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境界町の茶屋で、立ち止まる ― 何者でもなくていい時間が、ここにはある ―  作者: 森永あおば


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第17話 名を呼ばれないまま

 その客は、名を呼びかけようとして、やめた。


 茶屋の戸を開け、こちらを見て、口を開きかけて――

 ほんの一瞬、言葉を飲み込む。


「……失礼」


 そう言って、席に着いた。


 私は、何も言わずに湯を沸かす。

 アルトは、少し離れた席で、その様子を見ていた。


「ここは、名前を聞かれないんですね」


 客は、湯呑みを両手で包みながら言う。


「ええ」


「助かります」


 その言い方は、切実だった。


 少しの沈黙のあと、客は続ける。


「あなたを、別の名で呼びそうになりました」


 私は、動きを止めない。


「……知っている名ですか」


「ええ。

 昔、よく聞いた名です」


 アルトの視線が、わずかにこちらに向く。


「でも」


 客は首を振る。


「ここでは、違う気がしました」


 私は、湯を注ぎ終え、湯呑みを置く。


「呼ばれないほうが、楽なこともあります」


「はい」


 即答だった。


「呼ばれると、続きを求められる」


 その言葉は、客自身のものだったが、

 同時に、私にも重なった。


 アルトが、静かに口を開く。


「……あんた、

 思い出せば出られるタイプだな」


 客が、驚いたようにアルトを見る。


「分かるんですか」


「分かる」


 アルトは、湯を一口飲む。


「全部、揃ってる顔だ」


 私は、否定もしなかった。

 肯定もしない。


「出ないんですか」


 客が、恐る恐る聞く。


「今は」


 それだけ答える。


 客は、少し考えたあと、笑った。


「……それでいい気がします」


「そうですか」


「名前って、不思議ですね」


 客は、湯呑みの縁をなぞる。


「呼ばれないと、消える気がしていた」


「消えません」


「ええ。

 今は、分かります」


 アルトが、視線を外す。


「名はな、

 呼ばれるためだけのもんじゃない」


 客は、深く頷いた。


 やがて、立ち上がる。


「今日は、これで」


「ええ」


 戸口で、客は振り返る。


「……呼びませんでしたが」


「はい」


「忘れたわけではありません」


 それは、約束のようだった。


 客が去り、店内に静けさが戻る。


 アルトが言う。


「思い出すの、怖いか」


 私は、少しだけ考える。


「いいえ」


「じゃあ、なぜ」


「……今は、

 呼ばれないままで、足りています」


 アルトは、何も言わなかった。


 境界町では、

 名は奪われない。


 呼ばれないだけだ。


 そして、

 呼ばれないままでも、

 人は、ここに在っていい。


 私は、今日も立つ。


 名を呼ばれないまま。

 それを、選びながら。


本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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