は、与えていません」
「与えないことが、理由になる」
私は手を止めなかった。
「急ぎすぎる者は、折れます」
「ならば、折れさせるのか」
「折れるかどうかは、その人次第です」
影は沈黙した。
雨音が、二人のあいだを埋める。
「……かつて」
影が、初めて過去を語る。
「この町に、立ち止まりすぎた者がいた」
私は、顔を上げなかった。
「出られたはずだ。
条件は、満たしていた」
「それでも、出なかった」
「そして、動けなくなった」
影の輪郭が、揺れる。
「選ばぬという態度は、
時に、停滞を生む」
私は湯呑みを置く。
「それでも」
初めて、少しだけ声を強めた。
「ここは、急がせる場所ではありません」
影は、じっとこちらを見た。
「……君は、
停滞を善とするのか」
「いいえ」
「では、なぜ――」
「待つことと、止まることは違います」
その言葉に、影は動きを止めた。
「待つ者は、
いつか自分で動きます」
「……」
「止まる者は、
他人に動かされる」
雨音が、少し強くなる。
影は、ゆっくりと後退した。
「ならば、見届けよう」
その声は、どこか疲れていた。
「だが忘れるな」
影は、最後にそう言った。
「ここは、
救済の町ではない」
次の瞬間、影は消えていた。
雨も、止んでいた。
しばらくして、扉が開く。
元勇者だ。
「……今、誰かいたな」
「雨宿りです」
「嘘が下手だな」
「ええ」
元勇者は、店内を見回し、ため息をついた。
「俺がいた頃にも、
似たような“気配”があった」
「そうですか」
「……あれは、
人を急がせる側の存在だ」
「どう思いますか」
元勇者は、しばらく考えた。
「正しいことも、言ってる」
それから、続ける。
「でもな」
「はい」
「急がせるやつは、
責任を取らない」
私は、茶を差し出す。
「ぬるめで」
「助かる」
元勇者は、静かに飲んだ。
境界町は、今日も壊れなかった。
だが、
守られているわけでもない。
その微妙な均衡の上に、
茶屋は、今日も建っている。
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